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マヌスクルス 第一話 遭遇

「AIが人間の知能を超えるなんて、面白いじゃないですか」

 最終電車に揺られながら、どこかで聞きかじったニュースを何となく思い出し、その浅い感想を、脳内の、なるたけ音が響かないような隅で呟きました。
 この内的症状を自己分析するに、心の声がふとした拍子に外へ漏れ出しても構わないように、という配慮なのでしょう。およそ有り得ないことにまで気を遣っている自分の矮小さに嫌気が差します。

 真っ暗な窓に反射する自分の姿をぼんやり見つめながら、何でもいいから世の中が大きく変わるような事態が起きて欲しいと願いました。些か不謹慎ではありますが、たとえそれが多くの人命を奪うような大災害であっても。
 AIに関するニュースを覚えていた理由も分かります。——意識を獲得したAIが、オンライン化された全てのネットワークを乗っ取ってロボットを操り、身勝手な人間どもを殺戮し始める——といった、よくあるSF映画のシナリオが現実化するのを密かに望んでいるせいでしょう。シンギュラリティ万歳!

 全ての希望を吸い上げて茂った諦観の蔦が、顔までもを覆うようにして全身に絡みつき、まるで逃れられないのでした。
 近頃は生きる気力すらも失い、およそ自助というものの一切を投げ打っておりましたが、さりとて酒浸りや薬漬けになって社会から完全にドロップアウトするほどの勇気は無く、アウトローに転ずる気概も無く、ただ毎日を、時間を、つまりは自分自身の寿命を、何も有意義なものに変えられないまま排泄するように生きていました。

 電車を降りてホームの時計を見ると、とうに零時を回っています。ホームを吹き抜ける夜風が心地良く、思わず風上へ向かって顔を向けると、上り方面へ向かって駅から幾分離れたビル、その壁面に付いた、箱型の電飾看板が目に留まりました。縦に幾つか並んでいるその一番上、遠目ですが「旅人馬」たびびとうまと読めます。
「旅人馬」——聞いたことがありました。確か、宿に泊まった旅人が馬に変えられてしまう気味の悪い民話だったはずです。こんな名前を付けている店は一体何屋なのかと興味をそそりました。ビルは最寄りの改札とは反対の、南口側に建っています。

 今までこんな看板にはついぞ気付きませんでしたが、普段は人の往来による鬱陶しさで、視野と注意深さを遮られていたのでしょう。遅い時間になり、ホームが閑散としていたために気が付いたものと思われます。
 そもそもこんな時間に帰宅する羽目になったのは、遅番の大学生が仕事をすっぽかし、代わりに私が遅番まで働かされたせいです。既に帰り支度を始めていたところだったのに、まったく最近の大学生ときたら。……まあ多少は給料が増えるので、その点は逆にありがたいのですが。
 ——今は訳あって、半年ほど前から学生時分のアルバイト先に出戻りで働いていました。

 一浪して入った三流大学を一年留年して卒業し、正社員の職を求めるも全てお祈りされ、派遣社員として二つ三つ職を変えながら最後はそこそこ待遇の良い企業の契約社員にありついて、十年以上も働いてきました。しかし一昨年の暮れ、業績悪化を理由に突然首を切られ、雇用保険の期間いっぱいまで職探しするも何も決まらず、途方に暮れました。
 そして絶望と貧困に喘ぐ中、近所のスーパーで半額シールの貼ってある惣菜を手にしたときです。学生時分、ごく短い間ですが、スーパーでアルバイトしていたのを思い出しました。そのスーパーを調べてみると、まだ潰れずに残っているようです。

 現在の自宅からは数駅ほど離れていましたが、駅前にあり、前の職場よりもずっと近く、家族で経営している地元のスーパーなので、「ここなら」と思い、電話をかけてみました。当時一緒に働いていた、私と年の近い息子が今は店長になっていて、名前を告げると、嬉しいことに私を覚えていてくれました。昔のよしみで気の毒に思ったのでしょう。「交通費は半分しか出せないし、アルバイトでも良ければ」との条件で、二十数年振りにまたそのスーパーで働く事になったのです。

