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空白の五マイル

目覚めたのは早朝5時だが、朝食に昨日、ヘルパーさんに作ってもらったミルフィーユを食べてテレビをボーッと見ていたらウトウトしてしまい、ベッドから再度起き上がったのは8時になった。断酒5日目。
読書の方は、「あやしいチベット交遊記」をあっという間に読み終えて、角幡唯介の「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」を読み始めた。実はこの著者、高校の後輩である。32期なので、私より7歳下だ。同窓会のホームページを見てみると、書店員がいちばん売りたい本を選ぶ「本屋大賞」に、ノンフィクション部門が創設され、11月8日、「Yahoo!ニュース 本屋大賞 ノンフィクション本大賞」の受賞作が発表され、角幡唯介(32期)の「極夜行」が選ばれたという記事があった。「極夜行」(文藝春秋 1890円 2018年2月刊)は太陽が地平線の下に沈んだまま姿を見せない北極の冬を、一頭の犬とともに過ごした4カ月の壮絶な記録である。「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」はまだ冒頭の部分しか読んでないが、早稲田の探検部にいたとき読んだ金子民雄の「東ヒマラヤ探検史―ナムチャバルワの麓「幻の滝」をめざして」が運命の本になったという。
さて、世界最大のツアンポー峡谷については今まで何人ものパンディット(19世紀後半の英領インドでイギリスのためにインドの北方地域での探検・踏査に従事した現地出身者で、秘密裏に測量を行う訓練を施され調査を行った)や探検家たちが挑んできたが、まだ全貌は明らかになっていない地図上の空白地帯である。まず、ツアンポーであるが、源流はヒマラヤ山脈の北側で、マーナサローワル湖から流れでてチベット高原南部を東進するチベットを代表する大河ヤルンツァンポ川のことである。私はこのヤルンツァンポ川に沿ってコンカル空港からチュシュルまで、さらにチュシュルからシガツェまで遡ったことがある。広いところでは川幅数キロの大河である。チュシュルには大きな橋が架かっているが、それ以外はヤクの革で作ったコワという渡し舟や、平底の車も乗れるフェリーでしか渡れない。最近は、チュシュルを回らくてもいいショートカットのトンネルができており、新たな橋が架かっているとのことである。
この川は謎に満ちていて、チベットを横断した後、ナムチャバルワ(7,782m)とギャラペリ(7,294m)の間の峡谷部で大きく南に流れを旋回し(ツアンポー川の大屈曲部)たあと、この川がヒマラヤの山中に姿を消し、どこに流れるかは長らく謎であった。長いあいだ、下流はミャンマーを流れるイラワジ河か、アッサムを流れるブラマプトラ河かという論戦が繰り広げられていた。この探検史を簡単にまとめると以下のようになる。
アッサムの測量責任者であったヘンリー・ジョン・ハーマンはネム・シンとキントゥプに峡谷を探検させ、1884年キントゥプはペマコチュンまで到達後、ツアンポー川がアッサムに流れこむことを証明するために印をつけた500本の丸太を川に流したが、ハーマンは病気のためインドを去っており、流された丸太を発見し証明することはできなかった。キントゥプの報告書には45mの大滝があるとの記述があったが、キントゥプは文字が書けず、口話での報告を書類にまとめる際に誤って解釈されたものだった。ツアンポー渓谷の標高とアッサムの標高との比較からすればこの間に1000m以上も標高を落としており滝があっても不思議はないと思われた。ここからツアンポー峡谷の大滝の伝説が生まれた。
1913年 フレデリック・M・ベイリーの探検によりツアンポー川がアッサムに流れ込みブラマプトラ川となることを証明した。
1924年 フランク・キングドン=ウォード、コーダー卿が峡谷の無人地帯を突破しふたつの滝を発見。峡谷の残りの空白部は5マイルであると報告した。空白地帯の上流部に虹の滝、下流部にプラマプトラの滝を報告した。このフランク・キングドン=ウォードは変わった人で、元々はチベット奥地、ビルマ北部等における調査探検の中で、英国の寒冷な気候に耐える植物を数多く採集したプラントハンターで、サクラソウやシャクナゲ、愛好家の心をとらえてやまない青いケシ、そして茶、棺の木などの様々なエピソードを記した「植物巡礼―プラント・ハンターの回想」で有名である。ただ、そのプラントハントをする中でツアンポー峡谷の奥に入り込み、その探検しをまとめた「ツアンポー峡谷の謎」の方が有名なのではないだろうか。この残り5マイルに、もう滝は無いだろうというのがフランク・キングドン・ウォードの見解だったが、これを自身の手で確認しようと考えたのが、早稲田大学探検部に所属中の角幡唯介である。
1993年カトマンドゥ在住のチベット仏教研究者のイアン・ベイカーが遂に未踏査地帯の一部を踏破する一方、ブリーシヤーズが空白地帯上流部の虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝を発見するなど、「空白の5マイル」は次々と解明されていく。同年、何度もエベレストに登頂し、熟達した映画製作者で冒険家、作家、登山家、プロの講演家を自称するブリーシヤーズが空白地帯上流部の虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝を発見。
2002年角幡唯介が未踏査部を探検。新たに未知の滝と巨大洞穴を発見した。
ツアンポー峡谷へは1993年に日本のNHKと中国との合同の遠征隊が派遣され、ツァンポー河をカヌーで下る計画があったが、ツァンポー河本流でのカヌー下りは、川の落差と水流の激しさから全く不可能で、支流のポー川で行われた。しかし、そこでも事故が起きたのだ。NHK隊の武井義隆さん(早大カヌークラブ)が、支流のポー・ツアンポー川で遭難して亡くなっている。ツァンポー河の9月の平均水量は毎秒4000トン、激流で有名なアメリカのコロラド川の2倍である。1998年にはナショナル・ジオグラフィック隊による遠征があったが、ダグ・ゴードン隊員が遭難死した。
ヤルンツァンポ・グランド・キャニオンとも呼ばれる雅魯蔵布大峡谷は、ナムチャバルワ付近でチベット高原から流れ出る際に馬蹄形状に流れが湾曲し、世界で最も深く、また最も長いと言えるかもしれない峡谷が刻まれているものである。
ヤルンツァンポ川の経路上には、3か所の大きな滝がある。最も大規模なものは、「秘密の滝 (Hidden Falls)」と称され、1998年に至るまで西洋には広報されておらず、西洋人による目撃が「発見」と称されることも、短い期間ながらあった。このような目撃は、初期にこの地域に接した西洋人たちが、チベット人の猟師や僧侶から話を聞かされながら、当時の西洋人探検家たちが発見できなかった大きな滝の発見とされたこともあった。しかし、中国当局は、そのような主張に対して抗議し、中国側の地理学者たちが1979年以来、峡谷を探検し、1987年には滝の写真をヘリコプターから撮影していたと指摘している
角幡唯介が最後にツアンポー峡谷の探検を行ったのは2009年で、そのときにはすでに中国の経済発展の波はこの辺境の最果てにも及んでおり、峡谷の周辺で進む観光整備事業と、地元のモンパ族のハンターが数台の携帯電話を操るのを見て、地理的探検の最後の一滴がすでにはじけ飛んでいるのを実感したそうだ。後に著者が知ることになるのだが、中国政府はツアンポー峡谷一帯を自然公園にし、その生態系を後世に残すために村人の強制移住を進めているあたり、昨今のチベット事情が垣間見える。

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