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ダラムサラとは(パート1)

ダラムサラを語る上で、ダラムサラがどういう町なのかを説明しなければならないだろ。
インド北西部、ヒマーチャル・プラデーシュ州のヒマラヤの麓にその町はある。町は山の下と上、2つに分かれており、下はインド人の町(Down Dharamsala)上はチベット人の町(Upper Dharamsala=マクロード・ガンジ)である。
マクロード・ガンジは、かつては英領インドの避暑地であったが、今では6000人のチベット人が住んでおり、TCV(Tibetan Children Village)では2000人の難民の2世3世達が教育を受けている。
では、現在のダラムサラ=マクロード・ガンジがどうしてチベット人の町になったのか?歴史を辿ってみよう。

20世紀におけるチベットの悲劇は、1949年10月1日。天安門広場を埋め尽くした群集に向け、スピーカーから発せられた毛沢東の叫びから始まった。
「中国人民よ、立ち上がれ!」
続いて彼は、こう宣言する。
「中国人民政治協商会議の名において、私は、中華人民共和国をここに宣言する」
中華人民共和国の誕生である。
明くる年、1950年1月元旦。一つのメッセージがチベット人に襲いかかった。
「人民解放軍は、重要任務の一つとしてチベット解放の実現に向う」
中国共産党のいうチベット解放の開始である。しかし、チベット人にとって、それは決して解放ではなかった。チベット解放に名を借りたチベット侵略は、毛沢東が林彪に筋書きを練り上げさせて実行に移したものであり、建前の上では、「封建主義的なダライラマの支配と教権政治、および帝国主義社の軛からチベットを解放し、隷属状態からチベット人民を救うこと」であった。当時、チベットに住んでいた西洋人は数えるほどに過ぎない。チャムドに住んでいた元RAF(英国空軍)パイロットのロバート・ウェブスター・フォード(無線技師)、ラサのヒュ-・リチャードソン(歴史家)、リジナルド・フォックス(無線技師)、そしてドイツ・オーストリアの登山家ペーター・アウフシュナイダーとハインリヒ・ハラーである。彼らは帝国主義者だったのか?否!!!
解放後のチベットはどうなるのか?1950年8月5日。新華社通信は、中央軍事委員会の劉伯承の言葉を引用し、チベットの今後を表現した。
「チベットを、中国の大家族に連れ戻さなければならない」
この使い古されたテーゼは未だに漢民族に染みついているものである。しかし、今日、多くの東洋史研究者、特に東アジアを研究している歴史家達によって否定されている。中国の掲げるチベット解放は、中国(漢民族)によるチベット侵略・併合である。
1950年9月、4万の人民解放軍が金沙江(揚子江上流)を渡って侵攻を開始した。僅かな武器しか持たないチベット軍は跡形もなく敗北し、直ちにカム(東チベット)の中心チャムドは陥落し、カムの地方総督アポ・ガワン・ジグメが捕虜になった。
その頃、ラサでは市民達がいたるところに掲示物を掛け、15歳の少年であったダライラマ14世(テンジン・ギャツォ)の君主即位を摂政政府に要求していた。カムの様子が聖都にも伝わり、市民達は不安のどん底に陥っていたのである。トランス状態に入っていたネチュン神託官も「その時が来た!」と述べ、タクタ・リンポチェは辞任。1950年11月17日、若きダライラマは君主として即位した。
しかし、ダライラマの身を按じた国民議会は、彼をインド国境に近い、チュンビ渓谷にあるドモに移るように懇願した。そしてダライラマ一行は1951年1月2日、目的地のドゥンカル僧院に辿りつく。ここがしばらくチベット政府の本拠となった。
ダライラマは4人の使者を遣わしてアポ・ガワン・ジグメに同行させ、代表団を組織して中国政府との直接交渉にあたらせた。しかし、代表団は北京において監禁・脅迫され、チベット政府と連絡も取ることが出来ない状態で1951年5月23日、「17ヶ条協定」を締結させたれた。
ちなみに同文書の効力発生に必要とされた印璽は北京で偽造されたものである。
「17ヶ条協定」により、独立国としてのチベットは世界から消えた。
ただ、「17ヶ条協定」はチベットの固有の地位に関して、それを維持する旨も書かれていた(第4条、第7条、第11条)が、一向に守られることはなかった。反対に、中国は第16条「チベット人民政府は、人民解放軍の食糧およびその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする」を振りかざして一方的に、チベット政府に対して要求を突き付けてきたのである。1951年8月。ダライラマはラサへ帰還し、ノルブリンカに入る。
