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レトロ・フューチャー

これも遡った話で恐縮だが、浦達也の「レトロ・フューチャー」を読んだ。本書は、80年代から90年代初頭の時代の気分とシンクロさせながら、メディアとコミュニケーションの変貌について考えてみたエッセイのアッサンブラージュである。この期間は表層的に観察しても、刺激と喧躁のバブル文化から、世界の秩序が短期間に一変する大激動であったが、同時にメディア・テクノロジーが人間の内部世界へ迫るという、日常世界の常識を超えた、いかにも千年紀末らしい様々な局面を露呈している。
初っ端からメディアの近未来系の話の中でサブリミナルが出てきて嬉しくなってしまう。サブリミナル効果とは、意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与えることで表れるとされている効果のことを言い、視覚、聴覚、触覚の3つのサブリミナルがあるとされ、閾下知覚とも呼ばれる。視覚に対するサブリミナルは20世紀半ばにはマーケティング業者が広告にその技術を用い始めたが、うまくいかなかった事例も見られる。1973年には、ゲーム「Hūsker Dū?」の宣伝にサブリミナル刺激が用いられ、それが使われたという事実がウィルソン・ブライアン・キイの著書で指摘されたことで、米国連邦通信委員会で公聴会が開かれ、サブリミナル広告が禁止されることになった。日本では1995年に日本放送協会(NHK)が、1999年に日本民間放送連盟が、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化した。1957年9月から6週間にわたり、市場調査業者のジェームズ・ヴィカリーは、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に実験を行なったとされている。ヴィカリーによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写[10]したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたことは有名な話である。
先に挙げたウィルソン・ブライアン・キイに関しては、サブリミナル広告やサブリミナル・メッセージなど、マインドコントロール理論に関する著作を残した著述家であり、彼の著書、「潜在意識の誘惑」と「メディア・セックス」、「メディア・レイプ」は私も持っている。
続く「サイバーメディアは生体を変えるか」では、ロス五輪でのバイオ・フィードバックなトレーニング・システムが取り上げられ、「アイソレーション・タンク」や「フローティング・カプセル」に言及している。
「アイソレーション・タンク」は、感覚を遮断するための装置であり、光や音が遮られた空間で、皮膚の温度に保たれた高濃度のエプソムソルトの塩水に浮かぶことで、皮膚感覚や重力の感覚を大きく制限することができる。リラックスを目的として、また心理療法や代替医療として使われている。1990年代以降はヨーロッパを中心にフローティング・タンクと呼ばれることが多い。遮断タンク、瞑想タンク、サマディ・タンクとも呼ばれる。アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)にて研究していたジョン・C・リリーが、1954年に感覚遮断の研究のためにタンクを考案した。1950年代には感覚遮断の研究から注目され、体験は次第に神秘体験と比較されるようになった。1980年代には、リリー博士をモデルとしたケン・ラッセルの映画『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』を機に一般にも流行した。また、スポーツ選手のイメージトレーニングや単に学習のためにも用いられている。近年再び注目が集まり、タンクを所有する施設が増加している。研究はタンクの体験によって、ストレスや不安を軽減し、線維筋痛症の痛みや睡眠を改善することを示しているが、その研究規模が小さいとも指摘されている。
ジョン・C・リリーは、アメリカ合衆国の脳科学者。イルカとのコミュニケーションを研究し、映画『イルカの日』のモデルとなった事で知られ、アイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)の開発者としても有名であるほか、1960年代後半にLSDが法律で規制される以前はLSDを用いたり、麻酔のケタミンを用いたり、アイソレーション・タンクによる人体と精神の隔離実験を行っていた。人間が外部からの入力を完全に絶った場合、精神の内面の世界が増幅され、極彩色の色彩や前世体験、宇宙へ飛び出すといった体験をするという政府への報告書は『バイオコンピュータとLSD』として後に出版されている。幻覚剤を用いたままアイソレーション・タンクに入ることもあった。アイソレーション・タンクの中で浮かんでいるような生物のことを探求することを思いついた。イルカはこれに該当する生物であり、体積比における脳の割合で人間よりも大きな脳を持っている(と彼が考えた)イルカの研究をはじめた。脳を生命コンピューターとしてプログラミングの観点で考えた。そして、イルカに言葉を覚えさせる訓練を行う。またイルカとのコミュニケーションを試み、その際に幻覚剤を摂取した。
ジョン・C・リリーやLSD、コンピューターとの関係から、この章では、ティモシー・リアリーにも言及されている。
ティモシー・リアリーは、アメリカの心理学者である。集団精神療法の研究で評価され、ハーバード大学で教授となる。ハーバード大学では、シロシビンやLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)といった幻覚剤による人格変容の研究を行った。幻覚剤によって刷り込みを誘発できると主張し、意識の自由を訴えた。しかし、マリファナ所持で投獄される。囚人生活中に宇宙移住計画の構想をまとめた。晩年は、宇宙移住をサイバースペースへの移住へと置き換え、コンピューター技術に携わった。コンピューターを1990年代のLSDに見立て、コンピューターを使って自分の脳を再プログラミングすることを提唱した。ティモシー・リアリーはまた、「チベット死者の書サイケデリック・バージョン」の著者としても有名である。「チベット死者の書サイケデリック・バージョン」は、意識の宗教的また神秘的状態を時に誘導する幻覚剤の力と共に、LSD 、シロシビン、メスカリンといったこれらの薬物の治療可能性を調査する研究を行っていた、ティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパートによる幻覚剤の使い方に関する著書である。メキシコにおけるジワタネホ計画の一環として1962年初頭に開始され、最終的に1964年8月に出版された。日本語訳は1994年である。私はこれを持っている。