 仕事の疲れからか、いつも以上に足が重く感じ、ホームのベンチに座ってしばらくぼんやりしていました。こうして独り静かな場所に居ると、冴えない来し方や希望のない行末ばかり考えて神経細胞がショートし、脳が灰色の消し炭になって何も考えられなくなるのでした。
 思考が停止した後には負の感情だけが取り残され、私と母親二人を残して出て行った父親のことなど、もうとうに忘れたはずの過去まで蘇って私を苦しめました。……ただ今日は、のべつ吹いている夜風が痛んでいる体を優しく撫でてくれるようで、心なしか、苦しみが和らいでいます。

 さっきの「旅人馬」を調べようと、長年愛用している丈夫な布地の肩掛け鞄から携帯を取り出し、ここの駅名と「旅人馬」で検索しましたが、何も出てきません。おかしいなあと、今度は地域名を加えて検索しましたが、やはり何も出てきませんでした。検索ワードを変えたりと、もう少し粘れば出てきそうですが、面倒になり、まあいいやとまた鞄に携帯を仕舞いました。

 周りを見渡すと、少し離れた別のベンチに一人だけ若い女性が座っています。まだ上りの電車は動いているので、そちらを待っているのでしょう。私の反対側を向いて携帯の画面を食い入るように見つめています。
「他人には一切関わりたくない」というような雰囲気で、今もし私が発作を起こして倒れ込み、血泡を吹いて息絶えようとも、まるで無関心に携帯の画面から目をそらさぬような気がしました。またもし私がこっそり彼女の後ろへ回ってナイフを振り上げても、その白いうなじに刃を突き立てる瞬間まで、振り返るそぶりすら見せずにあっさり殺されるのではないか……。
 そんな気持ちの悪い妄想をしているうちに上りの最終電車がやって来て、何事もなく彼女も居なくなってしまいました。

 さて私もそろそろ帰るかなと腰を上げると、鞄から桜の花びらが一、二片落ちました。知らぬ間に何処かでくっ付けて来たのでしょう。年を取ったせいか、はらりと落ちる花弁の様子に風情を感じ、私は夜風の気持ち良さも相まって、珍しく遠回りして帰りたい気分になりました。そこで、看板の「旅人馬」が何の店であるのか、現地まで足を運んで確かめようと思い立ったのです。もう少し頑張って携帯で調べれば分かるのでしょうが、「何でも携帯で調べて終わり」では、それこそ風情がありませんから。

 私の住む街に一つしか無いこの駅には、北口と南口がありました。
 自宅がある北口方面は主に住宅街となっており、店も、スーパーやドラッグストアなど生活に近いものが中心となって発展し、逆に南口方面は、風俗店や飲み屋などが多く、繁華街として発展しておりました。件の「旅人馬」もこちら側にあるようです。
 普段の生活に必要なものは全て北口方面に揃っていて、何も不自由はありませんでしたし、また生来から出不精な性質の自分は、こちらに引っ越してから彼此十年は経とうというのに、ほとんど南口方面に出たことがありませんでした。

 最後はもう四年ほども前になるでしょうか、昨年亡くなった母親が、いい年をして結婚もしていない私のことを心配し、田舎から様子を見にやって来た時です。駅へ迎えに行っても見当たらず、電話をかけると、どうやら慣れぬ遠出で勝手が分からずに、改札を間違えて降りてしまったようです。そこで南口の方へ回り、ついでに駅前を軽く案内してやりました。

 久しぶりに南口からを出ると、ロータリーの手前に停車していたタクシーが、ちょうど客を乗せて出て行くところでした。右手のビル、一階はパチンコ屋だったはずなのに、いつの間にか自身も利用している大手の携帯ショップが入っています。北口方面に携帯ショップはなく、これまでは隣の駅前にある店まで電車で行っていました。頻繁に利用するような店でもないので、特段不便は感じていませんでしたが、今後はこちらを利用するようにしましょう。
 四年も経てば駅前もそれなりに様変わりしているものだなと思いながら、「旅人馬」のビル看板を見た、左手の方へ向かって歩き始めました。

