2つ目の記録。

生きるの苦手とか、
上手く生きれないとかって言葉を、
最近よく聞くようになった。
なんとなくそれぞれが呟く不満不安焦りにちょっとだけ同意しながらも、
自分は違う、きっともっと違う感情を自分は感じてる、ってなぜか反抗心を抱いてる。

でも、少なくとも私も生きるのが苦手とか、その類の人種なんだよなぁ、っていう自覚はしている。
周りの人がみんな上手く生きてるとは思わないけど、自分は上手く生きれてない。
悩みにならない悩みと自己嫌悪だけが最近頭の中に渦巻いてる。。

昨日、大好きなダンサー(3歳年上の女性)の個展に行ってきた。
自分の出生からいままでを曝け出し、
悩んだこと、苦しんだことも、
見つけた居場所、支えられた人たちのことも、
はっきりと自分の言葉にしていた。
とてもかっこよかった。
素敵な時間だった。

でもなぜか、自分にはそんな生き方ができないというのもはっきり感じた。
この人はすごい。人を動かす力がある。
もちろん後天的に、彼女が努力の末に培った力とか、彼女の姿が生み出した力なのだと思う。だから、それを羨むなんてことを、同じ努力も同じ姿も人に見せていない自分がしてはいけない。
そもそも羨ましいという感情は、努力家に対して使ってはいけないと昔から思ってる。生まれた家庭の貧富の差も、愛情の差も、育った環境の差も、あるのは大前提である。どんな家族も一様なんてこと、あるわけがない。それを踏まえて、人は自分が置かれた環境に適応するか抗うかして生きていくんだと思う。もちろんどっちもできずに苦しみ続けて生きていく人もいる。
もがくというのは、こうなりたいと切に願って努力する、という意味なのだと思う。もがいて自分の人生を探してきた人にむかって羨ましいという気持ちを向けるのは、とても無神経だと感じてならない。
というか、正直心の中で羨ましいという感情を抱くことはあるのだけど、恥ずかしいし、情けないと思う。私には手に入れられないものを持ってんだなぁ、ってその人がしてきた努力も知らずに認めることのようで、しかも自分には手に入れられませんーって諦めてるようにも感じて、なんか自分の小ささを感じる。

個展に足を運び、思ってしまった。
羨ましいなと。。
すごい努力をしているんだなというのは、話を聞いていてなんとなくわかる。もがいて苦しんで見つけて生きてきた人だった。すごくかっこいい。そう感じたのは嘘じゃない。
羨ましいと思ってしまったのは、
幼少期から彼女の足は地にしっかりとついていて、精神がとても強かったこと。
彼女が幼心に耐え抜いたものさえ、私は耐えられるかわからない。強さ。それが今の私に足りないもの。
自分にはあると思っていた。踏み出す力、耐える力、応える力が、周りの同期よりも、それなりにあると思っていた。でもそれは全部、強さではなくて、強がりでしかなかった。
だから折れた。
社会人になって2年目、ついに折れた。
踏み出せなくなって、耐えられなくなって、それで、応えられなくなった。
自分は弱かった。強くなりたい気持ちもどこかへ行ってしまった今、強くなる努力も放棄し、彼女を羨ましいと思ってしまった。

努力家の彼女に向かってそう思ってしまったことが、恥ずかしく情けなかった。自分の無神経さに余計に嫌気が高まって、自分の小ささを再認識した。小さな人間だな自分は。。

そんな自分に向けて、個展の最後に彼女がくださったメッセージに、"あなたは放って置けない存在です"とあった。
この人はすごい。こんなどうしようもない自分を放って置けないと言う。
自分は恵まれている。こういう人のおかげて生きることを許される。
彼女の個展に行って、自分のことを見つめ直してしまうようなエゴイストなのに。
彼女が持つ、人を魅了する素敵さは、そういうことなのだろう。人を否定せず、自分も自由に、でも常に高みを目指して生きている。だからそれができない人も、そうしたい人も、彼女を慕い、憧れ、敬い、目指す。彼女を観に足を運び、彼女から学ぶために聞く。
いろんなことに、納得した。

自分は生きるのが下手だ。
それも再認識した。
でも今から上手く生きるなんてできないし、なんか上手く生きなくてもいいような気がしてきた。ちょっと苦しいかもしれないけど、幸い、常に楽をしたくてたまらないタイプではない。荒れた道は嫌いじゃない。
下手に、でも成長しながら生きていこうと思った。

2020年8月25日