見出し画像

11. 蜂起とラサの危機

首都ではすでに中国がダライ·ラマ法王を誘拐し、中国に彼を連れていくと言う中国の計画の噂が市中に広がっていた。
3月1日、ダライ·ラマ法王はモンラム・チェンモ(大祈祷会)の祭典を挙行するためにジョカンにいた。この祭典の間にダライ·ラマ法王はギェシェー・ララムパ(チベット仏教の最高の学位)の最終試験に臨んでいた。大変な数の僧侶や僧院長、転生化身のラマ、ラサ市民の前で弁証法的な討論で相手を論破しなければならない。当時、ダライ·ラマ法王は宗教上の問題で頭がいっぱいだったのである。しかし、政治的緊迫感は増す一方だった。
そこに人民解放軍の譚冠三将軍に派遣され、人民解放軍の基地内で行われる演劇の招待状を携えて2人の将校が直接ダライ·ラマ法王に会うためにノルブリンカ宮にやってきた。通常、将軍からのメッセージはダライ·ラマ法王の上席侍従ドンエルチェモ・パラか最高官僧院長で内閣におけるダライ•ラマ法王の代理を務めていたチキャプ・ケンポを通じてダライ•ラマ法王に届けられるのが通例であった。このことを知ったチベット政府の役人たちは直ちに疑惑の念を抱えた。しかも、伝統から外れることに、ダライ・ラマ法王は観劇の際に従来の武装警備隊を同行させないこと、宮殿から人民解放軍の基地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを要求されていたのである。
3月7日、再び譚冠三将軍からのメッセージが届く。李という通訳が最高官僧院長に電話をしてきて、ダライ·ラマ法王の出席の日時をはっきり知らせてほしいと伝えた。ダライ·ラマ法王は3月10日と答える。この招待について、ダライ・ラマ法王の拉致を中国が計画しているというニュースがチベットの人々に恐慌を引き起こした。
1959年3月10日の朝、法王は夜になってから人民解放軍司令部に出向く旨の返事をした。しかし、武装組織に参加するために様々な個人的な理由でラサを離れることができなかった多くのカンパを含む約3万人のチベット人が、ダライ・ラマ法王がノルブリンカ宮から連れ出されることを防ぐため、武器を持って立ち上がり、法王が人民解放軍司令部に行くのを妨げるためにノルブリンカ宮を取り囲んだ。
ノルブリンカ宮はダライ・ラマ7世によって1755年より建設され、1950年代に中華人民共和国に接収されるまで夏期の離宮として機能した。園内には歴代のダライ・ラマがそれぞれの建物を建造した。ダライ・ラマ14世の住居として1954年に建てられた「タクテン・ポタン」は二階建ての豪奢な建物で、当時の家具やラジオ、レコードプレーヤーなどが残されている。他には、「チェンセル・ポタン(ダライ・ラマ13世の離宮)」、「ツォキル・ポタン(湖中楼)」、「ケルサン・ポタン(ダライ・ラマ8世の離宮)」、13世の図書館、博物館、動物園などがある。
多くのラサの人々や数百人のチベット軍部隊が法王のボディーガードとしていたが、ほとんどはセキュリティ対策に主要な責任を取り、宮殿の門を守っていたカンパたちであった。何人かのカンパの指導者は、彼ら自体がセキュリティ対策や戦略を議論するために軍の本部でチベット政府の役人たちと座っているのを見つけた。
宮殿の内部では、法王と内閣のメンバーが、微妙な立場に置かれていた。ラサ駐屯の中国人民解放軍は市民に解散を要求し、さもなければ砲撃すると通告した。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小せり合いがあったものの、この日の事件がラサ蜂起の始まりとされている。
法王への献身は、はるかに中国への脅威を超えていた。それ故、宮殿を守っている人々は、どんな犠牲を払っても離れることを拒否した。状況は非常に緊張し爆発的になったとして、法王が行動できる唯一の論理的なコースはノルブリンカ宮から脱出することだった。脱出するかどうかの決定は、唯一宮殿の側近グループと宮殿の周りを取り囲んでいる数人のカンパの指導者たちにのみ知られていた。チュシ・ガンドゥクは、正式に閣議決定された通知を受け、安全な通行のために必要な準備をしてくれるように頼まれた。したがって、逃げ道を安全にするために、組織は中国軍からの可能性のある脅威から法王とその側近を守るためにあらゆる準備を行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?