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ドラッグストア昔話 (上)#創作大賞2022

昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

おじいさんは、杖をついて川へ洗濯に。
おばあさんは、東京都墨田区押上駅近くのドラッグストアへ行きました。


普通、こういう時って、おじいさんは山へ柴刈りに、そしておばあさんは川へ洗濯に、行くものですよね。わたくしもそう思います。

けれど、普通と違うこの物語の始まりには、深い深い、長い長いわけが、あるのです。もしご興味があれば、続きを聴いていってくださいね。


さて。

3年前のある日、おじいさんは山へ柴刈りに。そして、おばあさんは川へ洗濯に行きました。


洗濯が終わりおばあさんは家に帰ってきましたが、お昼時になっても、夕時になっても、おじいさんは帰ってきません。

あたりが暗くなり、フクロウが鳴き始めると、外で足音がしました。やっとおじいさんが帰ってきたのです。
おばあさんは慌てて外に出て、おじいさんに駆け寄りました。
すると、おじいさんは、片足を引きずり、木の枝で杖をついています。

「おじいさん!どうしたがね!」

おばあさんが慌てて尋ねると、おじいさんは痛そうに額の汗を拭いながら、

「沢に落ちてしまっての、足を挫いた。痛くて夜まで動けなんだ。まだ足首が痛くてたまらん。布団を敷いてくれろ、もう寝るど。」

そう言って、おばさんが敷いた寝床に入りました。けれども、痛みで眠れるわけもなく、足をさすりながらウンウンと唸っています。

おばあさんは、おじいさんの怪我を冷やさねばと思い、水瓶からタライに水を張り、おじいさんの足を、水手拭いで冷やしながら、一晩を過ごしました。

明日の朝、お山の稲荷さまのところへ行って、おじいさんの怪我が治るようにお百度参りしよう、おばあさんは怪我を冷やしながら、そう思いました。


翌朝、おばあさんは畑でとれた野菜を、稲荷さまに供える為に、背中の籠にたくさん詰め、籠を背負い、お山の竹林のなかにある、稲荷さまへ向かいました。

山を登り、森を抜け、静かな竹林を進むと、稲荷さまの祠があります。


「稲荷さま、うちのおじいさんがの、足を痛めて苦しんどるけ、どうにか助けてくれろ。どうにか、稲荷さまの力で助けてくれろ」

そう言いながら、おばあさんは何度も何度も竹林を出て、またお参りをする、お百度参りをしました。何度も何度も、竹林の入り口と稲荷さまの祠を往復しています。

いつも、ここの稲荷さまにはおじいさんと一緒にお参りに来ていたので、助けてくれるのではないかと、おばあさんはそう思いました。

汗を拭い、必死に竹林を歩き続けるおばあさんのそのお参りが、101回目になったとき、あたりが突然、眩しい光に包まれました。おばあさんは、目を瞑り、顔をしかめ、眩しい光を両手で遮ります。大きな音が聞こえて遠ざかって、嵐のようになって静かになって、そして、突然騒がしいところに、立っていました。

さっきまでは風の音もしない静かな竹林だったのに、今では人の話し声や風の音や、聞いたこともない騒がしい音がたくさんしています。

おばあさんは、眩しそうに辺りを見回しました。石でできた沢山の高いお城のようなものが数え切れないほどあります。牛馬のいない荷車が、たくさん動いています。里では今まで見たこともないようなたくさんの人々が、見たこともない着物を着て歩いています。

おばあさんは、不安になって空を見上げました。すると、白い色の火の見櫓のようなものが見えました。でも、里の村にある、火の見櫓とは比べ物にならないほど、もっともっと高くて、とても大きいものでした。おばあさんは怖くなって、

「こ、ここ、ここここ、ここが、稲荷さまのお国かね?」

そうひとりで、呟きました。
すると、近くを通りがかった女が怪訝そうに立ち止まり、おばあさんに話しかけます。

「おばあちゃん、どうしたの?道に迷ったの?大丈夫?」

おばあちゃんは、震えながら、ものすごく不安そうな顔をして女に訊きました。

「あああんたは、い稲荷さまのお使いのか方かね?」



おばあさんが女に訊くと、

女は、少し困った顔をして答えました。


「あ、えっと、お使いっていうか、今昼休み中なんですよ。これからランチに行く途中で。で、おばあちゃん、だ大丈夫ですか?」


「わたしはどうもないが、おじいさんが足を怪我しとるで、稲荷さまにお百度参りしたんじゃ。そしたら突然ここにおったんじゃよ。ここでは、稲荷さまのお導きで、妙薬のお授けをいただけるんじゃろうか?」


女が見たこともない着物を着ているものだから、おばあさんは女を稲荷の国の巫女だと勘違いしていて、そして薬をこの女から貰えると思っているようなのです。


けれど女は、巫女ではなく、近くのオフィスの事務員です。

お昼休みのランチで外に出たら、おばあさんが困っていたので声をかけました。女は、“なんだか変わったおばあちゃんだけど、たぶん薬を買いにきたのだろう”と思いました。


「えっとね、おばあちゃん、お薬屋さんなら、ここまっすぐ歩いていったところにありますよ?ほら、あの赤い看板」

そう女は言い、道の先にある赤い看板のドラッグストアを指差しました。


おばあさんは目を細め、不安そうに看板を見つめ、

「あそこで妙薬のお授けがあるかね?お授け頂けるんかね?」

と女に尋ねました。

「えっと、うん、たぶん、お店の人におじいちゃんの怪我のこと言ったら、教えてくれるはずだよ、うん。それじゃあ気を付けてくださいね。」

女は、そう答えてからヒールをこつこつと云わせて立ち去っていきました。


おばあさんは、立ち去っていく女の背に向かって手を合わせて拝み、ドラッグストアへ向けて歩き出しました。


おばあさんは、裸足にわらじ。灰色の脚絆をつけ、土色のふるぼけた着物を、ぼろぼろの麻の粗末な帯で巻き、首には薄汚れた黄土色の手拭いを結び、頭には竹の皮で作った笠を被っています。

そして大きな竹籠を背負っていて、その中には稲荷さまへのお供えの野菜がたくさんです。そんなおばあさんが、東京スカイツリーのしたをドラッグストアへ歩いています。


やがてドラッグストアの前に来ました。

城下町で一度だけ見たことがある、ビードロで出来た美しい戸が並んでいます。けれど、その戸には、取手も手掛かりもありません。入り口はどこだろうと、あたふたしていましたが、ここも祠の一種だと思い直し、お参りをしようとその祠の真ん前に立って二礼しました。


すると、ビードロの戸がすぅっと、触ってもいないのに開き、中から“いらっしゃいませぇ”という声が聞こえてきました。おばあさんは、たいそう驚いて「ははぁっ、失礼いたしますっっ」と平身低頭したあと、白く光輝く祠のなかに入って行きました。









祠のなかは、秋のように涼しく、そして日を浴びる畑のように明るく、どこかで誰かが歌い、誰かが楽器を演奏しています。壁や仕切りには、大小の箱や徳利のようなものが、たくさん並べられています。シャンプーやリンスやボディーソープや歯磨き粉の棚をしげしげと見つめ、これだけ妙薬があれば、おじいさんの怪我も治るだろう、とおばあさんは安心した顔をしました。そして、白い服を着て、その妙薬のひとつを手にとって愛でている若い神官に平身低頭し、お祈りをしました。


「お招きいただき、まっことありがとうございますっ おじいさんの怪我が不憫で見ておれなんだから、稲荷さまにお参りさせていただきました。どうか、なにとぞどうか、妙薬をお分けくださいっ、おねげえしますっ!」


おばあさんは、神官だと思っていますが、この男はドラッグストアの店員です。そして妙薬を愛でている訳ではなく、ウナコーワクールを陳列しているだけなのです。そこへ、突然昔話の中のような格好のおばあさんがやってきて、土下座をしながら、「妙薬をお分けくださいっ」と言うので、男はおばあさんを五度見したあとに、小さく「いらっ、しゃい、ませ?」と言いました。


「ははぁっ!どうか!なにとぞ!」


「あのぅ、なにかご用でしょうか。どうかされましたか?」


「この通りでございますっ おじいさんの足首を治す妙薬をば、稲荷さまにどうかっ、どうかなにとぞっ おねげえしますっ どうかっ」


「あっ、あの、その、まず、はい、じゃあ、あの、とりあえず、おばあちゃん、顔をあげてください。あの、お薬の場所は、ね、普通にお伝えしますので、ね、とりあえず、おばあちゃん、たちましょうか、ね?」


おばあさんが何度も頭を下げるので、背中に背負った籠から茄子やキュウリが、ぼとぼと前にこぼれ出てきます。それを店員は籠に戻しながらおばあさんを立たせます。


「えっと、その、どうされました?ご主人がお怪我されてるんですか?」


「へい、芝刈りに行っとったら、沢に落ちてしもうて、足挫いて、腫れ上がってもうとる、っもう痛そうでかわいそうで不憫じゃ。どうか妙薬をお授けください。どうか、この通りです」


おばあさんはまた土下座しようとするので、店員はおばあさんの脇を掴み、ちょちょちょちょ、ね、大丈夫ですから、立ったままでね、と言いながら、なんとかそれを制止しました。


「わかわかりましたから、ね、それよりね、あの、ご主人は、病院とかって行かれました?」


「ビョウイン?…ビョウイン…?……ビョウイン?そのビョウインというところに行かんと、お授けしてくれんのじゃろか…」


「あ、その、行ってないんですね?お医者さんに診てもらってないんですね?」


「山にも、里にも医者はおらんで、村から二日ばっかり歩いてった城下におるかもしれんけんども、おじいさんは足を怪我しとるし、お医者に診てもらうような銭はもっとらんで、みせとりません」


「あ、そ、そうなんですね。あのね、まずはお医者さんに診てもらうのが、まず先決ですよ。骨が折れてるかも知れないですからね。骨が折れててね、変な風に繋がったら、後遺症も残りますから。でね、ここはドラッグスト、あの、お薬売ってるところなので、痛み止めとか、炎症を抑えるとかそういう症状にしか対応できないんですよ。それでもいいですか?」


「どうか、頼るのが稲荷さましかおりません、なにとぞ、どうか」


「えっと、はい、まあ、わ、わかりました、ご案内はちゃんとしますから。あの、一応それでは、足を挫いたということで、お薬と湿布持ってくるので、こちらでお待ちくださいね。」


