一休咄

 エッセイの連載とは無関係ですが、物語を書きました。一休咄。

 かつて、一休は聡明な子だった。兄弟子よりも物覚えが良く真面目で、和尚にも将来有望と期待され、「一休のようになれ」と言われていた。一休も賢い自分を取り柄として誇っていた。

 志学、一休は十五になった。ある日、同い年の坊主たちが「一休は頭でっかち」と影で噂しているのを聞いた。聞こえない振りをした。
 ある日、寺の掃除をせずに遊んでいた弟弟子たちを見つけたので、言葉遊び如きに時間を使うぐらいならと釈迦の教えを説いてやった。つまらなさそうに上の空な姿を見た。それ以降、同じことがあっても気付かない振りをした。

 志学、とは言え一休は志したいものがなかった。しかし、なりたく無いものは沢山あった。
 一つは馬鹿の一つ覚えのように「自分は高名な和尚になる」と声高らかに叫ぶ坊主たちのことだ。そんなこと御釈迦の教えに反しているのだ。あんな奴らは真面目に勉強もしていないから、仏の教えも大して知らずに有名になる事こそが正しいことだと信じている。あんなこと馬鹿が言うことだ。
 もう一つは、街に繰り出しては町人に適当な説教をしてはお布施を得ている坊主たちだ。何を考えているのか?奴らは恥という概念がないのだろうか?奴らは仏の教えを金のために利用している下衆だ。そもそも、冥土に銭は持って行けないというのにそんなことばかりして何になると言うのだ?

 ある日、一休は和尚に呼び出された。
 「一休、おまえは真面目で聡い子だと思っていた。しかし、おまえは兄弟子たちのように町人たちに有難い仏の教えを説くことをしない。だからといって他の坊主や弟弟子たちのように野心を持って修練に励むこともしない。おまえがすることと言えば、私が命じた日課の家事だけだ。もっと他の坊主を見習ってはどうだ?」
 「...ハイ」
 どうして仏の教えを微塵も知らないような町人たちに説教をしなければならないのだ?ただの下衆にそんなことをしても豚に真珠だ。全く以って無意味、馬鹿のすることだ。
 そして、奴らは修練に励んでいると言われていたが、命じられた仕事もせずに好きなことをしているだけである。遊んでいるのと何一つ変わりない。全く以って愚かで、尊敬出来る部分など見当たらない。
 「おまえは元々真面目で聡いのだから、志す道をちゃんと見つけなさい」
 「...ハイ。ありがとうございます」
 「ところで、上様から相談事があると頼まれたのだが、私はここ最近脚が悪くて参る事が出来ない。だからと言ってこちらへ参れとは言うわけにはいかない。そこでおまえは幼い頃、上様に気に入られていたから挨拶も兼ねて上様の相談に乗ってやれないか?」
 「...ハイ」
 「では、私から上様にその旨は伝えておくからよろしく頼んだぞ。一休、期待しているぞ」
 「...ありがとうございます」

 余計なお世話だ。自分はほっておいて欲しいのだ。何が期待しているだ。あんなもの事勿れ主義の厄介事を押し付けだ。今のおれは真面目でも聡いわけでもない。ただ周りの奴らが馬鹿なだけなのだ。昔そうだっただけの事をほじくり返して嫌味を言われているみたいで不愉快だ。
 大体、上様とはなんだ。仏の道も追求していないただの俗物ではないか。上も様も存在を表す言葉として不適切だ。俗物ごときに仏の教えなど説いても無意味だ。また「上様に教えを説いた僧」にもなりたくない。おれが嫌う「有名になりたい僧」そのものではないか。そもそも俗の人間など皆等しく「俗物」なのである。そこに上も下もない。俗物ごときが作り出した序列の高いものと関わったぐらいで、おれの教えが急に有難いものになるなど極めて馬鹿馬鹿しい。
 ただ、和尚に反抗する度胸も無かった。だから、緩やかに世界と自分が恨めしくなった。だから俗物と関わりたくないのだ。もうおれがいっそ痴呆であれば山にでも捨ててもらえるのに、腹が立つぐらい五体満足だ。身体が動いて頭が回れば、無条件で義務として何かの役に立たなければならないらしい。この義務が恨めしい。これさえ無ければといつも思う。
 腹が減った。眠い。愛されたい。この世に生を受けたことがそもそも何かの罰なのだ。きっと仏陀様も同じ様なことを思っていたのだろうなと思った。皮肉なものだ。こんな気持ちを拭いたくて仏道を歩んでいるのに。

