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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第5章 オスマンとロシアのはざまで

1683年、ポーランドとの戦争でポドリア、ロシアとの戦争でウクライナの南西部を併合し、オスマン帝国の最大版図を実現した大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、満を持して第2次ウィーン包囲を敢行した。3月にエディルネを進発したオスマン帝国軍は、ムラト・ギライ率いるクリミア・ハン国軍と合流し、7月にウィーンを取り囲んだ。しかし、要塞化されたウィーンを落としあぐね、9月12日にオスマン軍背後のカレンベルクの丘から襲いかかったポーランド国王ヤン・ソビエスキ率いるポーランドとドイツ諸侯の連合軍に打ち破られた。クリミア・ハン国軍もカレンベルクの戦いに参加したが、ムラト・ギライは包囲前、軍議でカラ・ムスタファ・パシャに叱責されて以来仲違いしており、オスマン軍が壊走し始めると戦線維持を早々に放棄して撤退してしまった。クリミア・ハンの撤退はオスマン軍敗因のひとつとされ、怒ったカラ・ムスタファ・パシャはムラト・ギライを更迭した。

ロードス島に流されたムラト・ギライに代わり、ハジ・ギライ2世が後任のハンに任命されたが、カラ・ムスタファ・パシャもまもなく政敵の讒言を受けてベオグラードで処刑された。ハジ・ギライは部族の統制に失敗し、前ハンであるセリム・ギライ1世の復位を求める反乱が起こったため、カラ・ムスタファ・パシャの残党を処分したがっていた後任の大宰相カラ・イブラヒム・パシャによってロードス島に追放され、代わってロードス島からセリム・ギライが呼び戻されてハンに復位した。

ウィーンでの戦いをきっかけにオーストリアはポーランド、ヴェネツィアと神聖同盟を結成し、オスマン帝国に対する大攻勢を開始した。オスマン帝国では16世紀から17世紀にかけての社会制度の変化により、アナトリアの在郷騎士や遊牧民によって支えられていた騎兵の兵力が衰退しつつあり、ハンガリー・バルカン方面での欧州諸国との戦争ではクリミア・ハン国軍の騎兵が不可欠になっていたが、セリム・ギライ1世はこの要求によく応えた。オスマン帝国が敗北を重ねたこの戦争において、クリミアハン国軍は連年ポーランド方面に出兵し、ヤン・ソビエスキの攻勢を牽制した。

この時期、ロシアでは幼いピョートル1世が即位し、姉のソフィアが摂政として実権を握っていた。1686年、摂政ソフィアは神聖同盟に加入してオスマン帝国と開戦することを決め、露土戦争が再開された。1687年、ソフィアの寵臣ヴァシーリー・ゴリーツィン公爵率いるロシア軍はクリミアを目指して侵攻したが、セリム・ギライ1世に阻まれているうちに補給不足となり、ロシア軍は撤退した。

翌1688年、セリム・ギライ1世は再びポーランド方面に出兵した。続いて、オスマン帝国からの出兵要求に従ってルーマニアからブルガリア方面に遠征し、神聖同盟の攻勢により動揺する地元のキリスト教徒の反乱を沈静化した。この一連の遠征により、セリム・ギライ1世はオスマン帝国のバルカン回復の功労者としての名声を獲得する。オスマン帝国の本営が置かれていたエディルネに赴いたセリム・ギライ1世は、英雄として歓迎を受けた。

セリム・ギライは1689年にもポーランド方面に出兵したが、ゴリーツィンのロシア軍が2度目のクリミア遠征を開始した報を受けて引き返した。ロシアではゴリーツィンはこの遠征でも補給不足で撤退したとされるが、オスマン側の主張によれば、オルカプでセリム・ギライに撃破されて逃げ帰ったことになっている。

1689年の年末に、オスマン帝国ではキョプリュリュ家のファーズル・ムスタファ・パシャが大宰相に起用され、神聖同盟軍に対する大規模な反撃を組織した。セリム・ギライ1世は、カルガイである息子デヴレト・ギライ率いるクリミア・ハン国軍を大宰相によるセルビア方面への遠征に参加させた。

