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エッセイ「付き合ってはいけない友達」

彼と出会ったのは小学校に入学したての頃である。

入学式の次の日は、プレの授業日で学活が2時間ほどあってすぐ下校する日だった。帰り道に、よく知らない数人の塊で下校しようとしたとき、級外のおばさんの先生にみんなが興味を示してしばらく雑談していた。
あとから思うと、そのおばさんの先生はかなり厳しい人で、一ヶ月もすればその先生の前ではふざけられなくなっていた。

先生の名前を当てるというくだりになり、誰かが「肩たたたたたたたき先生」と叫んだ。なんだそれは。
「肩叩き」という言葉に触発されたのであろう彼は、先生の腹部をボコスカと殴り始めた。もちろん、先程までニコニコしていた先生は裏表のある仮面かのように形相を変え、彼を怒鳴るように叱った。
幼稚園の先生は、最初の1週間くらいは何をしても怒らないものであった。それをヒヨコの僕たちは「天国の一週間」と呼んでいた。その考えを初日で崩してきた小学校という場所に、僕たちはすっかり恐ろしさを抱いて、泣いている彼を尻目にすぐにその場を離れた。

およそ1ヶ月の学校生活だけで、彼は普通の子とは違う、というのは容易に推測できた。社会常識の欠如、破天荒、いたずらや意地悪。ヤンチャな子供、悪く言えばクソガキだった。あまりの良識の無さに僕は(この子は幼稚園に通ってなかったのかな)と思って幼いながらに軽蔑していた。

2学期の係決めで、僕は保健係を選んだ。保健係は、毎朝みんなの前に立って健康観察をしなければならない。「〇〇さん」「はい元気です」というヤツだ。皆さんも覚えがあるのではないだろうか。
その係に彼と二人で就くことになった。

当時から僕は太った子供だった。年長あたりからお菓子の食べ過ぎで太り始めたのだ。そして、僕は今も変わらないが引っ込み思案で根暗だった。

彼は係で一緒になった僕を認識してから、僕のことを「ゴリラ」とからかうようになった。物凄く嫌だったが怖くて嫌だと言えなかったので、渋柿を食べた時のような嫌そうな顔で抵抗したものだ。彼は先生に怒られるようになると、先生のいないところだけで僕をゴリラと呼ぶようになった。
このとき、僕は初めていじめを経験した。

保健係で健康観察をするとき、お互いの名前はもう片方が呼ばなければならない。その時に、みんなの前で彼が「(苗字)ゴリラさん」と僕のことを呼ばないか、いつもヒヤヒヤしていた。だから、毎日の朝の会が憂鬱だった。
そして一度だけみんなの前で実際にそう呼ばれたことがある気がする。その時はみんなにゴリラと呼ばれてることがバレた恥ずかしさと、自分への情けなさで何も覚えていない。先生が彼を叱ったかどうかさえも。

周囲のクラスメイトは、すぐに彼を危険人物扱いし、離れるようになった。友達のいない彼は、僕ばかりを遊びに誘うようになった。今思うとイヤと言うことができない僕の性分に漬け込んで、狙って遊びに誘っていた。僕から遊びに誘ったことは一度もない。
その遊び方はまちまちだった。

駄菓子屋に行って侍の格好をした犬のシールを大量に買って、恐らく難読症だった彼が「この文字は」「この文字は」と言って延々と僕に読ませる通訳ごっこ。

メモ用紙に想像で女性器の絵を書いて川に流す遊び(紙を流したことがバレて親に大目玉を食らった)。

何も知らない僕に執拗に性的な言葉を教えて親のパソコンで調べさせる遊び。(次の日正確に答えられないと「デブ」と罵倒される)

書いてて思ったが、自分を手放しに被害者ぶって擁護することはできない遊びもいくつかあった。

私の両親は彼に付き合って遊んでいる僕を心配していた。説得されるたびに僕は(付き合いを絶ちたきゃとっくに絶っている)と思っていた。そして、不運にも両親が平気で他の家の子供も叱れるタイプの大人だったため、頻繁に彼を叱り、そのしわ寄せは全て子の僕に来た。無関心主義の現代こそ美徳とされているが、他の家の子供を叱れる親も考えものだ。

ある日、彼が持っていたビー玉を僕がうっかり排水口に落とした時は、「500円するビー玉だ」「警察に言うぞ」と詰められ、母親に「赤い羽根募金をするから」と嘘をついて毎日50円玉をもらって10日間かけて返した。「実は1000円のものだ」と言われたときに断ることができた自分を偉いと思う。その時に金額を釣り上げた言葉のおかげで、あのビー玉は500円のものではないと確信を得て、自分自身の罪悪感は完全に消え失せた。

そして、4年生の頃に事件は起こった。
当時はクラス中でベイブレードが流行っており、僕もその例外ではなかった。そして「グラビティペルセウス」という黒光りしたかっこいいベイをイトーヨーカドーに1時間並んで手に入れた。その自慢話が回り回って彼の耳に届き、「見せろ」という話になった。
数時間近所の公園にスタジアムを持ってきて、彼とベイブレードで遊んで帰った。家に着くとすぐに、グラビティペルセウスが無いことに気づいた。僕は(無くした)と思ったが、親は思い当たる節があったのだろう、すぐに連絡網から彼の電話番号を探して、件のことを彼の親に伝えた。親がどこまで脅したのかは分からないが、ビビったのか、「偶然バッグに紛れ込んでいた」と、彼が見苦しい言い訳とともにグラビティペルセウス返しに戻ってきたのだ。まさに5ちゃんで言われる「あっくん」のようである。
カラオケで財布を忘れたら戻ってこない時代である。返ってくることは奇跡に近かった。
そしてこのパクられかけ事件を皮切りに「彼とはもう二度と遊ぶな」と強く言われてしまった。僕もこれに懲りて、クラスが離れたこともあり彼とは徹底的に距離を置くようになった。

小学校6年生のとき、彼は隣町の小学校に転校した。皆が口を揃えて「あいつがいなくなってよかった」と言っていた。もちろん僕も心のなかで賛成するのと同時に、転校して誰からも悲しまれない存在も珍しいなと思った。

中学校にあがると行動範囲が広がったのか、たまに校区内で見かけることがあった。
高校に入ったのかは知らないが、しばらくしてバッドテイルといった名前の不良集団に入っていたことを人づてに聞いた。そこからの彼は知らない。

今の僕は、彼のような人間に出会ったときに「NO」と言うことができるのだろうか。きっと言えないだろう。昔の嫌な思い出とは反対の行動をしようと思っても、性格が捻り切れそうなほどに悪くなっても、結局イヤと言えない俺の性質の根本は変わってないのだ。

だから、彼のことをふと思い出すたびに、小学生の頃の引っ込み思案でおとなしい、可哀想な自分に申し訳が立たない。

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