不思議な不思議なイェニチェリ 部隊名は『左利き』で部隊長は『スープ鍋番』
オスマン帝国の軍隊といえばイェニチェリ。これは論を俟たないでしょう。
改めて説明すると、イェニチェリは14世紀にアナトリア北西部の辺境に興ったオスマン帝国がバルカン半島へと版図を広げていく過程でキリスト教徒の子弟から徴集した改宗イスラム教徒からなる君主(スルタン)直属の精鋭歩兵たちです。16世紀には小銃で武装した常備歩兵軍団として発展してオスマン帝国の軍事的な絶頂期を支えますが、17世紀以降は人員の肥大化や規律の弛緩が生じ、やがて改宗者のリクルートも行われなくなって縁故主義・特権的な無頼集団と化して君主の権力を揺るがす反乱の主体ともなり、1826年に最終的に新式軍によって武力で撃滅され、廃止されることになりました。
イェニチェリの組織の説明を読む
およそ500年にわたる歴史を有するイェニチェリは、14世紀に捕虜からの改宗者を集めた部隊として興ってから、16世紀のスレイマン1世の時代に組織が完成するまで200年近くを経て徐々に拡充されていきました。さらに、スレイマン期の組織が完成形として編制が固定されたため、その後人数が肥大化し規律が弛緩しても組織形態は基本的に維持されたまま300年近く続いたことになります。それゆえに形成経緯を反映した複雑な組織がそのまま19世紀まで続いたと言ってよいでしょう。
…ということは専門領域は違えどオスマン帝国の歴史を専攻した者なりに知識として知っていたのですが、実際に資料を読んでみると頭に「?」がたくさん浮かんで翻訳に難渋することになりました。そのときの私の感覚を理解していただくために、『オスマン帝国の軍制と軍装』の該当箇所から固有名詞部分をJames Redhouseのオスマン語-英語辞典どおりに読み、できるだけ原文に忠実に訳した文を下に掲げます。
おわかりいただけたでしょうか。
私は一読しても何が何やらわかりませんでした。
研究書や事典を読んで解釈する
基本的な編制単位ーオジャクとオルタ
最初につまづくのが連隊と訳されている単語の多さです。オジャク、オルタ、ジェマートの3つの単語で辞書に「イェニチェリのregiment』という説明が書いてありました。
まずオジャク。もともとは「炉」という意味のトルコ語の固有語で、転じて神秘主義教団などの人的な結合を指すようになった言葉です。
オスマン帝国では君主の奴隷(カプクル)として人格的に君主に直属する兵士たちで編成された常備軍を構成する兵科をオジャクと呼んでおり、歩兵であるイェニチェリは全体でひとつのオジャクです。これらのオジャクを単数形・複数形のどちらも「軍団」と訳してカプクル軍団、イェニチェリ軍団と表記するのが定訳になっていますので、現代軍事用語の軍団との違いには目をつぶって「軍団」と訳すことにします。
次にオルタ。現代トルコ語では中央、中間という意味の基礎語彙ですが、イェニチェリではオジャクを構成する一個一個の部隊単位を指します。ちゃんとした言語学的な説明はできませんが、おそらく幕営とか共同体といった言葉と関係があるのでしょうね。
『オスマン帝国の軍制と軍装』ではイェニチェリのオルタは今日(20世紀初頭)の歩兵中隊や歩兵大隊に相当すると言っていますが、これはオルタの総数が16世紀のスレイマン1世の時代に固定されたのに、隊員の数が17世紀以降どんどん肥大化していって、当初数十人で同じ兵舎に起居する共同体だったオルタが多いところでは千人以上の大所帯になっていったからです。以前は連隊相当のイェニチェリの隷下部隊だからということで「大隊」と訳していたのですが、これはもう現代軍事用語で訳すと誤解を生むだけなので「部隊」に訳を変更することにします。
次にジェマート。アラビア語のジャマーア(集まり)がペルシア語経由で取り込まれた言葉で、イラン方面では神秘主義教団などの人的な結合を指し、トルコ語固有語のオジャクと近しいニュアンスを感じる言葉です。
『オスマン帝国の軍制と軍装』にあるように、イェニチェリのジェマートはヤヤベイ(またはヤヤバシュ)と呼ばれるオルタの総称です。もともと14世紀初頭のイェニチェリはジェマートしかおらず、ボリュクとセクバンは後から編入されたため、イェニチェリは全体として歩兵なのにジェマートだけが歩兵を別称としているというわかりにくいことになっています。16世紀以降のジェマートはもはや部隊の総称でしかなく、厳密に訳語を突き詰める意味もなさそうなので「部衆」とでも訳語を当てておくことにします。
ついでにボリュクにも触れます。この名詞は分けるという動詞から派生していることは明らかで、グループという意味がありますが、上述のとおり現代軍事用語では「歩兵中隊」という意味で使われています。ただ厄介なのが、騎兵では連隊に直属する部隊単位、つまり騎兵大隊をボリュクと言い、これはカプクル騎兵に属する6個の部隊がボリュクを名乗っていたことに由来する由緒ある名称だということです。そして、そのカプクル騎兵部隊の総称の日本のオスマン研究での定訳は六連隊です…。