オスマン帝国はこの遠征でセルビアの中心都市ベオグードまで奪還したが、セリム・ギライは成功を収めた大宰相との間で折り合いを欠くようになった。ヌーレッディンであった息子のひとり、アザーメト・ギライが分遣隊を率いてポーランドへと遠征中に戦死した悲しみもあってセリム・ギライは意欲を失い、1691年3月に自発的に退位してメッカ巡礼に旅立った。

セリム・ギライ1世の退位後、サアデト・ギライ2世、サファー・ギライが相次いで即位するが、ともに部族をまとめることができず、オスマン帝国の期待どおりにクリミア・ハン国軍を出兵させることができなかった。1691年のスランカメンの戦いで大宰相ムスタファ・パシャが戦死し、バルカン戦線が再び劣勢になったこともあり、オスマン帝国はメッカから戻ってイスタンブル近郊のスィリヴリに与えられた農園で隠棲していたセリム・ギライを呼び返して1692年に再びハンに任命した。

セリム・ギライ1世は3度目の治世でも引き続き連年オスマン帝国の出兵要請を受けてバルカンに遠征し、1693年にはオーストリア軍に包囲されたベオグラードを救援することに成功した。この頃からバルカン戦線は膠着し始めるが、ロシアでピョートル1世が親政を開始し、黒海に通じる港を求めてアゾフ海方面に攻勢を開始していた。ロシアの南下政策の始まりである。

1695年、ロシアはオスマン帝国の要塞アザクを攻撃し、攻略には失敗したものの、ドニエプル川方面のオスマン帝国の城砦を占領することに成功した。クリミア・ハン国軍には対ロシア防衛戦への参加が命じられたが、オスマン・クリミア両軍は長年の戦争で疲弊していた。1696年、ロシアはついにアザクを占領した。

この戦いを最後に本格的な戦闘は終結し、神聖同盟各国とオスマン帝国は和平を模索し始めた。セリム・ギライは戦闘の沈静をみて、1699年にカルガイのデヴレト・ギライにハン位を譲った。

1698年にカルロヴィッツ(現在のセルビア)で始まった和平交渉にはロシアも参加し、オスマン帝国とロシアの間で、初めてクリミア・ハン国を介さない直接交渉が行われた。翌年締結されたカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国はハンガリー、トランシルヴァニアをオーストリアに割譲するなど、多くの領土を失った。アザクを得ていたロシアは更なる利益を望んでカルロヴィッツ条約には調印せず交渉を続け、翌1700年にオスマン帝国と単独でイスタンブル条約(コンスタンティノープル条約)を結んだ。

イスタンブル条約は、オスマン帝国にとっては初めてロシアとの完全な直接交渉によって結ばれた条約である。この条約で、オスマン帝国はアザクの割譲を認め、ロシアが戦争中に占領したドニエプル川沿岸の城砦は放棄させられた。

また、この条約によって、オスマン帝国はロシアがジョチ・ウルスの継承者を自認するクリミア・ハン国から一切の支配を受けない独立国家であることを公式に承認し、クリミア・ハン国がロシアに貢納金の支払いを要求することを禁じた。

イスタンブル条約はまた、西欧諸国と同様にイスタンブルに常駐の大使を置く権利をロシアに認めた。ロシアは、オスマン帝国との関係においてクリミア・ハン国の仲介を必要としないチャンネルを完全に確立したことになる。これまで、オスマン帝国を後ろ盾にロシアと対等に向き合ってきたクリミア・ハン国は、オスマン帝国とロシアが対等の関係になったことにより、二つの大国の間に挟まれ、一方の大国であるオスマン帝国の一従属国であるという立場に甘んじることになった。