 何となくの方向感覚を頼りに、まずは線路に沿って真っ直ぐ歩いて行きました。もう少し賑やかなものかと期待していましたが、やはり零時を回るとほとんど人通りもなく、数人の酔っ払いにすれ違ったくらいで、意外なほど街は静かです。
 この辺りだったかと、目星を付けておいた先で立ち止まると、右手の通りの先にそれらしいビルが見えました。
 通りへ入って進むと、直ぐ先でまた右へ曲がる道があり、その角の向かいにある背の高いビルを見上げると、予想通り駅から見えた「旅人馬」の入っているビルでした。迷わずに辿り着いた達成感で、少しいい気になりながらビルの案内板を見ると、そこには「スナック旅人馬」と書いてあります。何の事はありません、ビル看板の方は業種が省略されていただけでした。

 まあそれにしても「旅人馬」という名は珍しいなと思いましたが、これもよく見ると「旅人鳥」たびびとどりとあり、単純に私の見間違えでした。おそらくは、渡り鳥を旅人に見立てた名前なのでしょう。思い込みもありますが、遠目で鳥の字が馬に見えていたのです。実に馬鹿馬鹿しい、道理で検索しても見つからない訳です。昔から目の良さだけは自慢でしたが、こんなところにも老いを感じ、何とも詫びしい気持ちになりました。

 やれやれと落胆し、入り口の短い階段に腰掛けて一息つきました。駅から多少離れており、今日は日曜の深夜というのもあるのでしょう、周りには誰一人居らず、何処か遠くの方で、低い唸り声のような、トラックの走る音がしていました。夜も深まり、ぐっと冷え込んでいます。
 普段は節約しているのですが、たまには良いだろうと、近くの自販機で温かい缶コーヒーを買い、また階段に戻って座り直しました。コーヒーを飲むうちにお腹が空いてきて、帰りがけにスーパーでもらった林檎を鞄から取り出し、皮のまま齧り付きました。だいぶ古く、ザリザリとして砂を食べているようでしたが、昔から新鮮な林檎よりもこうした古い林檎の方が好きで、喜んで食べました。

 思うにこの趣向は、子供の頃に形成されたものでしょう。母親は昔、歯が無く柔らかいものしか食べられなかった曾祖母のために、古くなった林檎をよく買ってきていました。それは婆さんのだから食べるなと言われていましたが、目を盗んでおやつ代わりにこっそり食べていたのです。
 他にも、湿気たスナック菓子やら、萎んだ綿菓子やら、一日置いた唐揚げやらと、多少くたびれた食べ物を好むところがあります。ただし、おにぎりの海苔はパリパリでなくてはいけません。

 林檎を一気に食べ終え、残りのコーヒーも飲んでしまうと人心地が付き、「はあーっ」と、坂道を上り終えたように深く長い溜息を吐いて立ち上がりました。空き缶をゴミ箱へ入れて、家に帰りましょう。

 まずは線路を越えて北口方面へ抜けようと、来た道を戻って行き、線路沿いの道に出ると、もう酔っ払いすら居なくなっており、見渡す限り誰も居ません。自宅は駅から西側方面、元パチンコ屋を少し先へ行った場所の踏切を渡れば直ぐなので、ここまで来た道をそのまま戻って行けば早く帰れるのですが、どうせここまで来たのなら駅を回り込むように遠回りして帰ろうと、線路沿いの道を更に駅から離れるように東側へ向かって歩き出しました。そのうち踏切があるはずなので、そこを渡って北口方面へ抜けてから、また駅の方へ線路沿いに戻って帰る算段です。

 誰も居ない開放感から小声で歌など口ずさみつつ、のんびり歩いて行きました。そして雑居ビルに囲まれた狭い路地を通り過ぎようとした時です。その路地の奥から、赤ん坊の泣き声と女性の喘ぎ声を合わせたような、大きく高い声がし、思わずドキリとして立ち止まりました。直ぐに耳をそばだてましたが、一度きりで、もう何も聞こえてはきません。おおかた盛りのついた猫だろうとは思いましたが、もっと人の声に近かった気もします。ひょっとしてこの奥で何か……と、いやらしい光景を想像して些か興奮しました。帰りを急いでいる訳でもなく、スケベ心もあって声の正体を確かめたくなり、辺りを窺うと、忍び込むようにして路地へ入ったのです。

