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一日坊主の憂鬱

無から有を生み出すことは本当に難しい。

文章を書くことは昔から好きだった。
しかし、そこには「お題」と「締切」、そして「他者からの承認」が必要だった。

たとえば「日記」。
小学生の頃、毎日日記を書きましょうという宿題が出されていた。
その日の出来事や、そこから考えたことをつらつらと書けばよい。あの頃は至るところに「お題」がごろごろ転がっていた。書くネタに困ることはなかった。
「締切」は言わずもがな、毎朝の登校時である。
提出すると、担任の先生がひとこと感想を添えて返却してくれた。この感想こそ「他者からの承認」。私の書いた文章に、先生が反応を示してくれる。これが原動力になっていた。さながら交換日記のようだった。
だから、お題が漠然としていて読んだ人の反応が得られない「作文」は大の苦手だった。

たとえば「ブログ」。
締切は存在しなかった。お題も自分で見つける必要があった。
それでも書き続けられたのは、読んでくれるブログ仲間がいたからだと思う。アクセス数も励みになった。
中高生の頃は、誰にも話しづらい鬱屈とした感情を抱えることも多かった。そんな気持ちをブログには吐き出すことができた。そして受け止めてくれる閲覧者がいた。時折コメントももらえた。

たとえば「取材文」。
ライターとして働いていた頃、かなり用途の限られた文章を執筆していた。
お題は明確。取材対象者が毎回きちんと存在し、タイトな締切と字数制限が設けられている。
そうして出来上がった文章を取材対象者に確認してもらうところまでが私の仕事だった。つらい思いも何度もした。どうしても手に負えなくなり、より実力のあるライターさんに引き取ってもらわねばならないこともあった。それでも、多くのクライアントが感嘆し、時には涙しながら読んでくださる姿が、のちに取引先を通じて伝えられる喜びの声が、またがんばろうと思わせてくれていた。

なぜnoteなんか始めてしまったんだろう。
ちょっぴり後悔し始めている。

学生の頃のような、どこにもぶつけられない、ふつふつと煮えたぎる思いはなくなった。
お題を探すことも、締切を設けることも、私次第。
誰かからの承認を得られるまでには、まずはこつこつと書き続けていく必要がある。時には凡庸さに呆れながら、時には気恥ずかしさを噛み殺しながら。

無の世界を手探りでかき分けながら、そこに有るはずのなにかを掴める日が来たらいいと思う。



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絶賛リハビリ中。
ブログ時代、なんであんなに書けたんだろうなあ。

なしこ

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