草木も眠る

 『草木も眠る』の資料作成のために貴船神社に行った際、丑の刻参りが好きになった。あまりにも丑の刻参り=貴船神社になり過ぎて自分がやるとしたらあそこではないと思うけども、人里離れた暗くて深い(もっと言うと冬に行ったから寒い)山の中で誰にも見つからずに好き勝手いられるという行為は素敵だ。
 人通りが無い校舎裏でボンヤリとバンプの『ベンチとコーヒー』とかandymoriの『誰にも見つけられない星になれたら』とか聴いてたあの時みたいな気持ちは、時々欲しくなる。...そういえばちゃんと音楽に救われてたんだ。そういう救われ方をしてきたから、聴きながらウジウジするような音楽を作りたい。割とずっと思っている。
 丑の刻参りは誰とも関わりたくない時のサナトリウムみがあると気づいて好きになった。むしろ可愛いものだ。現実で木槌を持って襲い掛からないんだから。極めて内省的な行為であると言える。

 実家の自室は窓が開かない。しかもすりガラスだから外も見えない。換気用に小さな窓があってそれだけは開くのだが、夏場それを開けた時の澱んだところに新しい空気が入り込む感覚が好きだった。
 ラジオを聴いているとあの小窓を思い出す。自分が知らない外の世界を見る小窓なのだ。外は楽しそうだなぁなんて指を咥えて見ている。それがラジオ。そういえばあの小窓を開けた感覚に気づいたのは、6月に開けながら聴いたスチャダラパーの『サマージャム‘95』だった。
 ラジオを楽しく聴いている時の自分は割と元気だ。だけど、本当に落ち込んでいる時、誰とも関わりたくない時、外には行けないんだという絶望感の中、ラジオの向こうに”芸能人“を感じて聴きたくなくなることがある。もっというと”成功者“。
 自分が一番好きなラジオがあるとしたら、もちろん面白いもそうなんだけど、病んでも聴けるような”成功“の影が臭わない感じがいい。誰だよって人なら尚良い。
 そういう意味でFM野方と新井やくしは、自分の妄想ではあるが、本当に理想的だ。

 原稿を書く最中、錦に「本当に面白かったら地上波でやれるに決まってるから、別に面白くなくていい」と言い聞かせていた。予防線ではあるが、自分にとってのサナトリウムみたいなラジオが作りたかった。podcastとかにいっぱいあるかな?と思って覗いてみたけど、別にメンタルヘルスな問題を取り扱ってて欲しいわけではない。劣等感を刺激されたくないだけだ。“ごっこ”が良いのだ。
 『うらめし夜』は現実の自分たちにとってもラジオごっこだし、新井やくし・スタッフにとってもラジオごっこなのだ。

新井:なんか君は仕事してる気かもしれないけど、こんな誰も聴いてないラジオとか仕事じゃないよ?サークル活動。
中井:(笑)

『新井やくしのうらめし夜』第83回」台本より引用

これ以外にも頻繁に登場するFM野方イジりからみても、地上波とか大手局にもちろん憧れている。だけど誰でも投稿出来るYoutubeやpodcastにはいかないところからみても、誰にも聴かれたくないのだ。憧れのラジオはしたいが、不特定多数にやいのやいの言われたり聴かれるための努力は嫌。それはとてもダサいことなんだけど、そういうダサさでしか救われない心だってあるのだ。  
 FM野方は都会の山奥、人通りの無い校舎裏、「誰にも見つけられない星」、「青いベンチに座ってあったかいコーヒー飲みました」なのだ(バンプとandymoriはダサくないです!)。

 自分みたいな落伍者でも安心がしたいのだ。

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