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美は不完全性に宿る

 不完全なものの不完全性に美は宿るという記事を読んだ。プラトンが,イデアの模倣の模倣であるがために詩人は追放すべきと主張したが(つまり不完全性を許さなかったが),弟子のアリストテレスはその不完全性こそを賛美した。この不完全性をカタカナでなんといったか失念した。何しろこの文章は15分という時間制限を設けたもとで執筆している。

 時間制限の理由は,前述したとおり不完全性を生み出すためだ。あるいは不完全性を認めるためとも言える。

 いかんせん,今までは完全を求めすぎていた節がある。幼少期からインターネットに触れてきたこともあって,表現(アウトプット)はかなり身近なものであった。ボタン一つでなんでも投稿できる。そしてそれらは「履歴」として総覧できるようになっている。この,「あとで振り返ることができるシステム」こそが,自らの不完全さを認めたがらない性向を引き起こしているトリガーなのであろう。黒歴史となったノートは,数十年後にひょっこり押入れの奥から見つかるくらいが丁度いいのだ。

 同時に,自分に才能がないことを認めるのが嫌だった。どこか特別でありたいと願ってやまなかった。その想像する「いつかきっと」が来ないことを認めることが大人になるということだと思う。

 「大人だね」「大人っぽい」と言われることが嬉しい。背伸びをして精神年齢を高く見せようと見栄を張るときがあったし,今でもその癖は抜けない。前述した「自分だけが特別でありたい」という感情と深く結びついている気がするが,これは自尊感情的側面から見たらむしろ正なのではという気もしてきた。

 自尊感情が極端に低い人間にであったことがある。自尊感情が低いと自信がなくなる。自信がなくなるとやる気が無くなる。なんだか小学校の下駄箱あたりに貼られていた標語,「靴を揃えると心が揃う」風の雰囲気をおびてきたが,別にそういうことが言いたかったのではない。そうではないが時間がないので書けなさそうだ。

15分。


 (執筆時に想定していたのは「ミメーシス」であったが,その訳は「模倣」であり「不完全性」を指す語ではない)


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