今後の研究テーマについて

修士論文を書き終えた後に考えたい問題は、「西洋近代をどのように理解し、評価するか」というものである。

生き延びる西洋近代

 19世紀後半以降、西洋近代の理性主義、自由主義、進歩主義、個人主義、功利主義、西洋中心主義に対しては様々な角度から批判が投げかけられてきた。特に20世紀、二度の世界大戦を経験した人類は、西洋近代の論理の無力さを実感し、それに対する反省を迫られた。20世紀後半に展開された様々なヴァリエーションの近代批判は、こうした必要性を動機としてなされたものであると言える。

 しかしながら私見によれば、西洋近代的価値の総体は、未だ決定的な挫折を経験していないと思われる。というのも、現代のリベラル知識人の多くが依然として、西洋近代が生み出した諸価値を前提に議論を展開しているからである。言い換えれば、様々な批判を浴びながらも近代的諸価値は、その影響力を失っていないのである。

 未だ近代の諸価値が支配的である理由の一つには、西洋近代の論理を「内側から乗り越える」試みがなされてきたことがある。すなわち、西洋近代は自己批判の精神によって、自らの問題点を批判・改善し、バージョン・アップすることによって生き延びてきたのである。

 ここでの私の関心は、⑴近代的価値は様々なヴァリエーションの批判をどのように乗り越え生き延びてきたのか⑵これらの価値は未だ積極的な擁護に値するか、というものである。

これらは非常に大きな問いである。一生を掛けても解けない問題であることは間違いないだろう。したがって、さしあたり二つの課題を設定し、それらに取り組むことを大きな問いへの足掛かりとしたい。

第一の課題:近代的価値の整理

 第一の課題は、近代の諸価値に関する議論を整理することである。前述のように、現代リベラルは未だに、西洋近代が生み出した諸価値を前提に議論を展開している。その際に彼らが依拠している価値と論理とはいかなるものか、まとめなおしたい。

 関心のあるトピックの一つは「自律的な主体としての個人」である。現代のリベラルにおいては、理性的かつ自律的な「主体」としての人間が、ドミナントな価値とされていると考えられている。私の理解では、近代的主体と自我を発見したのはルネサンスでありデカルトである。ホッブズ、ロックら古典的リベラルが前提とするアトム的な個であれ、それを批判した藤原保信やC・テイラーらコミュニタリアンが前提とする共同体に埋め込まれた自己であれ、こうした近代的主体の論理が少なからず共有されているとみられる。

 だが、このような主体観は、ケアの倫理や環境保護運動の観点からの徹底的な批判に耐えうるものなのだろうか。何よりも、生の意味の喪失(「神は死んだ」(ニーチェ)?、「脱魔術化」(ウェーバー)?)を乗り越える力を内在的に有しているのか?このような近代的な主体概念が持っているさまざまな特質について理解するとともに、それによって生じた社会問題についても考えたい。

 この問題を整理するにあたって参考になりそうな文献は、C・テイラー『自己の源泉』、フーコー「自己のテクノロジー」などか。

 また、「啓蒙」の問題にも関心がある。西洋中心主義が批判され、単線的な進歩史観が幻想と見做される現代においても、依然として「文明と野蛮」の図式、そして「人間は進歩する」という信念は放棄されていないように思われる。そして、恐らくこの信念を支えているのは、自己批判の精神としての「啓蒙」である。果たして「啓蒙」は、未だ積極的な擁護に値する価値と言えるだろうか?

 この問題を整理するにあたって参考になりそうな文献は、杉田敦「啓蒙と批判」(『権力論』)、山脇直司「啓蒙理解のゆくえ―フーコーとハーバーマス、社会哲学の変容」(『思想』)、ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」、フーコー「啓蒙とは何か」あたりか。

第二の課題:近代批判の思想史

 第二の課題は、近代的価値に対する批判のヴァリエーションを把握することにある。近代批判を展開した文献を読み解くことによって、「西洋近代とは何か」という問題を考えたい。特に必要な作業は三つある。

 一つ目は、マルクス・ニーチェ・フロイトという、19世紀末から20世紀初頭にかけての近代批判の内実を理解することである。これらの思想家による近代批判が20世紀の哲学に対して持っていたインパクトは、相当なものであったのではないかと推察する(内田樹『寝ながら学べる構造主義』など)。

 二つ目は、20世紀哲学史の大きな枠組みを獲得することである。アドルノからハーバーマスへと連なるフランクフルト学派、構造主義から始まるフランス現代思想など、様々な思想家・思想潮流の名前を挙げることができるが、それらの関係を位置づけるには至っていない。『哲学の歴史』『講座岩波 20世紀の哲学』等を用いながら、20世紀の哲学の見取り図を描きたい。

 三つめは、こうした20世紀後半の近代批判の思想の内実を理解することである。目下のところ特に関心があるのは、アドルノ=ホルクハイマー(『啓蒙の弁証法』)、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ(『アンチ・オイディプス』)、人類学などである。

その他

 近代と近代批判について、その総体を理解するためには哲学史以外のアプローチも欠かせないだろう。すなわち、建築、美術、文学、テクスト解釈等である。


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