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20.近代建築史

1年生の時の日本建築史や西洋建築史はあまり面白い授業ではなかったが、2年生の時の近代建築史の授業は、それぞれグループに分けて発表する形になったので、ちょっと張り切った。私は女子学生2人と日本の近代建築をテーマに発表することになった。女子学生2人は村野藤吾が好きで、その発表をすると言ったのだが、それは私にとってはあまりにも当たり前すぎて面白くない。私は変り者というかひねくれているので、変わったこと、変な分野が好きである。そこで、日本の近代建築史で目を付けたのが帝冠様式だ。本来は女子学生2人と一緒に共同作業で発表しなければならないのだが、私は独りで図書館に通って帝冠様式の思想的背景、例えば時代的に北一輝の「日本改造法案大綱」あたりの影響はなかったかを調べまくった。どうも私はこういうところで協調性がないというか、単独行動が好きである。
帝冠様式は、1930年代の日本において、伊東忠太、佐野利器、武田五一らによって推進された和洋折衷の建築様式であり、彼らが審査員を務めた競技設計では様式規定に日本趣味が盛り込まれ、鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根をかけたデザインが選ばれた。
最初に帝冠様式が現れたのは、1919年に帝国議会(現・国会議事堂)のデザインを決める競技設計が行われた時で、入選案はすべてルネッサンスの様式だった。これに反対した下田菊太郎は、意匠変更を訴える嘆願書を2度に渡って議会に提出した。下田はクラシックの壁体に和風屋根をかけた「帝冠併合式」と称する案を提出し、各方面にパンフレットを配るなど活発な活動を行ったが、当時の建築界には受け付けられず黙殺された。
私はこの下田菊太郎という人に興味を持って調べてみた。
下田菊太郎は、1889年にアメリカに渡り、ニューヨークの建築家ページ・ブラウン建築設計事務所に就職。1892年シカゴ万国博覧会 (1893年)カリフォルニア館コンペに下田は個人で応募し落選するが、ブラウンが当選し、現場管理副主任としてシカゴへ赴任、実績をあげる。カリフォルニア州のパビリオンの現場監理を任されたとき、万博工事総監督のダニエル・バーナムに師事し、鋼骨建築法を学ぶ。同年誕生日に米国にアメリカ国籍を取得、アメリカ人と結婚した。鋼骨建築の研究をさらに希望しバーナムの事務所へ移籍、アライアンスビルなど鋼骨建築の設計に従事する機会に恵まれる。1895年にシカゴに建築設計事務所を設立して独立し、米国免許建築家試験に合格した。短期間だがフランク・ロイド・ライトの下で働いたこともあるという。
帝冠様式はこの後、1926年に神奈川県庁舎、1930年に名古屋市庁舎の競技設計が行われ、和風屋根をかけた案が入選した。どちらも募集規定に日本趣味は含まれていなかったが、神奈川県庁舎は横浜という立地から外国人を意識して、名古屋市庁舎は名古屋城の近くであることから、和風屋根がかけられた。
続く日本生命館・大礼記念京都美術館・軍人会館の競技設計では募集規定に日本趣味が盛り込まれた。入選案における和風屋根の割合も増えていき、名古屋市庁舎では8案中3案だったものが軍人会館では入選10案全部となっている。
1930年から1931年にかけて東京帝室博物館も日本趣味の規定で競技設計が行われたが、モダニズム建築をめざす若手建築家たちはこれに反発した。日本インターナショナル建築会は応募拒否を声明し、他の建築家たちにも応募しないよう呼びかけた。一方、前川國男と蔵田周忠は、落選を承知でモダニズムの図案で競技設計に参加した。これは規定を無視したわけではなく、日本建築には木材にふさわしい造形が伝統としてあるように、鉄筋コンクリートにふさわしい造形を選ぶことが日本的なデザインになると考えていたためで、鉄筋コンクリートによる木造まがいに対する批判であった。前川國男の案は審査員の中で一番若い岸田日出刀に支持されたが、伊東忠太に一蹴され入選しなかった。しかし、競技設計をプロテストとする姿勢がモダニズムをめざす若手建築家の共感を呼び、前川國男は彼らのヒーローというべき存在となった。
これらの和風屋根をかけた日本趣味建築は、1930年代の建築家たちの目には帝冠併合式のリバイバルとして映り「帝冠式」と呼ばれた。クラシックを変形した上で和風屋根をかける必要があると考えていた伊東忠太が、正当なクラシックの上に和風屋根をかけている帝冠併合式を「国辱」であると非難しているように、両者は全く別の様式である。しかし帝冠併合式は既に忘れ去られており、和風屋根をかけるというアイデアのみが僅かに思い出される状況では混同されるのも無理からぬところであった。
戦後の建築評論家たちによって帝冠様式=ファシズム論はまるで定説のようにされてきたが、造形統制の欠如は第三帝国様式を推進したドイツと比べれば明かで、統制は建設資材の制限に限られていた。建築意匠に対する指導としてあげられるのは防空迷彩ぐらいで、ビルに瓦屋根を載せろと指導されたことは一度も無い。日本の建築家たちは造形統制がないことに劣等感を抱き、むしろドイツ・イタリアのように造形統制を行うべきだと考えていた。同じ事は軍関係の建築に限っても当てはまる。軍においてすらビルに瓦屋根をかけて国粋主義精神の鼓舞を計ろうとする統制はなかった。1920年代後半から建てられた軍の建築で、伝統的な日本趣味を取り入れた例は遊就館(1931年)や軍人会館など一部に限られる。結局、帝冠様式は思想云々よりも、当時のデザインのブームだったと言える。

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