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ナチュラル

きちんとしたnoteを書くのは久々な気がする。

タイで生活していると、生活の一瞬一瞬に感情が芽生えることが多く、それらをこれからどのような形で残していこうかと最近よく考える。


ここ2日間、先生のご実家にお世話になってきた。先生のご実家に行くのは約半年ぶり。以前来たのは私がここにきてまだ間もない5月の中旬である。

アクシデントがあり帰り着いたのは予定より大幅に遅れた午後7時前。アパートに入るための小道の前で車をおろしてもらい、顔を出し始めた星空を眺めながらアパートまで帰った。帰り着いて荷物を置いてすぐ、今こうしてパソコンを広げて書いている。


頭に思い浮かんだことは、ただ単にいい休日だったなぁ、ということと、約半年前先生のご実家にお世話になった時と比べて、今自分自身は何が変わったかなということである。


単純に、ナチュラルである。今の自分はよりナチュラルになれていると思う。


物の選び方や考え方、持ち物や使うもの、ふんわりと描いていたなりたい自分に近づいているように感じる。


いつからかほぼ化粧をしなくなった。今の化粧は、朝水で顔を洗って化粧水、乳液、日焼け止めをつけ、それらによるテカりをおさえるためにベビーパウダーをつける。ベースは終わり。眉毛を書いて、ワントーンだけアイシャドウをつけ、まつげをビューラーで上げてオーガニックのリップクリームをつけて終わり。なんともシンプルである。化粧らしいアイテムは眉毛とアイシャドウだけ。10分あれば十分である。もともと化粧は薄いほうであったが、ここに来た頃は今の2倍時間をかけ、少し濃かった。

きっかけは、化粧をした顔に対して「きれい」と言われつづけたこと。もちろん嫌だと思ったことはない。女性は「きれい」と言われて嫌な人はほぼいないと思う。しかし、私は嬉しいというより、だってそりゃ化粧してるからね、というか、素直に嬉しいと思えず、不思議と違和感を感じた。

タイでは式典の度に、ものすごい時間をかけて化粧や髪のセットをする。私も2度体験したが、とても疲れた。どうしてここまでしてきれいにならないといけないのか。「きれい」といわれるため、写真を撮るためにここまでしないといけないのか、と思った。これが式典のマナーなのかもしれないが、それだけではないように感じた。

だがしかし、そこからいざ今のスタイルになるのも勇気がいることだった。最初はすべてのアイテムを一気に捨てることができず、一つずつ捨てていくことにした。パウダー、コンシーラー、ベース、下地、チーク、アイシャドウとさよならし、ほぼすっぴんの状態にたどり着いた。現時点で眉毛だけは捨てることができないが、ありのままでいれることがとてもうれしい。

実際のところ、今でもたくさんの人から「きれい」と言われることは変わらないし、ここまで捨てたら、きれいごときではなく、自分がありのままでいれる、ハッピーでいれることの大切さに逆に気づくことができた。欲を言えば、化粧が上手になりたいというより、肌がきれいになりたいと今は思う。


今思い返すと、なぜ自分があの時そう思っていたかはわからないし、ちゃんと化粧をしていたのかも謎である。でも結局はいまのスタイルにたどり着きハッピーでいる。それが一番である。よかった。


今やりたいことはLINEの友達断捨離。これがおわったら次のnoteを書こう。


Ayano





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