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ミャンマー・ヒマラヤとインド・チベット国境偵察

  2011年に年が明けてすぐ、辻和毅さんから「ミャンマー最北部がやや安定しプタオに行けるようになったらしい。チベット国境視察に行かないか」と話があった。プタオと言えばチベット国境に聳えるミャンマー最高峰のカカポラジへの入口ではないか。そして、東チベット、カンリガルポ山群から続く山脈が国境を越えて高度を下げるあたりである。
 ミャンマーにはビルマの時代1985年に初めて訪問した。まだネ・ウィン将軍が大統領であった時代で外国人旅行が厳しく制限されていた。しかし、人々の質素ながら明るい暮らしぶりや、パガン遺跡に沈む夕日の美しさに魅了され、再訪してみたいと思っていた。
 早速、ミャンマー山岳の第一人者である金澤聖太氏に連絡を取り視察スケジュールを決めた。金澤氏は辺境作家の高野秀行氏のミャンマー探検行などもアレンジしている。かつては現地でトレッキング会社を営んでいたが、2007年に映像ジャーナリストの長井健司さんが治安部隊に撃たれ殉職した反政府デモ鎮圧事件の影響などもあり、現地法人に任せて日本に引き上げていた。金澤さんの話を聞くと最高峰のカカポラジはキャラバンだけでも一ヶ月近くかかり、その姿を見ることすら容易でないことがわかり、手軽に見られる5000m級の山としてマドエラジ山麓を選んだ。

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 3.11東日本大震災が起こり、また探検の師匠の松本征夫先生の急逝があり計画を中止にすべきかどうか、辻さんとも話あったが、松本先生なら行けというはずだということで出発日を迎えた。
 2011年4月2日、福岡からバンコク経由でヤンゴンへ飛ぶ。かつてはラングーンと呼ばれ2006年にネピドーに遷都されるまでは首都であったが、現在もミャンマー最大の都市である。ちなみに、ビルマからミャンマー等の名称変更についてであるが、これは1991年に軍事政権により、外国で使われた名称を国内一般で使われていた名称に改められたもので、ヤンゴン(旧ラングーン)、バガン(旧パガン)、ミッチーナー(旧ミートキーナ)、バゴー(旧ペグー)、エーヤワディー川(旧イラワジ川)、タンルウィン川(旧サルウィン川)など約1000ヶ所が改定されたという。軍事政権の政治的問題や馴染みある地名が変わったことへの抵抗感からどちらを使うべきか各方面で論議されたが、単純にジャパンをニホンに改めたと思えば理解できなくもない。最近のミャンマーの政情は、2010年に民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁が解除され、11年1月に49年ぶりに複合政党による議会が行われた。また出発直前の3月末に軍事政権のテイン・セイン大統領による新政府が発足し、軍政主導ではあるが、開かれつつある感があった。
 夜、ヤンゴン着。イミグレーションで「どこから?」と聞かれたので、「フクオカ・ジャパン」と答えると、係官が「フクシマ?! フクシマ?!」と騒ぎ出した。すぐさま拘束され別室に連れていかれた。福岡だと言うのに。それでも日本からそのまま入れる訳にはいかんという。しばらくすると放射線防護服の一団がガイガーカウンターを持ってやってきた。防護服も測定器も初めて使うと、鼻息荒く興奮しながら測定は終わり無事入国を許された。

 金澤氏紹介のガイド、トントン氏と合流。彼はカレン族とビルマ族とのハーフだという。ミャンマーの民族はビルマ族が約7割を占めるが、大きく8つの部族(ビルマ、シャン、ラカイン、モン、カチン、カヤー、カイン、チン)、さらにその中に全体で135にも及ぶ民族が存在し、それぞれの部族で州がつくられており、独自の文化を継承している。トントンはミャンマー人としては珍しく登山経験が豊富で、カカポラジのトレッキング隊なども何度か案内したことがあるという。

 翌4月3日早朝、ヤンゴンから空路、マンダレー、ミッチーナーを経由して、憧れの最北のプタオ飛行場に着いた。この便は週2便の数ヶ所の周遊航路で、不定期で直前まで運航日とルートが二転三転した。この不安定な便に乗らなければ、陸路移動となり日程は大幅に延長されてしまう。その関係で3日後の便で戻らなければならなくなり、速攻でヒマラヤへのアプローチ偵察を行うことになった。それで到着後直ちに奥地に向かうことに。

 政府軍の許可を取得し、カチン独立軍(KIA)の地域のボスにもある筋から話が行っているらしいので、空港には軍用四輪駆動車が待機しているものと想像していた。殺風景な空港の外に出て眺めるが車は無く、荒野にポンコツのトラックが1台放置されているだけだ。遅れているのかと思ったが、我々を出迎えた車はなんとこのトラックだった。

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 空港からそのまま難民のようにトラックの荷台に乗せられたが、座るのではなく直立したままにしろという。なるほどこれは座ってはおられない。必死にしがみつきながら悪路を出発。空港を出て最初に見えた景色は墜落した航空機の残骸であった。
 荷台の揺れは凄まじく、全員が同じベクトルで激しい全身ほぐし状態。首の骨折れないか心配になる。この状況って、まさかKIAに拉致されてる訳じゃないよね?という恐怖が一瞬頭を過ったが、トントンがニコニコしているので、これ想定内なのだろう。

