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13.ショタ・ロスムと他の場所への空中投下

中国は最終的に民衆を鎮圧し、ゴンポ・タシ司令官の軍をチベットからインドへ駆逐することに成功したが、カムとアムドでは、他の抵抗グループがチベットの抵抗精神の火を守るために戦い続けていた。一方、アメリカのコロラドではゲリラ・チームの訓練が続いていた。
キャンプ·ヘイルで訓練を受けることになっていた最初のチベット人グループが到着したのは、1959年5月末だった。チベット人たちは、アメリカに到着するとすぐにコロラド・スプリングスの近くにあるピーターソン空軍基地に飛び、そこから黒塗りウィンドウのバスでキャンプ·ヘイルへ移動した。
訓練を行った教官チームは、のちにフランク・ホロバーの後を継いで「セイント・サーカス」の指揮を執ることになるロジャー・マッカーシーによって選らばれた者たちだった。訓練を受けるチベット人たちは各教官のファースト・ネームしか教えられなかった。キャンプ·ヘイルの責任者は「ミスター・トム」と呼ばれた元アメリカ陸軍空挺部隊のメンバーであるトム・フォスマイヤで、「ミスター・ジーク」と呼ばれた補佐官がいた。彼の本名はアルバート・W・ジレイティスといい、2年後にフォスマイヤに代わって訓練長兼キャンプ指揮官になる人物である。
訓練は週に6日行われ、1日10時間から12時間続き、昼も夜も実習が組み込まれていた。RS-1HF送受信機の使用法、1分間に20語のスピードでのメッセージ送信、メッセージの暗号化と解読をテーマとした無線通信術を「ミスター・レイ」が教える一方。「ミスター・アル」のテーマは兵站術だった。野戦医術と応急処置は「ミスター・ハリー」が、「ミスター・ケン」こと作戦将校ジョン・ケネス・クナウスは共産主義とプロパガンダの歴史について講義し携帯用複写機の使用法とチラシやパンフレットの製造法も教えた。
訓練地域や射撃訓練所では「ミスター・ビル」が拳銃、サブマシンガン、ライフルなど小火器の使い方を教えた。訓練に使用したライフルの中には、リー・エンフィールド・ナンバー4三〇三、スプリングフィールドM1917三〇、スナイパー用を含むガランドM1三〇/〇六が含まれていた。さらに、3.5インチ・ロケット・ランチャー、60mm軽迫撃砲および81mm中迫撃砲、57mmおよび75mmリコイルレス・ライフルといった、援護用武器の使い方も教えられた。一方、「ミスター・ロイ」は奇襲をはじめとする少人数部隊の戦術や、パラシュートで投下される補給物資および兵員を受け入れる際のDZの選定とマークの付け方を教えた。他には、野外生活術、読図と航法、爆破、破壊工作、ブービー・トラップ、地雷敷設、戦闘生存、心理戦作戦、野戦医術と応急処置、諜報と地下ネットワークの確立、車輛および軌道車の運転などのテーマがあった。訓練生はまた、「ミスター・ジャック」によるパラシュート地上訓練をうけたのち、コロラドのパッツ・フィールド空軍基地で3度の降下訓練を行った。
訓練が完了すると各チベット人グループはキャンプ·ヘイルでチベットに戻る日を待った。降下予定日の1週間から10日前に、1グループが沖縄の嘉手納空軍基地に飛び、チベット入りする際にメンバーが着用するチベット人らしい服をもらうことになった。携帯武器、地図、コンパス、双眼鏡、信号プラン、応急処置の装備、サバイバル用品など、任務に必要とされる装備も支給された。その後、作戦に関する詳細なブリーフィングを受けてから、東パキスタン(現バングラデシュ)のケルミトラにあるセイント・バーナム前線基地に飛び、そしていよいよ1959年の後半に、CIAは17人のキャンプ·ヘイル卒業生たちを、7ヶ月ほど前にゴンポ・タシ司令官の一時的な本部のあったラサから320km北東の山岳地帯、ショタ・ロスム地域のチャクラ・ペルベルにパラシュート降下させた。
最初の空中投下による補給で、5人の訓練生たちは約100人のゲリラに守られていた青海に向かって去った。ショタ・ロスムは、長い間、抵抗の基地となり、チベット中から大量の抵抗戦士を集めたていた。短期間のうちに、その数は地元の抵抗軍と他の地域から来たカンパたちから成る1万以上の抵抗組織に膨らんだ。軍隊はほぼ毎月の空中投下によって補給されてよく装備されており、チベットで最大の抵抗組織になっていた。中国人が後退しているように見えながら抵抗活動や襲撃が広範囲におよび行われた。しかし、その状況は長くは続かなかった。
人民解放軍は大きな作戦のために準備する時間を取り、そして時が来たとき、4つの師団がゲリラを取り囲み、攻撃するために、4つの方向からショタ・ロスムに移動した。空襲は、同時に実施された。人民解放軍と闘うためのレジスタンスの最善の努力にもかかわらず、人民解放軍は明らかに数で上回っていた。再補強された人民解放軍によって裏をかかれたのである。森林の全地域がレジスタンスの最後の形跡を取り除くために火にかけられた。ショタ・ロスムの地域を一掃するために1ヶ月もかからなかった。この特別の作戦では、歩兵と騎兵からなる40,000人の人民解放軍は、チベット自治区、四川省、そして青海省の3地方から従軍していたのである。
5人の訓練生は後にインドに脱出することができた。初期に青海に行くために割り当てられた軍を伴ってチャクラ・ペルベルを去った5人の訓練生たちはその行き先に到達できなかった。彼らは途中で、アムド・トマ地域のダムシュンにおいて、カムの他の地域からのローカルな抵抗軍と同様の抵抗軍に出会った。戦いでは彼らに参加したが、彼らはさらに進めることができなかった。組織の数が増加し、パラシュートによる物資投下は定期的に行われた。11人の訓練生のグループもまた後にダムシュンにパラシュート降下した。これら11人の訓練生のうち6人が、既にナムツォにパラシュート降下しており、地域内の複数のゲリラとの接触することに失敗していた。彼らはインドに、そして最終的に再降下のために訓練キャンプに戻った。
中国軍はショタ・ロスムでの捜索作戦を行っているのと同じ頃、ダムシュンにおけるゲリラ基地もこうして同じような運命に出会い、航空機や戦車を持つ人民解放軍襲撃され、壊滅させられた。1人の生存者がいたが、捕えられ、17年間投獄された。
6人の訓練生のグループは、11人がダムシュンにパラシュート降下したのとほぼ同時期に、マルカムにパラシュート降下した。このグループはまた、複数のゲリラたちに接触することができなかった。そして食べ物や可能なゲリラの新兵のために地元の家族と連絡を取ることを余儀なくされた。中国軍はマルカムへ引き返し、彼らは人民解放軍に囲まれた。人民解放軍は5人を殺害し、6人を捕え、数年間投獄した後に釈放され、最終的にインドに行った。

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