狆くしゃ

 前回は救われた“暗さ”の話をしたが、“明るさ”でしか救われない話をする。

 社会人一年目、通勤中にいわゆるキラキラしたフューチャーベース系の歌ものをよく聴いていた。自分自身は暗くてダウナーな音楽ばっかり作っているし、どちらかというとそういうのが落ち着くのではあるけども、あの音圧に救われていた時期がある。家と会社の往復、コロナ禍で静かで暗い街並みに、日々不足する生活の情報量をサイドいっぱいに広がるsuper sawとかグロウルするワブルベースで補っていた。
 もしくはアニソンもよく聴いていた。この話で同列に並べるのは本当に失礼なんだけども、オケが全て丁寧に聴こえて、トランジェントも整った“オシャレ”で綺麗な音像では決してないが、あのうるささでしか救われない心だってあるんだと知った。

 アンニュイで小難しい顔をした若い男が何とか上手くいって成功していく様がだんだんと見れなくなってきた。”そうなれたかもしれないのになれない自分”が浮き彫りになるからだ。そうならなきゃいけないという気持ちも強くなる。
 それがバネになることも大いにあるのだが、気が滅入っている時に映るそれは本当に惨めになる。
 でも自分は“若くて可愛い女の子”には逆立ちしても絶対なれないから、それがただはしゃいでる様や机上の空論みたいな愛とか平和を言う時は凪の心で見ていられる。本当に関係ない世界だから。
 10代の時は興味も持たなかったし、もっと言うと触れるもの全てを糧にしなきゃ!と思っていたから大して心も寄せていなかった。ただ、脳みそが萎縮していると、憧れるタイプのカッコ良さは受け付けないのだ。これこそが“歳を取ると流行が追えない”の正体だろう。自分もまだまだ元気だけども片足突っ込んだ身として、そんな惨めさが笑えなくなった。いつでもすぐにやってくるから。視界が狭くなっていくから、何でも良いから目の前で叫んでくれるものにとりあえず頭が埋まって安心するのだ。

 あと、こんな話を〆にすると先に挙げた音楽に本当に失礼だから付け足すが、“音がラウド”というだけでちゃんと尖ってるしカッコいいし、明るさの中にあるそこはかとない切なさみたいなのに心を寄せていました。あと自分はこの辺からエレクトロミュージック、シンセサイザーと向き合い始めました。

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