そう言って店員はその場をあとにしました。

おばあさんは、店員に向かって手を合わせ、両手をさすり、なんども頭を下げました。





店員は、オレンジ色のカゴに、湿布と薬を入れて持ってきました。そして大きな声で説明を始めます。

「おばあちゃん、一応ね、お薬と湿布もってきました。ね。まずね、バファリンプレミアム、これは、痛み止めです。1回2錠で、1日3回までですからね。注意書き読んでから、飲んでくださいね。それでね、こっちは湿布。湿布はね、2種類。でね、まず今日おうちに帰ったらこっちを貼ってあげてください。これね、冷感湿布、ひんやりする湿布、サロンシップEXです。インドメタシンっていうのが入ってるから、痛みも炎症も抑える効果がありますから。そしてね、4日目ぐらいからね、こっちのね、赤いラベルのね、ハリックス55EXって書いてる方の湿布ね、こっちの湿布。こっちはね、温感湿布です。温かい湿布なんです。冷やしたあとはね、温めてね、捻挫した患部をね、治すんです。でね、どっちの湿布にもね、ちゃんと使い方が書いてあるから。それ読んで、ご主人に貼ってあげ」

店員が話している途中、おばあさんは、申し訳なさそうに、店員に言いました。

「あのう、すみませんっ、あの、わしもおじいさんも、字が読めんから、どうしたらいいんじゃろうか、そんなに覚えきらんし、間違えたことをしたら、おじいさんがかわいそうじゃし、いったい、どうしたらいいんじゃろうか」

おばあさんはうつむいて、悲しい顔をしています。

店員は、驚いた顔をしましたが、しばらく考えておばあさんをサービスカウンターに案内し、椅子に座らせました。

そして店員は、A4の紙を用意し、

「それじゃ、今から、絵で説明しますねっ」

と言ってA4の紙にマスをいくつか描き、そこに絵を描いていきます。

痛そうな顔をして、足首が腫れているおじいさんの足に、サロンシップEXの箱の湿布を貼っているおばあさんの絵。

バファリンプレミアムという小さな箱から出した錠剤を二粒、湯飲みで飲む、痛そうな顔をしたおじいさんの絵。枕元には、リンゴが切って置いてあり、山からは朝日が昇り、スズメが何匹か飛んでいます。
そして、同じ絵で、太陽が、月と入れ替わった夜の絵。

少し痛そうな顔がほぐれてきたおじいさんに、人が走っているようなパッケージのハリックス55の湿布を貼っているおばあさんの絵。この絵の右上には、親指を曲げて、指を四本出した手のひらが描かれています。


「はい、じゃあね、おばあさん、いいですか。こっちの湿布ね、サロンシップEXの方、今日、帰ったら、こっちのを貼ってくださいね。こうやって、中の袋に湿布が入ってます、こうやって破って、この透明なフィルムを剥がして、患部に貼ってくださいね、そうです。そしてね、このバファリンプレミアムは、こういうふうにね、二粒、お水かお湯で飲んでください。こうやって、透明の部分を押すと、薬が裏の銀色の紙のところを破って出てきますからね。二粒です。でね、この絵に描いてるみたいに、朝、夜、分けて飲む方がいいですよ。できるだけお腹すいてる時じゃなくて、リンゴでもお茶漬けでもなんでもいいので、なにかちょっと食べてから、飲んでくださいね。そしてこっちの温感湿布ね、ハリックス55は、四日目から貼ってくださいね。」

おばあさんは絵をみながら熱心に学び、それぞれの絵を見比べながらなんども頷きました。

「まっことありがとうございますっ、わっかり易いふうにご説明くださって、まっことありがとうございますっ、これで安心でございます。この御朱印も頂いてもよろしいのでしょうか?」

おばあさんは絵を胸に抱きしめながら訊きました。

「あ、もちろんですよ。お持ちください。じゃあ、お会計してきますので、ちょっとこちらでお待ちくださいね。

………はい、お待たせいたしました。おばあちゃん、お会計が、これ全部合わせて、税込みで、2919円です。にせん、きゅうひゃく、じゅうきゅう、円。」

店員が、そう言うと、おばあさんは、不思議そうな顔をしています。里で買い物をするときはほとんどが物々交換ですし、もしなにかを買う時は、数文から数十文ぐらいのものが多く、百文だってめったに使うことはありません。だから、2919という数字は途方もない数字です。そして、「円」という言葉もなんのことを言っているのかわかりませんでした。

「あの、申し訳ないんじゃけども、今は一文も持っとりませんで、この、野菜っこでどうにか、なりませんじゃろうか。」





若い男の店員は、困った顔をしています。
だって、いくらなんでも野菜と湿布や薬は交換できないですからね。

「どうにか、この野菜っこと交換でお薬お授けいただけまっせんでしょうか?」

おばあさんは、野菜の籠をカウンターに置き、不安そうに店員の目を覗きこみます。さすがに、店主ではない店員が勝手に「いいですよ」とは言えません。


店員が困っていると、そこへ別の店員が現れました。背の高い男です。
男は店員に「なに、どうかしたの?」と問いかけました。店員はこたえます。

「あ、店長、あの、こちらのお客様が、現金の持ち合わせがなくて、野菜と交換でお薬が買えないかっておっしゃってまして。」

どうやらこの背の高い男は、このドラッグストアの店長のようです。店員も、どうしたらいいかわからないといった様子で店長を見上げ、おばあさんはそれ以上に不安な面持ちで店長を見上げています。

店長は優しい声でおばあさんに言いました。でも、目は笑っていませんでしたし、どことなく迷惑そうでした。

「すみませんね、野菜じゃ、ご購入は難しいです。そとに郵便局あるんで、そこで現金おろして、またお越しくださいね。これはお取り置きしとくんで。それじゃ、また、お越しください。」

そう言っておばあさんに野菜籠を背負わせ、歩かせ、出入り口の自動ドアの外まで連れていきます。

そして店長は「またお越しくださいませ。」と、とても短いおじぎをし、顔をあげながら踵を返し、どこかへ行ってしまいました。

おばあさんは、野菜のお供えでは薬が手に入らないことがわかると、肩を落とし、祠に深く一礼し、ドラッグストアをあとにしました。ユウビンナントカとかいうこともゲンキンヲオロスということも、全く意味がわかりませんでした。でも、だめだということだけはわかりました。

店員は、申し訳なさそうな顔をしながらおばあさんの後ろ姿を見送ります。おばあさんは、なんとも言えない寂しい背中で、とぼとぼと歩いていきます。

おばあさんの小さな背中から、「…おじいさん、…すまねえ、おじいさん、もうしわけねぇ…」という小さな声が聴こえました。


おばあさんは東京スカイツリーのそばの、北十間川のほとりに腰掛けました。籠を置き、額の汗をぬぐい、野菜じゃのて米持ってくるべきじゃったんやろか、と、そう呟きました。

おばあさんは途方に暮れてぼんやりと川をながめています。
そうやって時間が少しづつ過ぎてゆき、やがて日は傾きはじめました。

喉も乾き、お腹も減ってきたおばあさんは、籠の中から胡瓜を取りだし、手を合わせ、なんまんだと小さく呟き、食べました。

そしておばあさんは思いつくのです。

この野菜をこの国の巫女さまや神官さまに買ってもらい、「ゲンキン」というものを手に入れよう。それを持って、また、祠に行き、妙薬をお授け頂こう、と。

おばあさんは、さっそく手ぬぐいを額に巻き、人通りのあるところまで歩き、野菜販売をはじめました。

けれども田舎の山奥で暮らしてきたおばあさんは、あまり大勢の人を見たことすらありませんし、ましてやここは、稲荷さまの国。とても緊張しているので、小声です。

「野菜。あの…いかがでございますか、…あの…野菜は、その…いらんかのぅ…あの、やさい…やさいはいりませんか…」

値段も貼っていないし、身なりもぼろぼろなので、通行人はおばあさんが存在しないみたいに、目をそらして歩き過ぎて行きます。

あまりに人々が立ち止まらないので、途方も無いような気がしてきて、おばあさんはうつむき黙りました。

やがて、スカイツリーがライトアップされ、街灯が灯り始めます。

ふと、おじいさんがつらそうな顔をしているのが、おばあさんの脳裏に浮かびました。痛い痛いと、足を擦っています。

おばあさんは、顔をあげました。

こんなことで諦めとったら、稲荷さまのご厚意も台無しになる。おばあさんは、大きな声で話し始めます。

「山奥の、清い清い、冷てえ小川から、おじいさんが毎日毎日、一生懸命水を運んできて、わしらふたりで丁寧に作った野菜じゃけ、おいしいけ、みなさんどうぞ、野菜を、どうぞ、買うてくだされ、今年の夏は、雨が少なかったで、おじいさんが甘い水汲んできて作った野菜だで、味も濃くてわしはこのわしらの野菜が好きだで、皆様どうぞ、野菜を、買うてくだされ、どうかみなさま野菜を、どうか。」

すると、主婦や女子高生が立ち止まり、野菜のかごを覗き込んだり、おばあさんの写真をスマホで撮ったりし始めました。いつの間にかおばあさんの周りには5人ほどの人が立ち止まり、「買おうかな」という面持ちになっています。



そこに、藍色の服を着て、烏帽子のようなものを被っている二人組の男性が現れました。

「はーい、ちょっとすみませんね、ごめんね、あのさ、おばあちゃん、ちょっといい?あのさ、ここってさ、許可とかって取ってないよね?許可。キョカ。え?だからキョカよ。警察署と保健所に申請出してる?そう、だしてないよね、そうだよね。あのね、ここね、歩道だからさ、許可取らないと、もの売っちゃだめなのよ。うん。違法になっちゃうのよ、おばあちゃん、わかる?」

おばあさんはわけがわからずあたふたしています。立ち止まって見ていた人たちは、少し距離をとり、成り行きを見たり、スマホで撮影したりしています。

「おばあちゃん、あのね、ちょっとさ、住所と名前、教えてもらえるかな?免許証とか保険証とか、なんかそういうの持ってない?すぐ済むから。」

「あのぅ、わしは、神官さまに、おじいさんの妙薬をお授け頂く為に野菜っこを売っとります。おじいさんが怪我をしとります。」

おばあさんは、藍色の服を着たふたり組に事情を説明します。


でも、皆さんはもうおわかりですね。
男性二人組は、警察官で、おばあさんは、職務質問をされているのです。警察ふたりは、腕を組んで警察官同士、小声でやりとりをしています。


そこへ、髪の長い、赤いワンピースを着た女性が、つかつかと歩み寄り、大声で言いました。

「ちょっとおばあちゃん!勝手に表に出ちゃだめって何回言ったら分かるの?!危ないから外出たら駄目だって毎日毎日言ってるよね?!勘弁してよ!もう!!うんざりなのよ!!!頼むよ!!!こっちも生活があるんだからたのむよ!ほんっとに!もう!!!

