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8.河合塾美術研究所

さすがに、浪人生活が2年目になると、親も相当焦りだし、父親の会社のコネで、東京藝術大学美術学部建築科卒業ということで日建設計の大谷弘明さんの話を聞きに、大阪の日建設計のオフィスに父親に連れられていった。
大谷弘明さんは、1986年に日建設計入社で、その後、日本建築学会賞を受賞した「積層の家」を始め、「ザ・リッツカールトン京都」「宮内庁正倉院事務所」「愛媛県美術館」「キーエンス本社・研究所」「ベトナム国立歴史博物館」「メッカ聖モスク巡礼能力拡張」などの設計を手がけられ、国内外で文化施設、商業施設、ホテル、教育施設など、幅広い分野の建築設計に実績があり、日建設計が特定された多くのコンペティションに参加している。今ではCDO常務執行役員・チーフデザインオフィサー・設計部門 プリンシパルをされながら神戸大学客員教授でもあり、まさに建築設計の王道の出世路線を走られている。
大谷弘明さんの東京藝術大学美術学部建築科の思い出としては、30代の学部生が平気にいるという環境に、同席していた日建設計の上司もビックリしていたが、なによりも、東京藝術大学美術学部建築科の合格者のほとんどが、代々木ゼミナール造形学校の建築科の受験生だったということである。講師陣を見ると、東京藝術大学美術学部建築科卒業生や、同大学院在籍者ばかりである。そのあたり、他の美術予備校とは明らかに違っている。
ただし、代々木ゼミナール造形学校の建築科に通うとなると、東京で一人下宿しなければならず、それについてはうちの親が猛烈に反対した。反対の理由は明らかである。私は中学・高校時代、何度も喫煙で注意を受け、高校3年の時は、一緒に説教を受けるため、わざわざ函館まで父親が会社を休んで1泊2日でやってきたくらいである。そんな私に一人暮らしさせたらロクなことにならないと思ったのだろう。私もそれについては強く主張しなかった。受験そっちのけで遊び回らないという保証は私にもなかったから。
そこで、妥協案ではないが、大阪に建築科・建築コースの美術予備校がなかったので、学科の予備校と同じ河合塾の美術研究所名古屋校建築コースに通うことを前提に、一度、名古屋市千種区の予備校見学をすることになった。
午前中に近鉄特急で名古屋に向かい、千種についたのは昼過ぎだった。校舎内をウロウロして建築コースの講師を見つけて話を聞くと、その足で教務課へ向かい、入学の手続きを行った。河合塾美術研究所名古屋校建築コースには、今では芸大系と工学部系に分かれているが、私の頃は一緒に受講していた。工学部系というのは、例えば、早稲田大学の創造理工学部の建築学科や京都工芸繊維大学の工芸科学部のデザイン科学域(デザイン・建築学課程)では、入試に鉛筆デッサンが科される。そのための対策である。
河合塾美術研究所名古屋校建築コースの授業は、日曜日の9:30~18:00だった。そういうわけで、月曜から土曜日までは河合塾大阪校で学科の授業を受け、日曜日には早朝に起きて、京都から新幹線に乗って名古屋の千種に通う、なかなかハードな浪人生活を送ることになった。もちろん、学科の授業に関しては、浪人1年目と同じく、必要な授業以外はサボることになるのだが・・・
河合塾大阪校の学科の授業は、去年と同じように東大文系コースの日本史・世界史の授業と、気が向けば英語や古文の授業に出る以外は、大阪・京都・神戸の街を歩き回ったほか、その頃、まだあった名画座と呼ばれる映画館で渋めの映画をよく観た。後に「ポンヌフの恋人」で有名になり、同年代にデビューしたジャン=ジャック・ベネックス、リュック・ベッソンとともに「恐るべき子供たち」(ジャン・コクトーの同名小説と映画からの命名)「BBC」と呼ばれ、ヌーヴェル・ヴァーグ以後のフランス映画界に「新しい波」をもたらしたレオス・カラックスの初期の作品、「ボーイ・ミーツ・ガール」と「汚れた血」を観たのは、阪神・淡路大震災で崩壊する前の北浜の三越劇場だったし、ベルトリッチ特集で「暗殺の森」や「ラストタンゴ・イン・パリ」、また、ゴダール特集で、「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を観たのは、取り壊される前の西梅田のサンケイホール、マルコ・ベロッキオの「肉体の悪魔」を観たのは、堂島の毎日大阪会館にあった大毎地下劇場だったと思う。ちなみに、毎日新聞大阪本社、毎日放送本社などが入居していた毎日大阪会館は、北館と南館に分かれており、北館に毎日文化ホール、南館に毎日ホールと大毎地下劇場があった。毎日文化ホールは、主に名作洋画を低料金で上映する「大毎地下名画鑑賞会」の会場になったり、毎日ホールは、邦画名作の再上映を行う「映像のロマン」の会場、大毎地下劇場は、ムーブオーバー作品を2本立ての低料金で上映した名画座だった。映画好きの金のない浪人生にとっては、結構恵まれた時代だったような気がする。この他にも、今は成人映画館になっている国名小劇などのミニシアターも何軒かあったと思う。いずれも低料金で映画が観られた。
