2つ目の物語。

家の前に、セミがいた。
ひっくり返って、おそらくあとわずかなのであろう力を振り絞って、一呼吸おきながらジィーッ……ジィーッ……と鳴いていた。
この子はもうすぐ死ぬ。
そう思ったのは、人生で2回目だった。

小さい頃から、結婚式は一回も行ったことがなかったのに、お葬式や何回忌とかに行くことはたくさんあった。
いろいろそういう儀はめんどくさいことも多いけど、親に連れられた子供に拒否権はない。仕方なくついて行きお経を辛抱強く聞いて、小学校高学年の頃にはもう慣れていたお焼香を済ませるわけだけど、言う通りにしてれば、最後に高そうなご飯が出てくる。帰り際にはもう服に染み付いたお線香の匂いは、そんなに嫌いなわけじゃなかった。
母親はいつもより清楚な感じで振る舞ってるし、父親はいつになく人当たりよく親戚の皆さんに気を配る。親もいい人そうに見えるし、幼い子供は親戚中集まっても自分くらいだから、みんな可愛がってくれる。
だからそんなに嫌いなわけではなかった。

ただ一つ、どうしても嫌いだったのは自宅に戻って家に入る前、塩を浴びる儀式。お清めっていうなんとも冷淡な儀式。
思い出話をしていたときは、お世話になった話やいい人エピソードがちらほら出てきていた割に、こっからはついてくんな!って塩をかける。
なんて恩知らず。。ひどい。と、幼心に思っていた。大人は怖い。平気な顔して嘘をつく。自分を守るために、いい顔をする。。

私は霊感のある子供だった。大人になったいま(24歳)ではそうそう感じないが、昔は霊気を感じることがよくあった。センスオブワンダーに言われる、子供の頃の感性は大人になるとなくなるよーって話みたいに、そういう霊的なセンサーも歳と共にすり減っていくのかもしれない。恐怖心から自分を守るために。
ともかく、昔は恐怖心を抱くことなく霊を感じていた。らしい。正直自分ではあんまり覚えていない。存在しない児童とお喋りしたことを親に告げたりもしたと後から聞いた。
そんなこともあるものかと、にわかに信じ難いが、信じ難いのが大人になった証なのだろうと思う。

霊感があったせいか、塩を撒く行為には抵抗を感じていた。死者を悪者のように扱い、完全拒否の意思を示す行動は、死者への冒涜のように思えた。霊は悪いことしないのに、こんなことしたら逆に恨まれて、霊魂の集団攻撃でもされるんじゃないか。悪くない人を悪者にする親たちこそ、悪者だ!とかなんとか正義感を覚えて塩から逃げていた。

その正義感は、歳と共にねじ曲がった。

中学生の時、私はキリスト教の学校に通っていた。と言ってもほとんどの生徒が信者ではない。学校では毎朝礼拝をするし、イースターやクリスマスや復活祭ではイエスのために盛大にお祝いをするが、そのイベントのたびに何曲も聖歌を歌い、司教様のお話を数時間聞くことに飽き飽きしている生徒が8割であった。
でももちろん中には、本当に信仰している生徒もいた。周りもそういう子を侮辱するような抵当な考えは持っていなかったおかげでいじめとかはなかったが、1人、私のクラスには強い信仰心のあるちょっと変わった生徒がいた。

彼女の名前はタナカメグミという。はっきりと物を言う子だった。聖歌隊に入っていて、カラオケでも賛美歌を歌うと言っていた。周りの子には優しくて、特に害はないタイプの子だった。
その子がある日の昼休み、突然、教室の窓から飛び降りようとした。
その時彼女は、"行かなきゃ、止めないで"と呟いていた。目の前で、人が死のうとする瞬間を見た。彼女の目に恐怖はなかった。なにがあったかはわからないが、死ぬことでなにかから救われるとか、何かやりたいことが実現できると信じてやまない目だったから、止める気にあまりなれなかった。
直後、1人の生徒が止めに入り、続いて参加した生徒にその子は引きずり下ろされる形で床に腰を落とした。かと思ったら、走って教室を出て行った。
最初に止めに入った子が慌てて追いかけ、別の子が教員室に知らせに行った。
私はなにも、しなかった。
その後メグがチャペルで見つかったという話になり、先生の話を聞かないということで、話のできそうな数人が呼ばれ、様子を見にいくことになった。なぜか、私も呼ばれた。
行くと、メグはチャペルの真ん中の通路の後方に倒れていた。意識はあり、泣いていた。

気分はどうかと1人が尋ねると、眠いと言った。気持ち悪いとも言った。
保健室の先生を呼ぶと言うと、呼んだら死ぬ、と言う。
救急車を呼ぶと言っても、呼んだら死ぬ、と言う。
ただ、様子がおかしかった。
どうやら睡眠薬を大量に飲んだらしい。
先生にこそっと、外へ出て、聞こえないように救急車を呼ぶようお願いした。