………あの、すみません、おまわりさん、あの、母はちょっと徘徊グセがありまして、すみません、あの、申し訳ございません。すぐに連れて帰りますので、あの、どうか、その。」

その女性は申し訳無さそうに警察官に事情を説明します。

「母は、父が怪我をして、その薬を買いに来ている、って思い込んでるらしいんです。父はもう何年も前に亡くなってるんです。ほんとに、申し訳ないです。ご迷惑おかけして。」

警察官は、何度も頷き、ふたりで話し合って、去っていきました。それと同時に、人々も去って行きます。

赤いワンピースの女性は、強い口調で、もう一度言いました。

「もう、早く帰るよ、お母さん。ったく。」

おばあさんは、わけがわからず、とても困った顔をして、立ち尽くしています。






赤い服を着た見知らぬ女にお母さんと言われ、おばあさんは、わけがわかりませんでした。なので、とても困った顔をして、立ち尽くしています。

「あのぅ、申し訳ねぇんだが、わしはおめぇさんのこと、知らねぇんだけども、なぁんでわしのことお母さん呼ぶんかのう」

おばあさんは、女にそう言いましたが、女はおばあさんの手を握り、歩き始めます。おばあさんは、あたふたしながらも女の後をついてゆきます。


「すまねぇけどもな、おじいさん足首挫いたもんでな、それで稲荷さまに頼んで妙薬のお授けのためにここにおるんだけどもな、おめぇさん人違いしとるうんじゃあねぇかのぅわしんがたんは、娘はおらんけどものう」

おばあさんは、早足で手を引く女の背中に向かってそう話しかけましたが、女は黙ったまま、なにも答えません。

いくつかの路地を入り、いくつかの角を曲がり、やがて女が立ち止まったのは、マンションのエントランスでした。掃除も行き届いていて、ガラスも輝き、照明は、柔らかく高級な光でエントランスを照らしています。

「とりあえず、ついてきて。」

女はおばあさんの手を離し、鍵を取り出してエントランスの自動ドアを開けました。おばあさんは、不安そうな顔をしながらも、小さくお辞儀をして、女についてゆきます。

女はエレベーターに乗り、ボタンを押し、おばあさんに、

「はやく。」

と言いました。おばあさんは頭を下げて、女の目の前に立ちます。

「あのぅ、こんな狭いとこで話さんでも、さっきから言っとるとおり、わしはおめぇさんのおっかあではねぇし、おじいさ」

おばあさんの背後の扉が突然閉まり、小さな部屋が小刻みに揺れ始めました。馬はおろか、籠や乗り物にのったことのないおばあさんは、大慌てで、エレベーターの環境について女に感想を言います。

「なんぞなこれは、なんか気持ちわりいのぅ、なんか気持ちわりい部屋だのここは、のぅおめえさん、なんだここはなんか動いとるでねぇかこの部屋きもちわりいぞ、なあんぞ変なバテレンのなんぞ変なまじないでもかかっとるでねぇのか、こりゃきもちわりいぞ、なぁもし、」

おばあさんが独り言を言っているうちにエレベーターは止まり、赤い服の女はつかつかとエレベーターを降り、「こっちだから。ついてきて。」と言いました。

おばあさんは、振り返り、エレベーターの先の景色をみて驚きました。
まるで1時間ほど山を昇ったぐらいの高さに自分が立っているのがわかったからです。

「こりゃあ、おったまげた、いっつのまにか天高く登っとるでねぇか、バテレンでのうて、こりゃぁ狐にでも騙されたんかのぅ」

そう感慨深げにいいながら、女についてゆきます。女は、茶色い重そうな扉を開けて、部屋に入って行きます。


「入ってきて。ここでわらじは脱いで。」

言われたとおり、おばさんもついて行き、籠を置き、わらじをほどきます。白い石で出来た玄関。その先はつやつやとした長い廊下が続き、廊下の合間にいくつか部屋の入り口が見えます。女はそのまま廊下を歩き、奥の部屋へ行き、アイランドキッチンにある冷蔵庫からハイネケンの缶ビールを取りだし、飲み始めました。

おばあさんは、女を慌てて追いかけて、部屋に入り、高級そうな部屋のなかをしげしげと見つめています。

「あんたさま、いつのまに火をつけなすった、あの行灯は、きれいですのぅ、星のように輝いておるのう」

おばあさんは、壁の間接照明をみながら女に言いました。女は、浄水器から水をコップに注ぎ、おばあさんに手渡します。
おばあさんは、お辞儀をして水を飲み、一息つきました。

「おばあさん、あのさ、わたしも、おばあさんと一緒だよ。」



「うんと、えっと、どういう意味じゃろのう?畑で野菜育てとるっちゅう意味かいのう?」




「…ううん。違う。よその場所から来たってこと。違う時代から来たってこと。」





間接照明の灯る部屋で、赤いワンピースの女はビールを飲みながら言いました。

「わたしも、おばあさんと同じで、別の時代から来たの。」

おばあさんは、首を捻ったり、天井を見たり、腕を組んだり、顎を触ったりして、女の言葉の意味を考えています。

「ちょおっとぉ、おめえさんのな、言うちょることが、わっからんのんやけんども」


女は何度も頷き、そりゃそうよねぇ、と云いながら、冷蔵庫からクリームチーズを取り出し、包みを開けて噛り、ビールを喉に流し込んでいます。

赤いワンピースの女は、30才ぐらいでしょうか。黒髪は長く艶やか。肌は白く、口角は少しだけ上がり、眼差しはどこか冷ややか。妖しく美しい女です。

「あ、ねぇ、ずっと稲荷さまって言ってたけど、なんでここの事、稲荷さまの国だって思うの?」女がビールを飲み、一息ついておばあさんに訊きました。

「それはな、今日の朝な、いつもお参りしとる山の竹の林のとこのな、稲荷さまにな、お参りをしてじゃな、おじいさんの足の怪我をどうにかしたいとな、ほいだら、んもぅ、まんぶしい光に包まれてな、それでさっきの場所にな、おったんじゃ。稲荷さまに願いが通じて、ご自分の国へお連れくださったんじゃろうて。」

「それで稲荷さまの国だって思ってるわけか。なるほどね。あ、じゃあ朝からなにも食べてないの?おなかすいてない?」

「いや、あのぅ、そろそろわしは、おじいさんのところに戻らないかんで、お構い頂かんでも大丈夫ですけ。」

「…あのさ、おばあさんさ、戻るって言っても、戻り方わかるの?今からまたあの場所戻っても、お年寄りの徘徊と間違われて、またさっきの紺色の服の人たちにつかまっちゃうよ。面倒なことになって、それこそ戻れなくなるよ。今夜は出ないほうがいいよ。」

「そうかねぇ。おじいさんのところに戻れんのは寂しいねぇ。でも、ここに居させてもらっても、構わんのじゃろうか。」

「もちろん。そのために連れてきたんだから。」と、女は答えてから、少し前のめりになって、「ねぇ、おばあさんは、何年に生まれたの?」と、質問しました。

おばあさんは、
「春夏秋冬は大事やけんども、何年に生まれて何年に死ぬいうのは誰んも構わんもんで、わっすれてしまい申した」
と言ってひとりで笑いました。

「え?じゃあ、年号とかもわかんないの?」

「年号ちゃあ、年の名前じゃろ?お役人様やお寺様たちには大事じゃろうけんども、わしらにはまったぐ、年の呼び方なんぞは、猿のお尻の毛ぇほども関係はねぇから、わっからんっ」
そしてまた一人で笑っています。

女は、唇を尖らせてつまらさなそうです。どうやら、おばあさんが来た時代を特定したいようですね。

「あ!じゃあさ!うーんと、そうだな。最近でさ、なにか、凄いことってなかった?山が火を吹いたとかさ、あとは、戦があったとか、あとは、えっと、誰かすごく有名な人の噂を聞いたとか。」

おばあさんはしばらく考えて、膝を打ちました。

「あぁ!それならのぅ、おじいさんがな、里に芝を売りに行った時にな、俳句をつくりんなしゃる、なんぞ有名な人に会った言うとったかのう。なあんでも、旅をしとる言うとったわな。わしもじいさんもそん人のことは知らんかったけんども、里のものが大騒ぎしとって、それでおじいさんもそん方に挨拶ばしての、持っとったアケビを差し上げたんじゃと。嬉しそうに話しとったぞ、おじいさん。」

「俳句で、旅って言ったら、松尾芭蕉かな。」

「あああ!なんかおじいさんがそないなこと言うとったぞ!芭蕉さんにアケビあげたぞって言うとった!」

おばあさんはなぜか興奮してます。テレビのクイズに正解したような興奮具合です。女は続けて尋ねます。

「えっと、じゃあそれっておじいさんが怪我してからどれぐらい前の話?」

「去年の秋ぐらいだったかのう」そうやっておばあさんが答えると、女はスマホを取りだし、何度かタップして云いました。

「すると、おばあさん、元禄から来たってことになるね。徳川様の時代だよ、私とおそろいだね。」

「まぁ、そうゲンロクじゃのなんじゃの言われても、わからんのぅ」

「あ、そうか、そうだね。あ、そうだ、ごめん、おなかすいてるよね、なんか作るよ。待ってて。」

女は、手早くエプロンをつけ、お湯を沸かし、冷凍庫から、作りおきのミートボールとミートソースを取りだし、レンジに入れてボタンを押します。

皿を二つと、少し迷って箸を一膳とフォークを一本取り出しまし、飲み終わった缶ビールを潰し、もうひとつ缶を開け、飲んでいます。

おばあさんはその様子を、子供のような目で眺めています。女はそれを見て、少しだけ笑い、鍋に塩を入れ、パスタをねじり入れました。

「そういえば、おめえさん、わしのこと、さっきおっかさん言うとったけども、ありゃなんでかね?」

女は冷蔵庫から出したパセリを刻みながら答えます。

「あー、そういえば、そうだったね。長い話だけどさ、私さ、19のときに、ここに来たんだよね。そのとき私も、おばあさんと一緒でさ、ここがなんなのかわけがわかんなくて、三日ぐらい、神社の森に隠れてたりしてたの。でもやっぱり腹は減るからさ、つい、お店の大根を一本盗んだのよ。そしたら、さっきの紺色の服のひとたちに捕まってね。」