1952年。ノルブリンカに隣接して設営された人民解放軍の規模は3000人。他に、シガツェ、ギャンツェ、ヤートゥン、ガルトクという主要な町を占拠している軍人は合計二万人。さらにインド・ネパール国境沿いの軍事的拠点が中国によって制圧された。その大規模な軍人の食料として、張経武は2万トンの小麦の供出を内閣(カシャグ)に迫ってきた。その上、内政に干渉し、「帝国主義者」のレッテルを張って2人の首相、僧侶のロプサン・タシとルカンワの辞職を要求してきたのである。
1954年7月11日。ダライラマとパンチェンラマは北京で開催された第1回全国人民代表大会(全人代)に召集されてラサとシガツェを発った。同年9月、2人は毛沢東と会見する。その会見の中で毛沢東は、チベットが母国中国に復帰したことを喜び、自分も実は菩薩の化身だと述べた。しかも文殊菩薩の化身である。文殊菩薩の化身とは、歴代清朝皇帝に贈られていた称号である。これによって毛沢東は清朝皇帝を継承したことを暗に仄めかすことになった。毛沢東は中華人民帝国の皇帝であると・・・
ダライラマと毛沢東の最後の会見の時、毛沢東はダライラマが中国社会に僧院改革のヒントを得たことを述べた言葉を遮り、マルクスの言葉を借りてこう言った。
「宗教は阿片ですな」
1955年3月9日。「チベット自治区準備委員会」が設立される。同時にカム地方において、反中国の反乱が巻き起こった。中国が強引に強行した急速な民主改革に対して反旗を翻したのである。中心になったのはリタン(理塘)、パタン(巴塘)、デルゲ(徳格)、チャムド(昌都)、カンゼ(甘孜)の住民達である。彼らに支援されたレジスタンスはカム地方の各地でゲリラ戦を展開し、殺戮戦を始めた。これに対して人民解放軍は容赦のない攻撃を加え、僧院を破壊し、僧侶を殺戮し、子供が親を反逆者として銃殺するように強要した。象徴的なのは、1956年、イリューシンの爆撃によってリタンの僧院が破壊され、地方総督が殺害されたことだろう。複数の座主が首を切られ、生存者は拷問にかけられ、数百名がその結果亡くなった。遺体は共同墓地に放り込まれ、連行された者も多かったが、その後の行方はわからなかった。1955年から56年にかけて、アムド(東北チベット)とカム(東チベット)では、不妊処置や人工中絶が強いられた。反逆者の芽を摘むためであろう。多くの証人が児童の拉致を強調している。
1956年。ブッダ・ジャヤンティの祭典のためインドを訪問していたダライラマはチベットの実情をネール首相に訴えたが、北京との対話を続けるようにとの助言を得ただけだった。ネールは周恩来との絆を選んだのだろう。
1957年。チベットの混乱はますます激しくなっていった。非暴力主義を尊ぶダライラマが常に停戦をよびかる一方で、武装抵抗運動はチベット防衛義勇軍と大衆抵抗組織「ミマン・ツォンドゥ(人民議会)」はその規模を増し、地下に潜伏した。ミマン(人民)グループの闘士達は、昔のカム地方を指す名前「チュシ・ガントク(四つの川、六つの山)」の旗の下に結集した。彼らはチベット各地の中国軍駐留部隊や道路建設に従事する労働者への攻撃を強化した。
1958年、「大躍進」が始まる。9月にはその波がチベットにも押し寄せ、ラサ、シガツェ、ロカに実験センターが設けられた。北京放送と中国共産党は、プロパガンダを使って人民公社の効力をしきりに吹聴することになる。
中国は17条協定の第11条で「チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する」と述べているにも関らず、暗に改革を推し進め、また、第7条で「中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない」と述べておきながら、1958年末には6200を数えるチベットの寺廟の大半が徹底的に破壊された。
カムをはじめとする戦闘地域から逃げてきた大量のチベット人が聖都にあふれ、15万人がラサとその周辺に居住地を求めた。彼らがロカに腰を落ち着けると、そこは直ちに抵抗組織チュシ・ガントクの拠点となった。翌年、彼らはインドに脱出するダライラマを護衛することになる。そのバックにCIAが関っていたことはあまり知られていない。

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