ユージン・スミスにはなれなかった

<過去からの便り>

昔勤めていた会社から新刊本が届いた。
『雲上の人 ジャイアント馬場』門馬忠雄著 文藝春秋刊

会社勤務時代に撮影した写真はすべて会社に著作権があり、管理されているが、
文藝春秋という会社は律儀な会社で、担当編集者にもよるのだろうが、
退職した社員が撮影した写真の再使用にあたって、撮影者に連絡をしてくれた。
しかもその本を贈ってくれた。

届いてみると、その本のカバー写真が、今から30年ほど前に自分が撮影したものだった。
誠に良い会社に勤めていたものだと、あらためて感じ入った。

当時は文藝春秋が出しているスポーツ雑誌『ナンバー』の撮影をする機会が多く、ジャイアント馬場さんのこの撮影も、ナンバー誌のインタビュー記事の仕事だったように思う。

内容は、馬場さんと親しかったスポーツ新聞の記者である著者による、馬場さんと昭和のプロレスをめぐる回想録。昭和とプロレスは、切っても切れない縁がある。高度経済成長真っ只中に育った我々世代には、とても思い出深い。

30年前、全盛期をとっくに過ぎた巨人を前に、若造がどんな思いでこの写真を撮ったか、もう覚えていない。写真の上手い下手はさておき、思いとは別に、写真は、人物写真は、
残り伝える、我々が消え去っても。

自分も、馬場さんが亡くなった年齢をもう超えてしまった。プロレスファンの方、是非ご一読の程を

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<ユージン・スミスになれなかった>

我々世代で写真家を志した人間なら、ユージン・スミスに影響を受けなかった人は少ないだろう。ジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』が公開されて、ユージンスミスと水俣が、(写真界周辺では)話題になっているらしい。

自分とユージンとの接点は二つあった。

一つは大学時代、1980年ごろ、水俣の水俣病支援センターにボランティアに行った時のことだ。センターは、ユージンも出会った水俣病患者やその家族が全国の支援者と交流する場所だった。

自分も胎児性水俣病患者(母親の胎内で水俣病に罹って生まれた方)の方と親しくなり、
いろいろとお話を伺うことができ、写真を撮らせていただいたりした。その頃既に漠然とであるが、写真家を志していたこともあり、ユージンを意識していた。

大学では南アフリカのアパルトヘイト政策で苦しむアフリカの人々に連帯するためのサークルを作り、当時解放闘争が盛んだった中南米の諸組織と連帯するための活動もやった。ニカラグアやエルサルバドルの解放闘争のドキュメンタリー写真に痺れ、自分もいつかこうした「現場」で写真を撮りたいと漠然と思うようになっていた。自分の夢と目的と正義が、何の疑いもなく結びついていた。

水俣には大学を出るまで何回か通った。だが、遠くから来た若い支援者に寄せる水俣の人たちの思いは強く、結局それに応えることができないまま、水俣を去った。

二つ目は、京都から上京して写真家の修行を始めたアシスタント時代、知り合いの活動家A氏の紹介で、ユージンのパートナーであるアイリーンさんの写真を撮らせていただいたことだ。

温厚なA氏は、駆け出しの写真家の卵に刺激になるだろうと、アイリーンさんとのミーティングの席(新宿紀伊國屋だったと思う)に呼んでくれ、アイリーンさんに事情を説明して、彼女の撮影許可を得てくれた。人物写真を撮る写真家になろう、その頃はそう思っていた。

その後、80年代のバブルに踊り、戦場や解放闘争は遠くなり、若者は志を捨てて職業写真家になった。モータースポーツ、野球、女優、ポートレイト、舞台写真、広告写真、世界のリゾート、政治家、料理、ルポルタージュ、建築、およそ仕事になるものならなんでも撮影した。それから無節操な30年年が過ぎた。

結局、ユージン・スミスみたいにはなれなくて、今は人物写真を撮るのもやめてしまった。

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