女はそう言いながら、パスタの湯を切り、麺にオリーブオイルをかけました。

「そのあとは、身元不明で、しかも、ものを盗んでるから、簡単に解放はしてもらえなかったの。ほら、年貢収めずに、村から逃げたみたいな感じだよ。だからさ、さっきのおばあさんの感じだと、おばあさんも同じようにさ、面倒なことになりそうだったから。だから、お母さんって言って、あの場を取り繕ったの。ごめんね、おどろかせて。」

そう言って女は思い出したように、冷蔵庫からパルミジャーノチーズを取り出しました。

「あの道を通って買い物から帰ってる時にさ、人だかりを見つけて、なんかね、あのね、おばあさんをひと目見て、わかったの。この人、こっちの人間じゃないって。で、一度は通り過ぎたんだけどさ、気になって戻ったら、警察が来てて、あ、紺の服の人たちのこと。それで、とっさにお母さんって、言ってた。」

おばあさんは、わかったような、わからないようなそんな顔をしながら聴いていました。まぁなんとなく、わしを助けるために嘘をついてくれたんじゃろうのぉ、と理解することにして、ありがとのぅ、と手を合わせてお辞儀をしました。

「さ、おばあさん、できたよ。お箸で食べてね。」

女が、ミートボールパスタと箸をおばあさんの前に置き、パルミジャーノチーズを削り入れ、パセリを散らします。いい香りが立ち上るその、いままで見たことのない料理に、おばあさんは目を丸くしています。

「ほうとう…でもねぇなぁ、そば?でもねぇし。けれども不思議なうまそうな匂いでねぇか。ありがとうなぁ、おめえさん。」

そう言っておばあさんは、女に手を合わせます。女はおばあさんと横並びに座り、いただきます、と言ってから、

「あ、この団子はね、山鯨の肉とかを、混ぜて捏ねたおだんごだよ。わたし、好きなんだよね。これ。」

牛肉も本当は入ってはいますが、牛肉を食べるようになったのは明治からです。畑の仕事の手伝いをしてくれる牛を食べるのは、とても酷いことなので、女はミートボールをイノシシ肉だと嘘をつきました。そして女は、少女のような顔をしてミートボールを幸せそうに頬張ります。おばあさんも箸でミートボールやパスタを口に運びながら、うめぇ、ありがてぇ、うまい、こりゃすごい、おめえさん猟師もやっとるんけ、すっげぇのぅ、おじいさんにも食べさせてぇ、と呟きながら、ありがたそうに食べています。


食べ終わり、おばあさんは女が淹れてくれたかりがね茶を飲みながらキッチンの内側の女に訊きました。

「そいで、おめえさんは、何年もここにおるみたいやけんども、どこから来なすったんかね?」

女は、洗い物を食洗機にかけてから返事をしました。お湯が食器に当たる音が部屋に小さく響いています。

「どこからっていうよりも、“いつから”っていう方が正しいよ。おばあさんがいた国も、そして私の国も、そしてこの国も同じ国なの。ただ、おばあさんもわたしも、別々の“時”から来てるってだけなの。」

おばあさんは、しばらく考えて、うーん、わからん、と女に言いました。

「あ、じゃあさ、おばあさんの時の、徳川の将軍様は、誰?」

「将軍様かね?将軍様は綱吉公じゃ。これはちゃあんと覚えておらんと、お役人に叱られて大変な目に合うからの、ちゃあんとおぼえちょる」

「うん、じゃあさ、おばあさん、わたしのいた時代の将軍様は、誰だと思う?」

「え、そりゃぁおめえさん、綱吉公に決まっとるでねぇか。将軍様が二人もおったらまった戦が始まってまうじゃろうがて」

女は、首を振って言いました。

「ちがうの。私の時の将軍様は、
十代将軍家治公。だから、おばあさんが生きてた時から、大体百年後くらいにわたしが生まれてるの。」

「そんだらことあるわけねえじゃろ、聞いたこともねえ将軍様でねえか、そいでそいだらわしは、あと百年生きねばおめえさんに会えねえではねえか」

「まあ、そう思うよね。でも、それが事実なの。わたしはわたしの時代から。おばあさんはおばあさんの時代から来たの。」

「わっかんねぇなぁ。わっかんねぇ。わしにはようわからん。」

おばあさんはうんうん唸りながら考えています。けれどもやがて顔を上げて、思いついたように女に訊きました。

「そいだら、それが真なら、わしより百年あとに、おめえさんも稲荷さまにお参りしたんかのう?」

女は、ゆっくりソファに座り背中を預け、天井を見上げながら答えます。

「私は弁天さまに願ってるとき、突然ここへ来たの。」

「弁天さまにか…そいで、なんち言うてお参りしたんじゃ」

「ここから出してくれって。ここから逃げたいです。だからお願いしますって。芸なんか上達しなくてもいいから、ここから出してくださいって。その日だけじゃなくてさ、11歳の時から、19まで、毎日ずうっとそうやって、お参りしてたの、私。」

「なんぞ、11の時から。おめえさん、奉公にでも出とったんかいの、いったいどこにおったんじゃ」

食洗機が食器を洗い終わり、部屋が静かになりました。

「吉原。わたし、女郎だったの。」






朝になりました。
おばあさんは、女と一緒にドラッグストアへと歩いています。
たくさんの人々が、みな同じ方へ早足で歩いていて、まるで祭りに向かっているみたいです。

「のぅ、あん人たちは、なんぞ祭りでもあるんかいの?」

早足で自分達を追い抜いていく人々を不思議そうに眺めながら、おばあさんが女に尋ねると、女は笑いながら言います。

「いや、そうそう、わたしも最初それ思ったんだよ。なんでここの人たちはこんなに早足で歩いてるんだろうって、飛脚なのかなって。あのね、今日はお祭りでもなくて、あの人たちは飛脚でもなくてさ、ただ仕事場に向かってるだけなの。」

「そんだら急いで、働きもんじゃわいな。ほいだら、寄り合いの頃合いにでも遅れとるんかね?こん人たちは。」

「いや、この歩き方が、今のこの国の人たちの普通なんだよ。」

そう言って女は、ジーンズのおしりのポケットに両手を入れて、ゆっくりと歩いています。今朝は赤いワンピースではなく、細身のジーンズに白いシャツを着ています。昨日とは印象がかなり違いますね。

そしておばあさんも、昨日とは印象が違います。
藍の着物に銀ねずの帯、薄鴬の帯揚に黒の帯締め。そして白足袋に竹の皮の草履を履き、髪はきれいに整えられて、まるで別人です。茶道の先生と美人のお弟子さんが一緒に歩いているように見えますよね。

今朝女が、おばあさんに着付けをしてくれたました。着付けが終わり、おばあさんを鏡の前に立たせると、こんだらうっつくしい着物は、城下でも見たこともねぇ。と、嬉しそうに姿見の前をくるくる回って言いました。

女は、それを満足そうに見ながら、言いました。

「それじゃあ、妙薬のお授けに出掛けますか。でもちょっとその前に、せっかくこっち来たんだから、まずなんか食べようよ。」そうして今ふたりは歩いているのです。

ふたりはスカイツリーの真下にやってきて、女はおばあさんを連れ、STARBUCKSに入りました。
男女の店員たちが、にこやかに、「おはようございます」と挨拶をしてきます。女は軽く目元で笑って会釈をしましたが、おばあさんは大声で「おはようごぜえます。ご苦労様でごぜえます」と挨拶を返しました。店員たちは少し驚きながらも、また笑顔で挨拶を返していました。

女は注文カウンターで、女性店員と親しげに話をしながら、「おばあさん、そこのビードロの窓の前に腰掛けがあるでしょ?そこで座って待ってて。」とおばあさんに伝えました。おばあさんは、へいっと言って、ガラス張りのカウンター席に座ります。

そして秋らしくなってきたガラス越しの空をみながら、昨日の話を思い出していました。女が話してくれた話です。

女が9つの時、人買いに売られたこと。
女郎小屋の掃除洗濯をし、殴られ、蹴られ、粗末な布団の中で毎日泣いていたこと。そして飢饉が起こり、売られてくる子供たちが増えたこと。その子達と友達になっても、すぐに別のところに連れて行かれるから、友達を作らなくなったこと。

吉原に入り、同じように掃除洗濯をしていたが、そのうち、ここの女たちと同じように働くであろうことを、ある日悟ったこと。

姐さんたちに、文字や礼儀作法や芸事を厳しく教え込まれ、掃除や洗濯や蹴られることの方が、ましだと思ったこと。

毎日弁天さまにお参りしたこと。

年頃になってくると女郎として働き始めたこと。やがて客がたくさんつき、花魁の下の位の、格子女郎にまでなったこと。

いつものようにお参りしていたら、眩しい光に吸い寄せられるようにして、いつの間にか“東京”に立っていたこと。

それからは、“キオクソウシツ”の女として扱われ、警察に保護され、入院し、やがて“コセキ”というものを取得したこと。

コセキを取得してからは、医師のすすめもあり、花柳会に入り働き始めたこと。仕事をしながら、現代の日本語、一般常識、マナーそして歴史やさまざまなことを、本や、“すまほ”というものを使って勉強したこと。

歴史の勉強をしていて、自分が売られた後に起こった天明の飢饉で、当時の人々が家族の肉を食べねば、生きられなかったという事を知り、売られた自分は運が良かったと思えたこと。

そして今は、“くらぶ”というところで働いていて、かつてとは比べ物にならないくらい、自由で快適な暮らしができているということ。

「はい、おまちどおさま。おばあちゃん、朝から甘いもの食べるなんていう文化はないと思うんだけど、まぁ、ここは令和の東京だから。ピーチタルトと、アイスのほうじ茶ラテね」

女はおばあさんの前に、桃のタルトとアイスほうじ茶ラテを置きました。おばあさんは、宝のようにつやつやと輝く桃を掲げて、空にかざしたり覗きこんだりして、女になにか尋ねたそうにしています。

「あ、そうか、えっとね、桃の菓子だよ。焼いた菓子の上に桃が乗ってるの。」

おばあさんはすんすんと頷いて、ほうじ茶ラテをすすります。蓋もストローも女が外してくれています。

「こりゃ、つっめてぇなぁ思ったら、夏のこげな時期に氷が浮かんどるぞ。氷室があんのけ?こんだら高価なもんおめえさんよっくも買えたのぅ。それでこりゃ、牛の乳でねぇか?乳とほうじ茶ばまぜくりかえしとるんか?すげぇのぅ、おめえさん、こげな高い茶をば、飲んでええんかのわしが」

