夏を売る

 自分の心の変遷をnoteに記録したことで全て丸見えだったのだが、9月ぐらいの自分は本当に陽の当たるとこに行きたがっていたし、『怪談』というアルバムのリリースがそうじゃない自分との決別みたいになるんだと信じていた。実際、それは歌詞にも書いていた。
 『怪談』を発表した後の10月、自分は心を折られていた。
 歌を録りミックス・マスタリングをする過程、謂わば仕上がっていくことで『怪談』という自分の夢の程度や天井が見えたこと、それすら到達出来ない自分の未熟さ諸々から“陽”の世界の遠さに絶望していた。口では何とでも言えるんだなあ、とポジティブの本当の重さを実感した。noteも曲も恥ずかしくなった。

 冷笑でいるのは楽だ。何もしなくていいし、無責任でいいし、声のデカい奴にヤレヤレって面してればいいだけなんだから。
 逆張りでいるのは楽だ。目の前に現れたものに「嫌い」って言えばいいだけなんだから。いや「嫌い」なんて自我がハッキリ見える言葉なんて使わない。正しくは「おもんない」だ。
 ネガティブなことを言うのは本当に楽だ。強くなくていいし、無責任でいいし、言ったら言ったで「よくぞ言ってくれた!」って言ってもらえるのだから。
 これらのことも言うだけなら楽だ。言い返しようのない事を批判するだけで何の責任も負わなくたっていいのだから。いくら伴ってなかろうが、カッコいい美談にだってなるんだから。

 ポジティブの重さ、自分の“口だけ”さに『怪談』発表〜リリースまでの間、潰されていた。完成までは乗り越えてやる!という気張りはあったのだが、完成からリリースを待つ間は特に目標みたいなのも無くなって、燃えカスみたいにあんまり元気ではなかった。覇気も失っていって、覇気もない人の元には人も集まらないのだしもう潮時かなぁなんて幾度となく考えた。
 ただ、やっぱり『怪談』を資料段階で褒めてくれた関係者の方々、リリース・告知等に協力して頂いた方々、ひとえにこんな自分の“新譜”を期待していてくれたリスナーの方々に向かって卑屈でいるのは間違っている気がした。他人の評価はさておき、自分にとっては偉業を成し遂げたのだから。だから自分は強いし、陽気を目指す権利がある。

 こういうことを色々と考えて、評価が伴ってなかろうが善をやろうと思った。善とは何なのか散々定義してきたのだから。口で終わってるのは、結局自分への自信の無さなのだ。
 自分の善は偽善だ。でも中身が伴わなくたって、先に行動だけしてればいいやと思った。行動しなければ変われはしないのだ。
 そう思って、まずホワイトボードに『悪意に挫けず、善意に感謝する』と書き、できるだけ「ありがとう」を言うようにして、SNS上で頑張ったことを書き、文章に出来るだけ「!」を付けるようにした。
 そういうところから始めていこうと思う。

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