さて、河合塾美術研究所名古屋校建築コースの最初の登校日、朝5時に起きて、父親か母親の運転する車で、近鉄京都線の高の原駅まで送ってもらう。ここから近鉄の急行に乗って京都駅まで行って、新幹線に乗り換えるわけだが、急いで「ひかり」に乗らなくても、「こだま」でゆっくり行けるので、そうする。新幹線の切符は、父親が仕事でよく使うのだろう、回数券を何枚も持っていた。のんびり「こだま」に乗って、米原や岐阜羽島に停車しながら、その度に「ひかり」に追い越され、1時間ほどで名古屋に着くと、中央線の普通電車に乗り換えると、千種は3駅目だ。河合塾は駅前にいくつもの建物があり、そのひとつが美術研究所である。
最初の授業で何をやったのか、忘れてしまったが、鉛筆デッサンかケント紙を使った立体構成だったと思う。当時、一緒に河合塾美術研究所名古屋校建築コースに通っていた浪人生たちは、私と同じように東京藝術大学美術学部建築科を受験するも、合格するものはおらず、またまた私と同じく、多摩美術大学建築科に入学することになる。
河合塾美術研究所名古屋校建築コースに入って初めて、鉛筆デッサンや建築写生の他、テーマを与えられたポスターカラーを用いた平面構成や立体構成など、芸大・美大の建築科の実技試験対策のトレーニングを受けることになるのだが、はっきり言ってレベルは低かった。夏期講習の時に、前回の東京藝術大学美術学部建築科の立体構成の「球が宙に浮いているように立体構成せよ」をやったのだが、完成させたのは私一人だった。しかも、時間内に完成できなくて、夏期講習中、泊まっていたビジネスホテルに持ち帰ってホテルの部屋で続きの作業をしてやっと完成させたもので、その作品も、実際に試験の時に作製したトロフィーみたいな立体に毛の生えたような作品だったが、立体構成の出来はともかく、赤と黒の色使いだけはカッコイイと褒められ、講師の一人から「君だけが頼りだ」とも言われた。また、1日かけて屋外で建築写生を行ったとき、昼休みに講師を含めて数人でレストランで食事をしたのだが、その際、私が去年、大阪の総合美術研究所に通っていたことを言うと、講師は、「総合美術研究所はインスタントラーメンのデッサンをやるそうだね」と、嘲笑気味に呟いたので、大阪の総合美術研究所という弱小の美術予備校の噂というか、悪評が名古屋にも広がっていたのかと驚いてしまった。
河合塾美術研究所名古屋校建築コースの授業が終わると、帰りは新幹線ではなく、毎回、近鉄の名阪特急、通称「アーバンライナー」に乗って大阪の鶴橋まで行き、そこで近鉄奈良線に乗り換えて学園前の駅まで帰っていた。帰りの楽しみは、いつもビールだった。「アーバンライナー」に乗り込む前に近鉄名古屋駅の売店に立ち寄って、必ずギネスを2缶買って、車内で飲むのが日課になっていた。
飲酒の習慣は、2年目の浪人生活で始まったわけではなく、1年目の浪人生活の時代には既に毎日飲む生活になっていた。浪人生活が長引くと、飲酒の機会も、酒量もだんだん増えていったと思う。アルコール依存症の酒害教室などでよく言われる、機会飲酒から習慣飲酒に変わったのが、ちょうど浪人時代である。普段の街歩きの際にも欠かさずビール片手に歩いていたし、帰宅前にはいつも、なんば戎橋商店街にある食品&酒店の「千成屋 なんば店」に立ち寄って、ミュスカデという辛口ワインや、当時流行っていた電気ブラン、ジンやウォッカを買って帰って、飲みながら読書したり、デッサンをしたりしていたのだが、いつの間にか毎晩1本空けていた。困ったのは空き瓶の処分である。棄てようにも実家のゴミ箱に棄てるわけにはいかない。毎朝、予備校に行くついでに空き瓶を持って出て、どこかに棄てるにも毎日のことなので面倒くさい。かと言って部屋にゴロゴロ転がしているわけにもいかず、親に見つからないように本箱に隠していたりしたのだが、すぐにいっぱいになる。本箱があふれる前に空き瓶を何本も紙袋に入れて、街歩きの最中に適当に公園などのごみ捨てに棄てていた。親もなんとなく私が毎晩泥酔していることに気づいていたようであるが、浪人生活でピリピリしていた私に注意するのも、なんとなくキズモノに触れるようで、それとなく臭わせたことがあるが、黙認していたようなところがあった。


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