女はくすくすと笑います。

「もちろんだよ。」そしてゆっくりと話し始めます。「あのさ、なんか昨日からさ、私さ、なんだか妙に嬉しくって。ほら、いま一緒に働いてる子たちが、“里帰り”とか、“東京に親が来る”とか、なんかそういう家族の話、聞くたんびにさ、なんかすっごく嫌だったの。売られた時に、親子の縁はなくなっちゃったんだけど、違う時代にたったひとり佇んでるとさ、誰かが会いに来るとか、会いに行くとかさ、すっごく羨ましいと思える。そんな話聞くたび、私はこの時代にたったひとりだって、ずっと感じてた。でもさ、昨日から、なんか、この時代に、十年ぶりに、だれかと一緒にいる。ふたりっきりでいる。だから、なんか、嬉しいよ。」

おばあさんは、話を聴きながら、そうかえそうかえ、と笑顔で何度も頷きました。

「だから、ほんのちょっとだけ、帰ってほしくない気持ちも、ある。ほんの少し。少しある。いや、ほんとはけっこうある。」

おばあさんは、寂しそうな顔をして、頷いてから言いました。

「おめえさんは、戻りたくはねぇんかの?」

女は、アイスラテを飲み、フランスパンのサンドイッチを小さく齧って答えます。

「戻りたくない。絶対に。でも、もし、できるなら、戻りたい瞬間はある。家族と、もう一度、あの頃の家族と、暮らしたい。贅沢じゃなくていい、貧しくてえぇ。村の子ぉらと、沢でば魚ばとって、森で鳥ばとって、おっとぉやおっかぁや、お兄ぃたちと、鍋囲んで食いてぇ。貧しくてもの、誰かのおならで家族がけたけた笑うような、そんな普通の暮らしをしてた頃に、あの時間に戻りたい。でも、私が売られた後、村の大人も、たくさんの子らも、たくさん死んだと思う。それに比べたら、こっちにきて、こんな贅沢な暮らししてる。こんな奇跡、感謝しなかったらバチがあたるよ。だから、わたしは、ここに来れたことには、すごく感謝してる」

女は黙って、ガラス越しの空を見上げ続け、おばあさんは、ほうじ茶ラテをずずずと啜って、ピーチタルトをちびちびと食べ、そうやって、ふたりの間に静かな時間と静かな音楽が流れていきました。

なんだか、どうしたらいいんでしょうね。こういう時って。


おばあさんが食べ終わり、手を合わせるのを見届けてから、女は言いました。

「よし、じゃあ、ドラッグストアにお授けのお受けに参りましょう」







ふたりがドラッグストアに入ると、いらっしゃいませ、と若い男の店員が言いました。おばあさんが頭を下げ、昨日はまっことお世話になってかたじけねぇ、と言うと、店員は品出しの手を止め、大きく口を開け、

「あ!!昨日の!おばあちゃん!!」と驚いています。昨日は野良仕事から抜け出してきたような着物でしたが、今日は茶道の師範みたいな雰囲気ですからね。しかも、となりにはすらりと美しい女性も立っています。

「昨日はあのぅ、ゲンキンをもっとらなんだで、おめぇさんがたに迷惑かけてもうたように思うてなぁ、もうしわけねなぁ」

おばあさんは、ちょぼちょぼと店員に歩みより小さく頭を下げました。店員は両手を顔の前で振り、いやそんな謝られることじゃないです、と反論する。

「それよりも、なんか、追い返すようなかたちになってしまってすいませんでした。」

店員が頭を下げると、そこに女が割って入り言いました。

「いや、ほんとにごめんなさい。おじいちゃん助けたい気持ちが先走っちゃったみたいで。今日は、ちゃんと買いに来ました。現金で。」

店員は女に見とれていましたが、すぐに我に帰って返事をし、バックヤードから湿布と薬の入った袋を持って来ました。

店員は女に湿布などの説明をしていますが、女はなにやら考え事をしています。なにか思い付くとやがて、店員に指示を出し始め、追加の薬を持ってくるようにお願いして、そそくさとレジに行って会計を済ませてしまいます。さて、追加の薬は、一体何に使うんでしょうね。

店員は、サービスカウンターのところへ二人を連れてきて、昨日描いた絵をおばあさんに見せました。薬や湿布の使い方の説明の絵です。おばあさんが文字が読めないので、店員さんが描いてくれていましたね。

「あ、この絵、どうします?」

店員が絵を見せると、女が驚いて言いました。薬や湿布の使い方がひと目見てわかったからです。

「え!すごおいっ!これ、店員さんが描いたんですか?」

「あ、そうなんです。昨日、その、おばあさんが文字が読めないっておっしゃってて、それじゃあ、絵で説明できないかなって思って描きました」

「すごい、お兄さん、すぐにこういうのが思い付くってすごいことですよ。才能と、あと、人の良さが光ってますね。すごいですよ」

女が店員をしきりに誉めています。店員は照れながら話し始めます。

「いや、そんな、そんな感じでもないですよ。いや、実は僕、絵を描くのが好きで、学校にも通ってたんです。でもまぁ、なかなか食べてくのは難しくて、描かなくなってたんです。でも昨日、家に帰ったあと、僕の描いた絵をおばあさんがあんなにありがたがってくれて、すごく、なんか、わくわくしたんです。また、描いてみようかな、って、描き始めてみようかなって、昨日、ひとり、思ってました。だから、おばあさんには、すごく感謝してます。」

店員は、おばあさんに頭を下げ、昨日描いた絵を、おばあさんに差し出しました。おばあさんは絵をありがたそうに受け取り、半分に折り、大切そうにして懐にしまいます。

そして、女とおばあさんは、店員に礼を言い、ドラッグストアをあとにしました。


「さて、おばあちゃん、どうしようか。」
しばらく歩いて、大きなレジ袋を下げている女がぽつりと言います。

「どうしようっちゃ、どういうことじゃね?」
おばあさんは、少しとぼけたように聞き返します。

「もう、帰るでしょ?お授けも終わったし。」
女はすこし、俯いて喋ります。

「んー、いんやぁ、まあだ、帰れんなぁ」
おばあさんが笑顔で言うと、

「え、なんで?」
女が不思議そうな顔をして、おばあさんを見ています。


「世話になったおめぇさんに、最後にわしんがたの畑の菜っぱ飯を食うてもらわないけんけの」

おばあさんは、胸を張ってそう言って、にんまりと笑いました。





おばあさんは、女に炊飯器の使い方を教わりながら、菜っぱ飯を作っています。大根やカブなどの葉っぱの菜を茹でて刻み、塩をまぶし、米に混ぜたものを菜っぱ飯と呼びます。

ご飯を炊きながら、味噌汁も作り、菜っぱも刻んだおばあさんは、ほっと一息つきました。

「そういやぁ、おめぇさんの名前を聞いとらんかったの」

「わたし?あ、そうだね、確かに。私は、ミチだよ。ずっと源氏名だったから、なんだか本名言うのは懐かしいけど。」

「そうかえ、みちちゃんかね。みちちゃんは、お国はどこかね?」

女は、自分の国の名前を言いました。するとおばあさんは、あらま、と言って、

「みっちゃん、わしと同じお国でねぇか、わしは、稲辺村の山に住んどるで。稲辺村の芝刈りのじいさんとこの、キヨいうんよ。」

「え!そうなの!稲辺村はわかるよ、城下の西の方だったと思うけど。そっかぁ、稲辺村のキヨさんかぁ、あ、私のところは、城下の東の方の国境のみざの村いうんよ。」

「ほうかえ、城下にも行くことがあんまりねぇで、他の村んことはわっからんけんども、ほうかえほうかえ、同郷でねぇか」

「そうだねぇ、どおりでなんだか懐かしいはずだ。ほうかほうか、懐かしいなぁ、まぁ、100年も時代が違うから、そりゃしゃべり方もすこし違うけど、やっぱり懐かしいよ。あ、そうだ、思い出した。支度をしとかなきゃ。」


女はそう言って、慌てて寝室へ行きました。おばあさんが女の寝室に行くと、女がなにやら整理をしています。

「なにしとるんけ?」
おばあさんが覗き込むと、女は寝室の本棚から何冊か本を出し、ベッドの上に並べています。

「昨日から考えてたんだけどさ、おばあさんに、なんかお土産を渡したくてさ。だからさっき、薬も多めに買ったの。痛み止めとか、風邪薬とか、あと、夜泣きの薬とか、あっちに戻って困ってる村の人とかに分けたら、その人達も助かるし、おばあさんも、少しでもお金になるでしょ?あ、そうそう、だからさ、薬のこと分かるために、ちょっとだけでも、文字も覚えたほうが良いと思うの。私が使ってた、ひらがな帳と、あと漢字辞典、これも持ってってよ。あとは、なにかの役に立つかもしれないから、これ!日本の歴史の教科書!あ!あと!怪我してるときにさ、おじいさん暇だろうから、囲碁とか将棋とかやる?」

「おじいさんは、村に降りたときに、村のもんと将棋さしよるみてえじゃの」

「そしたらこれ、将棋の本も入れておくよ。こっちのお客さんとさ、ちゃんと話が合うように、色々勉強してたの。もう使わないから、あげるよ。絵だけでもさ、なんとなく解るだろうし。」

「そげそげ、ありがてぇの、やっさしい子じゃあのぅ、けんども、こおんな年寄でも、字が読めるようになるかいのう?まっだぐそげなよには思えんけんども」

「大丈夫だよ。こっちの時代ではね、80歳とか90歳のお年寄りでも、楽器や学問なんかを学んだりもしてるんだよ。だから、おばあちゃんも大丈夫だよ。」

ほうかえ、とおばあさんが言うと、キッチンの方から、

「ぴーっ ぴーっ」

と、音がしました。

「みっちゃん、鹿の子でも飼うとるんかね?なんか鳴いとるぞな」

「鹿の子じゃなくて、ご飯が炊けた音だよ。」

「ほうかえ、知らせてくれるんけ?空海さまの台所みてえじゃの、それじゃあの、菜っぱ飯作ろかいのう」

「あ、おばあちゃん、野菜籠に、薬と本、あと、おばあちゃんが着てた着物と、あと、私の着なくなった着物も入れておくね」

「かたじけねなぁ、ありがとなぁ」

おばあさんはそう言って、キッチンへ向かいました。電気炊飯器を開け、その中に刻んだ菜を入れ、かき混ぜます。香ばしい湯気がたちのぼっていますね。

「すげえの、こいだら白い飯はみたことねぇなぁ、お殿様みてぇな暮らしばしちょるのぉ、みっちゃんは。こりゃ、たいそううめぇ菜っぱ飯ができるぞぉ」

とひとり呟いています。
そしてお皿を出し、少し冷えた菜っぱ飯を手に載せ、おむすびを作ってゆきます。手際よく、心地よい拍子で、どんどんどんどんおむすびが出来上がっていきます。ぽこっ ぽこっ ぽこっ ぽこぽこぽこ!みたいな感じです。おいしそうですね。みなさんも、食べたくなりませんか?