イェニチェリのボリュクをどう訳すか考えだすとどうしようもないため、これもジェマートと同じで厳密に訳語を突き詰めることは放棄し、「分団」とでも訳語を当てておくことにします。
なお、ボリュクと総称される61個の部隊のひとつひとつに対しては、オルタという語を使わずにボリュクという語を使うことが…大丈夫かな、みんなこの話ついていけてますか。
不思議な部隊名ー犬飼い、鶴飼い、左利き
次にややこしいのが猟犬を飼う人という意味の部隊名が複数あることです。
まずセクバン(セグバン)ですが、これは猟犬を飼育する人を意味するサグバーンというペルシア語の語彙の借用語です。
初期のオスマン帝国の君主は狩猟をよくしたので、直属部隊として奴隷身分の猟犬飼を置いたのが起源ではないかと思われ、もともと14世紀にイェニチェリと別に創設された別のオジャクだったのですが、15世紀にイェニチェリに編入され、ジェマートの65番隊を構成することになりました。そうです。34個の部隊からなるセクバン軍団がイェニチェリに編入される際にジェマート65番隊という1個のオルタになったのです。当時の具体的な隊員数はよくわからないですが、ほかのオルタは数十人だったでしょうから、明らかに数が不均衡だと思うのですが…。さらにややこしいことに、史料によればセクバンの中には34個の歩兵部隊のほかに騎兵部隊もおり、こちらもそのまままとめてイェニチェリに編入されたようです。
ということで、もともとイェニチェリとは別種で同格の部隊であり、人数が突出して多かったので、ジェマート65番隊の隊長となった御犬番頭はイェニチェリの中でも軍団長の代理を務めることができる特に重要な地位を占めることになります。
もうひとつの猟犬飼がザアルジュです。こちらは猟犬に由来するトルコ語固有語で、セクバンの一つ前の番号であるジェマート64番隊の別名でした。期限はよくわかりませんが、名称と番号からすれば、セクバンの編入前からイェニチェリで猟犬を飼育していた部隊だったのではないかと思います。この部隊には歩兵と別に35人の騎乗猟犬番が属しており、彼らが実際に猟犬を飼育し、狩猟の際に馬に乗って奉仕したと言われているようです。
なお、ここには出てこないですが、イェニチェリにはワラキア公国から献上されるザクセン犬を飼育するセクソンジュという者たちもいました。ザクセン犬というのが具体的にどんな犬種なのかよくわからないですが、シェパードあたりですかね。
次に鶴飼いという不思議な名前の部隊が出てきました。トゥルナジュはジェマート68番隊の別名で、狩猟の際に鳥を管理して奉仕した部隊です。狩猟の際に鑑賞するために連れて行かれる鶴を飼育したことからこの名前がついたとされています。そういった場面を描いた絵画はまだ見たことがないのですが、本当にそんなことしてたんでしょうか。
最後に左利きを取り上げます。ソラクは左から派生した語で、現代語では左利きという意味しかないのですが、イェニチェリのジェマート60番〜63番の4個の部隊にソラクという別名がつけられていました。この4部隊は君主の護衛部隊に位置付けられており、各部隊の隊長であるソラク・バシュは君主の馬の前後を弓矢を背負って護衛しました。この際に弓矢を逆手で持つことがあるので左利きというのだ、と本に書かれていますが、本当に逆手で弓が引けたのでしょうか。
料理人?のような部隊将校たち
御犬番を除けば当初は数十人で構成されていた部隊は、これまた当初は一つの兵舎で起居していました。この兵舎をオダと言います。
オダは現代トルコ語では「部屋」という意味ですが、もともとは幕営に由来するトルコ語固有語です。同じオダに集う隊員のまとめ役が兵舎長です。
生活共同体でもある部隊はともに同じ鍋で作ったスープを食べる行為を重要視します。このため、食事のときに兵舎にやってきてスープを鍋から取り分ける部隊長は『スープ鍋の番人』と呼ばれます。
実際の調理をするのがは炊事員である隊員の仕事で、そのまとめ役は親方と呼ばれていました。厨房は懲罰房を兼ねていたため、炊事長は部隊の規律維持を兼ねる将校でもありました。
できあがった訳文
さて、さまざまな固有名詞を読み解いてみました。それでは上で調べた内容を最初の訳文に当てはめていきましょう。
さらに直訳調では読みづらいフレーズを意味が同じになるような自然な日本語に置き換え、副動詞(連用形)で繋がった文を区切ったりして、読みやすい文に仕上げていきます。
これに訳注をつければ完成です。少しは理解しやすくなったでしょうか?