はじめての入国拒否
#ヘッダー写真はグアテマラ空港内で私が実際に収容されていた部屋である。今見ても胸が締め付けられる…。
2020年2月から夢に見た中米・グアテマラでの単身長期滞在をしていた。その頃にはもう中国・武漢での大規模な新型コロナウイルス流行が報道されていたが、それが全世界を巻き込む pandemic になるとは知る由もなかった。
次第に感染がアジア諸国、ヨーロッパに拡大を続ける中で各国は入国規制を図るようになった。それはアメリカ大陸も例外ではなく、まずはアメリカがヨーロッパからの入国者を制限した。
恐れていたことは3月中旬 Pittsburghで暮らす姉を訪れた際に起きた。グアテマラから飛行機で向かい1年振りに姉に再会し、彼女の今の暮らしぶりを覗かせてもらいながら楽しんでいた矢先、ついにグアテマラ政府からもヨーロッパからの渡航者を禁ずる措置が発表された。「これは不穏な動きだ…」と察知し、政府発表をつねに気にしながらも姉との時間を楽しむよう努めていた。しかし嫌な予感はついに現実のものとなった。日本人の入国制限が始まったのである。
入国制限開始までになんとか滑り込もうと思い、予定を早めグアテマラ帰国を決行した。最悪なことに、日本人の入国制限は即日発効だったらしくImmigrationで丸1日収容された後アメリカに戻された。これまで18か国を訪れてきたが、ここまで辛かった経験はなくずっと心の片隅に残っていた。こうやって文章にしたためることで苦い思い出を供養したい。
3/11(水)グアテマラ→Pittsburgh
グアテマラでホストママの美味しい昼ご飯を食べた後、最小限の荷物をもってランチャ(湖上を行き来する小舟)乗り場へ向かった。アメリカで1週間過ごしたらまた戻ってくる予定だったので、一部の荷物は置かせてもらっていた。当時は効率的でありがたいと感じていたが、後には悩みの種となってしまった。
荒い波に揺られながらたどり着いた Panajachel。空港に向かうバスまでの時間をブログで何度も見かけた Crossroads cafeで過ごした。レビュー通りの気さくな店主で、店で焙煎しているコーヒー豆を見せてくれたり、姉へのお土産として購入しようとした豆をタダでくれた(至れり尽くせり)。そのカフェは長らく愛されてきたが、店を閉めて娘さんの暮らす南アフリカに移り新たにコーヒービジネスを始めるそう。Google mapで見た感じではまだ営業していそうだが、あの店主はまだいるのだろうか。また会いに行って、会話を楽しみながら美味しいコーヒーをいただきたい。
空港行きへは1週間前にバスを予約していたのに、リストに私の名前がなく置いていかれそうになった。慌てて事情を説明して何とか乗ることができた(もうあのエージェンシーでは予約しない)。しかも道中のバスにはものすごく酔った。空港に着いてからもカウンターになかなか担当者が来ず待ちぼうけた。飛行機は深夜発だったため、小説を読みながら待ち続けた。
3/12(木)Pittsburgh
待ちに待った Pittsburghに到着!寒い。姉が空港まで車で迎えに来てくれた。再会の瞬間はなんだかむず痒い感じ。でも内心すごくうれしかった。
NYでの感染拡大を恐れ、こちらでも人々は対策に余念がなかった。小さな子どもがいる姉のホストファミリーにも、海外から渡航してきたことで余計な不安を与えてしまって申し訳なく感じた。思ったより周れなかったけれど、姉と過ごす久しぶりの時間がただただ楽しかった。
3/14(土)グアテマラへ出発
姉とPittsburghを楽しむのも束の間、グアテマラが日本人を含む入国規制を発表した。購入済みの帰りの航空券(グアテマラ~日本で10万は下らなかった泣)と残した荷物を考えると、なんとかして戻りたかった。その日の夜出発のチケットを取ることにした。それまでの時間は急遽縮まってしまった時間を姉と大切に過ごした。
3/15(日)グアテマラ入国!のはずが…
