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10-4.背景

遠征の公式計画は地形の研究、気候、地理、地域の文化を含め、地方の有力者と接触し、ドイツの代表を設立することであった。遠征隊の目的の一つは、チベットはアーリア人の発祥地であったかどうか決定するという主張があった。ドイツ人とアーリア人を結ぶアーリアン学説というものがある。元々は言語面の類似性による区分けに過ぎなかったインド・ヨーロッパ語族を、ドイツ人学者のマックス・ミュラーが同属意識を持つ民族共同体であると主張した事に始まる。ミュラーは己の考えるその民族に、インド・ヨーロッパ語族の一派でイラン高原とインド亜大陸に侵入し、諸文明を築いたとされる集団の自称「アーリア」(「高貴な者」の意)の名を冠してアーリア人と名付けた。ドイツナショナリズム勃興期の指導者達は自民族の優等性を主張する一環として、インド・ヨーロッパ語族に属する諸民族の中で最も優秀なゲルマン民族こそがアーリア人であり、従ってゲルマン人の正統な末裔たる自分達こそが名乗るにふさわしい民族名であると唱えた。こうした「ゲルマン人=アーリア人」的思想の影響を受けた者はゲルマン人をアーリア人と呼称した。
人類学者ブルーノ・ベガーによる頭蓋の測定値の取得や地元の人々の顔の特徴の作成には、疑惑を放散するためにほとんど何もしなかった。チベットの地方に連絡することを意図し、5研究グループは神聖な都市ラサとシガツェを訪れた。さらに戦時中の困難を伴うグループは、チベット当局、人々に連絡することができなかった。
彼らはドイツに戻って、例えば曼荼羅のようにチベットの神聖なテキストの完全版であるカンギュール(108巻)と他の古代の文書を持ち帰り、アーリア人の人種についての疑惑の文書を主張した。これらの文書は、アーネンエルベ内に公文書として保持された。チベット人要人の部屋に白と黒で飾られたSS旗、スワスティカとチベットの旗と共にシェーファーや同僚との何枚かの写真が存在した。その他はポタラ宮殿を背景のシェーファーや、他のグループのメンバーはチベットの山々の研究を実施したことを見せられた。

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