ちいかわ(のうさぎ)が好きだという気持ちを叫ぶ回
元々、ジャニーズ系のアイドルが好きなのだが、もう"周りが見えなくなるような"いわゆる熱狂的なモノの見方というのが出来なくなっていた。
香取慎吾が目の前のステージに現れたときの、周りも自分も見えなくなるほどの激しい心の動きを感じたい
あの夏の松竹座で、スポットライトが当たっていないのに(千秋楽でもないのに)役に没頭して顔を泣いたように、しわくしゃにしながら歌っていた、安田章大を目の当たりにした心の揺さぶりを感じたい。
と思い続け、数年・・・
私は空虚な時を過ごしていた。
しかし、沼に落ちる瞬間は、突然やってくる。
「ちいかわ」である。
元々、子供向けのコンテンツだろうと思って、キャラクターの名前もわからないまま子供にグッズを買い与えたりしていたのだが
どうやらツイッターで漫画が読めるらしいと興味本位で閲覧するようになったのが、はじまりだった。
まずは
友達との微妙な距離感に悩むハチワレとか
討伐対象にビビり倒しながらも日々を楽しむちいかわの様子をみて
あるあるな光景を目の当たりにしながら
(本当は大嫌いな虫も、子供がいると怖いながらも退治する私って、ちいかわ なのかもしれない)
などと自分が錯覚することから始まる。
私が当時みていた話は、
ちいかわと、ハチワレがネットカフェのような場所でPCを借りて
ネトゲに興じているところだった。
ハチワレが、こんなに可愛いにも関わらず
人間の嫌なところを煮詰めたような顔でネトゲにハマっている描写があるところで、ハチワレの人間くささを愛おしむと共に
(私もハチワレみたいなところ、あるな~)と自分を重ねてしまうのである。
それはすなわち、私が、ハチワレのように可愛くない自分の面で、嫌なところを煮詰めたような顔で何かを欲しがっているということになるので
自分のことがちょっと嫌になる。
のところで、最愛の推し"うさぎ"の登場である。
うさぎも、同じくネットカフェ的なところに現れる。
ハチワレが(わ~うさぎも、このゲームやるんだぁ)みたいなことを言いながら、うさぎのお手並みを拝見するわけだ。
割と何でも器用にこなすキャラで有名なのだが、
あっさりと画面はゲームオーバーに。
すると、うさぎは何事もなかったように、すくっと立ち上がり
その場を去るのである。
ハチワレはあれだけ人間の嫌なところを煮詰めた顔である種"執着"を見せていたにも関わらず、である。
ゲームはゲーム、それ以上でもそれ以下でもない。
と言ったところだろうか。
ここで対比が生まれる。
執着するハチワレ(=自分)と、
執着しない うさぎ
自分は執着しない生き方がカッコいいと思っているのに
どうしても出来ないでいる
でも、それが出来る うさぎ
ハァ~~~~~好き
である。
まさか、こんなところで沼落ちするとは。ビックリだよね。
そこから、漁るように書籍を買い、過去作を"履修"。
ブタメンを、3分待たずにズルズル食べる姿に、
ヤクルトを底から飲む姿に、
また惹かれるのであった。
ちいかわの魅力は、キャラクター個々の魅力に留まらない。
私は大きく分けて、2つあると思っている。
1つは"日常系ほのぼの漫画"を逸する彼らの"成長意欲"である。
日本のアニメは、さくらももこの言葉を借りるのであれば"クンチャン漫画"などに代表されるような
登場人物達は成長しないことを"良し"
(学年は上がることがないし、夏休みの宿題は毎年最終日になってもやらない)
とする、日常のあるあるを、ほのぼの描写が主流である。
ちいかわも、その部類に分けられるのかと思いきや、
彼らはゴリゴリに成長したいし、また確実に成長しているのだ。
その 自己実現への意欲の源が、
他者への憧れだったり、
報酬を増やして友達にプレゼントを買ってあげたいというものだったりして。
その純真無垢な成長欲求に、また心打たれるのだ。
彼らは"毎日変わらない日常"を好まない。
確実に、毎日遊んで、寝て、沸いている食べ物を食べているだけで幸せだろうし、それを選択できる"余地"が示されるにも関わらず
でも今より少しでも成長した、なりたい自分になりたい、という欲求から"毎日変わらない日常"への道を回避する、という描写がしばしば見られる。
それは険しい道かもしれない。つらい、しんどいことも、あるかもしれない。それでも、ちいかわ達は未来へ舵を切る。
その姿がたまらなく好きなのである。
もう1つは「ちいかわたち」と「デカツヨ」の境界線にヒリつく、ところが魅力的だ。
ちいかわと、デカツヨは対比構造だ。
ちいかわは、デカツヨを討伐するし
デカツヨは、ちいかわを攻撃したり捕食したりする。
この構造の中で、まず
「デカツヨになりたくないのに、なってしまう ちいかわがいる」
事実があって、これをキメラ化という。
ちいかわに、何があってキメラ化するのか ということが謎深いのだが、
作品を読み解くと強いストレスが起因していることもあり
つまりはキメラ化するキッカケって
"ちいかわの、元々ある可愛い要素が失われたとき"ではないかと考える。
ここで、ちいかわの、ちいかわたる所以は何かを考えてみると
ラッコ先生は、討伐時の強さでいうと、ちいかわでは ないかもしれないけれど
甘いものに目がない姿や、停めた自分の車を見失ってしまう、ちょっと天然なところが、ちいかわたらしめるのではないだろうか。
ハチワレは、言語能力に優れているところが、ちいかわではないが
危機管理能力がなく友達想いなところが、ちいかわたらしめている。
うさぎは、頭脳明晰で身体能力が高いところが、ちいかわではないが
言語能力が皆無なところが、ちいかわたらしめているのだ。
この各自の"ちいかわたらしめている"要素が何かの拍子に失われてしまったら
そして、ちいかわではない、デカツヨっぽい部分が肥大してしまったら
いつか、どこかでキメラ化してしまうかもしれない。
それだけではない。
あの世界には、"ちいかわになりたい奴ら"がいるのだ。そいつらに、ちいかわの皮を取られてしまったら
ちいかわ達は、キメラ化だったり、ちいかわではない、何か別のモノに変えられてしまう可能性がある。
デカツヨになりたい、ちいかわがいたり
ちいかわになりたい、デカツヨがいたり
デカツヨになりたくないけど、なってしまう ちいかわがいたり
何かの拍子で
自分が望む姿カタチになる
自分が望まない姿カタチになる
という緊張感。
どちらに転ぶかの境目が、うすはりグラスのようで。
今の、ちいかわで可愛い愛おしい瞬間は刹那的なものかもしれなくて。
このうっすらと作品を流れる不安感というのが
魅力の1つだなと私は思っている。
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