Orlandoでの9時間に及ぶ layoverを乗り越え(空港ソファで寝て過ごした)やっとの思いで到着したグアテマラ。最初は機内に留められ、健康チェックから始まった。日本のパスポートを持っているもんだから心臓はバクバク。けれど規制以前に入国した証のスタンプのページを開いて臨戦態勢で順番を待った。係員ははじめ私のパスポートを見たとき怪訝な顔をしたが、「入国制限以前に国内に滞在していた」ことを必死に伝えたら了承してくれた。
「後はゲートをくぐるだけ…。何とか切り抜けた!」と思っていたら一転。最後の関門である Immigrationで別室に案内された。「あなたのパスポートでは入国できません」と伝えられ、泣きながら事情を説明しても一歩も譲ってくれなかった。滞在事情は鑑みず、パスポートの国籍だけで判断していたようだった。勉強していて話せる気になっていたスペイン語も鼻で笑われ取り合ってくれない。真っ暗闇に取り残されたような気持ちでいた。
「なんで私だけがこんな目に」と常に頭の中に浮かんでは消え、絶望的な気持ちだった。Wi-Fiも通じない、泣いて途方に暮れる私を憐れんで係員がご飯の残りをくれた。姉も心配してテキスト、メール、電話、あらゆる手段で連絡を取ろうとしてくれた。弱い通信でなんとか返事はできたが心配させてしまった。
他にも同じ状況の人が何人かいて、ペルー、コロンビア、コスタリカなど皆途方に暮れていた。ヨーロッパから来た人は比較的早い便で戻されていた気がする。残されるのは南米の人と唯一のアジア人だけだった。持ってきた荷物を枕にして涙を浮かべながら眠りについた。
3/16(月)フロリダへ強制送還
まどろむ朝9時ごろ。Armyの人に起こされ出発ゲートへ向かった。「やっと出られるんだ!」と胸は希望に満ちた。航空会社の人がお腹空いているだろうと食べ物を用意してくれた。アボカドのサンドとベリースムージーを頼んだ。水はいらないのかと聞かれ、お言葉に甘えそれも購入してもらった。フロリダのFort Lauderdaleに降り立ったとき、えも知れぬ不安が少し拭われたような気がした。学生旅としては空港でお金をかけずに一夜を明かすところだったが、姉のホストマザーが気を利かして近くのホテルの一室を取ってくれた。ご飯を食べて、シャワーを浴びて、ベッドに身体を沈ませて。そんな当たり前のことが特別な幸せのように感じられた。
3/18(水)やっとの思いで帰国
急遽取ったDelta航空のチケットでようやく日本に帰ってきた。永遠にも感じられるような道程だった。成田空港ではたこ焼きを食べた。もう一本国内線を乗り継いで地元に向かう。地元の空港ではお母さんが仕事を早上がりして電車で迎えに来てくれていた。緊張の糸も切れ体力は限界だったが、ようやく安堵の息をつくことができた。最寄り駅までは大変な思い出を母に語り尽くした。
Pittsburghにいた姉も予定を2か月前倒して4月頭に帰国した。アメリカから帰国した者は公共交通機関を使ってはいけないとされていたので、成田空港まで家族総出で車で迎えに行った。仕事終わりの夜から出発して休む暇もなく家路についた父に感謝である。こうして予期せぬ家族の集結は叶った。本来なら大学近くで一人暮らしの私、アメリカにいた姉と4人全員が揃うことは稀だったがこのコロナ禍においてはそれが実現した。実家で美味しいご飯をたらふく食べ、久々の姉との時間をぐうたら過ごしたのも今考えてみれば必要な時間だったのかもしれない。
今回学んだのは「入国で無理はしないこと」と「旅の途中の予期せぬトラブルに備えてお金は多めに用意しておくこと」、また「自分にとって嫌な状況を見ないふりするのではなく、ちゃんと向き合ったうえで取るべき行動をとること」である。
取り残してきた自分の荷物と San Pedro la lagunaでの幸せだった思い出を取り返すためにも、また必ずグアテマラに戻りたい。
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