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7.2回目の受験

河合塾大阪校と総合美術研究所を掛け持ちしていた1年目の浪人時代も、あっという間に1年が過ぎていき、再び受験の季節がやってきた。志望校は、相変わらず東京藝術大学美術学部建築科だけであったが、総合美術研究所の講師や河合塾大阪校の事務員の勧めもあって、金沢美術工芸大学も一応受験することにした。その前にやるべきことは、この年から共通一次からかわったセンター試験を受けなければならない。奈良の実家に帰っている私のセンター試験会場は、もはや函館ではなく、奈良女子大学だった。
奈良女子大学は、1908年に女子中等教育における女性教員養成機関として開設された奈良女子高等師範学校をその前身とする女子大学。1949年、国立学校設置法の公布により発足した。また、2004年10月に施行された国立大学法人法により、新たに国立大学法人奈良女子大学として設置された女子大学で、国立の女子大学は奈良女子大学とお茶の水女子大学の2校だけである。
試験当日の朝は、実家の車で奈良女子大学まで送ってもらった。大学周辺には既に受験生が多く屯していた。試験に当たっての緊張はない。東京藝術大学美術学部建築科のセンター試験の科目は英語と国語だけであったが、一応、全科目受験してみることにした。まあ、センター試験レベルなので、文系科目の英語・国語・社会(世界史)は難しくなかったが、やはり理系科目の数学と理科(物理)はよくできなかった。そりゃそうである。河合塾大阪校の国公立理系コースにもかかわらず、数学・物理の学科の勉強はしていないのだから。予備校の英語の授業も、テキストとは関係のない、紀伊国屋梅田本店で買ってきた英語のエロ小説の原書を辞書片手に読んでいた。受験生が必ず行う自己採点もしなかった。まあ、大学受験をとことん舐めていたことになる。
そして迎えた本試験(二次試験)。まずは、約束通りに金沢美術工芸大学デザイン科環境デザイン専攻を受験することにする。
金沢美術工芸大学は、1946年に金沢市が法人として設置された金沢美術工芸専門学校(1950年より金沢美術工芸短期大学)を母体として1955年に設置され、ほかの多くの国公立芸術大学とは異なり、音楽学部を持たない。また、1専攻1学年あたりの学生数が15〜25人、全学生数も600〜700人程度と非常に少なく、人数的な規模の小ささは全国の美術大学でも随一である。デザイン科環境デザイン専攻はあるが、人のスケールを基本とした内部空間・インテリアデザインに軸足をおいており、その考えに基づいてデザイン・設計を計画、実施するカリキュラムが柱となっている。そのためのデザイン演習の題材はショップ・ディスプレイデザイン、展示会やイベント、住宅や公共を目的とした施設、またそこで使用される設備、器具等や家具類で、厳密には建築科ではない。正直な気持ちとしては、「なんだかな~~~」である。
そういうわけで、とりあえずJR西日本で現在運行されている特急「サンダーバード」の前身にあたる特急「雷鳥」で金沢に向かった。金沢に着くと、とりあえずホテルのある香林坊へ向かう。地図を持たずに駅から感だけで歩いて行った。
香林坊は、古くからの金沢市の中心商業地であり、1986年、市街地再開発事業である香林坊アトリオのキーテナントとして、宮市百貨店を前身とする大和が香林坊に移転したり、同時期の市街地再開発事業でKOHRINBO109の誘致や、香林坊周辺のタテマチストリートの整備によって、若者の集まる街になっていった。香林坊をちょっとうろついたついでに、石川近代文学館に立ち寄った。
石川近代文学館は、1968年旧第四高等学校の図書館の書庫であった建物を利用し、室生犀星の研究家であり石川県立図書館の司書であった新保千代子を館長に迎え、日本近代文学館に次ぐ、日本で2番目の総合文学館として開館。1986年に、隣接する旧第四高等学校の建物を利用していた石川県立郷土資料館が本多の森公園に移転拡張するのに伴い、現在地に移転。当時は建物全体を使用し、11の常設展示室と特別展示を行う特別展示室のほか、旧第四高等学校の記録を保存した3つの四高記念室があった。展示は主に、石川県の風土と文学の関係、特に、金沢の三文豪と呼ばれる泉鏡花、徳田秋声、室生犀星の同時代性や相互の関わりが解説されていて、常設展示室では、三文豪をはじめ加賀、能登、金沢の作家の著作や遺品などを展示。文学サロンは、東京・馬込にあった室生犀星の書斎が復元されている。
石川近代文学館の見学を終えた私はホテルにチェックインした。本来であれば、翌日の受験に備えて、受験会場である金沢美術工芸大学の下見をすべきであったが、そんな気分ではなく、適当にテレビを見たあとは、夕食をどこで食べるか、香林坊の周辺を歩き回った。本当なら、金沢生まれの作家井上雪の小説「廓のおんな」で物語の舞台となっているひがし茶屋街と呼ばれる重要伝統的建造物群保存地区でそれなりの美味しそうな料理屋さんで食べたかったのだが、あまりにも値段が高そうだったので諦めた。
