訪問診療日記#1

こんばんは。Peisunです。

今日も患者さんとの日々を綴ります。

クリニックの患者さんには、元気な方から末期がんの方まで様々な人がいます。

在宅医療を受ける、と一口に言っても、それぞれのバックグラウンドは大きく異なっていて、裕福で、家族から愛されて自宅で一緒に暮らす人。

またそれとは対極に、生活保護を受け、身の回りの世話をしてくれる家族もなく、高齢者向けのグループホームで、静かに最期の時を待つ人。

それら両極端の間に無限の人生があることを知ります。

今日は、そんな中でも、一際胸が痛むお話。

そして、その先の気付き。

先に断っておくと、あまり気持ちのいい話ではありません。



<末期がん・生活保護・身寄りなし>

その方は末期がんです。

すでに全身に転移が及び、普段は癌による痛み(癌性疼痛といいます)に苦しんでいます。

数年来、生活保護を受け、高齢者住宅で寝たきり生活。


家族は、娘婿がたまに家賃を払いに来るだけ。本人を見舞うことはありません。

保護費があるので、家賃を払えるはずですが、施設職員曰く、長期間に渡る滞納があるようでした。なぜ、滞納があるのかは詳しくわかりませんが、どうやら保護費の使い込みがあり、借金していることが一因のようです。

傍で見ていても決して幸福とは思えない状況ですが、当の本人は認知機能低下もあり、一日中ぼんやりとテレビを眺め、診療の時は僕と単語レベルの簡単な会話をするくらいです。

高齢で、運動機能低下は著しく、末期癌であるために手足は浮腫みが酷く、血流の悪い皮膚が所々、褥瘡(じょくそう)という、治りにくいキズを作っています。


<周りで見る人との温度差・自分の立ち位置>

僕は本人の疼痛緩和と傷の処置に行っていますが、僕らが介入できる時間はわずかであり、多くの時間は施設職員のケアに依存しています。

体の向きを2時間毎に変えてもらうとか、褥瘡を洗ってもらうとかしていますが、家賃滞納のこともあり、施設側では、「この方にお金はかけられない」ということでした。

お金をかけるかどうか以上に、現状のケアでは悪化の一途であるので、結果的に処置の時間がどんどん長くなるなど、悪い条件もかさんでいきます。

治療的な観点で見れば、ケアの質を上げてもらいたいし、ちゃんとした材料で傷を覆ったり、洗ったりしてほしい気持ちがあります。

かといって、僕が「自腹を切ります」というほど、その方の人生そのものを応援したいと思えていないのも事実でした。

それは、保護費の使い込みに対する批判の気持ちかもしれません。

それは、認知機能が落ちていることで、本人になにかしてもわかってもらえないだろうという観念によるのかもしれません。


治し方も、そのために必要なコストもわかっているのに行動に移せない自分がいたのです。


<「人を助ける」>

僕は医師で、人の命を助けるのが仕事。

と、ずっと思ってきました。

病気の人が来てくれる病院で、有り余る医療資源をどう使うかが一任されている状況では、ただ知識を披露することが、そのまま、病気を治す結果に結びつくことも多かったと思います。

「対病気」で勝つことが、医師として目先の目標だったわけです。

もちろん、病気というunhappyを取り除くことでHappyを取り戻すという簡単な構図は理解した上で、です。


今、目の前にいる患者の、病気を部分的に解決することは、できます。傷を治すくらいなら。

材料があれば、お金があれば。

僕が僅かな治療費を捻出することはできます。

募金に近い感覚になるのかもしれません。

でも、それをしたいと思えない自分に気づきました。



これまで、僕は、国の財政で準備された、無制限に使用できる魔法のようなものを武器に戦っていただけだったのです。

そこにはある種の万能感があったと思います。

在宅医療を始めて、わかりました。

僕自身は何ももっていないこと。

仕事の枠組みの中でできる「助け方」しか実践していないこと。


この話題を深めすぎると、キリがなさそうなので、本日は問題提起に留めます。

いつかまた続きを。

文章を書くって難しいですね。



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