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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第1章 クリミア・ハン国の成立

地図を広げ、クリミア半島を探すと、目を引かれるのはその特異な位置関係である。確かに、2014年のウクライナ危機に直面したロシアの指導者たちが、国際社会から白眼視されるリスクを冒してでも、この面積2万5000平方キロメートルほどの小さな半島を、自国の勢力圏になんとしてでも確保せねばならないと画策した理由が察せられるように思える。

クリミア・ハン国関係地図

遠くモンゴルからカザフスタンを越え、南ロシアを経てウクライナに達するステップ地帯は、黒海の北岸でその幅わずか8キロメートルのペレコープ地峡を抜けると、クリミア半島中部から北西部にかけて広がる平原に達する。平原は南に向かってゆるやかに標高を上げ、半島中南部のクリミア山脈(最高峰は1545メートルのロマン・コシ山)を背骨とする山岳地帯を登り始める。この山を乗り越えると、黒海に面して温暖で良港に恵まれた南端部である。ここから海に漕ぎ出せば、イスタンブルのボスポラス海峡を経て地中海、さらに大西洋に出ることもできる。

水上交通に目を向けると、ロシアの中心部からヴォルガ川とドン川を経由した流れは、クリミア半島の東側にあるアゾフ海に至る。アゾフ海に浮かぶ船がボスポラス海峡を目指して黒海に抜けるには、まずクリミア半島の東端とカフカス側のタマン半島の西端の間に挟まれ、最短幅は3キロメートルほどしかないケルチ海峡を通り抜けなければならない。

こうした地理的環境は、古代からクリミア半島を民族の十字路としてきた。

歴史上、クリミア半島を最初に支配したと記録されたのは騎馬遊牧民たちである。彼らはクリミアの北部を含む黒海北岸のステップに広がり、遊牧生活を行っていた。

山岳地帯を挟んだ半島の南端には、紀元前5世紀にクリミア半島南西部のヘルソネス(現在のセヴァストポリ)をはじめとして、各地にギリシア人の植民都市が建設された。ギリシア都市に始まった半島南部の定住民社会は、ローマ帝国の支配を経て、ゲルマン人の一派、ゴート人の侵入を受ける。

4世紀、黒海北岸のステップに現われたフン人はゴート人を駆逐し、この地を再び遊牧民の行きかう牧地とした。フンの侵入以降、ステップには次々に遊牧民が現われ、アヴァール、ブルガール、ハザール、ペチェネグ、キプチャク(ポロヴェツ)と支配者が交替した。

1206年、クリミア半島から遠く東に離れたモンゴル高原で、チンギス・ハンがモンゴル帝国を建国した。チンギスは長男のジョチにモンゴルから西に向かって広がるステップの征服を委ねた。ジョチの子孫が率いてステップを支配したモンゴル帝国の地方政権を、モンゴル帝国史の研究者は、モンゴル語で遊牧民の「国」を意味する「ウルス」という言葉を用いてジョチ・ウルスと呼ぶ。

1236年、モンゴル帝国はジョチの次男バトゥが指揮する大軍を西方に派遣し、黒海北岸からクリミア半島に至るステップで遊牧生活を送っていたキプチャクはモンゴルの軍門に降った。キプチャクを吸収したモンゴル軍はルーシ諸国(現在のロシア・ウクライナ)を征服し、東ヨーロッパを席巻した。

モンゴルの征服により、キプチャク草原からルーシに至る地域はバトゥを指導者とするジョチ・ウルスの支配下に入る。バトゥはヴォルガ川下流域に定着し、都市サライを築いて本拠地とした。これがいわゆるキプチャク・ハン国の成立である。

ジョチ・ウルスは服属させたルーシ諸国に貢納金の支払いを課し、間接統治した。ルーシ諸国は支配者となったモンゴル人をタタールと呼び、その支配は後世「タタールのくびき」と称される。

クリミアにおいては、ジョチ・ウルスは支配拠点を半島内陸部の都市ソルハット(現在のスタールイ・クリム)に置き、同じ頃、クリミア南端に形成されたイタリア人の植民都市を服属させた。ソルハットは黒海の交易を担うイタリア人とステップのタタール人を結ぶ交易拠点都市となり、この町の別名である「クリム」が半島全体の名称となった。ソルハットにはイスラム教徒も流入し、ジョチ・ウルスをイスラム教に集団改宗させたウズベク・ハンによって1314年にクリミア最古のモスクが建設されている。

ハン国時代のクリミアの主要都市

14世紀中頃、ジョチ・ウルスの宗主であったバトゥの家系が断絶し、ジョチ・ウルスは分裂状態に陥った。1380年、ジョチの子トカ・テムルの子孫、トクタミシュがクリミアを本拠地に自立していたキヤト部族の将軍ママイを倒し、ジョチ・ウルスを一時的に再統合した。

