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短篇小説

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短篇小説 夏眠

 クジラを盗まないかと男が誘ってきたとき、俺は水槽の回遊魚が左から右に横断している様子を眺めている最中だった。入射する人工的な光に照らされて、からだをくねるたびに背中がビニール紐のように淡くきらめく。群れは全体として面を形成し、局所的な速度の変化は波のように伝播してゆく。すすむにつれて収束してゆく面は、方向を左にかえ反対の切れ端に接続する。トーラス体となった魚たちはそのまま渦を巻くようにあきもせず旋回しつづけ、他の魚がやってきても穏やかにその道をゆずるだけである。  男は、う

短篇小説 眼窩

 眼窩の死体は、最前列の長机のうえに横たわっていた。死体はこちらに足をむけて黒板と平行に寝ていたから、前の扉から入った僕はまだ死体の顔をみていない。しかし足にまとう筋肉の質や、かすかにのぞく胸のふくらみなど、やはり統合的に成人女性の死体であることを示していた。  採光よりもデザインを優先したような窓からは、傾きはじめた陽のひかりが複雑なかたちで流れこんでくる。ふわふわと漂うチョークの粉と教室の埃とが窓のあたりであらわになり、視認した僕はそれらが右目に入りこんでしまったような感