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1. 背景

中国共産党政府が1949年にチベットへの人民解放軍(PLA)の侵攻を命じたとき、チベットの東部地域の人々は中国の侵略の脅威を初めて経験した。
1930年代から日中戦争をはさんで断続的に行なわれていた国共内戦において、ソビエトからの支援を受けていた毛沢東の中国共産党率いる人民解放軍が、アメリカからの援助を打ち切られた蒋介石の中国国民党率いる中華民国国軍に対して勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。
その6週間後に、人民解放軍が、ダライ・ラマ法王を長とするチベット中央政府の勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。人民解放軍は、チベット地域の併合政策に着手し、同1949年、アムド地方(チベットを構成する地方のひとつで、その東北部を指す。伝統的にチベット人とともにオイラトのホシュート部を中心とするモンゴル人が多数居住してきた。 当地に居住するチベット人はアムド方言を用い、アムドーワ(a mdo ba)と自称する。現在も青海省には多数のチベット仏教寺院が残り、チベット人・モンゴル人の僧侶によって守られている)を支配していた青海省長の馬歩芳、カム地方(四川盆地より西にあり、地形は起伏が激しい事が特徴。この地にある褶曲山脈は横断山脈と総称される。大雪山脈や邛崍山脈など、海抜 5,000 メートルから 7,000 メートルに達する山脈が北西から南東へと平行に走り、その間に人々の住む谷間がある。メコン川、揚子江、雅礱江とサルウィン川を含む多数の大河の上流が、カムの中を流れる)の東部を支配していた劉文輝(西康省長)たちを下し、チベット中央政府の統治下になかったアムド地方とカム地方の東部チベットの領域を手中に収めた。
カムとアムドの人々は祖国への侵略の開始時に立ち上がり、中国人民解放軍と対峙した。1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずはカムのダルツェンドで足を止めた。
ダルツェンドは元代には世襲の諸侯が土官に任ぜられ長河西千戸、長河西招討司が設置された。明の永楽五年(1407年)には「長河西魚通寧遠宣慰」が設けられ、同じく世襲の職となった。民末期の崇禎十二年(1639年)にはグシ・ハーンがこの地方を征服したが、土司の統治範囲に営官が設置され、土司を通じた間接統治と営官を通じた統治の二重体制になった。清の康熙五年(1666年)、改めて土司が認められた。中華民国の時期、ダルツェンドにはチベット東南部カム地方を統治する西康省の省政府が置かれたが、西康省政府は従来この地を統治してきた諸侯らの反発を受けた。
歴史上,ダルツェンドは漢族とチベット族の間の貿易や物資集散の中心で、内地からチベットへ向かう際の門戸でもあった。四川とチベットの間では、茶と馬の相互取引(「茶馬古道」、「川蔵茶馬互市」)が盛んだったがその中心でもあった。古くから中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、それほどの抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドからカンゼまでの自動車道建設と地形情報の収集であった。
1950年6月、人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に呉実藏指揮下の第18軍の第52師団の600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。
チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の人民解放軍は1人残らず殺された。激戦は土地の有力部族長たちの指揮、および旗の下に戦われた。
1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた。チャムド地区へは1950年秋から、第一書記の鄧小平の西南局傘下の18軍が侵攻を開始した。
カンゼはカム北部の中心地のひとつで交易の町である。現在は州の名前になっているが州都ではない。デルゲ、ニャロン、パンユルからの道がつながる交通の要所。ゲルク派の大僧院カンゼ・ゴンパがある。チベット語名の「カンゼ(dkar mdzes)」とは、「白く美しい」の意で、中国語名の「甘孜」はその音写である
チャムド地区はチベット名チャムド・サクル (chab mdo sa khul)と言う。「チャプ(chab)」は「水(敬語)」を、「ド(mdo)」は「合流地点」を意味し、現在の四川省のカンゼ・チベット族自治州、雲南省デチェン・チベット族自治州とともに、チベットの伝統的な地方区分カム地方を構成し、その住人を「カムパ(khams pa, 康巴)」と称する。
1950年10月7日深夜、人民解放軍は、張国華将軍を指揮官として、長江上流の金沙江を「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになり、ラサの東方100kmの位置まで侵攻した。人民解放軍の兵力は2万人であったともいい、4万人であったともいう。人民解放軍は東チベットに3方向から同時に進軍した。

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