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1. 序章

1945年は、第二次世界大戦が終わった年として、世界史の大きな転換点となった年である。ドイツ史では、第二次世界大戦での敗北によってナチ政権が崩壊した経緯から、「零時」と呼ばれている。この年の4月には、4月13日ソ連軍がウィーンを占領。4月15日英軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放。4月20日ソ連軍がベルリン東北郊外に迫り、市街に砲撃を開始。4月22日ソ連戦車隊がベルリン市街に突入し、ベルリン市街戦を繰り広げた後、5月2日に占領する。
その占領のさなか、連合軍の兵士たちは、東ベルリン地区の破壊されたビルの中をパトロールしていた。それは隠れているドイツ兵を摘発するためである。彼らは崩れかけた部屋を一つ一つ見て回った。1階のある部屋に踏み込んだ彼らは、そこでSS(ナチス親衛隊)のマークを付けた7人のドイツ兵らしい死体を発見した。変わっている点といえば、6人の死体が円を描くように横たわっており、中央に1人の死体があることだった。彼らはそのまま通り過ぎようとした。彼らは改めて7人の男の死体を眺めた。円の中央にあおむけに倒れている男の両手は祈るようにしっかり組まれていた。その手には不気味な「緑色の手袋」がはめられていた。しかし何より彼らを驚かせたことには、男の顔がまぎれもなく東洋人、それもチベット人のものだったことである。中央の男ばかりではなかった。ドイツの軍服を着てはいるが、周りの男たちもみなチベット人であった。
この事件を皮切りとして、ベルリンの至る所で、数百体にものぼるチベット人の死体が続々と発見された。また、ヒトラーが自殺したとされる日以降も、ベルリンにおいて最後まで頑強に抵抗する部隊があったが(特にベルリンの通信管理センターでの戦闘は激しかった。全てが倒され、最後の死守がなされていた)、この通信管理センターの廃墟から発見された兵士1000人の遺体はチベット人だった。彼らはヒトラーの近衛兵でもなく側近でもないのに、最後の最後まで命を賭して戦っていたのである。
これはコーネリアス・ライアンの『ヒトラー最後の戦闘』にも記述されている広く知られた事実である。いったいチベット人たちは第二次世界大戦下のベルリンで何をしていたのか? ナチスドイツとチベットの間には、どのようなつながりがあったのか?

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