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27.寮の引っ越し

高校1年生から2年生に変わるということは、我が母校の場合、教室の引っ越しだけではなく、寮でも引越ししなければならなかった。1年生の時は大部屋で特に仲間意識しないでも過せたのであるが、2寮(2年生寮)では2人か4人(6人部屋があると言う話もあるが・・・)で部屋を同じくして、その後を生活しなければならない。2月の終わりには同室者が決まる。それはその後の人生を決定できる出会いもあれば、最悪の相手と1年過ごさなければならないこともある。当時の私には社会性がなく、仲の良かった級友も寮を出て下宿に移っていったからなおさらである。部屋組のことは最後まで気にしていなかった。
少人数での部屋割は、普通、年末から年明けの時期に、仲のいい友達同士で4人部屋(2人部屋もある)を選択し、それ以外の場合は寮の教諭が生徒をマッチングして決める。寮の部屋割りは仲のいい友達同士でメンバー表を提出(したと思う)するのだが、私は最後まで同部屋の相手が決まらなかった。そしてメンバーが決まれば部屋のくじ引きが寮の食堂で行われた。昔の2寮は3階建てだった。
とある義務自習時間に寮の海老原先生から呼び出され、面会室に行った。嫌な予感は的中し、寮の同室者を決める話になった。私自身が希望したのは私一人の個室である。しかし、それは寮の方針とは違う。あくまでも共同生活が寮の方針だ。ただ、決して友達がいなかったわけではない。いたのだが、2年生になって下宿に移って行ったり、他のメンバーともうマッチングが決まったヤツらばかりで、私自身、直前になるまで同部屋者を決めてなかった。そこで寮教諭が出してきた釣合い(なんだかお見合いみたいだ・・・)は網走出身のN(寮の部屋で良好な人間関係が築かれなかったので、イニシャルさえも忘れてしまった)である。コイツとは最後まで馬が合わなかった。親の期待が大きかったのかとにかく勉強ばっかりするヤツだった。
Nは真面目なヤツで、寮の部屋にいるときはいつも勉強していたか、寝ているかのどちらかだ。で、その頃の私はと言うと勉強そっちのけで音楽にはまっていた。時代は80年代半ば、ハードコアパンクの全盛期だ。また、70年代後半に六本木の貸しスタジオ「S-KENスタジオ」を中心として活躍していたバンドの総称である東京ロッカーズを受け継いだ、日本レコード協会加盟のいわゆるメジャー・レーベルのレコード会社と対比する形で、主に同協会に非加盟のレコード会社、プライベート・レーベルを運営する事務所等、及びそれらからレコードをリリースしているアーティスト・ミュージシャンを指すインディーズも華やかなりし時である。学校の勉強なんかやっていられない。
大きな転機は、函館のゲームセンターの隣の小さな本屋だったが、月刊宝島以外にプログレッシブ・ロックやニューウェーヴといった当時の先端的な音楽を中心とし、ウィリアム・バロウズなどのサブカルチャーまでを取り扱った雑誌「FOOL'S MATE(フールズメイト)」が売られていたことである。私は次第に日本のインディーズからに欧米のインディーズに傾倒していった。そして、「月刊宝島」から、毎月、「フールズメイト」を定期購読するようになっていた。
「FOOL'S MATE(フールズメイト)」で紹介されていたアーティストは、BAUHAUS(イギリスのゴシックバンド。ダニエル・アッシュの神経症的なギターに象徴される緊張感溢れるサウンド)、BIRTHDAY PARTY(ニック・ケイヴとローランド・ハワードが在籍していた伝説のバンド)、CABARET VOLTAIRE(1974年にシェフィールドで結成された元祖インダストリアル・ノイズ。80年後半からはダンス・ハウス路線に転向)、CHERRY RED(イギリスのレーベル。EBTGやフェルトなどの作品をリリース。ネオアコ系レーベル)などである。はまってしまったのだから仕方がないではないか。
欧米のインディーズは日本のインディーズのようにメジャーへの踏み台ではなく、アーティストはアンダーグラウンドにおいてインディー・レーベルに所属し、その創作活動を続ける場合が多い。これらの背景から、インディーは「メジャーへの踏み台」としてではなく、「ニッチな音楽を志向するアーティストが存在し得る場」として、一つの唯一的な地位を有している。
そんな私と正反対のNは当然上手くいくはずもなく、1年もしない間に関係は瓦解した。

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