オスマン帝国によってロシアに対する襲撃と貢納金取立てが禁止されたことは、クリミア・ハン国の社会に動揺をもたらした。セリム・ギライ1世の後を継いだデヴレト・ギライ2世はロシアを敵視しており、ロシアがクリミアの近くに新しく要塞を築いたことをイスタンブル条約違反とみなして、オスマン帝国に無断でロシアへの襲撃を行おうと目論んだ。戦争の再開を望まないオスマン帝国政府はデヴレト・ギライの更迭を決めたが、ロシア攻撃を支持する諸部族が結束し、オスマン帝国に対する反乱に発展した。オスマン帝国は、大軍を派遣するとともに、スィリヴリで引退していたセリム・ギライを呼び出し、もう一度ハンに任命して反乱を収束させた。

クリミア・ハン国の歴史で最後の偉大なハンとして記憶されるセリム・ギライは、4度目の治世で部族の統制を回復した後、2年ほどで病死した。1704年、カルガイであった息子ガーズィ・ギライ3世が即位するが、彼も部族民のロシアに対する略奪を黙認したため、わずか2年で更迭された。後を継いだ弟のカプラン・ギライ1世は、チェルケス人の反乱鎮圧に失敗したことから1708年に更迭され、かわってキオス島に流されていたデヴレト・ギライ2世が呼び戻されて再びハンに任命された。

デヴレト・ギライ2世の2度目の治世は、スウェーデンとロシアの間で戦われた大北方戦争にオスマン帝国が巻き込まれた時代と重なる。1709年のポルタヴァの戦いでピョートル1世に敗れたスウェーデンのカール12世はオスマン帝国に逃げ込み、オスマン帝国はピョートルが要求するカールの引渡しを拒否してロシアに宣戦布告した。デヴレト・ギライは念願であったロシア領への襲撃を命じられた。

1711年、ピョートル1世はオスマン帝国の属国であるワラキアとモルダヴィア両公国をロシアに内通させ、オスマン帝国に攻め込んだが、プルート川の戦いで大敗を喫した。オスマン軍を率いる大宰相バルタジュ・メフメト・パシャはピョートルの提示したアザク返還などの条件を受け入れ、プルート条約を結んで講和した。

デヴレト・ギライはイスタンブルに赴いてロシアとの早期講和に反対し、再度開戦するよう宮廷工作を行ったが、ロシアとの再戦を望まないオスマン帝国政府はカール12世を帰国させて紛争の火種を消してしまった。デヴレト・ギライも1713年にエディルネに呼び出されて向かっている最中に拘束、罷免され、ロードス島から呼び戻されたカプラン・ギライ1世がハンに任命された。

デヴレト・ギライはキオス島に流された後、許されてイスタンブルに近いヴィゼで余生を送った。この時代、クリミア・ハン国の王族はイスタンブル周辺に農園を与えられて暮らすことが常態化し、これらの地域にいる王族の中から適当な人物がハンとしてクリミアに派遣され、退位したハンは自領の農園に引退するようになっていた。18世紀のハンの幾人かは現在もトルコのイスタンブル近郊に墓が残されている。例えば、デヴレト・ギライの墓はテキルダー県のアヤスパシャ・モスクにある。

アヤス・パシャ・モスク(トルコ・テキルダー県サライ郡)

プルート条約の締結後、クリミア・ハン国とロシアの国境線はしばらく平静であった。ピョートル1世は大北方戦争に忙しかったし、1722年にイランのサファヴィー朝がアフガン族の反乱で分裂すると、ロシアとオスマン帝国はイラン分割協定を結んで北と西から同時に攻め込んでいたからである。

しかし、水面下での緊張は続いていた。クリミア・ハン国支配下のノガイと、ロシア支配下のドン・コサックはお互いに襲撃するなど小競り合いが絶えず、ロシアがサファヴィー朝から奪取したカスピ海西岸(現在のアゼルバイジャン、ロシア領ダゲスタン)と、オスマン・クリミア領の間にある北西カフカスのチェルケス人居住地域(カバルダ地方)は国境線が未画定で、ロシアとオスマン・クリミアのいずれの支配下にあるのかが不明確であった。