彼女は、彼が逝ったと言った。
彼女は、家庭教師に惚れていた。大学生だから、中学2年の私たちからしたら、少なくとも5つは離れてる。本気で好きだったらしい。でも、その家庭教師には同じ大学の彼女がいた。メグの成績が上がらなくなると困るから、それは隠していたらしい。家庭教師に彼女がいる事実をメグが知った次の日、メグの想いびとは亡くなった。バイクの事故だったらしい。彼女はそれを、罰と呼んでいた。

この行動は後を追った、と言うことだろうか。私は純粋にそれを、すごいと思った。尊敬の念だった。やりたいという訳ではなくて、そうやって誰かを一途に思える心も、大それたことを人目を憚らずやれることも、尊敬に値すると思った。
彼女は死にかけていた。大量の睡眠薬を飲めば死ぬことは、その辺のサスペンスドラマを観て知っていた。でも私には、止める気持ちにならなかった。この子は、もうすぐ死ぬ。

私は自分の中に狂気みたいなものは感じなかった。ただ彼女を応援したいという気持ちになった。それが"見殺し"という行為であったとしても、彼女が求めたのは救いであり、彼女にとっての救いは彼と同じところに行くことだった。もちろん今ならわかる。考え方を変えれば生きていても彼への愛を捨てることはない、救いにはいろんな形がある。
でもそのときは、彼女の選んだ行為を見守るのが、私にとっては正義だった。

メグをあの場で説得する、助ける行為は、自分を守る行為でしかないとさえ思った。自分は見殺しにしていません、彼女を助けようとしました、という行為が、後に自分を守る。
きっとみんな、結果はどっちでもいいんだと思う…。
変わり者の彼女のことだから、現場にいなくても自殺したことを否定する者はいないだろうと思う。誰もが、「メグなら自殺してもおかしくないと思う」「あんまり話したことないからわかりません」「信仰心が強くて、ちょっと怖かったです」「いじめはありませんでした」そんなようなことを口にすることは目に見えている。そう、たとえ死んでもそれで済む。自分とは無関係であると口にし、自分を守る。自分を守れれば、彼女が死んでも死ななくてもどっちでもいい。そう考えている人がほとんどだっただろう。これは偽善なのだろうか、、。

結論、メグは助かった。救急搬送された彼女は睡眠薬の過剰摂取が原因で2日間入院し、その後精神病棟に入退院を繰り返す日々になった。学校にはしばらく来れなかった。
チャペルに連行された数人には、保健室の先生や教頭からご丁寧に精神状態の確認をされた。ショックが大きいと思うけどなんとかって言って、もし難しかったら数日お休みしてもいいからねって言われた。わからなかった。
メグは自分が信じた行いをしただけである。なぜ、私たちが学校を休む理由になるのだろう。メグは悪いことはしていない。死を選ぶことが悪くないとは言わない。悲しむ人がいる、生きたくても生きれない人がいる、そんな中で軽率な行いかもしれない。でもメグは軽い気持ちで死のうとした訳ではない。家庭教師が死んだのは事故だったと言うけど、彼女は"罰"と呼んでいたし、タイミング的にも少なからず自分が関与してるのではと考えてしまうのだろう。そう考えたいだけなのかもしれないけど。
自殺するまで気付けなかった私たち、何もできなかった私たち、死を(実際は死の直前の友人の姿を)目の前で見た私たちを、なぜこの人は慰めるのか。わからなかった。これもまた、休んでいいよという言葉をかけた事実によって自分を守る、偽善なのだろうか。心から言っているとしたら、彼女のことを悪者だと信じてやまないのか。それが正義なのか。
なぜ誰も、彼女は悪くないと言わないのだろうか。異例の出来事には、悪者が必要なのだろうか。。

彼女がけろっと登校してきたのは3ヶ月後。心配かけてごめんね!と、周囲に口にしながら明るく振る舞っていた。気持ちの整理がついたのだろう。彼女が良いなら、それでいい。そう思った。
これも自分が何もしなかったことを肯定するための思考なのだろうか。わからない。
ただ、大人には、なりたくない…と思った。

次の日玄関を出ると、動かなくなったセミがいた。昨日最後の力を振り絞って鳴いていたこの子は、死んでしまった。
最期になんと言っていたんだろう。
メグは、あのとき彼のところに"行かなきゃ"と言っていた。
最期のとき、私はなんと言うのだろう。
わからない。
ただ、私が大人に向かって進んでいるのはたしかだし、それは止められない。

家の前のポストの下にある花壇の土を、少し掘った。小さな穴にセミの亡骸を置いた。
自分を守る行為なのか、それともこの子が望んでいる気がしたからという純粋な想いなのかなんなのか、もはやわからない。自分も大人になってしまったのかも、偽善者なのかもと思いながら、"お清め"という言葉が浮かんだ。浮かんでから、少し笑った。
清めの塩から逃げることが正義と思っていたはずの自分はどこに行ったんだろう。経験を積むことはいいことばかりではないのかもしれない。これからどんな大人になるんだろう。わからない。大人にはやっぱりなりたくない。
そんなことを思いながら、そっと土をかけた。

2020年8月18日