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リタン(理塘)から来た男

2001年10月12日。いつものように夕方、MOONLIGHT CAFEでチャイを飲んでいると、同じ9-10-3に滞在している日本人の青年が話しかけてきた。話を聞くと、もうすでに滞在100日を越えているのだと言う。
「どうして?こんな小さな町で100日もいたら飽きるでしょ?」
と聞くと、
「足を捻挫してしまって動けないんですよ」
と言った。所謂、旅先の沈没者だ。私はチベット人にCADを教えると言うボランティアの仕事(と言いつつここ一週間、ツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラの2人からは何の連絡もなく授業に現れなかった。一体どうしているのやら?もしかしてCADを諦めたのか?不安は積っていた)毎日をしているので、この小さな町でも何とか退屈しないで済んでいたのだが、彼はどうやって暇を潰しているのだろう?9-10-3の日本食レストランの座敷コーナーでいつも日本人を集めて何やらやっているのだが、後で別の人から彼の話を聞いて見たところによると、日本人相手に占いをしているとのこと。いささか(かなり)妖しげな青年である。どうも1回の占いで100ルピーもらっていると言うから逞しいと言うかセコイと言うか・・・海外で日本人同士かたまってワイワイやるのは症に合わない私は仲間に入らなかったが、私がチベット人相手にCADを教えていることや設計の仕事をしていることを告げると、是非、部屋に訪れたいと言う。まあ、いいか。今夜にでも部屋に来たいが如何なものかとチャイを飲みながら喋っていると、一人のチベット人のオヤジが近づいてきて、我々に話しかけてきた。
「オレはついこの間インドに逃げてきたのだが、英語がわからなくて困っている」
そういうオヤジであるが英語力なら私と同じ程度だった。どこで勉強したのだろうか?私は気軽なボランティアで、滞在も3ヶ月と知れているが、そのオヤジはインドに定住してビジネスレベルの英語を勉強し、職を探さなければならない。来たばっかりの難民には辛いことだろう。しかも二度と故郷チベットへは帰れない。帰ったらそのまま監獄行だ。
「それは大変だね~~~それでチベットのどこから来たの?」
と尋ねると、
「カムだよ」
私はカムと聞けば放って置けない達である。勇者の地=カム。聞き捨てならない。
「カムのどこ?チャムドのあたり?」
私が興味深そうに突っこむとオヤジの目が煌いた。「お前、カムを知っているのか?」といったところだろう。ますます私に興味を持ったらしく嬉しそうに話を続けた。
「リタンって町を知っているか?」
リタンと聞けばますます私の興味を惹いた。
「リタンと言えばゴンポ・タシの古里だよね」
「え???ゴンポ・タシ?」
私のチベット語の発音がいけなかったのか、ゴンポ・タシの「ゴ」の発音をゴとグの間の音で言ってみた。日本語だと表記できないのでグンポ・タシとしておこう。
「グンポ・タシ!!!」
「おお、グンポ・タシか?あんたグンポ・タシを知っているのか?」
「知っているも何もオレはグンポ・タシを尊敬している。彼は最後まで闘ったな」
「そうだ、しかしすでに亡くなってこの世にはいない」
オヤジは最後に「ファイト!!!」と呟いて私に握手を求め立ち去っていった。彼は今ごろどうしているのだろうか?インドに無事定着できていたらいいな~と思う。ここでもまたチベット難民の必死で生きる姿を見たような思いがした。
ここでリタン(理塘)という東チベット(カム)の町を紹介したい。かつてはチャムド(昌都)を中心とするチベットのカム地方の町であったが、現在は四川省カンゼ(甘孜)チベット族自治州に編入されている。盆地状の大草原の一角にある小さな町で、町の北東にリタン・ゴンパ=チャムチェン・チュンコルリンがある。ダライラマ3世が建てた僧院でダライラマ5世の頃拡張され、リタン版大蔵経で有名になった。かつては3700人ほどの僧侶を擁するカム地方最大の僧院であった。ちなみにダライラマ7世と10世はリタン出身である。町の南西には7月でも雪を頂く5064mの帽合山が聳えている。
リタンに行くには、まずは四川省の省都である成都の新南門バスターミナルからバスに乗り、15~16時間かけてダルツェンド(炉城鎮、またの名を康定という)まで行く。そこですき間だらけのおんぼろバスに乗り換え、所要時間13~14時間でリタンに到着する。おそらく一日では着かないだろう。途中4405mの峠を越えると森林地帯(近年乱伐が進んでいる)から草原地帯に入る。夏には競馬祭りが開催されるそうだ。
リタンはまたリタンパ=リタンの男という名前があるように、ただでさえ勇猛なカンパ(カムの男)の中でも筋金入りのカンパとして有名で、中国のチベット侵攻に対して最後まで戦ったゲリラ組織「チュシ・ガントク(4つの河・6つの山脈)」の総司令官で私が尊敬するゴンポ・タシ・アンドゥクツァンを生んだ町でもある。個人的に私はこのゲリラ組織に愛着を持っている。ゴンポ・タシはダライラマ14世に次いで尊敬する人物である。
