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4. 抵抗の再開

1952年3月には、17か条協定の撤回と「解放軍」のチベット撤退を要求する人民会議事件が発生し、早くも共産中国はラサで抵抗にあう。中国軍の長期駐留は、地元との軋轢の原因となり、人民解放軍は1952年にはアムドの町ジェクンド(中国青海省玉樹チベット族自治州玉樹県)を破壊した。
また、ゴロク(中華人民共和国青海省に位置するチベット民族の自治州。チベット名ゴロク・プーリー・ランキョンクル。チベットの伝統的な地理区分ではアムド地方の南部に相当する。中心都市はマチェン)ではチベットの中でも辺境にあり、当時、10万人のチベット人・ゴロク族が住んでいた。彼らは元々中央チベットにすら反抗的であった。そこへ中国から数千人の中国農民が入植してきて彼らの牧草地を農地に変えてしまったため、ゴロク族は僧俗問わず武器を取って中国農民に襲い掛かった。1954年、人民解放軍はこれを力で押さえ込もうとして、兵3千を投入して僧院を焼き払ったため、たちまち戦乱に発展した。
当初は騎馬を駆使し、武器の扱いにもなれたゴロク族の兵2千に有利に進んだ。人民解放軍はゴロク族の罠に誘い込まれては次々と殺されていき、800人を失ってしまった。これに対して人民解放軍は殲滅戦を展開し、ゴロク族の居留地を襲って老若男女を問わず数千人を殺戮した。ゴロクはチベットの中でも僻地だったため、この事件は長らくチベットでさえ知られることはなかった。
1955年3月9日。「チベット自治区準備委員会」が設立される。同時にカム地方において、反中国の反乱が巻き起こった。中国が強引に強行した急速な民主改革に対して反旗を翻したのである。中心になったのはリタン、パタン、デルゲ、チャムド、カンゼの住民達である。彼らに支援されたレジスタンスはカム地方の各地でゲリラ戦を展開し、殺戮戦を始めた。これに対して人民解放軍は容赦のない攻撃を加え、僧院を破壊し、僧侶を殺戮し、子供が親を反逆者として銃殺するように強要した。

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