イランではナーディル・シャーが台頭し、オスマン・ロシアとの戦争を優位に進め始めた。オスマン帝国とロシアの間の緊張が高まっていた1735年、ロシアはナーディル・シャーと条約を結び、カスピ海西岸を返還する代わりに対オスマン同盟を結んだ。ロシア軍はクリミア・ハン国がロシアの国境線を侵犯したことへの報復を名目に、宣戦布告のないままドン川を渡って国境を越えた。

1736年春、ロシアのミュンニッヒ元帥の率いる軍がクリミア半島、ラッシ将軍の率いる軍がアゾフ海方面に進軍を開始した。ミュンニッヒは5月28日にオルカプの城塞を落としてペレコープ地峡を突破し、ロシア軍として初めてクリミア半島に侵攻した。ロシア軍は多大な損害を出しながらハン国の首都バフチェサライまで進軍し、6月17日、占領したバフチェサライに放火して撤退した。バフチェサライはこの火災により徹底的に破壊され、クリミア・ハン国の書物や文書はほとんど失われた。

翌1737年、オーストリアがロシア側に立って参戦し、オスマン帝国は二正面作戦を強いられた。

ミュンニッヒのロシア軍主力は黒海北岸を荒らし回り、クリミア・ハン国は猛烈に反撃したものの、ラッシ将軍率いるロシア軍別働隊のクリミア半島再侵攻を許した。オスマン帝国はオーストリアとの戦いでなんとか主導権を握ってロシアを孤立させ、1739年にベオグラードで和平条約を結んだ。

ベオグラード条約の締結以降、ロシアはオーストリア継承戦争、七年戦争と西欧の紛争に関与して忙しく、オスマン・クリミアとの国境線は表向き平穏を取り戻した。オスマン帝国はクリミア・ハン国に対し、領民がドン・コサックやロシアの商人と紛争を起こさないよう厳しく監督させた。

1762年、ロシアで女帝エカテリーナ2世が即位した。エカテリーナはプルート、ベオグラード両条約で断念された南下政策を再び実行に移そうとし、手始めにクリミアに領事館を設置した。

1764年、ロシアを後ろだてとするスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがポーランド国王に選出された。ロシアの干渉に反対するポーランド貴族は反ロシア蜂起を起こしたが鎮圧され、一部がオスマン領内にあってクリミア・ハンに徴税権が与えられているウクライナの都市バルタに逃げ込んだ。ロシア軍がこれを追撃したことが原因となり、1768年、オスマン帝国はロシアに宣戦を布告した。

露土戦争の開戦にあたって、オスマン帝国はイスタンブル近郊の農園で引退していた元ハンのクルム・ギライがロシアとの戦いの指揮官として適任であると考え、復位させた。クルム・ギライはデヴレト・ギライ2世の子で、父と同様にロシアと敵対したために更迭されていた人物である。

1769年、クルム・ギライ率いるクリミア・ハン国軍はウクライナ・ポーランド方面を襲撃してロシア軍と戦い、多くの捕虜を連れて凱旋した。クルム・ギライはモルダヴィアに駐屯したが、まもなく急死した。復位してからわずか半年の早すぎる死には毒殺の疑いもかけられている。

クルム・ギライの死後、クリミア・ハン国をまとめあげてロシアと戦うことのできる実力を持ったハンは現われなかった。クリミアの諸部族は今やオスマン帝国のために戦うことに積極的でなかった。ノガイのベイの中にはイェディサンのジャン・マンベト・ベイのようにオスマン帝国を見限ってロシアと友好条約を結ぶものもいた。1770年にはクリミア・ハンのカプラン・ギライ2世が内通を勧誘するロシアと連絡を取り合い、オスマン帝国はカプラン・ギライを更迭してセリム・ギライ3世をハンに任命した。

カプラン・ギライ2世の墓(トルコ・イスタンブル県チャタルジャ郡)

1771年、ドルゴルーキー公爵の率いるロシア軍がクリミア半島に侵攻し、要塞が再建されていたペレコープ地峡を再び突破した。ロシアはクリミアのタタール人に対して、トルコ人を追放して独立を与えると布告し、少なくない数の王族や貴族がロシアに恭順した。ロシア軍はオスマン帝国に従う残存勢力の抵抗を蹴散らし、セリム・ギライ3世は1週間もしないうちにクリミアを捨ててイスタンブルに逃亡した。

