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「共同体感覚の高い人が教師になった。目的は貢献である。共同体感覚の低い人が教師になった。目的は弱者を支配し、弱者の中で安心することである」

なぜ医療事務を選んだのか?

医療事務になる前、私はまったく畑違いの製造業の仕事をしていました。

しかし、もっと直接的に人と関わる対人業務に憧れるようになり、医療業界に強い関心を持つようになったのです。

でも、私は何もライセンスを持っていなかったので、ノンライセンスでもできる医療事務の仕事にチャレンジすることにしました。

何時でも何処でも誰にでも

私はなぜ医療業界に関心を持ったのでしょうか?

振り返ってみると、私が医療業界に飛び込んだのとほぼ同時期に、社会保障制度が次々と切り崩され、医療にアクセスできない、患者になれない国民が生まれてきました。

世界に誇れる国民皆保険制度がなし崩しにされ、一番差別されてはいけない命がお金のあるなしで差別されるようになり、本当に困ている人を何とかして医療につなぎたいという気持ちが強かったんだと思います。

何時でも何処でも誰もが、必要な医療を受けられる、そんな日本にすることが私のモチベーションであり、それは今も変わりありません。

尊敬されたいから?

職業の選択に代表されるように、あらゆる選択、行動には目的があります。

しかし、その目的は人それぞれです。
それは、共同体感覚の高低により決まってくる、とアドラーは言っています。

私が、医療事務という職業を選択した目的が、「患者の命を救って尊敬されたいから」だったとしたら、それは共同体感覚が低いと言えます。

しかし、私の目的は純粋に「患者の命を救いたい」でした。

医療業界の悪しき習慣

ちょっと話は脱線しますが、医療業界ではサプライメーカーの営業の方は、医師以外のコメディカルに対しても「先生」と呼びます。

自メーカーの商品を買ってもらうために、少しでも印象を良くしたいと思っての行動だと思いますが、「先生」と呼ばれると何だか偉い人になったと勘違いしてしまうと思うので、個人的にはやめたほうがいいと考えています。

小説家やマンガ家、そして国会議員を「先生」と呼ぶことにも、個人的には違和感を感じてしまいます。

特別な存在になりたいのか?

「先生」と呼ばれることで、自分は特別な人間であると勘違いしてしまい、自分が医療従事者である目的が「患者の命を救いたい」から、「特別な存在になりたい」に変わってしまうことはないのでしょうか?

それがもっとも顕著なのは国会議員だと思います。
最初は「国民のために働きたい」から、「特別な存在であること」が目的となり、政治とカネの問題に発展してしまうのではないのでしょうか?

政治とカネの問題にクリーンなとある政党は、「先生」と呼ばれることを拒否してします。
「○○議員」と呼んでほしいと言っています。

個人的には、医師も「ドクター○○」でいいのではないかと思っています。
現に、欧米ではそのように呼ばれています。

どうなりたいのか

社会に貢献したいのか?
自分の個人的優越性を追及したいのか?

それにより、よき医師、コメディカル、国会議員になるのか、悪しき職業人になるのか、が決まるのだとアドラーは言っています。

職業の選択を「個人的優越性」ではなく「共同体への貢献」で選ぼう。


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