15世紀、トカ・テムルの末裔たちはジョチ・ウルスの各地に分散し、各々がハンを名乗り始める。定説によれば、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国のいわゆる「タタール三ハン国」がサライに拠るキプチャクの正統政権「大オルダ(大帳)」から相次いで分立したとされる。

クリミア・ハン国の発祥について、ハン国の滅亡後、歴代ハンの事跡を記した年代記『ハンたちの薔薇』を著したハン国の元王族、ハリム・ギライ(1823年没)は、1440年前後にクリミアでハンの称号を名乗ったハジ・ギライをハン国の始祖とみなして、ここから彼の先祖の歴史を語り始めている。

記録によると、ハジ・ギライの遠祖はジョチの十三男トカ・テムルである。ジョチの一門は、ジョチの次男バトゥが率いる右翼と、ジョチの長男オルダが率いる左翼に分かれていたとされており、トカ・テムルは今日のカザフスタン周辺を支配していた左翼オルダ・ウルスに属していた。

14世紀後半、左翼盟主のオルダ家が断絶し、混乱に陥ったオルダ・ウルスを統合したのがトカ・テムル家であった。さらにトカ・テムル家出身のトクタミシュは、オルダ・ウルスを足がかりにバトゥ家断絶後の右翼バトゥ・ウルスを征服した。

ハジ・ギライは、トクタミシュの大叔父(祖父の兄弟)、トゥレク・テムルの子孫にあたり、左翼オルダ・ウルスに出自を有する。ただし、トゥレク・テムルの系統はトカ・テムル家のうちでも早くからクリミア半島を支配していたとする伝承も存在する。17世紀のヒヴァ・ハン国のハンで、自身もジョチの末裔であるアブルガーズィーは、ジョチ家の家系を記した著書『テュルクの系譜』において、トカ・テムルの子で、トゥレク・テムルの曽祖父にあたるウルン・テムルが、バトゥの孫モンケ・テムル・ハンからクリミアの支配権を与えられたと述べている。

トカ・テムル家関係系図

1333年、ウズベク・ハン統治下のクリミアを訪れたアラブ人の旅行家イブン・バットゥータは、クリミアの中心都市ソルハットでウズベクによってクリミア総督に任命されていたトゥルクトゥムールという人物と面会し、ジョチ・ウルスの都サライまで一緒に旅したと書き残している。

ウルン・テムルがクリミアを支配したとする情報は後世の伝承でしかないが、仮にイブン・バットゥータが面会したトゥルクトゥムールを、トカ・テムル家のトゥレク・テムルと同一人物だとすると、遅くとも14世紀前半にハジ・ギライの先祖がクリミアに定着しつつあったことになる。

1380年にトクタミシュによって再統合されたジョチ・ウルスは、1389年に始まるティムールのキプチャク草原遠征により、再び分裂した。この頃、1390年から92年にかけて、クリミアでハンを称し、自らの名前を刻んだ貨幣を鋳造したベグ・ブラトという人物の存在が貨幣資料から知られている。イスラム国家の伝統においては貨幣に名を刻む行為は君主の権威を象徴するものであり、この時期、クリミアはトクタミシュ・ハンから離反の傾向を示したものと見られる。

1391年、トクタミシュはクンドゥズチャの戦いでティムールに敗れるが、西方で勢力を立てなおした。1393年以降、トクタミシュ・ハンとその代理人としてタシュ・テムル(またはバシュ・テムル)の名を刻んだ貨幣が残されており、クリミア支配もすぐに回復された模様である。タシュ・テムルは前述のトゥレク・テムルの孫で、トクタミシュ(トゥレク・テムルの兄弟の孫)の親族に当たる。

しかし、再起したトクタミシュも、後にマンギト部族のエディゲに倒された。トクタミシュに従っていたタシュ・テムルの一族も1395年頃にクリミア半島の支配を失い、リトアニア方面へと退去した模様で、これ以降彼の一族の名を刻んだ貨幣はしばらくみられない。

1419年にエディゲが死亡すると、タシュ・テムルの甥ウルグ・ムハンマドがサライに入ってハンに即位し、その従兄弟であるタシュ・テムルの子ギヤースッディーンがクリミアに帰還した。

ギヤースッディーンのクリミアにおける活動は1424年頃に見られなくなる。その後クリミアはギヤースッディーンの兄弟ダヴラト・ベルディと、従兄弟であるウルグ・ムハンマド・ハンの間で支配権が争われ、ダヴラト・ベルディは敗死した模様である。のちに政争の当事者のひとりであったウルグ・ムハンマドもサライを失ってカザンに退き、彼の勢力がカザン・ハン国となった。