日が暮れても香林坊の周辺をウロウロしていた私は、とある雑居ビルに入っていたフランス料理屋に入ることにした。金沢でフランス料理は無粋かもしれないが、日本料理には手が出なかったので仕方がない。その店は、ピアノの生演奏が聴ける、ちょっと小洒落た店ではあったが、可もなく不可もなしと言ったところで、雰囲気もイマイチで、私はどうもこういう気取ったお店が苦手のようだ。酒を飲むなら大衆居酒屋でも良かったと思う。
翌日になり、金沢美術工芸大学の試験当日になったが、全然受験する気にならず、試験をサボって石川県立美術館へトボトボ歩いて行った。
石川県立美術館は、1945年10月、石川県美術館として金沢市本多町の旧北陸海軍館を改装して開館するが、同年末占領軍によって接収されるが、1959年谷口吉郎の設計により同名で開館。1983年に近接する現在地に移転と共に現在の名称に改称されて、石川県にゆかりのある作品を中心に収集している。展示室が、第一から第九まで分かれていて、前田育徳会尊経閣文庫分館を加えれば10室になる。第一展示室には野々村仁清の手による国宝「色絵雉香炉」と重要文化財「色絵雌雉香炉」の二点が展示され、前田育徳会尊経閣文庫分館は前田氏の文化財を管理する前田育徳会(本部は東京都目黒区)が所蔵する尊経閣文庫の美術工芸品を月毎にテーマを決め展示されている。
石川県立美術館のあとは、せっかく金沢に来ているということで、近くの兼六園に行った。
兼六園は、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで誰もが知っている日本三名園の1つに数えられ、17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、園名は、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから白河楽翁(松平定信)が宋の詩人・李格非の「洛陽名園記」を引用して命名したもので、四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっていて、県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。庭園の中に、明治紀念之標として日本武尊像があったので、不思議に思って調べてみると、西南戦争での石川県戦死者400人を慰霊するために、西南戦争を九州の熊襲を平定した日本武尊になぞらえ建立された慰霊碑とのことである。なお、この日本武尊像には、「ハトが寄り付かない」という逸話があり、金沢大学名誉教授の廣瀬幸雄は、このことを研究対象として、像の構成要素を調べることで「鳥を寄せ付けない合金」を開発し、2003年のイグノーベル賞を受賞したそうである。
さて、石川県立美術館と兼六園を見終わった私は、金沢にはもう用はなく、かと言ってすぐに帰ると親に不審がられると思って、特急ではなく、普通電車で金沢から京都まで帰ることを思いつき、金沢駅でカニ飯を買うと、停車していた京都方面行きの普通電車に飛び乗った。
何度か乗り換えて、敦賀、近江塩津まで来たが、ここで北陸本線を利用するか、湖西線を利用するかで道が分かれる。私は迷いなく、景色のいい湖西線ルートを取ることにした。しかし、湖西線は電車の本数が少ない。そのため、近江今津のあたりで、かなり長い時間の電車待ちをしなければならず、京都についた頃は夜8時ころだったと思う。
金沢美術工芸大学の受験をサボったことは、多少良心の呵責もあったが、気持ちは100%東京藝術大学美術学部建築科受験に向かっていた。
さて、今回私が東京で宿泊したのは、大井町駅前の、今ではアワーズイン阪急と名前を変えている阪急系のビジネスホテルだった。部屋にはトイレはあるが、浴室はなく、その代わり、最上階に大浴場があった。受験会場の東京藝術大学も、京浜東北線一本で、便利だからと余裕でいたら、もうちょっとで試験に遅刻するところだった。こういう時の電車の中は苦痛である。新橋あたりから上野まで、妙に長く感じられた。上野駅から東京藝術大学まで走ってギリギリセーフだった。
2度目の東京藝術大学美術学部建築科の1次試験の立体構成のテーマは、「球が宙に浮いているように立体構成せよ」である。去年に比べたらかなりの難問である。材料も、スチレンボードからダンボールに変わっている。材料の違いはどうということもなかったが、「球が宙に浮いている」をどう表現するかで悩みまくってしまった。何枚もスケッチしてみるのだが、何も思いつかない。それなのに、どんどん時間だけが去っていく。それでもなお、何も思いつかない。今回は、周りの受験生がどんなものを作っているのかを観察する余裕もなかった。どれを見ても参考にならないのである。苦肉の策で、サッカーのワールドカップのトロフィーのようなものを作ってみたのだが、はっきり言って、課題のテーマとはかけ離れている。せめてもの、少しでも球が浮いているようには作ったものの、トロフィーはトロフィーである。それ以外の何物でもない。
完成はしたものの、気分はどんより、「今年もダメだった」である。
合格発表は、金沢美術工芸大学は受験していないのだから受かっている訳もなく、東京藝術大学美術学部建築科も、親の手前、見に行ったのだが、当然のように私の受験番号はなく、これで私の2年目の浪人生活が決定した。


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