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43.夏期講習

我々の時代の夏休みは7月の学園祭が終わってから8月の中旬頃だったと思う。夏休みの帰寮では、1985年8月12日18時56分に、日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故が思いだせる。その直後くらいの時期に寮に帰ったので、北海道の夏休みは短いんだな~と思っていた。ちなみに当時、大阪(伊丹)空港のJALのカウンターはお通夜のように静まり返っていたのを思い出す。
高校3年生になると、始業式前に夏期講習があって、私はその1週間前に函館に帰って宮西先生の美術教室でトレーニングを始めることになっていた。しかし、まだ寮には帰れない。そこで思いついたのは、「シコ中」ことA・Iの生活している下宿に1週間泊らせてもらって、そこから美術教室に通うことだった。
下宿の了承を得ると、函館空港から下宿に直行し、いつものオバサンがいなかったのでオーナーのお婆さん2人に事情を話して泊らせてもらった。一日の宿泊費では誤解もあったが、私はそこから宮西先生の美術教室に毎日のように通い、裸婦のクロッキーや水彩画の練習をやっていた。クロッキー帳は既に3冊を超えていたと思う。
もう、この時期になるとモデルさんの裸にも慣れて、あくまでも描く対象としか感じられなくなっていた。初めの頃はドキドキしていたのだが・・・
夏休みが終わったと言っても8月中旬はまだ暑い。絵画教室にはいつも上はタンクトップ一枚で通っていたのだが、それでも脂汗と皮脂でベトベトになった。ティッシュでいくら拭いてもらちがない。それが鬱陶しくてなかなかデッサンやクロッキーに熱が入らなかった。私は昔からどうも暑さには弱かったんだな~と今になっても思う。もう当時から自律神経失調症だったのではないだろうか?絵画教室にはそれなりに美人の女の人も来ていたので「脂性」「汗かき」のレッテルは張られたくはなかった。彼女たちは私を見ては何やらニヤニヤしている。それが気になってデッサンが進まない。
夜、下宿に帰ってからは学科の勉強をしなければならなかったのだが、そんな退屈なものする気はなかった。京都のレコード屋で大量に仕入れてきたインディーズのレコードをテープに録音したものを聴いていたり、大阪の深夜ラジオ番組をかすかな電波でキャッチし、それを聴いて大笑いしていた。この時、初めて、吉永小百合の「奈良の春日野」を聴いて爆笑した。後に明石家さんまが広めて全国的な大ヒットとなったが、あれは実はパクリである。

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