女が野菜籠をアイランドキッチンの側に置いて言いました。

「なっつかしい匂いがしとるの、キヨばあちゃん。」

「そげそげ、ばあちゃんが作る菜っぱ飯はの、おじいさんが飛び上がるごと美味いけん、みっちゃんも飛び上がってまうで気ぃつけなならんば。さ、お食べ、みっちゃんや、野菜のお味噌汁もあるでの」


女は、小ぶりでまるっこい、いくつかのおにぎりを嬉しそうな顔つきで見つめ、味噌汁の香りを胸いっぱいに吸い込んでいます。

そしてゆっくりと、涙をこらえながら、菜っぱ飯のおにぎりを頬張りました。素朴な、米と野菜に塩の薄い薄い味付け。素材の味が体中に染み渡るようです。

「懐かしいなぁ、寂しくなるなぁ、もうこれは最初で最後だよね。おばあちゃん帰っちゃったらさ。あ、でもさ、…帰りは、どうやったらいいのか、分かるの?」

「帰り方かの。稲荷さまの祠がこの近くにあったらば、そごに行っての、来た時と同じごと、お参りばしようかと思っちょるけんどもな」

「あ、それなら、お稲荷さんの神社が、確か近くにあったから、食べ終わったら送っ」


女が、おばあさんを見上げながら言うと、キッチンには、誰もいませんでした。

立ち上がり、キッチンの向こう側を覗きますが、姿は見えません。
慌てて野菜籠をおいた場所をみると、そこにもなにもありませんでした。
女は息を呑み、呆然としました。
おばあさんは、野菜籠と一緒に消えてしまったのです。おそらく、もと来た時代に、帰ってしまったのです。

突然やってきた、あっけないお別れ。部屋には、時計の音が響き、さっきおばあさんが温めたばかりの味噌汁の鍋から、湯気が立ち昇っています。
女は、ゆっくりと座り、菜っぱ飯のおにぎりをもぐもぐもぐと、ひとりで黙って食べ続けました。

ぽろぽろぽろと、涙がこぼれています。





昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

おじいさんは、杖をついて川へ洗濯に。
おばあさんは、東京都墨田区押上駅近くの、ドラッグストアへ向かいました。

おじいさんは、あの怪我の日から、山のなかに入るのを控え、そして転ばぬ先の杖として、文字通り杖をついて歩き、川で洗濯や釣りをし、田畑の手入れをしたりしています。

そしておばあさんは、東京で世話になった女に会いに行くために、祠へ向かってます。

女のマンションは入り組んだ場所にあったので、おばあさんは場所が思いだせません。唯一わかるのが、ドラッグストアとスカイツリーです。おばあさんは、稲荷さまの祠の前で、お願いするのです。

「稲荷さま、東京さで世話になったみちっちゅう娘っこにもう一度会わせてくだしゃんせ、どうか、もう一度、会わせておくれやしゃんせ、どらっぐすと、すかいつりのあの場所にお連れくだしゃんせ」

おばあさんは、東京から帰ってきたあの日から、3年間、毎日、こうやって祠の前でお百度参りをしています。

けれども、毎日毎日、何度も何度も試しても、もうあの場所に行くことは、できませんでした。それでも、ずっと、おばあさんは、稲荷さまにお参りをしているのです。



あ、そうそう、まずは、東京から戻ってきた時のお話をしましょう。
みなさんも気になりますよね。
東京の、女の家のキッチンから、突然おばあさんの時代に戻った時のお話です。





上がり框のところで、昼めしと夕餉の間の、何飯とも言えない飯を、おじいさんが食べています。そして、将棋でむらおさにやっと勝った、という話をとても嬉しそうに、飯粒を飛ばしながら、おじいさんは喋り続けています。

おばあさんは、それをぼおっと眺めていますが、やがて我に返って、こう言いました。

「おじいさん!みっちゃんはどこじゃ?おじいさんやっ!みっちゃんはどこべな!!?」

おじいさんは、突然立ち上がって大声を出して誰かを探しているおばあさんを、漬け物を噛みながら見つめています。

「なんじゃ、おばあさん、みっちゃんちゃあ誰ぞな?なあにわっけのわっかんねこと言うとるだ」

「そじゃ!そうじゃ!おじいさん!足は!足の怪我は大丈夫べな?稲荷さまにお百度参りして、東京さいうところに行っとったがじゃ!ほれ!こげに妙薬もたっくさんもろうてきたど!」

おばあさんは、自分のそばの空間を指差しますが、そこには、なにもありません。

「んなあに昼間っから寝ぼけとるけ?わしゃあ怪我なんぞしとらんぞ?なあに言うとるだおめ」

おじいさんは怪訝そうな顔をして、飯をかきこみ、おばあさんを見ながら顎を動かしています。慌てておばあさんがおじいさんの足首を見ると、たしかに腫れてもいないですし、痛そうな顔もしていません。

「おじいさん!昨日の夜に足引きずって帰ってきたじゃろ?沢から落ちて、それでわしは、稲荷さまのとこへ行っ」

「じゃあから!わしはこん通り怪我もなあんもしとらん、沢にも行っとらん、気味悪いこと言うでねぇぞ、おばあさん、なんじゃ薄気味わりぃぞ、おめぇ、今日はもう休め、もう寝とれ、あとはわしがやっとくで」

おばあさんは力なく頷いて、言われた通りに、横になりました。とても混乱しているようです。


さっき。ついさっき。菜っぱの握り飯ごしに、女と話しているとき、背中に野菜籠を背負う感覚があって、そして眩しいひかりに包まれました。そしてふと気づけば、おじいさんが目の前で飯を食っています。

なんとも不思議な出来事です。夢を見ているにしては、東京での時間はとても長く、匂いも味も暑さも涼しさもありました。そして、真っ白に輝くおにぎりを握った感触や、女が幸せそうに握り飯を頬張る顔もついさっきのこととして覚えています。

でも、おじいさんは、現に怪我をしていません。

……夢だったと思う方が現実的ですね。

「なんじゃあ、ありゃあ、夢じゃったんかのぅ…」

おばあさんはそう呟いて、気を失うように眠ってしましました。

真夜中、おばあさんはひとり目覚めました。遠田で蛙が鳴き、月明かりが木戸の隙間からすうーっと、毛羽立った畳を照らしています。おばあさんは、真っ暗な天井を見上げながら、眠っているおじいさんに話しかけました。

「なぁ、おじいさんや、おじいさんや」

「う、な、なんじゃ、どうしたがじゃ、なにごとかいの」

「あのな、おじいさんがの、怪我をしての、それでわしはの、稲荷さまへお参りしたんじゃ。それでの、何百年もあとのな、東京という街に行ったんじゃ。そこでの、みち、という娘っこに助けてもろうての、またここに戻ってきたがじゃ、ありゃ、夢じゃねぇど、夢じゃねぇ、わしゃ狂うとらんど、ありゃ夢でねぇ」

おばあさんがあまりに熱心に言うので、おじいさんは落ち着いた声で返事をしました。

「…ほうかほうか、わしの怪我でそこまでしてくれたんじゃの、ありがてぇのぉ、ほうかほうか。おばあさん、ありがとのぉ。けんどもな、足は怪我しとらんで、大丈夫じゃ、おばあさん、今日はとりえず、眠れ、まあた明日考えたらええぞな、この夜は眠れ。の?えか?」

おじいさんがやさしくそう言ったので、おばあさんはまた気を失うように、ことりっ、と眠りました。

翌朝目覚めると、おじいさんは柴刈りの準備をしています。

あ、もしかすると、芝刈りと柴刈りを混同している方もいるかもしれませんね。芝刈りは、草を刈ることですが、柴刈りはすこし違います。

あ、でもここではご説明しないことにしますね。気になる方は調べてみてください。そちらの時代では、いくらでも学べますもの。

さて、そうそう。おじいさんが柴刈りの準備をしているのでしたね。

「どうじゃね、おばあさん、あれから眠れたかの?」

「うん、おかげで眠れたわいの。昨日は夜中に起こしてすまなんだな、おじいさんや」

「なあに言うとるべな、お互い様じゃろて、ほいだらのう、おばあさん、わしゃ行ってくるで。洗濯はきょうはせんでもええど。おばあさんは休んどったらええぞ、ほいだら行ってくるでの」

おじいさんはそう言って、山へ入って行きました。おばあさんは、たしかになんだか洗濯する気持ちにはなれなくて、ぼおっと外を見ながら、縁側に座っていました。

しばらくしてから、のそりと動き出し、ぼんやりと玄米を研ぎ始めました。おじいさんの昼時のご飯のためです。

この家では、朝は食べず、昼に米を炊き、ご飯を食べ、夜は、めしを食べるようです。

あ、なんだか不思議に思いましたか?
そうなんです。昔は、ご飯をその都度炊くわけではなく、1日に1度だけ炊いていたのです。そして、炊きたてのお米を“ご飯”と呼び、冷えたお米を“めし”と呼んだそうですよ。

ほら、五平餅とか、きりたんぽや、焼きおにぎりって、冷えためしをどうやって温めて喰おうか、という昔の人々の知恵の調理法なのです。

じょきしょきと、小気味よい音をたてる玄米を見つめながら、おばあさんは、東京で炊いた白い米の菜っぱ飯を思い出しています。鹿の子が鳴くような音がして、女は「米が炊けた音だよ」と言いました。

おばあさんが竈に薪を焚べると、ぱちぱちと薪が燃え、ぼつぶつと、釜の蓋が揺れています。

そのうち米が炊きあがったので、汁や漬物や青菜を用意しました。もうそろそろ、いつものようにおじいさんが帰ってくる時間です。


しかしお昼時になっても、
夕時になっても、
おじいさんは帰ってきません。
あたりが暗くなり、
フクロウが鳴き始めると、
外で足音がしました。
やっとおじいさんが帰ってきたのです。
おばあさんが慌てて外に出て、
おじいさんに駆け寄ると、
おじいさんは、片足を引きずり、
木の枝で作った杖をついています。