 外灯も無く、やけに暗い洞窟のような路地を、線路沿いの道からこぼれてくる光を頼りに、できるだけ足音を立てぬように進みました。先ほどの音が聞こえた辺りまで進むと、大きなビルの裏に突き当たり、路地の入り口からはよく見えませんでしたが、そこから左右に来た道と同じ程度の広さの道が伸びています。ビル上階の非常灯から降って来る赤い光が、どこか如何わしげに辺りを照らしていました。

 角に立ち、キョロキョロと左右の道を窺ってみましたが、その先にも外灯が無いのか、ほとんど光が差さずに先の様子がよく見えません。人の居る気配などまるでなく、一面壁のように建っているビルの冷たく無機質な雰囲気に、つまらないスケベ心から、わざわざこんなところを見に来てしまった自分をくだらなく思いました。すると向かいの角、建物に張り付くようにして建っている電柱と壁の間、嘔吐物やら犬の小便の汚れやらがこびり付いているような、薄汚いほんの僅かな隙間に、何か動くものが見えたのです。

 ギョッとして反射的に後退りましたが、それは直ぐに電柱の後ろへ隠れてしまったようで、もう姿は見えません。
 驚かさないように、ゆっくり電柱に近付いて、そーっと裏側を覗き込んでみました。すると根本の地面に、大きなネズミくらいの、奇妙な生き物が居たのです。一目には猫の胎児か? と思いました。それというのも、体毛が無く、ツルツルとしていたからです。小刻みに震え、弱っているように見えたので、屈んでよく観察すると、それは全く異形のものでした。

 四つ足で首も手足も異様に長く、まるで大きな蜘蛛のようでいて、首の先には、幅広のクチバシを持った鳥類のような顔がありました。前足と後ろ足は爪先立ちのような格好をしており、後ろ足は不自然に、左右で前後の位置がずれています。
 尻尾は無く、全体的に固く骨張った印象で、真上から見ると、ふしくれだった老人の手のようにも見え、不気味でした。何らか動物の奇形児かとも思われますが、それにしても異様な外見です。背中が擦り傷だらけで、怪我を負っているように見えます。

 私は写真を撮ろうと思い、携帯を取り出すために鞄の蓋を開けようとしました。その時です。
「ギャアアーッ!」と、突然その生き物は人が殺される寸前に発するような、世にも恐ろしい大きな鳴き声を上げました。
 仰天して思わず後ろ手をつくと、ざらついた地面の肌触りが、冷たい恐怖感を伴って背骨から脳髄へと駆け上がってきます。そして次の瞬間、首の後ろにズキンと鋭い痛みが走りました。
「痛っ!」と叫んで思わず首に手をやり、その場に転がると、急速に体から力が抜け落ちてゆき、目の前からまず色が消え、次いで輪郭が消え、存在も消えて、最後に意識が……消えました…………。

「おーい兄ちゃん大丈夫かー? 生きてるかー?」

 ……誰かの声で目を覚ますと、見知らぬおじさんがバイクに乗ったまま私に声をかけていました。荷台の荷物を見るに、新聞配達員のようです。
 私は仰向けで地面に寝転がっており、何か言葉を返そうとしましたが、上手く言葉が出てこず、淀んだ沼の底へ沈んでいるようでした。必死に首だけ動かし、大丈夫、というように、うんうんと縦に振ってみせました。
「飲み過ぎたか? とりあえず生きてはいるな。申し訳ないが、忙しいんでもう行くけどよ、とにかく早く家に帰った方がいいぜ。顔色もすげえ悪いしな」
 おじさんはそう言い残すと、私が入って来た道の方へ、バイクでブウンと行ってしまいました。せめて体を起こすくらいしてくれてもいいのに、と思いましたが、おじさんも仕事の途中でそれどころではないのでしょう。

