【ひとりしずかに】 7月。舞台芸術に関わった経験から生まれた私の嗜好と芸術作品観。

 子どもの頃から、ミュージカルや演劇というものに触れる機会が多かった。舞台芸術と言いきるには拙いが、わりと昔から私はその世界に触れていたのだ。
 これはひとえに母親の趣味が大きく影響している。物心つくまで、というかついてからもしばらくは、上演されている内容をきちんと理解していたかどうかは怪しい。けれど、自分なりに楽しんでいたのは記憶に残っている。
 改めてそんなことを思い返せば、私の趣味嗜好は母譲りなのだろう。小説を読むことは然り、演劇やミュージカルといった舞台芸術、ピアノを習ったり歌ったりという音楽関係などなど。趣味嗜好への影響は、育った環境はやっぱり重い。ただまあ、それが反面教師となる場合も多いわけだが、それはさておき。
 そんな環境の中で育ったので、私が『裏方の仕事』というものに興味を持ったのはもはや必然とも言えよう。
 最初のきっかけはまだ中学生の頃、母方の祖母の葬儀の時だった。その時、叔父がその葬儀場の関係者で、会場の舞台裏の装置やらなんやらを色々見せてもらった記憶がある。それがきっかけで、というのも妙な話ではあるが、舞台の裏側、縁の下の力持ちの仕事というものに、私は一気に惹き込まれた。
 表を飾り参加者や観客から歓声を浴びる方ではなく、人目に触れずそれらを創り上げる裏方を気に入ったあたり、当時から自分の趣味嗜好はずれていたんだろうと思う。それからすぐ後、たまたま選んだ学校での委員会の仕事は、文化祭や体育祭の裏方の役目も担っていて、偶然とはいえイベントの縁の下の力持ちを直に体感することになった。
 高校に入ってからはなおそれに磨きがかかり、またどうしてもその楽しさを忘れることができず選んだ部活は演劇部。これはもうそのまんま、舞台の裏方の仕事をすることになった。しかし、人手不足やら色々揉め事の先に役者としても立つことになり、拙いながらも舞台役者も経験することになる。なんともはや。
 そうして大学、課外でその道に没入するのかと思いきやそうはならなかった。これはおそらく高校の時の国語の先生の影響だろう、以降についてはどちらかといえば本の読み書きに集中することになり、舞台関係からは少し離れることになる。それでも機会あれば、演劇やミュージカルの情報は目を通していた。ただ役者のことよりも、脚本だったり舞台の構成だったりという方向に目が向いていたのは言わずもがなである。
 大学期は『読む・書く・出歩き』の三つが私の活動だったので、舞台を観に行くということはほぼなかった。本格的に舞台を観に行くのは、社会人になってある程度お金の融通が利くようになってからである。
 とはいえ、世の専門家はもとより舞台鑑賞が趣味の人々ほど、専門的に勉強していたわけではないし、それだけの数を観てきたわけでもない。小説やエッセイなどの中で登場したものを、自分なりに調べたり底本を入手したりして少しずつ補完している、というのが現状だ。
 また、高校の経験から自分で脚本を書いてみたこともある。完成まではしていないものの、とある曲を聴いてそのイメージを元に、不条理劇のようなものを意識して創った。完成させたらどこかで使ってみたい、と自分の中では思える内容になっている。
 今年はおそらくこれまでの中で一番舞台を観に行っている年になっているわけだが、ここで思い返すのは演劇作品の評価についてだ。

 それを最初に気にしたのは、全国高等学校総合文化祭の、高校演劇コンクールの表彰だった。
 私の所属していた演劇部はそこにノミネートすることはなかったわけだが、開催会場県の高校ということで、当日はスタッフとして参加していた。当然、参加校の上演を間近で観ることができて、自分たちとのレベルの差に圧倒されていた。同じ高校生なのに、と悔しい思いをしたのを覚えている。
 それはまあさておき、問題というか私の周辺で色々と物議を醸すような話になったのは、最優秀賞と優秀賞、要は上位の発表の後だった。
 全国レベルということもあって、いずれの高校の演劇部も技術といい演出といい演技といい優れたものだったわけだが、その中でも間違いなくこれだろう、という作品が選ばれず(とはいえ次点の優秀賞には当然入った)、大方の予想に反して別の高校の作品が最優秀賞に選ばれたからだ。
 私は別にそういう評価なのか、という程度の考えだったが、同じ部活の仲間は納得がいかない、などと語り合っている。技術的にも演出的にも、優秀賞の高校の方がよかった、などと。
 私は彼らのそんな愚痴をまあ話半分にに聞き流しながら、終わってから別の高校の友人に聞いてみようと、呑気に構えていた。実は旧い馴染みが二人、偶然にもそれぞれ別の高校で同じく演劇部に所属しており、各高校の意見がこっそり聞けるかな、とある意味で楽しみにしていたのだ。 
 その日の夜、二人の友人にそれぞれ連絡してみたら、どうやら向こうも同じ意見が出ていたらしい。片方はもともと荒っぽいところがある子だったので、ものすごい勢いでまくしたてられた。別にそれはいつもの事だからどうってことはなかったんだが。
 二人のそれぞれの意見を総括すると、やはり最優秀賞にあの作品が選ばれたのは納得如何というより理由がわからない、ということだ。シナリオは確かに良かったが、それ以外の部分については普通より秀でている、くらいの感覚じゃないかと。
 面白いものだな、とその時は私自身も答えがわからず、結局高校卒業するまでその答えは見つからなかった。
 しかし大学に入ってから、読んでいる本の中からヒントがみつかったのだ。そこから導き出されたのは、