「チベット死者の書」は、パドマサンバヴァが著し弟子が山中に埋めて隠したものを後代にテルトン・カルマ・リンパが発掘した埋蔵教典(テルマ)「バルド・トゥ・ドル・チェンモ(中有において聴聞することによる解脱)」を英訳するときにウォルター・エヴァンス=ヴェンツによって付けられたタイトルで、本来の内容は、死、中有(バルド)、再生という過程を案内し導くために書かれたチベット仏教徒の経典である。この「サイケデリック・バージョン」で著者らは「チベット死者の書」について、また幻覚剤の影響下で一般的な体験である自我の喪失あるいは脱個人化の比喩としての、そこで現れる死と再生の過程に死者の書を用いることを論じた。「チベット死者の書」の意図された役目として、死と再生を導くために用いられるのと同じく、「サイケデリック・バージョン」は、サイケデリック体験中の、自我喪失体験に適切に対処するための案内となるものである。
「チベット死者の書サイケデリック・バージョン」は、幻覚剤にて起こる自我喪失の様々な段階を論じ、こうした異なる段階においてどのように捉え、振る舞うべきかという詳しい指示を与える。本書には幻覚剤の使い方についてのより一般的な助言や、また幻覚剤を一緒に摂取するグループにて読み上げることが目的の文章の選集も含まれる。本書はオルダス・ハクスリーに敬愛と感謝が捧げられており、ハクスリーの著書「知覚の扉」が冒頭で短く引用されている。そして、ハクスリーはリアリーらによるこの原稿について知っており、1963年11月22日、ハクスリーの死期に読み聞かせられた。DJのデヴィッド・マンキューソも、1960年代中盤「サイケデリックな連中」が出入りしていたニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるクラブに出入りし、10回ほどLSDを体験した時には「サイケデリック・バージョン」に出会い、リアリーに傾倒するようになった。ウェスト・ヴィレッジにあるリアリーの霊的発見同盟 (League for Spiritual Discovery) の本部を訪ね、そのパーティーの常連客となり、自身も踊ることを目的としない選曲にてパーティーを開催するようになった。後に踊るための選曲をするようになっても、「サイケデリック・バージョン」に基づき、一晩中体力を維持できるように、穏やかな最初のバルド、サーカスのような第二のバルド、元の世界にスムーズに戻るための第三のバルドを意識した。
浦達也の「レトロ・フューチャー」では、要所要所や、最後の対談で伊藤俊治が出てくるのも感慨深い。伊藤俊治は、日本の美術評論家、写真評論家、美術史家。東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授は、日本の美術評論家、写真評論家、美術史家で、東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授だが、私が在学中は多摩美術大学教授であり、私は伊藤俊治先生の授業を受講して大きな影響を受けた。異業種交流のデザインネットワークである東京クリエイティブの設立企画運営、異文化融合と共同創造の実践的教育機関である大阪インターメディウム研究所の企画運営、都市創造型のワークショップスタジオ/東京アート&アーキテクチュア&デザイン(ADD)スタジオのディレクション、国際交流基金国際展委員、文化庁芸術文化振興基金審査委員、東京都写真美術館企画運営委員、川崎市民ミュージアム収集委員、相模原市写真芸術祭特別運営委員、彩都国際文化都市企画委員、読売新聞読書委員、NTTインターコミュニケーション・センター・コミッティ、大阪インターメディウム研究所講座統括ディレクター、東京ADDスタジオのディレクター、2005年日本万国博覧会デザイン委員会委員長などをつとめる。NTTインターコミュニケーション・センター(略称:ICC)について言えば、日本の電話事業100周年(1990年)の記念事業として設立され、NTT東日本が運営する文化施設である。「コミュニケーション」というテーマを軸に科学技術と芸術文化の対話を促進し、アーティストやサイエンティストを世界的に結び付けるネットワークや,情報交流の拠点(センター)となることも目指している。長期展示「オープン・スペース」、ICC キッズ・プログラム,企画展という展覧会の開催に加え,さまざまなイヴェントやオンライン活動を行なっている。私は90年代に西新宿の東京オペラシティタワー4階にあったNTTインターコミュニケーション・センター(略称:ICC)に当時付き合っていた彼女を無理やり連れて行った思い出がある。その時、展示されていた三上晴子のメディア・アート、聴覚と身体内音による作品「存在、皮膜、分断された身体」を体験してみたかったのだが、予約がいるということで残念ながら諦めた。三上晴子は、私が多摩美に入る前の80年代に、飴屋法水が主宰する劇団「東京グランギニョル」の最終公演「ワルプルギス」で舞台装置を担当し、同年、飯倉アトランティックビルで「BAD ART FOR BAD PEOPLE」、1988年に東京の作家スタジオで「Brain Technology」など、神経や脳を思わせるケーブルやコンピューターの電子基板を使ったオブジェやインスタレーションを発表しており、その後、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させる活動に注目していたのだが、2000年より多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース教授していたそうで、びっくりである。

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