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エビデンスとナラティブのハザマで②~冷やし中華はじめました~

【過去記事】


『冷やし中華はじめました』

『標榜』とは、『私はこの科の診療できますよ』と掲げることだ。

医師は、どの科でも標榜はできる。

私が『消化器外科医』であるとか『病理医』であるとか言うことも出来なくはないわけである(これらは専門性が高すぎてとてもじゃないけど僕には言えないけれども)。


『アレルギー科』は多くの小児科医が標榜している。
『アレルギーはだれでも診れる』と思われているかのようだった。

もちろん、語弊だ。

でも私は、『アレルギーやってます』と周囲には言っていたが、ちょっと辛かった。


誰でも診れると思われている領域を、
専門にしようとしているのではないかと思うこともあった


『アレルギーはじめました』と『冷やし中華はじめました』が変わらないじゃないか。


医師でない方はびっくりするかもしれないが、

いくら勉強しても、
学会で発表しても、
論文を書いたとしても、

地域によっては条件を満たせなくてアレルギー専門医を取得できないケースがでてくる。


『アレルギー専門医』は、その環境では
絶対に取得できないことがわかっていた。


論文は1日1本読み続けることにした。

1回の学会で2演題ずつだしたりした。

(当時、2006年から2007年にかけて筆頭発表者で学会発表したテーマを引っ張ってみた)

・当科アレルギー外来における食物負荷試験の現状. 日本小児科学会雑誌 2005; 109:1049.
・小麦特異的IgE陰性であった小麦依存性運動誘発アナフィラキシーの1例. アレルギー 2006; 55:472.
・乳児重症アトピー性皮膚炎の4例. 日本小児アレルギー学会誌 2006; 20:447.
・牛肉摂取で誘発されたミルクアナフィラキシーの1例. 日本小児科学会雑誌 2006; 110:1150-1.
・牛肉・牛乳負荷後に腸重積を来たし遅延型ミルクアレルギーが関与したと推察された1例. アレルギー 2006; 55:1145.
・乳児重症アトピー性皮膚炎の4例. 日本小児アレルギー学会誌 2006; 20:447.
・少量マクロライド、吸入ステロイド薬で改善した中葉症候群の1例. 日本小児科学会雑誌 2007; 111:514.
・伝染性紅斑後に発症した中毒性表皮壊死症(TEN)の1女児例. アレルギー 2007; 56:343.
・当科における食物負荷試験の検討. 日本小児科学会雑誌 2007; 111:1202-3.
多種抗原IgE陽性・多種魚類アナフィラキシーの1例. 日本小児科学会雑誌 2007; 111:596.
・CCAM肺葉切除術後にRSV細気管支炎に罹患、気胸を併発し持続ドレナージを要した1例. 日本小児科学会雑誌 2007; 111:597.
・新生児・乳児期早期遅延型ミルクアレルギーの4例. 日本小児科学会雑誌 2007; 111:1202.

これらは上司に言われて発表したわけではない。



”なんちゃってアレルギー専門医”のあがきだ。


いつまでたっても、自分が『アレルギーをやっている風味』だと思っている、『専門医も取得できない地域でアレルギーをしようと思い立ってしまったイチ小児科医のあがき』だ。


これこそ、ドンキホーテだ。


変革期にあると思っていた喘息の吸入ステロイド薬による治療は急速に標準治療になっていった。

そしていつしか、重症のアトピー性皮膚炎のお子さんや、食物アレルギーの治療に苦しむことになった。

教科書を読んでも、論文を読んでも、具体的な方法はわからなかった。

アレルギーを専門にしているものは誰もいない。

誰に聞いても「よくわからない」というレスポンスだった。



「未知との遭遇」。

”なんちゃってエビデンス”を求め始めた。

”なんちゃって”といったのは、論文を読むのも自己流だったからだ。


たから、エビデンスにこだわるよりも、それを拠り所に『自分がたっている場所』を保つので精一杯だった。

患者さんの話を聞き、論文で読んだことと照らし合わせ、不安を隠して精一杯の説明をし続けること。

そんな毎日は、すでに限界が近づいていた。


プロアクティブ治療なんていう言葉も、経口免疫寛容なんていう言葉も、まだ市民権を得てはいない時期だった。プロトピック軟膏も、小児適応がおりたのは2003年だ。


『アレルギー専門医とは喘息専門医』が近いといえる時期は終わりを告げようとしていた。


多臓器多彩なアレルギーというめちゃくちゃ広大な荒野において、『負け戦の拠点防衛に徹していた時代』だった。


「アトピー性皮膚炎」は、重症であっても、保湿のみを中心にまで持って行ける時代が来ようとしていた。

「食物アレルギー」は、除去食を指導していた時代から、食べることを目標とする時代に変わろうとしていた。


『積極的な治療しながら、こつこつ耕し、匍匐前進していく時代』へ、大きな変換点を迎えようとしていた。


「未知との遭遇」が訪れようとしていた。


『誰でもみれるかもしれないと思われがちな科』から、『幅広く、深淵がみえないくせに、コモンな疾患群を診なければならない科』になる時期が来ようとしていたのだ。

それは、自学のみでは専門性を高めることが難しくなってくることを意味していた。


(続く)


noteでは、ブログでは書いていない「まとめ記事」が中心でしたが、最近は出典に基づかない気晴らしの文も書き散らかしています(^^; この記事よかった! ちょっとサポートしてやろう! という反応があると小躍りします😊