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6. ゲリラの誕生

カム地域の人々は残忍な中国の残虐行為を容認することが出来なかった。そして武器を持って中国に対して立ち上がった。しかし、まとまりがなく、整備も整っていないレジスタンスの戦士たちは彼らを圧倒して紙の上に油滴のように自国の領土と広がりを把握した強大な中国軍を撃退することができなかった。
中国は1955年、カムを西康省蔵族自治区からカンゼ・チベット族自治州に格下げし、四川省の一部とした。人民解放軍は各地で住民から武器回収を実施した。例えばリタン(康定の西100km)にもやってきて、僧院に所持している武器を提出するよう命じた。当初僧院が拒否したため、人民解放軍は僧を庭に連れ出し、民衆の前で武器を提出する様子を見せ付けた。この光景にリタンの住民は強いショックを受ける。
決定的だったのは中国共産党政府がチベットの宗教を「有害」と見なして一切の寺院と僧侶を除去すること、そしてあらゆる神が搾取の道具だということを宣言したことである。その結果、1956年6月には、アムドやカム東部で当地の多くの成人男性が山岳地帯のゲリラ組織に加わり、反乱が発生した。同年、リタン、デルゲ(中国四川省とチベットの間で茶と馬を交換する交易の通過地であった。一方ではデルゲ土司が支配した小王国であり、昔から独立志向が強い地域だった。1448年には第1代デルゲ王ボタル・タシ・センゲと行者タントン・ギャルポがサキャ派の寺デルゲ・ゴンチェンを創建する。また、18世紀のデルゲ王テンパ・ツェリンはチベット大蔵経のデルゲ版を完成させている。経典を印刷するデルゲ・バルカン(徳格印経院)があり、1729年に創建されたこの建物は4階建てで、僧侶たちが多くの経典や注釈を現在も木版印刷で彫り続けている)、カンゼ、ニャロン(ダルツェンドの北西200km。中国四川省カンゼ・チベット族自治州中部に位置する県。チベット高原の東部に位置する、高山と峡谷を中心とする地勢の県で、特に沙魯里山脈の北部が走る。雅礱江が北から南へ貫き、途中多くの支流が合流する。海抜は雅礱江の峡谷の底の2,760mより沙魯里山の高峰の5,992mまでにわたる)など、各地で反乱が発生し、その兵力は6万にもなった。
当時のチベットにはパタン、リタン、カンゼ、デルゲに中国人民解放軍の駐屯地が設置され、約4万名、民兵を加えれば6万の戦力が配備されていた。チベットのカンパ(=カムの人の意)たちは駐屯地を接続する交通路に対して継続的な攻撃を加え、兵站路を破壊した。それに対して中国人民解放軍は、兵4万、民兵6万の戦力で東チベットの平定に当たった。これほど大規模の軍事行動になったのは、チベットへ通ずる道路があらかた完成したために毛沢東が武力平定を決意したからとも言われる。
リタンが最初に陥落し、守備部隊は撃破された。続いてパタン、チャムド、デルゲにも攻撃を加えてこれらを占領した。詳細は不明だが、ゴロク族の部隊は中国人民解放軍の3個連隊を殲滅したと推測されている。一時的には、中央チベットに繋がる道路は中華人民共和国西部からアクサイチン砂漠を越える一本だけになった。
リタンでは、ユンリ・ポンポを指導者として住民が僧院に立て篭もり、人民解放軍はそれを包囲した。リタンの住民はゲリラ戦を展開し、人民解放軍の水源を断ち、時には逆に水攻めにした。これに対して人民解放軍は爆撃を決意し、その前に降伏を勧める使者を送った。リタン住民は相談の上、降伏するとしてユンリ・ポンポを人民解放軍に送り込んだ。ところがユンリ・ポンポは隙を見て人民解放軍の司令官を射殺、人民解放軍はリタンに爆撃を開始した。イリューシンの爆撃によってリタンの僧院は壊滅、地方総督が殺害された。複数の座主が首を切られ、生存者は拷問にかけられ、数百名がその結果亡くなった。遺体は共同墓地に放り込まれ、連行された者も多かったが、その後の行方はわからなかった。
ニャロンでは、ドルジェ・ユドンという若い女性が主体となって人民解放軍と対峙し、中国兵600のうち400を殺害した。人民解放軍は兵2万を投入したためニャロンのチベット人はゲリラ戦を展開した。この戦闘で、人民解放軍は2千の損害を被った。
それに対する人民解放軍の行動は、もはや治安回復と呼べるようなものでは無かった。人民解放軍兵士により妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦された。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小舎にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦と性交を強いられたりもした。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴にほうり込まれ、村人はその上に小便をかけるよう命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。怯える子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて共産中国の学校や孤児院に強制収容されていった。
貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小舎にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊された。リタン省長は村人が見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出され、そのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたのだ?」と人民解放軍兵士に嘲られた。
国際法曹委員会報告書は、「1956年終わり頃までに、ある地域でほとんどの男は断種され、女性は中共兵に犯され妊娠させられていった。ある村では25人の富裕な村人が人びとの前で生きながら焼き殺された。また別の村では24人の親が、子供を共産中国の公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で目に釘を打ち込まれ、虐殺された」と記している。
恐怖政治は止むことなくつづき、共産中国はまったく新しい残酷社会をチベット中に滲み渡らせていった。この残虐行為を止める者はおらず、もし地獄がこの世に存在するとしたら、それは正に1956年の東チベットそのものであった。1955年から56年にかけて、アムドとカムでは、不妊処置や人工中絶が強いられた。反逆者の芽を摘むためであろう。多くの証人が児童の拉致を強調している。伝聞情報ではあるが少なくとも3千人から5千人が死亡したとされる。
1957年にはチベット全土に展開する人民解放軍は20万にのぼり、うち15万が東チベットに配置された。なお、人民解放軍から脱走する者も多く、中にはチベット側に寝返る者さえあった。
中国は東チベットに大きな影響力を持つカルマパ16世に仲介をさせて一時休戦となったが、結局はまた反乱となった。各地で多くの人民解放軍兵士がチベットゲリラに殺害された。1956年から58年の間に人民解放軍は4万の兵を失ったとされる。人民解放軍が支配しているのは拠点ぐらいであり、間を繋ぐ道は人民解放軍にとってはゲリラが支配する「死の道」であった。しかし、アムド・カム東部における蜂起の成功は一時的なものにおわり、敗残のゲリラたちは、大量の難民とともに徐々に中央および西チベットに向かって後退した。

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