ケフェ、ケルチ等のオスマン帝国直轄領の諸都市も占領され、クリミア半島全域はロシア軍の制圧下に入った。ロシア軍占領下でクルルタイが召集され、オスマン帝国がセリム・ギライ3世の後任に任命したマクスード・ギライを廃位して、サーヒブ・ギライ2世を独立クリミアのハンに推戴した。

オスマン帝国はクリミア半島の外でも敗北を重ね、1774年、キュチュク・カイナルジャ条約を結んで過酷な条件による和平を飲み、屈服した。

キュチュク・カイナルジャ条約の第3条により、クリミアおよびブジャク、クバン、イェディサン、ジャンボイルク、イェディチクル、すなわち、クリミア・ハン国に属していた、現在のウクライナ南西部からロシア南部に至る黒海とアゾフ海沿岸のすべての領域が独立し、チンギス・ハンの血を引くハンによって統治されることとされた。さらに、オスマン帝国は直轄領であったクリミア半島南端部の放棄も認めたが、アゾフ海の出口であるケルチはロシアに割譲された。クリミア・ハン国は独立したといっても喉元をロシアに押さえられ、実態としてはロシアの保護国といってよい状況であった。

ロシアはイスラム教を奉じるクリミア・ハン国が独立することを渋るオスマン側に譲歩し、カリフとしての権限によりイスラムの宗教的な権威を及ぼすことは認めた。このどのようにでも解釈できる条項が置かれたことから、クリミアではカリフとしてのオスマン帝国の介入を求める親オスマン派と、ロシアを後ろ盾にカリフからの完全な独立を達成しようとする親ロシア派の間で激しい争いが起こった。

サーヒブ・ギライ2世は、親ロシア派に推戴されてハンに即位したが、ロシアの影響力が強まるのを見て鞍替えし、オスマン帝国と連絡を取り支援を求めた。1775年、キュチュク・カイナルジャ条約を認めない元ハンのデヴレト・ギライ4世がクリミア半島の対岸であるタマン半島でチェルケス人とノガイを味方につけて蜂起し、ケルチ海峡をわたってクリミアに入った。サーヒブ・ギライはイスタンブルに逃亡し、デヴレト・ギライ4世が即位してオスマン帝国に支援と承認を求めた。

エカテリーナ2世は表向きデヴレト・ギライの即位を追認しつつ、オスマン帝国に支援を与えないように圧力をかけた。クリミア・ハンの候補者として女帝の意中にあったのは、サーヒブ・ギライ2世のカルガイとして1771年にロシアの首都サンクトペテルブルクに派遣され、その洗練された振る舞いから女帝のお気に入りとなっていたシャーヒン・ギライであった。1776年末、シャーヒン・ギライはロシアと同盟したノガイを引き連れてクリミアに帰還し、翌1777年、デヴレト・ギライを追放して自らハンに即位した。エカテリーナはキュチュク・カイナルジャ条約に基づきクリミア・ハン国が完全に独立したのだと宣言したが、シャーヒン・ギライがロシアの保護を受けて統治していることは誰の目にも明らかであった。

シャーヒン・ギライ

シャーヒン・ギライは単なる傀儡ではなく、サンクトペテルブルクでの生活でオスマン帝国よりも進んだ国家体制を学び、旧態然としたクリミア・ハン国をロシア式に改革しようと考えていた。

まず、有力者の合議機関であったディーヴァーンに、自身を支持するシリンとマンスールの2部族のベイのみを召集し、ハンに従順ではない部族やカリフの権威を認めたがるウラマーを政府の意思決定から排除した。また、部族のベイが世襲する所領として半ば独立していた部族領ベイリクを郡に改組し、ハンの権力が及ぶようにした。軍事力が部族頼みで貴族たちに担われているのを改めて常備軍を再編成し、ロシアの軍服を着せてロシア人の軍事顧問を招いて訓練を行った。

