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【週刊日記】できること、できないこと、できたこと#16

「障害者」の定義について考えてみた

「障害者」ってなんだろうと、よく考えるテーマである。何を持って社会に対して障害が生まれるのだろうか。今週ちょっとした雑惑を感じることがあった。私は言語が不自由がために、電話のリレーサービスを利用できたらと考えてみた。実際に、必要な申込書と書類を提出したところ、現段階では電話サービスを利用することはできないと返答が来た。利用できない理由はこうである。私の障害者手帳には、身体が不自由で得あることは認定されているが、言語が不自由なことは認定されていない、なので言語障害者向けの電話リレーサービスは利用することができないと言うことである。つまり私は書類上は言語に障害がないことになっている。不思議なものである。こんなにコミュニケーションを取るのに、困難を覚えているのに、社会において私の言語の不自由は障害として認められていない。でも私はこう思った、世の中には、こういうケースがたくさんあるんだろう。本当はご病気故に苦しんでおられるのに、社会に対する「障害」として認められていないケースがたくさんある。世の中には見えない障害がたくさんあるということだ。

「障害」はイコール弱さなのか

そんなことを考えていた時に、ABEMATVのニュースの特集で障害者雇用について扱われていた。内容は、精神障がいをお持ちの方が、職場で周りの方々に、理解されることが難しく継続して働くことが難しいというないようだった。内容は興味深く見させていただいたが、ひとつの疑問が私の中で生じた。特集の扱い方では、障害を抱えている方々の事情を理解しないことをフューチャーし、障害を抱えている方々をいわゆる弱者として描いていたことが、どうしても私は腑に落ちなかった。インタビューされていた障害をお持ちの方は、職場においてフラットな関係を望んでいる。一方で、ご自身の障害が理解されないことを不満に思っている。でもちょっと待って欲しいと思うことがある。健常者であっても、自分のことを理解されずに苦しむ人はたくさんいる。私は10代の頃から、自分の母にこう言われていた「障害者だけが大変な思いをしてるのではない、健常者も含めてみんなが頑張っている」この言葉は障害を抱え苦しんでいる人にとっては、キツいパンチとなる言葉であるが、自分が弱いと思ったり、メディアを使いそう思わせることによって、社会はよい方向に向かうとは私は思わない。それは皆が頑張っていて、その中にハンデは無いのかもしれない。

「理解」してもらうためにできること

上記のような文面を書いてしまうと、私は強い人間だと思われてしまうので、私も弱い面があることを追記しておく。私も障害を抱えて生活しているので、先に書いた他の気持ちはよくわかるし、この社会には「相互理解」が必要だいつも感じている。しかし忘れてはいけないのは、「相互理解」であるなら、先に受けることを期待してはいけないと言うことだ。自分のことを理解して欲しいと思うのであれば、自分がまず、周りを理解することが大切だと自分は考えている。もちろん自分自身もこの点を完璧に行うことができないので、いつも努力中でいるのであるが、まず先に理解できる人でありたいと私は思っている。これを取り組むことにより、どんな人であっても相互に理解し合える社会が生まれるのであれば、弱者も強者もない社会が生まれるのではないだろうか。

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