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スナックやじろべえ物語

ここはスナックやじろべえ
とある所にある場末のスナックである。
繁華街でもない、人知れずポツリと佇む飲み屋の名前がやじろべえ。
入り口はドア1枚。看板は紫の地に黄色の文字で”やじろべえ”と書いてある。
薄っすら光る黄色のやじろべえの文字が実に昭和感を醸し出している。
私はここの雇われバーテンダー
ママは皆からノアちゃんと呼ばれている。
何故ノアちゃんなのか…
私も聞いた事は無いが、そんな事はどうでもいいと常々思っている。
が、気になって仕方ないのは常々だ。
ママには子供も旦那さんもいて、家庭に戻れば優しいママ。この職場にいるママは優しさと厳しさとユーモアとエロスで客の心をグッと掴むママだ。
とにかくママはエロいのだ。
今日の衣装はセーラー。
その前はチャイナ。
もちろん丈は短くスリットパックリのチャイナ服である。
チチはさほどデカく無い貧乳である、それは本人も認めている。
だがしかし、スタイルは抜群で男の客を悩殺しているのは間違い無い。
が、私は興味がないのは事実だ。
私の興味はママの人柄である。
とにかく頑張り屋で、このスナックやじろべえを開いた。
なんの縁かわからんがこの歳で失職していた私を拾ってくれた。
ただ酒が好きで少々のカクテルが作れるだけの私を雇ってくれている。
なので感謝しかない。

"カランカラン"

少し湿気った木造りの重いドアが開いた。
私はグラスを乾拭きしつつ、ドアの方へ目をやる。
ママは決して嫌味の無い眼差しをそのドアへ向ける。
「いらっしゃいませ」
とママが言う。
私はいつも無言だ。
見た所30代後半か…。
女性1人の御来店である。
ここは女性の1人飲みの客も少なく無い、いや、むしろ多い方かもしれない。
それには理由があるのだ。
ママは客の悩みを聞くのが本業かと思う程、親身になって客の話を聞くのだ。
私もその姿勢が好きだ。
酒の席の悩み相談は得てして嫌われる。
だが、ここやじろべえに来て、酒を飲みながら話し、帰る頃にはすこぶる穏やかな笑顔を残してお帰り頂く。
そのやり方がとても気持ちいいのだ。

今夜お越し頂いた女性の悩みに少し聴き耳を立ててみようかと。

「ねえ、ママ。今夜は強目のお酒を浴びる程飲みたいの」
「あら…ダメよ、ねえ、兄さん」
私はここではリーアムニーソンならぬ
リーアム兄さんだ。
リーアムニーソン、言わずと知れたベテラン俳優。ただ彼の出演している映画が好きで、彼の声が好きだったから。
安直なインスピレーションから、このニックネームを付けてしまった。
だが後悔はしていない、むしろ気に入っている。

「いけませんねぇ、その様なお客様には気持ち良くお酒を提供出来ません。」

「決して自暴自棄にならぬ様お約束して頂けますか?」
「分かりました」

彼女の返事を聞いて改めてオーダーを聞いてみる。

「何になさいますか?」
「とりあえずジンをストレートで、銘柄はお任せしますわ」
「それではこちらを」

私は迷わずビクトリアンバットの栓を開け、ショットグラスに注いだ。
思った通り彼女はワンショットを一気に飲み干し、チェイサーに手を付ける事なく”ふぅ”とそっと息を吐いて項垂れた。

「ママ、次は…そうね、ソルティドッグを。
もちろんベースはタンカレーでお願い」

ーーソルティドッグーー
ベースのジンをグレープフルーツジュースで割る。その際、グラスの縁全周に塩を付ける。
塩とグレープフルーツで割ったジンを味わうカクテル。
ーーーーーーーーーーー 

彼女は先程とは違い、味わう様にそのカクテルを嗜んだ。
そして落ち着いた口調で口を開く。

「ねえママ、私って愛されてるのかな?」

さて彼女…独身であろうか…
それとも既婚者だろうか…

「どうしたの?」
とママが言う。

「彼の事が好きでたまらないんだけど、彼の気持ちがわからなくて…」 

ふむふむ、恋の悩みであろうか…
耳をダンボにして更に聞き耳センサー感度をマックスにする。

彼の事が好き過ぎて自分を見失いかけてる?とも思えるが。
彼の思うがままの女になりたい、なろうとしている自分がいて
疲れてしまったと。
この人に惚れられた相手の彼はホントに幸せモンだと…
多少イラッとしながら素知らぬふりをして振る舞う。
そんな彼女は彼に惚れたが為に反省したり、愛を求めてみたり
それが手の届かない事だと分かっていても…だ。
そんなフワフワした自分の気持ちの整理がついていない様子でもある。
まるで思春期の乙女の話しぶりである。
「どんなに想っても想っても、本気で好きになってもらえない」
こんなセリフを女に言わせるなんて、どんな男だよ…
内心その男を見てみたい気持ちが沸々と沸いてきた。
だが、その気持ちを抑え、もう油分などどこにも付いていない
ピカピカになったグラスを天井の照明に透かせてみる。

「ねぇ兄さん、どうしましょ」

ママは私に投げかけた。
「ここはやっぱりママの意見を…」

ママはじっくり言葉を選びながら話し出した。
「あなたはもう自分の事、しっかり分かってるよね?
叶わないことを求めている事、彼の事を追い続けて疲弊してしまっている事」
彼女はただ黙って聞いていた風だった。
「きっと確信が欲しいんだと思う…
彼に愛されていると言う確信を」
ママはチラッと私のほうを見て

「ねぇ兄さん、男の意見は?」
「そうですねぇ…
私がその彼だったら、あなたの事は可愛らしいと思いますよ。
男はあんまり口にも出しませんし、ましてや『愛してるよ』なんて滅多に言いませんから」

私もそんな浮いたセリフはこの方、吐いた覚えは無い。
そして私は続けた。

「きっと今のあなたはかなり弱気になっていて、少し風が吹いたら折れてしまうかもしれませんね。けど、あなたはあなたの想いが届かなくても、その人をそれ程好きでいられる自分を好きになってくれると良いと思います。
そんな自分にとことん自惚れてもいいと思いますよ。私はそんな自分が大好きで、間違ってはいない、と。」

ママは驚いた様な顔で
「あら、兄さん、良いこと言うのねぇ…」
と少し小馬鹿にした様な言い方をした。

「誰しも心に余裕が無くなった時は、どうしても負の感情が芽生えるモノです。負は負を産み、それが自暴自棄へ繋がります。お酒へ逃げるとか、モノに当たる様な事のないよう、そんな時こそ立ち止まってみてください。」

ママが続ける
「愛されているかより、まず、そんな自分を可愛いと思って愛してあげてね」

黙って聞いていた彼女が重い口を開いた。
「そうね…お二人の言う事はよくわかった。
ここへ来て良かったわ、ありがとう」

顔を上げたその目は来た時とは違い、幾らかスッキリしているように見えたのは私だけだろうか…。


彼女が帰った後、私はママに訪ねてみた
「なんで”やじろべえ”なんですか?」
ママ曰く
「ここに来てくれるお客さんの心の傾きが少しでも良くなるように、
帰る頃にバランスが元に戻ると良いなと思ってね。」

そう言って屈託のない笑顔を私に向けるのであった。