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 トラックでマリカ川の支流を何度も渡渉し、ジャングルの悪路を転げそうになりながら進む。途中、カンティ・シャン族、ラワン族、リス族の村を通る。まるで弥生時代に迷いこんだかのような、吉野ヶ里遺跡のような村の光景である。約3時間進むとトラックはもう無理、とスタックした。

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 これ以上は進めなくなり、ここからは歩く。小1時間歩くと数戸の弥生式民家がある小さなマリレン村に着いた。今日はここに泊まることに。低い高床式の神社のようなキリスト教会があり、その隣の簡素な高床式住居の伝教師の家に泊めてくれた。竹を編んだ床の隙間の下にはニワトリや子豚が走り回っているのが見える。この床は掃除は簡単で、ほうきではくとホコリは全部下に落ちるので便利であるが、体重をかけるとしなって隙間に身を挟まれ締めるので注意しないと素肌で寝ると痛い。

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 4月4日、マリレン村からジャングルに入り、マリカ川支流のナミジェム川(川幅約50~60m)を渡渉し左岸へ渡らなければならない。丸石に海苔のような水苔が付着しており滑りやすい。地元の遊牧民は靴下で渡るのがここのやり方という。登山靴を脱いで試すと、確かに靴下の繊維が苔に絡まって滑りにくくはなる。しかし丸石の隙間に足指を縦横無尽に突っ込む歩行術なので痛くてかなわん。渡渉後は、ヒルに喰われ血を滴しながら2時間歩いて、マドエラジ山が望める地元民がノアセチュ(またはクサキャミ)と呼ぶ放牧地に着いた。

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 旧ソ連の地形図には4626mのマドエという山が見える。ここ(北緯27度37分)より北には山に閉ざされた小さい集落がひとつあるのみで、歩行はブッシュマンでなければ困難だという。ここが金澤さんのいう、最も短期間でチベット・インド・ミャンマー国境稜線が展望できる場所だ。生憎曇空で山ははっきりとは望めなかった。しかしミャンマー北部のトレッキングの雰囲気は味わうことができた。
 こういうキャラバンを一ヶ月近く続けるとなると、食料運搬や、渡渉、ジャングルでのルーティング、セルフレスキュー等の課題があるだろう。ヒル対策も真面目に必要だ。

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 今回の偵察の収穫は、この猿のドクロで魔除けする村でチベット人に会えたことだ。自由に東チベット(中国)の察偶に行き来しているという。非公式ながら昔から交易が行われている。秘密ながら今も季節により越えている。詳細は書けないが調査の目的を達成することができた。チベットとミャンマー、ミャンマー・ヒマラヤとチベット・カンリガルポ山群エリアが地図上の点で結ばれたのだ。

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 夕方、マリレン村に戻り、トラックでナムシェコ村に移動。ここは人口約1400人、220戸の割と大きな村である。村長の家に泊めてもらうことになった。村には赤ん坊を背負い鼻水を垂らした童子や、牛車でのんびり家路を辿る農夫など、タナカの化粧顔を除けばかつての日本の農村の光景がある。電気も水道もなく、竹の家は壊れてもすぐ再建できる程度の質素な暮らしである。3.11東日本大震災の地獄絵図を見た後ということもあり、失うものが少なく住宅ローンも無縁の、シンプルな暮らしというものを考えさせられた。

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 その後、マンダレーに2泊、バガンに2泊、ヤンゴンに1泊と周遊し、主に寺院を中心に見学した。マンダレーはヤンゴンからイラワジ川にそって北へ約700キロ、ミャンマーのほぼ中心にある第2の都市。地理上、民族上からも、ミャンマー文化の中心だ。ミャンマー最後の王朝があり、広い旧王宮と碁盤の目のようにはりめぐらされた街路からなるこの町は、ミャンマーの京都とも言えかもしれない。郊外に点在するサガイン、アマラプラ、ミングォンなどの旧王宮のあった町々はどれも魅力ある場所である。

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 バガンはカンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドールとともに世界3大仏教遺跡に数えられる壮大な仏教遺跡群がある。約2000以上ある仏教遺跡群は世界最大であろう。数々の仏像、壁画は戦禍を逃れ、非常に良い状態で見る事ができる。またバガンの夕焼けは時を忘れる美しさがあった。

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 ヤンゴンはミャンマーのかつての首都であり、英国コロニアル風の町並みは、植民地時代の影響を色濃く残す。ヤンゴンの目玉は、なんといってもシュエダゴンパゴダだ。ミャンマーのシンボルであるその壮大で美しい姿は、訪れた者の脳裏に深く焼き付く。ミャンマーが黄金の国ジパングであったのではないかとすら思ったのであった。

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 帰国後、金澤さんに旅の報告をした際、カカポラジの写真を撮られていたことを知った。実は今までカカポラジの鮮明な写真は報告されていないのである。早速送ってもらい横断山脈研究会に報告をした。中村保さんもカカポラジ偵察をされたが鮮明な写真は初めて見たとのことで、JAPANESE ALPINE NEWSで紹介されることとなった。今回の視察は短期間ではあったが実りのある旅であった。

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 カカポラジの全容を写した写真としては現時点で恐らく世界でも唯一のもの。この写真が撮影されたBC上部までは、プタオから約1ヵ月のキャラバンになる。初登した尾崎隆氏も写真は撮れていない。(撮影:ルーイン氏)

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※帰国後すぐ、カチン独立軍 (KIA)とミャンマー軍の武力衝突が再開。2011年の6月から9月にかけて約1400世帯、5000人以上のの国内避難民が発生し、カチン州のミャンマー政府管理地域の避難キャンプに収容されたという。

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