参照軸としての過去

 ある制度や行為、思想などを道徳的な観点から非難する際に、「古い」「時代遅れ」と評するレトリックが支配的になったのは、いつごろからなのだろうか。

 西洋においては伝統的に、過去との接続可能性を示すことこそが、自らの革新的主張の正統性を示す根拠になっていた。たとえば、フランス革命の時点では、封建制度の唾棄を訴える啓蒙主義者の言説の中にさえ、「本来そうであるべき、いつしかの存在した社会」との繋がりを強調するレトリックが一定の地位を占めていた。ルソーの一連の著作は、そうした時代の傾向を示している。

 これに対して近年においては、何かを非難するということと、それを古いものとして表象することとが重なっている。興味深いのは、環境保護を訴える議論においても、産業主義的態度に対して「時代遅れ」という表現が使われつつある点である。進展する産業化と自然破壊に反対した19世紀のロマン主義は、過去と自然への回帰を唱っていた。物質的発展という意味ではなく、道徳的な意味での進歩に対する信頼は、19世紀よりも現代の方がむしろ強いといえるのかもしれない。


 このあたりの関心はもちろんハーバーマスである。彼はこう述べる。「ロマン主義はやがて19世紀が進むうちに、あらゆる歴史的な枠組みから自らを断ち切った極めてラディカルなモデルニテートの意識を生み出すことになる。つまり残るものは、伝統に対する現代、いや歴史全般に対する現代という抽象的な対立関係だけ」だ、と(「近代―未完のプロジェクト」)。
 
 こうした観点から考えると、ある程度歳を取った時に「あなたの価値観は古いですよ」と申告されることが、主観的および社会的にどういった意味を持つのか、という問題の重要性が浮かび上がってくるだろう。

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