これらの政治改革はハン権力を強化して中央集権化することをねらったもので、シャーヒン・ギライの認識ではクリミア・ハン国を独立国として生き残らせるために不可欠なものであった。しかし、伝統的な社会関係を破壊されるクリミアの人々は反発し、改革に抵抗する反乱が勃発した。エカテリーナ2世が条約を無視してクリミア半島にキリスト教徒の移民を送り込もうとしたことも事態を悪化させた。

1778年、オスマン帝国はキュチュク・カイナルジャ条約を守るためと称し、元ハンのセリム・ギライ3世をクリミアに送った。シャーヒン・ギライはクリミア半島内のロシア領イェニカレに逃げ込み、ロシア軍の助けを借りて復位した。オスマン帝国はロシアの力を認めるしかなく、1779年にアイナルカヴァック条約を結んで、ロシア軍の撤退を条件にシャーヒン・ギライのハン位を承認した。

シャーヒン・ギライは2度目の治世でも改革を促進しようとしたが、エカテリーナ2世が改革を助けるためとしてクリミアにもともと住んでいたキリスト教徒をロシア領のマリウポリに強制移住させたことが混乱を深めさせた。キリスト教徒たちは商人としてクリミアの経済を担っていたからである。

1781年以降、ノガイが次々に反乱を起こし、シャーヒン・ギライは再び危機に直面した。翌1782年、シャーヒン・ギライの兄弟バハドゥル・ギライとアルスラン・ギライが反乱を起こし、主要な部族とウラマーを味方につけてハンをロシア領のケルチに追いやった。反乱軍はバハドゥル・ギライを新しいハンに選出し、イスタンブルに使者を送って即位の承認を求めた。

エカテリーナ2世はポチョムキン将軍率いるロシア軍をクリミアに送って反乱軍を鎮圧し、バハドゥル・ギライら反乱の首謀者はイスタンブルに亡命した。10月、シャーヒン・ギライがロシア軍に守られてバフチェサライに戻り復位したが、エカテリーナ2世はもはやシャーヒン・ギライを通してクリミア・ハン国をロシアの保護国として維持する必要性を感じなくなっていた。

1783年4月、エカテリーナ2世はクリミア併合を宣言する勅令を発した。クリミア・ハン国はこうしてクリミアから姿を消した。

おわりに

国を失ったシャーヒン・ギライの運命は過酷なものであった。サンクトペテルブルクに送られ、将軍の称号と年金を与えられはしたが、屈辱的な軟禁生活に耐えられず、イスタンブルに亡命した。もともとエディルネ生まれであったというシャーヒン・ギライのささやかな望みは、他の引退したクリミア・ハンと同様に、イスタンブルの近郊に農園を与えられて静かに余生を送ることであったが、オスマン帝国は約束を違えて彼を逮捕し、ロードス島に送った。1787年、シャーヒン・ギライはロードス島で斬首に処された。クリミア・ハン国滅亡の責任を一身に負わされての最後であった。

イスラム教を奉ずるクリミア・ハン国が滅亡して多くの王族や貴族が亡命し、3万人ものイスラム教徒が殺されたと伝えられると、オスマン帝国は大きな衝撃を受け、人々はロシアに対する怒りに沸いた。1787年、オスマン帝国は国内世論に応えるためロシアと開戦した。クリミア・ハン国の王族を名目的なハンに任命して前線に送り、クリミア奪還を目指したが、結果は再び敗北であった、オスマン帝国は1792年のヤッシー条約でロシアと講和し、クリミアの併合を承認させられた。1808年に再度開戦した露土戦争でも結果は変わらず、ブカレスト条約でロシアのクリミア領有は再確認された。

1812年、露土戦争の前線でタタール兵を率いていた王族ハリム・ギライはイスタンブルに戻り、歴代ハンの事跡を記した『ハンたちの薔薇』を執筆した。

クリミア・ハン国は歴史の中の存在となり、完全に過去のものとされたのである。