こうしてサライからのクリミア支配が弛緩したとき、クリミアにおいてサライから独立してハンを自称したのがハジ・ギライであった。

ギヤースッディーンの死後、一族の避難地であるリトアニアに退去してドニエプル川方面にいたとみられるハジ・ギライが、クリミアに再び入ってハンを称した時期がいつなのかは、正確にはわかっていない。おそらく、1420年代の末から1440年代の頭までの出来事である。

ヒジュラ暦845年(1441/42年)、クリミアのソルハットで鋳造された貨幣にハジ・ギライ・ハンの名を刻んだものが残されており、この頃までにハジ・ギライがクリミアでハンを称していたことは確実である。

ハジ・ギライの即位においては、クリミアにいたタタール諸部族の中で最有力であったシリン部族が重要な役割を果たしたとされている。

14世紀後半以来、キプチャク草原の混乱を受けて多くのタタール部族が中央アジアや黒海北岸へと移住していた。クリミアにはシリン、バリン、アルグン、キプチャク等、複数の有力部族が定着しており、クリミアにおいて独立を宣言したハンの実態は、ベイの称号を有する部族長たちに推戴された盟主というべきものであった。1440年代当時の情勢の中では、クリミアの諸部族を他のタタール諸部族から守るためには、外部勢力であるポーランド・リトアニア連合と手を結ぶ必要があった。チンギス・ハンの血を引く王族の中で、リトアニアに亡命していた経歴を持つハジ・ギライは独立クリミアの君主として最適の人物とみなされたと考えられる(ハジ・ギライ自身、父の亡命中にリトアニアのトラカイで生まれたとする説がある)。

ハジ・ギライは、本拠地を13世紀以来のタタールの都であるソルハットから山間部の堅牢な要塞であるクルクイェル(のちのバフチェサライの近郊)に移し、クリミア・ハン国の首都とした。

外交面ではポーランド・リトアニアのほかにモスクワ大公国とも結んだ。1465年にはサイイド・アフマド・ハンのモスクワ遠征軍を途上で攻撃し、遠征を中止させている。

クリミア半島の内部においては、ハジ・ギライの時代にも南端の沿岸部にはジェノヴァ共和国の植民都市が健在であった。ハジ・ギライはジェノヴァの拠点であるカッファ(現在のフェオドシヤ)を攻撃したが陥落させることができずにいた。

1453年にビザンツ帝国が滅び、ジェノヴァの黒海貿易を支えてきたコンスタンティノープル(イスタンブル)がオスマン帝国のメフメト2世の手に落ちると、ハジ・ギライはメフメトに書簡を送り、協力してジェノヴァ人を討とうと申し出た。1454年、カッファはクリミア・オスマン連合軍に包囲されたが、ジェノヴァ人はメフメトとハジ・ギライに貢納金を支払うことで難を逃れた。

1456年にはハジ・ギライの三男ハイダルがジェノヴァ人の助けを借りて反乱を起こし、自らハンを称した。ハジ・ギライはすぐに勢力を盛り返し、反乱は数か月で鎮圧されたものの、ジェノヴァの植民都市との関係はその後もハンにとって大きな禍根となった。

ハジ・ギライは1466年に没した。ハジ・ギライの25年間の統治を通じて、クリミア・ハン国は独立国として力を蓄えようとしていたが、その基盤は依然として脆弱で、ハンは部族と諸外国の間の危ういバランスの上に立っていた。

コラム ギレイ家

クリミア・ハン国の王家は一般に「ギレイ家」と呼ばれることが多い。これは、王族男子の名前にギレイ(またはギライ。トルコ語:giray、クリミア・タタール語:geray)という単語が付いているからである。

このギライというのは姓ではなく、もともとはクリミア・ハン国の始祖、ハジ・ギライの名前の後半部分である。

ハリム・ギライの『ハンたちの薔薇』によると、ハジ・ギライは父がギライ部族のもとに滞在していたときに生まれ、同部族の有力者がメッカ巡礼(ハッジ)から戻ってきたことを記念して名づけられたという。ギライをアラビア文字で表記すると「ケレイ」とも読むことができるので、このギライ部族は13世紀にチンギス・ハンに敗れてモンゴル帝国の支配下に入ったケレイト部族のことだと思われる。ただ、ギライという単語自体はテュルク語でありふれた人名であり、この伝承がどれほど史実を反映したものかはわからない。

ハジ・ギライの死後、後継者争いに勝利したのが父からギライの名を継承したメングリ・ギライで、その子孫が継承者であることを示すために同じ名前を用い続けたのがいわゆる「ギレイ家」の由来である。ちなみに同時代の史料上では「ギレイ家」に当たる表現は見られず、「チンギス家(Âl-i Cengiz、Sülâle-i Cengiziye)」という表現のほうが一般的である。