1955年、中国の強制的な民主改革に反旗を翻したカンパ達は首長に従い、ライフルと剣を握り締めて駿足のポニーにまたがり、カムの人民解放軍のキャンプに襲いかかった。そして次第に組織化されて行き、カムとアムド(東北チベット)の伝統的な別称である「チュシ・ガントク(4つの河・6つの山脈)」を名乗るゲリラ組織が新しく発足した。一方でダージリンに住むダライラマ14世の2番目の兄であるギャロ・トゥンドゥップが1951年にCIAと共に作り上げた情報収集作戦がさらに精度を上げて推進されることになる。少人数のカンパ・ゲリラがひそかにインドやタイ経由でグアム(その後、沖縄経由でアメリカのコロラドにあるキャンプ・ヘイルへ送り込まれるのだが・・・)に送り込まれ、近代的な兵器やテクニックを教え込まれた後、夜間、チベットにパラシュート降下してレジスタンスを組織していった。この反乱に対し人民解放軍は15万人を超える14師団で徹底的に弾圧した。統計によると中国軍は4万人の戦死者が出たそうである。逆にカム地方では、ジュネーブに本部を置く国際法学者委員会の1959年と1960年の報告書によればチベット史上かつてない大虐殺が行われたと証言されている。何千と言う公開処刑が行われ、子供は両親を、弟子はその導師を殺せと強いられたらしい。
「チュシ・ガントク(4つの河・6つの山脈)」はまたダライラマ14世の亡命の護衛を勤め、無事インド脱出に成功させた。国境のゲートをダライラマがくぐるのを確認した彼らはまた戦場に戻り、多くの命が失われた。しかしその後もネパールのムスタン地方に拠点を設置して1970年代初頭までチベットに侵入し、人民解放軍をたびたび襲うことになる。ところが、米中関係が改善されるとCIAのカンパ・ゲリラへの支援は打ち切られた。また、大国中国との関係を悪くさせたくなかったネパール政府も、各国に傭兵に出しているグルカ兵を招集し、カンパ・ゲリラ掃討を図った。しかし、相手は百戦錬磨のカンパ・ゲリラだ。そう易々と投降するはずはない。結局、ダライラマのメッセージテープをゲリラ基地に持ち込み、説得に成功する。幕切れは悲劇的だった。
最近の話では、トゥルク・テンジン・デレクの死刑判決に対して各国のチベット支援グループが緊急行動を起こし、中国政府に圧力をかけた問題がある。トゥルク・テンジン・デレクは、リタン(理塘)県で人々の尊敬を集めている有名なラマである。彼は2002年4月3日に成都の大広場で起こった爆破事件に関与した疑いで、その4日後の夜、4人の付き人と共に四川省公安当局により逮捕された。TCHRD(チベット人権民主センター)は、トゥルク・テンジン・デレクとロプサン・トントゥプが、即決裁判で決められた死刑に直面している情報を受け取った。2002年12月3日付の「四川人民日報」で確認されたチベットの情報ソースによると、ロプサン・トントゥプは即決裁判で政治的権利剥奪され死刑を言い渡された。トゥルク・テンジン・デレクは2年の執行猶予付き死刑判決を下された。中国の刑法では、求刑後10日間以内に控訴する権利があるが、控訴はほとんど無いも同然である。
トゥルク・テンジン・デレクは、1950年にリタン(理塘)県に生まれ、7歳の時にリタン僧院に入り、高僧ケンスル・シャクパに師事した。トゥルク・テンジン・デレクは1979年、晩年のパンチェン・ラマの講義を密かに傍聴し、中国政府のチベット人に対する無差別な残虐行為についての彼自身の見解を発表した。また、特にリタン(理塘)での破壊されたチベット僧院修復の必要性を強調した。1979年の亡命チベット人代表団による第1回目の調査実施中には、トゥルク・テンジン・デレクは代表団の1人に中国政府のチベットでの僧院破壊について詳しく説明している。1982年代初めには、ダライラマの法話に参加するためダラムサラに赴き、さらに南インドのデプン・タシ・ゴマン僧院に6年間滞在した。1983年、ダライラマは彼をゲシェ・アダム・プンチョクの転生者と認め、テンジン・デレクと命名した。
1987年、トゥルク・テンジン・デレクはインドから帰国。政治活動疑惑及びダライラマとの関係について継続的に監視を受けることとなる。厳しい監視は今年の4月7日に逮捕されるまで及んだものの、それまでずっとトゥルク・テンジン・デレクはリタン(理塘)の福祉活動に大変意欲的に取り組んでいた。
ところが、2005年1月26日に中国の四川省高等人民法廷が爆破テロ事件に関与した罪でテンジン・デレク・リンポチェが受けた2年の執行猶予付きの死刑判決を減刑したと中国国営新華社通信は伝えている。しかし、逮捕・裁判そのものが国際基準を満たしてものではなく、裁判の公正なやり直しが必要なことに変わりない。濡れ衣である元々の判決の誤りを正し、テンジン・デレク・リンポチェが釈放されるよう、中国政府に対し要求されている。

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