 一休が上様の相談役に選ばれたという話はたちまちのうちに広まった。奴らはそういう話ばかりが大好きだからだ。
 別に賞賛の声など無かった。「あいつは和尚様には媚びてるから」とか「何であいつが」とかわざと聞こえるような陰口は沢山言われた。聞こえない振りをした。
 兄弟子たちからは、久しぶりに声をかけられた。それ自体は昔のようで嬉しくなったが、いつ行くのだだの、まだ行ってもいないのに上様はどうだっただのばかり聞かれた。気分が悪くなった。奴らはおれに興味など無いのだ。おれの向こうにいる上様とやらに興味があるのだ。どうも目線が合わないような気分だ。
 どうせ、おれは頭でっかちで空気も読めずにつまらない話ばかりして和尚に言われた簡単なことしかしない坊主だ。愛されるわけないのだ。何と言われようと関係ない。仏陀様は俗を捨てろと仰っている。こんな心は俗である。早いとこ捨ててしまおう。

 一休は和尚の面子は守るためにも、渋々御屋敷に向かった。守衛に和尚のことを伝え、あれやこれやと上様と謁見することになった。
 上様が居ると言われた間は御屋敷の離れも離れだった。上様と言っても御屋敷の中心にいつも居るわけではないのだな、と思った。とは言え、好んで人気の無い場所を選んでいるよりは「隔離」という言葉が似合う具合だ。
 「一休が参りました!」
 「...」
 従者が叫ぶも無反応。感じの悪い奴だな。
 「一休と申します。和尚の命で上様の相談役として参上致しました。幼い頃は大変お世話になりました。よろしくお願い致します」
 「...!一休か!近う寄れ」
 「...はい」
 「早速だが、一休。お前に相談したいことがある。この部屋に屏風があるだろう?それに描かれた虎が夜になると飛び出して悪さをするから退治してくれぬか?」
 この老人は何を言っているのだろうか?従者の方を見る。申し訳ございません、という顔をする。
 「...では退治するので、屏風から虎を出して頂けませんか?」
 「絵に描いた虎を屏風から出せると思うか?」
 「それは退治することも同じです」
 「だが、屏風から虎が夜になると飛び出してくるのだ。一休、退治してくれぬか?」
 腹が立ってきた。今、間違いなくあの老人は論破されたと言うのに懲りずにまた同じことを言い出した。

 その日は延々と屏風から虎が出るという老人の妄言を一日中聞き続けて帰った。後から従者に聞いたが、二年前からずっとあの調子の痴呆であるらしい。今日は大人しかったが暴れ出すこともあるらしい。あんな調子になってしまったものだから、実権を失くして御屋敷の隅に押し込まれてしまったらしい。
 色んなもの、人を忘れた中、おれのことは何故か覚えているらしく、ある日、一休を呼べと騒ぎ続けていたのでおれに白羽の矢が立ったらしい。

 それから一休はあの痴呆老人の世話役として定期的に呼び出されることになった。断ったところでやる事も無いし、やる事といえば痴呆老人の妄言に軽く頷いてやるだけだったので応じていた。
 とは言え、聞くだけは退屈。飽きもせず同じ話ばかりする老人のために、この前、弟弟子たちが掃除を怠けて遊んでいた「なぞなぞ」とかいう言葉遊びをしてやった。そしたら、この老人は大層喜んだので、弟弟子たちが怠けて遊んでいるのを盗み聞いては覚え、老人に見せてやった。その内、弟弟子たちから新しいものが出無くなってしまった折、兄弟子たちが街で聞いてきた噂話をしていたので、それを盗み聞いては覚え、老人にしてやった。それでも話はすぐに無くなってしまったので、今度は自ら街へ繰り出し町人たちに説法をしては、色んな話を聞いてきた。
 「上様の相談役」という肩書きは町人たちと関わるにはとても便利だった。町人たちはおれの話が分かろうが分からなかろうが無条件に有り難がる。気味が悪いが、それで人は集まるし、たまに面白い町人もいると気付いたので街に出る事をやめなかった。それよりも寺の方が居心地が悪い。とは言え、分かってもいない話を有難がられるのは不愉快だったので、あの時の言葉遊びを使って話を分かりやすくして、それを「とんち」と名付けた。名前があれば呼びたくなるのが人の性。一休の「とんち」はたちまち街中に広まった。

