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28.クラス旅行

函館と言う新しい町に馴染むことで精いっぱいの1年生の時や、大学受験の勉強に追われる3年生とは違い、高校2年生の時の思い出は少ない。しかし、2年生の時も年間イベントのスケジュールはちゃんとあるのであって、それに参加していたので思い出がないわけではない。それでも、なぜか2年生の時の印象が薄いのである。
2年生の時のビックイベントは、やはりクラス旅行だ。我が母校には修学旅行がないのは前述した。その代わり、1年生の時は学年全員の研修旅行、2年生の時はクラス単位でのクラス旅行に行くことが半ば慣例化されていた。当然、クラス旅行には私も参加して、青森の八甲田山や奥入瀬渓谷、十和田湖の観光に行った。
当時はまだ、青函トンネルはなく、青函連絡船だけが函館と青森を結んでいた。どういう経緯で旅行先が青森になったのかは忘れてしまったが、北海道の人間は島抜け(本州に渡ること)願望が強く、1泊2日で簡単に行ってこられる本州がたまたま青森ではなかったのではないだろうか?
確か当日の集合場所は函館駅前だったと思う。そこから青函連絡船(当時はまだ、青函トンネルはない)に乗って一路青森へ向かう。青函航路は、本州・北海道間の一般的な移動手段が鉄道であった時代には、メインルートの一部を担っていた。青森発着の特別急行列車(「はつかり」「みちのく」「白鳥」など)や夜行列車(特急「はくつる」、「ゆうづる」、急行「八甲田」、「十和田など)、函館発着の優等列車(特急「おおぞら」、「北斗」、「北海」、「おおとり」、急行「宗谷」、「ニセコ」、すずらん」など)や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組み、函館では深夜・早朝に発着する例も見られたが、札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。
クラス旅行の費用は生徒たちの積立金で賄われていたと思うが、青函連絡船の普通運賃2,000円は実費だったと記憶する。私にとっては初めての青函連絡船であった。全盛期には。本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じ、「国鉄離れ」の加速で歯止めが効かずに末期には閑散とした状況を呈した。
確か、函館出航は午前10時ころだったと思う。所要時間は4時間だ。青森港に着くと、バスが待っていて、国道103号を飛ばして早速我々を八甲田山に案内した。八甲田山には東北大学理学部附属八甲田山植物実験所(現:東北大学植物園八甲田山分園)がある。東北大学に進学した我が母校のOBが植物生態学や花粉分析を中心とした日本の山地・高山・火山の植物学的研究などについて色々語ってくれたのだが、あいにくの雨で、我々悪童たちは早く今夜の宿に着きたかった。
宿泊したのは八甲田山に近い酸ヶ湯温泉だった。季節的にオフシーズンだったのか、宿泊客は少なかった。6人ごとくらいに部屋割がなされ、荷物を置いた我々は早速温泉に向かった。そこで事件は起こったのである。
酸ヶ湯温泉で泊った旅館の浴場は混浴ではない。男湯と女湯の間には岩が積まれてあってそれが仕切りになっていた。そこで誰かが女湯を覗こうということになり、間仕切りの岩を登り始めた。私も例外ではない。ただし、女湯に客がいないという前提で・・・実際、女湯には誰もいなかった。みな思春期真っ盛りの16,17歳の男である。女の裸に興味がないと言うと嘘になる。覗きがエスカレートし、誰もいないとわかると、誰が言い出したのか分からないが、女湯に浸かろうと言う話に発展し、何人かが女湯に入って、私もそのあとに続いて女湯の湯船で平泳ぎして遊んだ。ところが、誰もいなかった女湯だったが、他の女性客が入ろうとしていて、我々の所業を見ていたらしく、後々問題になった。
夕食時、担任だった世界史の笹原先生が、先ほどの風呂場での我々のご乱行が問題になったと言って、食事時に見せようと思っていたエッチなカラオケビデオをお預けにした。昔は演歌やムード歌謡などのカラオケビデオにはアダルトなものが多かったのである。しかし、そんなもので怯む我々ではない。
引率の笹原先生が眠ってしまうと、クラスの悪童どもが一つの部屋に集まって酒盛りと喫煙の宴会が始まった。誰かがサントリーオールドなどのウイスキーのボトルを何本か持ってきており、タバコはそれぞれが持参したものである。一番覚えているのは、タバコのフィルターを切り取って、ゴロワーズのような両切りタバコのように吸ったことである。はっきり覚えているのはここまでだ。
酒の方はまだアルコールに対する耐性が形成されていなかったので、飲みすぎて気分が悪くなった。酔い覚ましのつもりでもう一度温泉に入ろうと浴室に行って湯船に浸かっていると急に吐き気がして風呂場で嘔吐してしまった。普通の人ならここで酒は止めて冷たい水でも飲んで眠りに就くのであろうが、私は違っていた。まだ飲み足りない気がして自動販売機で日本酒を購入し、自分の寝室で取りつかれるように飲んだのだ。おそらくこの時期から私はアルコールをコントロールして飲むことが出来なかったかもしれない。後年、アルコール依存症になったのも当然だ。
翌日は最悪の二日酔いで悩まされ、バスの中でぐったりしていた。奥入瀬渓谷も十和田湖もゆっくり楽しむ余裕は私には無かった。それなのに帰りの青函連絡船の中や函館に着いてからも、まだ懲りずにウイスキーを飲んでいたので、寮に帰りついたときはさぞ酒臭かっただろう。

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