随筆

 せっかくの最終回なのに、ここに来て書きたいことが無くなってしまった。いや、正確に言うと自分をさらけ出すことに怯えている気がする。今も心の中には考えていることがたくさん渦巻いている。その全てが核心を得ない。
 最終回だし、今は優しい自分でいたい気持ちが強かったから良い話をしようとしていた。爽やかで、誰かに寄り添える、誰も傷付けないちょっと良い話。だけど思いつかない。そうやって悩みながら愚痴っぽい文章を書いては消しを繰り返している。...もうこれしか無いらしい。最後に今自分が抱えている悪意を誰に配慮することなく振り回して、この連載は一旦終わらせて頂く。

 自分のルーツを知りたくて親と話がしたかった。好きか嫌いかでいうと好きでいた方がいいなと思っていたし、親と仲が良い人に憧れるから少し話したかった。で、先日実家に帰った際、そういう心の話を母親にぶつけた。結論から言うと、感覚はすごく合うけど嫌な人間だなぁと思った。自分が今嫌いな自分を地でいく人だった。腹が立つぐらい共感した。
 減点方式で評価する時は天才的な嗅覚を発揮するが、加点の評価が出来ない人。八方美人で心の外には優しいが、内には厳しく誰も人を入れたがらない人。ベタを嫌い、スカし続ける人。そういう自分が嫌いな自分を全て持っている人だった。
 陽の陽気とか余裕がある人の周りにはそういう人が集まってくる。その様を日陰から見ていて妬んだり嫉妬したりもするが、やっぱり羨ましいのだ。楽しそうで。幸せそうで。
 自分みたいな鋭い指摘をする人(それもそれで優しさではあるが)には重宝されたり面白がられてもあんな幸せは集まってこない。
 “おもんない”は呪いの言葉だ。僕らみたいなのがそうやって振り払ってきた陽気に今になって憧れている。今の自分こそ振り払いたい。日陰から飛び出したい。自分も母親もちゃんと責任感と優しさを持っているのだからその方向を少し変えられたらそれでいいのだ。自分を愛したい。自分を大事にしたい。
 
 この連載を一年ちょっと続けて多少は反響があった。直接言われたのは、文章上手いねとか、尖ってる・怖いとか色々あった。でも共感した、響いたってのは言われなかった。だから辞めたいのかもしれない。あまりにも一方通行なコミニケーションに飽きてしまったのだ。伝わらない文章は駄文だ。だから恥ずかしいものなのだ。読まれたくない。
 だけど、あんな言葉たちが日陰への誘いなのかもしれない。だから尖ってるとか、アーティストさんはやっぱり自分の意見をちゃんと持ってるんですね、という言葉にはじゃかましいわ!で一蹴すべきだったのだ。
 このnoteに自分の意見はない。一生悩んでいる様を見せつけているだけだ。今もこの文章のオチが分からない。ジャズです、これは。
 文章は結局二元論に持ち込まれるのだと知った。Twitterと違って文字制限がなければいけるかもと思ったがダメだった。結局、心の淡さは許されなかった。
 “あなたは考えすぎ”ともよく言われてきた。そうやって抑えようとしても考えてしまうしこうやって捌け口も作ったわけだが、それもおせっかいな奴らへの槍玉にあがった。だけど今なら言える。じゃかましいわ!!!
 いつまでもウジウジと考えすぎてる自分が好きだ。ウジウジしているから我ながら素晴らしい作品を書けるし、それを誰かに必要としてもらえるのだから。自分は考えすぎたその先に湧くドーパミンに度々救われてきた。考えることを否定する奴なんてつまらない人間なのだ。目の前のことから逃げてるだけだ。目の前の人間に誠意の一つも示せないのだから。自分が楽したいだけなのだ。

 陽の人間になりたい。日陰から飛び出したい。これにあーあガッカリ、日陰者のお前が好きなのにと思うあなたはふざけるな。馬鹿にするな。無責任なこと言うな。そんなのは努力しなくていい言い訳が欲しいだけだ。甘えるな。楽するな。開き直るな。
 そんな人が金木犀の匂いをエモいと言っている人を茶化して馬鹿にするのだ。自分も流されてそんなことを思っていたけど、ちゃんと考えたら金木犀エモ側の人間だった。そういう小さな色々から自分は日向に行く権利がある、と安心する。今日も頑張れる。夢が見れる。
 大事なのは、“なること”じゃなくて“なろうともがくこと”なのだ。日陰者でいることに開き直った人間なんてそれこそ本当に“おもんない”のだから。自分はずっとそういう葛藤を表現し続けてきた。自分に日陰者でいることを求めるのはお門違いだ。開き直った瞬間に自分は死ぬ。どうせ死ぬなら誰かに愛される人生で死にたい。今死んだら何にも残らないから。幸せになれないから。

 なぜ自分が歌い始めたのかも答えが出た。もがけるから。上手く歌うために姿勢を良くしたり、体調を管理したり、そういう努力がしたいから。パソコンに向き合って音周りの作業をしている時の鏡で見た自分はぼへぇとしているが、歌を録っている時の自分は単純に大きな声を出しているからか、血色が良くシャキッとしている。どちらも愛する作業だが、ちゃんと生命を感じる瞬間が欲しい。音周りの作業なんてシャキッとしてても出来るのだから。
 例えばボカロなら作業の中で初音ミクに生命を感じる瞬間の感動だってすごく分かるが、今は自分を愛したい。自分を大事にしたい。それは誠意だと思う。こんな気持ちを他人に歌わせて我が物顔するのは筋が通らないから。

 世界を愛したい。から自分を愛したい。今は全くの不恰好でもその努力はやめたくない。色々迷ったりふらふらと生きてきたが、やっぱり自分はヤマモトガクとして生きたいのです。
 人混みが嫌いだった。静かな場所で感傷に浸るのが好きだった。そういう人たちが好みそうなものが何となく好きだった。だから自然と日陰者のパスポートを渡されたし、そういう世界が自然な世界で生きてきたし、そういう世界の方がいつも通りで落ち着くし、日向の世界に関わりさえしなかった。よく知らないから何となく周りに合わせて嫌っていた。
 そんな折、Pegが希望をちょっぴり見せてくれた。Pegがお前はちゃんとすごいんだよって言ってくれた。色んな人と会わせてくれた。地元から出させてくれた。色んなものに興味を持たせてくれた。自分の話を聞いてもらえた。日向の世界をちょっとだけ見せてくれた。そうやってPegに救われてきたから、励まされてきたから、無碍にはしたくないのです。
 ポップスターを夢見たっていいじゃないか。主人公になろうとしたっていいじゃないか。踏み台がなきゃ足元しか見えなかったんだから。自分に期待することも出来なかったんだから。

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