「まさか!おじいさん!どうしたがね!」

おじいさんは額の汗を拭いながら、

「沢に落ちてしまっての、足を挫いた。痛くてしばらく動けなんだ。まだ足首が痛くてたまらん。なんぞ、おばあさんが言うとったとおりになってもうた、正夢なんかのう、おばあさんが言うとる事ばちゃあんと聞いとかなんだから、バチが当たったんかいのう」

おばあさんは、言いました。

「やっぱり、夢でねかった、まことじゃった」

そしておばあさんは、何か思いつき、裏の野菜籠の掛けてあるところへ駆けて行きました。暗闇の中野菜籠を持つと、ずしりと重みがありまして、おばあさんは、確信して、おじいさんのもとへ戻りました。

上がり框へ腰掛けて、足首を擦っているおじいさんのそばに、野菜籠を、どさりと置いて、おばあさんは言いました。

「おじいさん、やっぱり夢でねかったど、ほれ見てみい、妙薬が籠いっぺえに入っとる、ほれ、大丈夫じゃ、おじいさんの怪我はわしがなんとかするでの」

野菜籠の中には、湿布や薬や、高価な着物や、いくつかの書物や、ドラッグストアの店員が描いてくれた絵が、ちゃあんと入っておりました。





「おじいさん、なあんも食べとらんじゃろ?なんでもええで、まずは何か食べ、の?の?」

そう言っておばあさんは、温めておいた汁を椀に注ぎ、その中に飯と漬け物を入れ、おじいさんに手渡しました。おじいさんは痛そうな顔をしながらも、飯をかきこみます。

その間におばあさんは、裏の小川から冷たい水を汲んできて、手拭いでおじいさんの足首を拭き清めてから、おじいさんの足をタライに浸しました。その冷たさに、おじいさんは、ひっ、と声をあげます。

おばあさんは、野菜籠から絵を取りだし、絵に描いてあるのと同じ箱のバファリンプレミアムを開け、店員に教えられたとおりに、二錠出し、湯飲みの水とともに、おじいさんに差し出します。

「これはの、痛み止めなんじゃと、なんじゃ、ばふりんとか言うとったかのう、ほれ、飲んでけれ」

おじいさんは、粒を口の中に入れ、水で飲み干し、

「これで治るんかいのう?」

と、痛みに顔を歪めながら、おばあさんに尋ねました。

「未来の薬だで、信じての、よく効くはずじゃでの、痛みを止めてくれるぞな」


しばらくして、おじいさんの足首がちゃんと冷えたのを確認したおばあさんは、目を細めて、また別の絵を見つめます。痛そうな顔で、足首が腫れたおじいさんの絵です。

痛そうな顔のおじいさんの横には、サロンシップEXのパッケージが描かれています。おばあさんは野菜籠の中から、サロンシップEXを探しだし、箱を開け、袋を破り、透明なフィルムを剥がし、おじいさんの足首に貼り、そしてその上から手ぬぐいを巻き付けて包帯のようにしました。

「おじいさん、足を下にしとると、どくどくして、痛いじゃろ?もう横になって休んでけろ、座蒲持ってくるでそれに足のせて、寝てくれろ」

そう言っておじいさんを寝かせ、足の下に座蒲団を折り、挟みました。



みなさんは、不思議に思いませんか。なんだかおばあさん、手際がいいですよね。

実は、女の家に泊まったあの日、女が応急処置の方法をスマホで調べてくれて、おばあさんが理解するまで、何度も教えてくれたのです。


「おばあさん、お風呂どうだった?」

「ありがとのぉ、よか風呂でようけ寛いだよ、ありがとのぉ」

「そっか。よかったよ。あ、そこ、お水置いてるから飲んでね」

「ほう、そかね、すまんね、ちょうだいするかね」

おばあさんは、女が用意した白いバスローブを身にまとって、ちょぼちょぼと歩いて、テーブルの上の水に手を伸ばします。

「おばあさん、あのさ、今調べてたんだ、足挫いた時の、手当の方法」

「ほうかね?ありがてぇの、やっさしい子ぉじゃの」

「まずね、安静にしてね、足を動かさないようにするんだって。でね足首を冷やすの。冷やすとね、血の流れがゆっくりになるから、腫れるのを抑えるんだってさ。で、布を巻いて、ほんの少しだけ圧を加えてあげるといいんだって。そして、心臓より高い位置にしてあげるといいんだって、要するに、腫れて過剰に流れてる血液を抑えてあげるって考え方だね」

「ほうかね、冷やしたらいいかね?温めたらいかんかね?」

「そうみたい。温まるとさ、血の流れが早くなって、怪我には良くないんだって」

「ほいで、なんぞ布を巻いたらいいんかの?」

「うん。きつく縛るみたいな感じじゃなくて、そうだなぁ、脚絆を巻くぐらいの圧力でいいと思うよ」

「ほうかね、ほいでの、心の臓よりも、あの、な、のう、なんか言うとったの?」

「そう、心臓よりも、足首を高くして休むといいんだって。腫れを抑えるんだってさ」

「ほうかね、ほいだらの、冷やして、ちゃあんと冷えたらの、布巻いて、足の下に枕なぞ置いて、休んでもろうたらええんかの?」

「そうだね、あ、あとは痛み止めのお薬と、貼り薬も忘れずにね。貼り薬を貼ってから、布を巻いてあげるんだよ」

「ほかほか、わしゃ、おぼえたど、えか?まずの、冷やす、井戸水で冷やそうかの、冷えたらの、貼り薬貼っての、布ば巻く、ほいだらの、足枕しての、おじいさんに休んでもらう、どうじゃね?ほうじゃ、痛み止めの薬も忘れたらいかんの」

「そうそう、正解、すごいね、おばあさん」

女は、おばあさんに笑いかけ、おばあさんも笑顔になりました。



遠田の蛙の声が静かな夜に響き、庭の虫の音がちいさな雨の音のように部屋を通り過ぎ、そして、おじいさんの小さな寝息が聞こえてきます。

「みっちゃんや、ありがとの、おじいさんの手当、ちゃあんと出来たけの、ありがとの」

おばあちゃんは表に出て、月を見上げ、手を合わせながら、そうつぶやきました。





おじいさんの怪我は、おばあさんの適切な手当ての甲斐あって、5日ほどで治りました。

その後おじいさんは、山に入らなくなり、その代わりに、釣りや洗濯をしたり、家の周りで刈ってきた竹で生活用品を作り、それを里で売り歩くようになります。売ると言ってもほとんどが物々交換で、籠やざるや柄杓や湯呑みなどと、雑穀や野菜を交換してもらうのです。

ある時、里を歩いていると、知り合いの男が話しかけてきました。

「おや、柴じいじゃねぇか、なんだよ、籠なんぞもって、もう柴は売らねぇのかい?」

「それがよぉ、沢に落ちて足を挫いちまってからよ、山に入るのは控えとるがじゃ、ほいでよ、家の周りの竹での、籠だのざるだの作っとる」

「ほぅ、怪我したのかい?具合はどうだい」

「うちのおばあさんがよ、妙薬を授かってきたでよ、そいでこの通り歩けとるがじゃ」

「なあんじゃその妙薬ちゅうんは」

「ばふりんっちゅう薬らしいけんどもの、足の痛みもの、ぴたりと止んだぞ、ありゃあ妙薬じゃわ、あとはの、なんぞ、貼り薬もの、もらってきちょおるぞ」

「ほぉ、いったいどこでお授け頂いたんだよ」

「これがの、おかしな話での、お山の稲荷さまにお参りしてお授けされたらしいんじゃわ、ありがたいことじゃて」

「なんだと!稲荷さまから!そりゃ珍しいなぁ!」

前におじいさんは柴を売っていたので、里では柴じいさんと呼ばれていました。まるで柴犬みたいですね。そしておばあさんの薬のことをこんな風に毎日のように話すものだから、そんな不思議な薬をひと目見ようと、人々が家へやって来たりもしました。

そんなある日、田んぼの水路に足を踏み外し、足を挫いた男が、おばあさんの家を訪ねてきました。15~16歳ぐらいの息子二人に戸板に載せられ、痛そうな顔をしています。里で妙薬の話を聞いて、となりの村からやって来たのだそうで、お金を払うから、どうか手当てをしてくれ、と言うのです。

見ると、おじいさんと同じように足を挫き、足首が腫れ上がっています。おばあさんとおじいさんは、手際よく手拭いやタライや布を用意して、男を畳に寝かせ、足を小川の水でじっくりと冷やしました。男に薬を飲ませ、しばらくすると、痛みがひいて来たようで、少し安心した顔をしています。おばあさんは冷えた足に、湿布を貼り布を足首に巻き付けながら言いました。

「ほいでの、足を高くしての、足の下になんぞ敷いてから寝とったらええど、じいさんの時は翌日も痛みだしたからの、この痛み止めも2粒もってけ、あとは、この貼り薬も二枚の、2、3日は痛みが無くなっても歩いたらいかんど」

すると、怪我した男も、息子ふたりもほっとしたような顔をして、みんなで顔を見合わせています。

「ありがとうごぜえます、痛みもほっとんどなくなっとる、ほんにありがとうごぜえます、おい、ほれ、薬礼をお出しせんか、ほれ」

男にそう言われ、息子のひとりが、粗末な布にくるんだ銭を差し出しました。

「40文ばかりしかないけんども、足りますかいの?足りなんだらまたお持ちするで、もうちくとばかし待ってはくれませんかいの?」

男がそう言いました。
おばあさんとおじいさんは顔を見合わせます。
受け取ってもよいものかどうか判断しかねているようです。

あ、そうですね、40文ってどれくらいの価値だか、あんまりぴんとこないですよね。当時の物価としては、

甘酒 1杯 8文
沢庵漬け1本 15文
かけ蕎麦1杯 16文
米1升 100文
鰻丼1杯 200文

と、なるのですが、これで考えると、40文はおおよそ、おじいさんとおばあさんがそばを2杯食べ、お釣りが来るぐらいの値段です。飲み薬、貼り薬、手当て代を合わせて考えたら、妥当な値段かもしれませんね。