 寺では、やっぱり居場所が無い気分だった。上様に媚びて調子に乗っているだの、俺は昔から一休を買っていたと急に騒ぎ出す連中の輪に入れる気持ちにはなれなかった。おれはただ運が良く、町人どもに向けて分かりやすくしたから有り難がられているだけで、おれの中の釈迦の教えがより素晴らしくなったわけでもないのだ。むしろ、間違った教えを広めているようで心苦しくなった。
 町人の方はといえば、相変わらずの人気っぷりであった。
 ある日、一休が橋を渡ろうとしたら、「とんち」を試そうとした町人が「このはしわたるべからず」という立て札を立てた。おれは馬鹿馬鹿しくなって無視して渡ってやった。そしたら、町人どもは「はし渡るべからず、だから端じゃなくて真ん中を渡ったんだ!流石、一休様だ!」と騒ぎ立てた。おれは呆れた。
 同じように一休を試すような物言いをする町人どもが増えた。その度に機転を効かせて返していたが、返せないこともあった。その度になーンだ、一休とは言え大したことないのだな、と言われた。ひどい時は金返せ、生臭坊主とまで言われた。おれのやっている事は仏道に沿った行いなのだろうか?と一休は疑問に思った。

 それでも上様のところへは足繁く通った。というか呼び出された。おれもこれに関してはあまり嫌な気分にならなかったので、快く通った。
 ところでおれはどうしてこの老人に気持ちを傾けてしまうのだろう?理由は何であれ、寺だけでなく街にも居場所が無いおれは、この老人の「隔離部屋」にしか心休まる場所が無かった。居場所を無くして、痴呆である事を世間に隠され、都合の良いように扱われ、隅っこに追いやられるこの老体を自分に重ねてしまったのかもしれない。ここ最近、食事を拒否しているらしく痩せ細っていくこの老体に悟りを感じた。
 上様の元へは未だに足繁く通うものだから、やはり悪い噂は立った。いつの間にか権力者に媚びる生臭坊主、が一休の二つ名になった。実態はといえば、痴呆の老人の暇潰しに付き合っているだけであるのに。

 ある日、一人の男が「うちの屏風から虎が夜な夜な飛び出して恐ろしくて堪らん。おい一休。退治してみよ」と言ってきた。
 人に物を頼む態度かよ。周りの町人もニヤニヤしている。どうやら、またしてもおれを試しているようだ。なんだか覚えがある問いだったので、非常に不愉快だが返事をした。
 「では、退治しますので屏風から虎を出してください」
 「屏風から虎が出せると思うか?一休、お前は痴呆にでもなったのか?」
 「ならば絵の虎が退治出来ましょうか?」
 男はムッとして、「そんなこと話をすり替えただけだ!おい一休、黙って屏風の虎を退治しろ!」と胸ぐらを掴んできた。
 流石に暴力となれば抵抗するもなす術無く、町人どもが飽きるまで踏んだり蹴ったりされた。

 明くる日、一休は和尚に呼び出された。
 「一休、お前はここ最近、修行もせず、上様のところへばかり行っているようだな」
 「...ハイ」
 「それどころか、街では上様の名で好き放題していると噂が立っている」
 「...ハイ」
 否定してやりたかったが、どうでも良くなった。そういうことにしておこう。世間は「権力者に媚びる生臭坊主」という悪役が欲しいのだ。その役回りがたまたまおれになっただけだ。おれはどうせ愛されていないのだから、それで誰か他人が苦しまなくて都合が良い。
 「一休、お前は真面目で聡明だと思っていた。上様から一休を呼べ、と言われて疑問ではあったが差し出した。そしたらどうだ?お前は無駄に回る知恵で世を誑かしているではないか。お前がどうやって上様に気に入られたか知らないが、これ以上世を乱さないためにもお前の任を解く」
 「...ハイ」
 おれは正真正銘、居場所という居場所を失った。だけど構わない。極めて仏陀様らしいじゃないか。おれはこの世から消えて無くなってしまいたくなった。
 解脱、というのは素晴らしい希望だな。とっととおさらばしたい、そう本心から思うのは仏陀様だけでは無かったようだ。飢えも全部どうでもいい。空が暗い。おれも解脱に一歩近づけた。

 それから先の上様のことは知らない。ただ、ある日従者から手紙が届いた。そこには上様が亡くなられたこと、最後まで一休を呼んでいたということ、誰もがあの老人の相手をすることを嫌がったが、一休がその後来た僧たちに比べて真摯に世話役に向き合っていたこと、貴方は真面目で聡明な僧侶である等、様々な産まれてこの方聞いた事も無かったような感謝の意が書かれていた。空が青い。腹が減った。眠い。愛されたい。

 おれは解脱から一歩遠退いてしまった。

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