いい人がいい人をやめるとき。
いい人、と言う言葉はその響きや言葉が本来持つ意味に対して、なんだろうか。ネガティブな印象があるように僕は思う。
それは「いい人」という言葉のなかに、どうしようもない弱さを僕は感じとっているからかな、と考える。
自分の経験を振り返れば、いい人というのは二種類あって、
・望んでなっている「いい人」
と
・仕方なくなっている「いい人」
がいる。おそらく。
僕らは往々にして、後者のいい人になってしまう自分を知っている。
状況や様々なものに負けたことを自覚しているからこそ、この後者への嫌悪感は強いのだと思う。
望んでやるいい人、というのはなんだろうかと考える。
それは人の気持ちをただ見つけてくれる人で、そして幸せを祈っていてくれて、行動に移してくれる人じゃないだろか。
そういう存在に自発的になれた時というのは、正直とても気分が良い。
関わった人よ、どうか幸せに。と本心から願える自分であることが嬉しいのかもしれない。
もしかしたらこれを読む貴方は「仕方なくなっているいい人」という自分にうんざりしている人かもしれない。
本当にきついよね。自分を押し殺しているのは誰よりも自分がわかってて、それでいてそうする他がない、という。
人は選択肢がない時が1番辛いとなにかの本で読んだことがある。
望まぬいい人をどうすれば辞められるのか?
これはとても難しい。
でも、確実な手段が1つあって。
それは貴方にその「いい人」を強制してきた人たちと一切の縁を切る事だ。
貴方に割り当てられた「いい人」という役割が自力で脱げないなら、そもそもその舞台から降りてしまえば良い。
やってみるとわかるけど、意外なほどに特段問題は起きないし、なんならスッキリする。それもめちゃくちゃスッキリする。
自分がその役割を押し付けられていることにすら気づけない人もたくさんいる。
特に家族の中でその役割を担当させられている人は、1人暮らしを始めた時にあまりの快適さに驚くものだ。
かくいう僕自身もその1人で、結局家族が許してくれそうな範囲でしか物事を考えてこれなかった。
それがいつしか、自由になり、今はこうして筆を執っている、というのはなにか不思議なものを感じる。
いい人がいい人をやめる時、というのは、多分、多分なんだけど自由に生きられる時で、それは巣立ちで、卒業で、新しいスタートで。
よくわかんなくなったけど、そういうものが貴方にあったとして。
その場に立ち合うことはできないと思うから、僕は先に祝っておく。
おめでとう、新しい貴方。
新たな自分と良い旅を。
僕は肉が好きです。ステーキ食いたい。