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雪の国からの亡命

昨日は1日、ジョン・F.・アベドンの「雪の国からの亡命―チベットとダライ・ラマ半世紀の証言」を読んで、20時過ぎにチゲラーメンを食べたあと、睡眠薬を服用して寝たのだが、0時前に目が覚めてしまった。近所の業務スーパーに行って赤ワインの「SIEMPRE」を買ってきていたのだが、ヘルパーさんが帰ったあと、昼間に飲んでしまったので、純粋に睡眠薬だけで寝たことになる。やっぱり睡眠薬とアルコールをミックスしないとちゃんと眠れないのだろうか?
「雪の国からの亡命」は膨大なインタビューを元に書かれたチベットの概説書で、チベットの入門の本としては最もおすすめする本である。1.崩壊前夜(1933‐1950)、
2.占領(1950‐1959)、3.亡命(1959‐1960)あたりはダライ・ラマ14世の自伝や、映画「クンドゥン」で何度も描かれていたのでサラっと読み終えた。アムド地方のタクツェルで農業を営むチベット人家庭に生まれたラモ・ドゥンドゥプがダライ・ラマ13世の生まれ変わりとして認定され、ラサへ移り、1940年の冬、ポタラ宮で正式にチベットの精神的指導者の座に就くところから始まる。同時にラモ・ドゥンドゥプはジェツン・ジャンぺル・ガワン・ロブサン・イェシェ・テンジン・ギャツォを名乗ることになる。
1950年、中国によるチベット侵略が始まる。タクダ摂政はチャムドにいたカムの知事から、チベットの駐屯地が中国人兵士によって襲撃されたと伝える電報を受け取った。中国人民解放軍兵士8万人がチャムドの東ディチュ(メコン川上流)を渡ったという知らせがラサに届くと、チベット政府はネチュン神託官に助言を求め、ダライ・ラマは15才という若さで、ノルブリンカ宮殿での式典において、正式にチベットの聖俗のリーダーに即位するとともにヤートンにあるドゥンカル僧院に避難する。そして、17条協定と人民解放軍のラサ進駐と、ラサの混乱、東チベットでの民主改革による反乱の発生とゲリラのラサ流入から1959年のチベット蜂起の騒乱の中、ダライ・ラマはインドへと亡命する。
いま読んでいるところは9.とらわれたチベット(1959‐1965)、10.長い夜(1966‐1977)である。9.とらわれたチベットは、1959年のチベット蜂起の際、中国に捕らえられたダライ・ラマの侍医のテンジン・チューダク医師の獄中生活や批判集会(タムジン)の凄まじさ、毛沢東の大躍進政策による中国全体の深刻な飢餓を描いており、10.長い夜は文化大革命だ。
この本の中で私が好きなところは5.闘い(1959‐1984)である。中国の侵略に対して立ち上がったカンパや、その後の国家防衛義勇軍、チュシ・ガントク、ムスタンゲリラ、セイントサーカス(チベット人ゲリラへのCIAの援助)、エスタブリッシュメント22、チベット青年会議などが書かれた章である。かつて私は「抵抗」という、中国に対するチベット人の抵抗の電子書籍を書いたが、「雪の国からの亡命」のこの章は非常に参考になった。
起きてからしばらく経って風呂に入り、湯船に浸かって「雪の国からの亡命」を読んで、風呂から上がると1時40分ころだった。コクトー・ツインズのCDを聞きながらこの日記を書いている。
コクトー・ツインズ(Cocteau Twins)は、1979年から1997年に活動したイギリスのスコットランドのロックバンドで、初期にはジョイ・ディヴィジョン、バースデー・パーティー、セックス・ピストルズ、スージー・アンド・ザ・バンシーズの影響を受けており、4ADという1979年に、ベガーズ・バンケット・レコードの資金提供を受け、アイヴォ・ワッツ=ラッセルとピーター・ケントによって設立されたインディーレーベルの看板グループである。幽玄と粗野が入り交じり、先例のない独特な、時に何を歌っているか判読しがたいエリザベス・フレイザーのボーカル・スタイルと、強いエフェクトがかかったロビン・ガスリーのギターがサウンドの特徴となっている。
4時頃になって小腹がすいたので、スパゲッティを食べて、寒いので布団に潜り込んで読書していたら寝落ちしてしまった。起きたら7時である。なんとなくテレビをつけている。
コーヒーを飲みながら大阪の再開発関連のブログやニュースを見ていて気になった記事は、大阪市天王寺区筆ヶ崎町の元:近畿産業信用組合本店ビルの跡地にリバー産業が地上35階、高さ124.20m、延べ床面積は25,497.04㎡のタワーマンションを計画していて、現在は旧ビルの解体をやっている。着工は2020年7月、竣工は2022年9月の予定。リバー産業というと20階程度の大規模高層マンションを積極的に開発しているイメージがあって、タワーマンションの計画は意外だった。また、堂島にあった電通大阪ビルの建て替え計画では、地上49階、地下1 階のホテルとマンションの複合高層ビルは高さ195mと大規模なもので、現在は既存建物の地下躯体の解体をやっているが、着工が2019年12月(予定)となっているので、まもなく新築工事に着手するようなので、また現場をチェックしに行きたいものである。
9時になって病院でリハビリしたあと、業務スーパーに行って赤ワインの「SIEMPRE」を2本買う。今日はワインを飲みながら読書の日と決めていた。スパゲッティのバジルソースを食べて、睡眠薬を飲んでワインを飲みながら「雪の国からの亡命」を読んでいると、寝たり起きたりしながらいつの間にか20時になっていた。
今はジョイ・ディビジョンのCDを聞きながらこの日記を書いている。ジョイ・ディヴィジョンは1976年にグレーター・マンチェスターのサルフォードで結成され、ポストパンクを代表するバンドの一つとして活躍したロックバンドである。ボーカリストのイアン・カーティスの書く内省的な歌詞や特徴的なライブパフォーマンスは多くの人を惹きつけた。ところが、初のアメリカ・ツアーへの出発前日の1980年5月18日にカーティスが自殺し、突然の悲劇によりバンドは解散を余儀なくされた。その後、残されたメンバーはニュー・オーダーを結成することになる。ジョイ・ディヴィジョンを語る際にファクトリー・レコードに触れないわけには行かない。ファクトリー・レコードは、イギリスのマンチェスターで1978年に創立されたインディーズ・レコード・レーベルである。マンチェスターの音楽シーンの中心として、マッドチェスター等の様々なムーブメントを巻きおこした。1983年にはニュー・オーダーのブルー・マンデーが世界的なヒットとなった。ファクトリーはその後も、マッドチェスターのシーンの中心であり続けたが、1992年に破産した。
マンチェスターといえばハシエンダである。ハシエンダはマドンナがイギリスで初めてコンサートを行った場所である。料金設定が低く店内で販売する酒類等の売り上げも思わしくなかったため、赤字経営が続いた。またファクトリー所属のアーティストの浪費などが原因で経営母体のファクトリー・レコードが1992年に倒産した後もハシエンダは運営されていたが、麻薬売買の場となり傷害事件が多発し警備等にさらに経費がかさむようになったなどの事情によって1997年に閉鎖に追い込まれた。ファクトリーの興亡を描いた映画『24アワー・パーティーピープル』では実際の建物を使用してハシエンダのシーンを撮影しようとしたが、再開発業者が撮影を待たずに取り壊してしまったためにオープン当時のハシエンダを再現したセットで撮影する破目になったというエピソードがある。

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