『技術的に素晴らしいものは、条件が揃えば誰にだって創れる。ただし、今の等身大の自分たちから見えるものを表現し、その刹那の風景を切り取れるかは、それとはまた別の話なのだ』

と、どの本かまではもう記憶が曖昧だが、そんなことだった。
 演技や舞台装置、そして脚本は、資源(たとえば時間であったりお金であったり)を費やせばいくらでも質の高いものを創り出せる。しかし、今の自分自身が見えているものは今しか見えないものであり、等身大の自分たちの世界をそこに表現できるのは、今その場に居る自分たちだけなのだ。過去を振り返るのではなく、未来を予想するでもない。ただ目の前に今在るものを、ただあるがままに表現する。あの時最優秀賞に輝いた舞台は、確かに等身大の彼らの声そのものだったのだ。誰にでもできることではない、ただ今の自分にできることを表現する。その点においては、確かに彼らは抜きん出ていた。間違いなく、一番に。

 と、そんなことに思い至ってから、以降舞台を観るときにはあまり前評判を見なくなった。そしてあまりにも商業の臭いがするものを避けるようになった。具体的に何とは言わないが、なんとかを舞台化、とかそういう類のものである。
 もちろん脚本や構成、演出によっては、数多の目を惹く新しい舞台作品となるであろう。しかし、大々的に謳っているものほど、狙いがとても透けて見えるのだ。歯に衣着せぬ言い方をすれば、とても気持ち悪い。舞台そのものを楽しもうとしても、その裏にあるものをどうしても勘繰ってしまう。
 とはいえ、その道の玄人のようにそこまで多くの作品を読んだり観たりしているわけではないので、目利きという点においては私はまだまだ未熟である。ゆえに言い方はよくないが『ハズレ』を引くことももちろんある。しかし、これも勉強、経験のひとつだと積み重ねているところだ。
 さて、誤解を避けるために補足しておけば、別に私は古典劇こそが至高で新興演劇は下劣であるとかそういうことを言いたいわけではない。新興演劇だって当然素晴らしいものはいくらでもある。ただ、明らかに狙いが透けて見えるものについては、どうしても私は受け入れ難いというだけの話。そこは個々人の趣味嗜好であるので、これ以上は語るまい。
 そうして生まれる評価も、前述の理由からあまり気にしなくなった。SNSなどでの論評もよほど目を惹くものでなければまあそんなものか、程度に流し見る程度だし、私自身も好き勝手に雑感を残していたりする。
 私が気にしていることはただひとつ。舞台そのものが生きているか。ホンが声を伴って、私に語りかけてくるのか。それだけである。

 今回は舞台の話が中心であるが、私のその考え方は書籍や音楽など、数多のものに於いても基本的な考え方になった。特に小説においては、以前にも紹介したものを改めて引用する。

『物語は、物語自身のために存在する。物語は一人で歩いていき、次々と新しい伝説のベールを纏っていく。たかが一個人の表現手段に使われるほど、物語は小さくない。物語をあたかも隷属するもののように扱うのは、物語を貶めている証拠だ』

 芸術作品というのは、人が生き、死んでいく過程で生み出されるものだ。やや語弊はある言い方だが、それを蔑ろにしていいのは作者のみ。作者以外が介入して良いものでは決してない。
 昨今の様々なジャンルの風潮を見るに、どうしてもそのように考えてしまう。現在の業界はまさに『他人の褌で相撲を取る』ことが罷り通っている気がしてならない。
 創作者と利用する方が互いに納得していればそれでいいじゃないか、という意見もあるだろうが、それはまた別の話だ。惰性にただ流されて存在する作品そのものを生かせる(活かせるに非ず)ものか。私が考えているのはただそれだけである。

《 7月の終わりに 》

 今月はこれだけにて失礼します。ちょっと色々ありまして、現在調整中。落ち着き次第、積み重なっている諸々を出していくつもりです。
 予定は乞巧奠に合わせてひとつ出す。せめてこれだけは頑張りたい。

 それではまた、別の物語で。

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