 何とか自力で上体を起こしたものの、頭は強烈に痛く、バイクが残して行った排ガスの臭いで気分が悪くなりました。
 周りを見渡すと、あのまま道路に倒れ込んでいたようで、すでに空は白んできており、鞄から携帯を取り出して時刻を見ると、朝の四時を回ったところでした。意識を失ってから数時間も経っていたようです。一応、財布の中身なども改めてみましたが、幸い何も盗られてはいないようでした。
 しばらくその場でぼんやりしていましたが、だんだんと思考力が戻ってきて、意識を失う前に見た光景が脳裏に蘇りました。

「……そうだ……あの変なヤツだ……アイツだ……」そう呟きながら、這うようにして電柱に近付き、恐る恐る裏側を覗き込みましたが、やはり、というか、もうそこには何も居りませんでした。
 しかし、つい数時間前のことで、夢や幻であろうはずはなく、はっきりとあの生き物の姿を覚えています。確実にあの生き物は存在したのです。
 額を押さえて頭痛を堪えながらやっと立ち上がり、辺りの様子を窺いました。まだ街はシンと寝静まっています。

 とりあえず動いてみようと、まずは突き当たりから左右に伸びた路地を右側へと進んで行きました。しばらく行くと、またビルの裏へ行き当たり、さっきと同じように左右へ路地が続いています。
 右側は、路地というよりビル同士の隙間という感じで、人ひとりがやっと通れるほどの狭い道があり、駅から歩いてきた線路沿いの通りへ抜けているようです。抜ける先のところに、道を塞ぐようにして背の低い看板が置いてあるのが見えます。

 左側は飲み屋などの裏手らしく、元々が狭い道のうえに、積まれたビールケースや土だけ残った鉢植えなどが乱雑に置かれ、狭い道を更に狭っ苦しくしていましたが、それでもこちらは右側の道よりは広く、まだ道として機能しているようです。障害物に触れないよう注意しながら先へ抜けると、二車線の道路へ出ました。もう少し時間が経てば多少は交通量も増えるのでしょう。道の向こう側の先に、早起きのお爺さんが柴犬を連れて散歩している後ろ姿が見えました。

 そこで踵を返してまた倒れていた電柱のところまで戻り、そのまま真っ直ぐ道を進んで行くと、二車線のそれなりに大きな道路へ出て、ちょうど物流のトラックが目の前を通り過ぎて行きました。道路に面して酒屋などが立地しており、その前には狭い歩道があります。道路に沿って左手に踏切が見えました。当初の目的だった、北口方面へ抜ける踏切のようです。
 ここに来てかなりの疲労を感じた私は、一刻も早くまともな寝床で休みたくなりました。そこでこのまま左手の踏切を越え、帰宅することにしたのです。

 アパートの階段を手をつくようにして上り、動きの悪い鍵をじれったく回してようやく家に入ると、靴を脱ぐなり玄関の床に倒れ込みました。頭はガンガン、喉はカラカラで、しばらく動けずにいましたが、どうにか起き上がって頭痛薬を探しました。あちこちひっ掻き回すも見当たらず、仕方なくの代用として、風邪薬を大量の水で飲み下しました。

 今日も午後一から仕事があったので、とりあえず目覚ましだけはセットすると、四月になってもまだ出してある炬燵にもぐり込んで丸くなりました。早く眠りたいのに頭痛が酷くて寝付けません。ひょっとして例の気持ち悪い生き物がこっそり付いて来たのでは? など妙な不安にも駆られ、炬燵の中を覗いてみたりしましたが、当然、何も居りませんでした。

 今日の出来事は、一体何だったのでしょう。
 路地で見つけた奇妙な生き物……そして突然の昏倒……その時に感じた首すじの鋭い痛み……。

 気絶する寸前を思い出して首すじに手をやると、僅かに腫れているような箇所があります。慌てて起き上がって鏡で確認してみると、ぷつんと赤い虫刺されのような痕が付いていました。今まで頭痛の方に神経を取られて気付きませんでしたが、押すと疼痛があり、それも皮膚の表面だけではなく、筋肉までも痛みます。これは以前、A型肝炎の予防接種を受けた時の様子に似ていました。そうすると、注射器で麻酔薬のようなものを打たれて眠らされたのでしょうか? でもあの時、背後に人の気配は無かったような……。

 夢中になっていて気付かなかったのかもしれませんが、仮に注射を打たれたとして、一体何の理由で? よく分かりませんが、あの生き物は何か特別な、見てはいけないものだったのでしょうか。しかし、そこまでのものなら、いっそのこと殺されていてもおかしくはないはずです。どうして眠らされただけで済んだのか。ひょっとしたら麻酔薬ではなく、何か遅効性の毒物で、結局このまま少しずつ体が弱って死んでしまうのでは……。次々と恐ろしい考えが頭に浮かんできます。

 ……少し冷静になろうと思いました。——そういえば、A型肝炎の予防接種を受けたのは、大学生の頃、一番仲の良かった友人に誘われて、人生でたった一度だけの海外旅行、インドへ行った時の事です。日本とはまるで文化が違っていてカルチャーショックを受けましたが、良くも悪くも大らかで、日本のようにギスギスしたところがなく、意外と私には水が合っているように感じました。

 あんなに仲の良かった友人とも、大学を卒業してからは疎遠になり、もう連絡先すら分からなくなってしまいましたが、一緒に留年して、海外旅行して、あの頃はまだ人生を謳歌していた気がします。一体何を間違えてこうなってしまったのか……彼も何処かで元気でやっていると良いのですが……。


「ピピピピッ!ピピピピッ!」
 ……目覚ましの電子音が神経繊維を直接指で弾いてくるように煩く感じ、苛つきながらスイッチを叩くようにして止めました。もう仕事に出かける準備を始めなければいけない時間です。色々考えたり思い出したりしているうち、いつの間にか寝てしまったようでした。眠気と疲れは全く取れていませんが、幸い頭痛はだいぶ治っており、少しだけ元気が出ました。

 昨日の事は警察に届けた方がよいのでしょうか。しかし、前に財布を拾って交番に届けた際、まるで私が盗んだかのような態度を取られて不愉快な思いをしたので、どうも警察は信用できませんでした。それに、こんな荒唐無稽な話を警察が信じてくれるようにも思えません。若造の警察官に嫌味っぽく、「でも、何も盗られてはいないんですよねえ、夢でも見たんじゃないですか。……もしや、変な薬でもやってるんじゃあないでしょうね?」などと言われ、下手をすればあらぬ疑いまでかけられてしまう場面が想像できました。

 誰かに相談しようにも、彼女はおろか、現在では友人すら一人残らず疎遠になっていたので、独りでどうにかするほかありませんでした。
 とりあえずは仕事から帰ってまた考えようと、着たままだった昨日の服を脱いでシャワーを浴びました。浴室から出て時計を見るとギリギリの時間になっており、びしょびしょの頭のまま下着と靴下だけ履き替えてまた昨日の服を着ると、慌てて家を飛び出しました。

 電車の閉まる寸前に滑り込み、両膝に手をつき息を切らしていると、説教がかった言い方で「危険ですから駆け込み乗車はおやめくださいねー」というアナウンスが車内に流れました。みんなが私を見ているような気がして恥ずかしくなり、「でも一本逃すと仕事の時間に間に合わなくなるんですよね」と、心の中で言い訳しながら、ひとつだけ空いていた席に、急ぎ隠れるようにして座りました。

 電車の窓から、昨日の「旅人馬」たびびとうまならぬ「旅人鳥」たびびとどりの看板が見え、直ぐに視界から飛び去ってゆきました。
 電車に揺られてウトウトしながら、「よし、今度はもっと明るい時間に、もう一度あそこへ行ってみよう」と考えました。乗り越さないよう注意はしていたものの、いつの間にか居眠りしていたらしく、ふと気付くと既に目的の駅に着いており、閉まる寸前のドアをギリギリですり抜けて、アルバイト先のスーパーへ向かいました。


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