おばあさんとおじいさんは特に裕福というわけではなく、どちらかと言えば貧しい家庭です。40文というお金は欲しいですが、お金をもらうつもりはありませんでした。

「足りませんか?」

おばあさんたちが渋った顔をするので、男が不安な顔でそう訊きました。
おばあさんが答えます。

「いや、困っとる人を助けるのは当たり前のことだで、それでお代をいただくんは、ええんかの、この薬は自分で作っとりゃせんし、ある人に頂いたものになるけんの」

「いやいやそれではわっちんどもも、気が収まりませんで、銭がだめならば、また明日にでも野菜や漬け物でも持って来ますけんども」

男がそう言うと、支払いのためにまた来てもらうのはかわいそうだから、とおばあさんとおじいさんはそれを断り、ありがたく40文を、受けとることにしました。そうしてしばらく休んでから、男はまた息子たちに戸板に載せて運ばれ、帰っていきました。

おばあさんは、40文というお金を見ながら、なにやら考えています。

「おじいさんや、えか」

「どうしたんじゃ、おばあさんや」

「みちちゃんがの、東京での、言うとったんじゃ。余計に薬があれば、わしやおじいさんの暮らしも楽になるし、村の人たちも助かるじゃろて、薬を多めにの、渡してくれたんじゃ」

「ほうかえほうかえ、やっさしい娘っこじゃの、そのみちちゅうおなごはの」

「ほうじゃ、やっさしい子じゃ、せやからの、わしはの、もう一度の、あの子に会って礼をしたいがじゃ、この40文という銭も、もとはと言えばあの子のもんじゃからの、なんとかしてお返しがしたい、明日も稲荷さまの祠に行って試してみるでの」

こうしておばあさんは毎日稲荷さまの祠にお参りするようになり、そしてひらがなやカタカナ、そして漢字についても少しづつ覚えていきました。やがて、薬に書いてある文字も読めるようになり。、女が託してくれた、赤ちゃんの夜泣きの薬や、湿布、葛根湯など、それらの薬の飲み方のことも、少しづつ理解ができるようになっていきました。

そしておばあさんの薬の噂を聞き付けた人々が、はるばる遠くから痛み止めを買いにきたりすることも増えてきて、その度に皆がお金を置いてゆきました。


おばあさんが東京から帰ってきてから、3年経ったある日、城下町の庄屋さんが訪ねてきました。

「すまんの、ここが、薬を売っとるという、家かの?」








おばあさんが東京から帰ってきてから、3年ほど経ったある日、噂を聞き付けた城下町の庄屋さんが訪ねてきました。

「すまんの、ここが、薬を売っとるという、家かの?」






そうやって、綺麗な身なりの庄屋さんが、家の前で籠を作っていたおじいさんに訊きました。庄屋さんは、そちらの時代で言う自治会長さんとか、町長さんとか市長さんとかそういう仕事に近いかもしれませんね。

おじいさんは頷いて言いました。

「ほう、そうでございますけども、どうされましたかいの?」

「ここにの、夜泣きの薬があると聞いての、参った次第じゃ」

「あ、へい、おばあさん呼びます故お待ちを、おい、おばあさん、おばあさんや」

「へいへい、どうしたな、おじいさん、おや、あ、こりゃどうも、ほう、はい、ございますぞ、夜泣きの薬じゃね、ありますぞ、こちらやけんども」

おばあさんは、竹の行李の中から、夜泣きの薬を取り出しました。

「ほう、これか」

「庄屋さま、赤子が泣きよりますかの?」

「初孫が生まれたんじゃが、どうにも毎晩泣いての、見ておって不憫で、街の医者にも診てもろうたが、悪いところはないと言うのだ、それでも泣き止まぬで、孫も私らも参っておる、それで、噂を聞いて、こちらに参ったという訳だ、それで、その薬を譲ってはもらえぬか」

「あ、へい、そりゃもう、もちろんでございます、いかほどお包みしましょうかいの」

「ここまで来るのにも一苦労であったから、多目にもらっておこう、10日分では、いくらになる」

「あぁ、その、値段というのは決まっておりませぬで、みなさまのお気持ち頂いておりますですで」

「そうか、じゃあ、城下で薬は、一包20文じゃから、10日分で200文でどうじゃ」

「あ、そりゃもう、ありがてぇことでございます、それじゃあ、1服2粒、乳飲む前に、水かぬるま湯で飲ませてもうてください、夜泣きだけじゃのうて、下痢や風邪にも効きますきに」

「そうか、わかった、効き目があれば、また来るかもしれん」

そう言って庄屋さんは、お金を置いて、帰ってゆきました。




さて、それから、10日後。

また、庄屋さんがやって来ました。




「おい、おるかの?」

「ありゃま、庄屋さまでねか、どうですかの、赤子さんのご様子は」

おばあさんが笑顔で訊ねると、庄屋さんは深く頷いて、

「実はの、あの晩からの、一度も夜泣きをせんようになっての、わしら家族も、なにより孫も、健やかに過ごしておる、ばあさん、礼を言う」

そういって庄屋さんは深く頭を下げました。
おばあさんはとんでもないというように驚いた顔をして、同じようにお辞儀をしています。

「それでの、追加の薬をわけてもらいたいのだ、わしのとこだけではなく、町のものにも分けてやりたい、故に多目に売ってはくれんかの、全部でどれくらいある」

おばあさんは、おじいさんが作った竹の行李の中から夜泣きの薬を取り出して数えました。全部で4つあります。

「まだ封を切っておらんのは、4つありますけんども」

「では、4つ全部欲しいが、よいか?」

「あ、そりゃ、へい、よかです」

「いくらになる」

「そうですのぉ、あのぅ、勘定が苦手でしてのぉ、わかりゃんせんのですけんどもなぁ」

「そうか、以前は、2粒の10日分、20粒で200文だったであろう。ならば、その包みひとつで何粒入っておる」

「この箱に120粒入っとるみたいですの」

「それでは、箱で1200文になるな、それが4箱で、4800文じゃ」

おばあさんは、4800文という途方もない数字にぼんやりとしています。何度も言うように、物々交換しか経験してきていないので、1000という数字もいまいちぴんと来ません。その様子を見て庄屋さんが言いました。

「4000文は1両と同じ価値じゃ。よって薬礼は、1両と800文。しかし、わしは、800文も持ち合わせはあらぬから、500文をこの2朱金、250文を1朱金で支払う。これで750文じゃ、残りの50文はそのまま支払う、これで4800文となる、良いかの?」

庄屋さんは、おばあさんにお金を見せて説明します。

当時の貨幣価値は複雑で、金の貨幣と、銀の貨幣が別々に存在していて、そして金の価値も変動していました。金や銀が混ざると、庶民たちにとっては支払いが複雑になってしまいます。ですので庶民はなかなか1両というお金を手にすることはありませんでした。だからこそ、おばあさんが混乱するのも、当然なのです。

「もし、米のほうがよければ、値段のだけ米を後日持参するが、どうかの?世話になっておるのに困らせたくはないでの」

ぼんやりとしているおばあさんを庄屋さんが心配してそのように声をかけましたが、おばあさんは首を横に振り、差し出されたお金を、ありがたそうに受けとりました。はじめて見る1両です。時代によってお金の価値は変わりますが、おばあさんの時代では、1両で、1石の米が買えたそうです。1石とは、150キロの米のことを言います。大金ですね。


これで、東京で女が買ってくれた薬は、ほとんどがなくなりました。

これまでも毎日、稲荷さまの祠へおばあさんは行っていましたが、

「みちちゃんに会わせてくれ」

という願いから、

「みちちゃんが息災でたくさん笑ってくれるように」

という願いに変わってゆきました。

手元に薬はもうほとんど残っていませんが、ひらがな帳、漢字辞典、歴史の本、将棋の本が残っていて、そして、人々から薬礼として頂戴したお金は、すべて手を付けずに残しています。

おばあさんは文字を学び、歴史の教科書も少しづつ読めるようになりました。おじいさんは将棋の本を携えて、里へ将棋をさしに行くのがひとつの楽しみになりました。

将棋は歴史を重ねていくほど新たな戦術が増えるので、未来の戦術はこの時代には存在しません。ですので、おじいさんは里では将棋が強いともてはやされ、えらくご満悦のご様子です。女が、将棋の本を野菜籠に入れてくれて、本当に良かったですね。


そしてそうやって、怪我が治ったおじいさんとおばあさんは二人仲良く幸せに、長生きして暮らしましたとさ、めでたしめでたし。












という言葉で、本来ならば昔ばなしは終わりますよね。

でも、めでたしめでたしのこの日から、

十五年後へ、物語は続いてゆくのです。





さて、めでたしめでたしから、十五年後のことです。





ある朝のこと。
おばあさんは、城下町へ向かって歩いています。






あれから年月が過ぎましたので、腰は曲がり、皺は増え、杖をつき、歩くのは、とてもゆっくりです。

背中には、竹の行李の入った野菜籠を背負い、時折立ち止まり、息を整えながら、歩いています。

季節は夏の終わり。田には稲が成り、胡瓜や茄子の葉は枯れ始め、おばあさんが歩く畦道を、枯葉色の殿様バッタが、ぎちぎちと鳴いて横切っていきます。






十五年の間に、さまざまなことがありました。

まずはそれをお話していきましょう。






ある日から、おじいさんとおばあさんは、ふたりで山に入り、稲荷さまの祠の周りの竹を刈り取り始めました。その竹で道具を作り売ったり、竹炭にして売ったり、竹の子を売ったりしました。

そして広くなった竹林の中に、いくつもの苗木を植えました。

栗や桃、アケビや椎の木、ヤマモモやサルナシ、オニグルミ、金柑やりんごなど、山から木を採ってきて苗木にし、二人で植えていったのです。     

そして木の間には、里で買ってきた馬鈴薯を半分に切って植え、種芋をどんどん増やして行きました。

みなさんのそちらの時代の、学校の校庭ぐらいの広さになるでしょうか。それぐらいの広さに、竹林を切り開いてゆき、沢山の木や、馬鈴薯を植えたのです。

しばらくは、山から獣が降りてきて新芽を食べられたりして大変でした。でも、この林を囲うように、触るとかぶれる漆の木や、棘のあるタラの木なんかをたくさん植えたので、少しづつ動物たちも近寄らなくなってきました。

やがて木々が育ち、実が落ち、また新たな木が生え、ちいさな広葉樹の森ができました。毎年葉が落ち、その腐葉土の中では芋が育っていきます。その森の真ん中に、稲荷さまの祠がちょこりと座っています。

その森を眺めながら、おばあさんとおじいさんは満足そうに頷きました。


ある日、里の者たちが訊きました。

「なあんで稲荷さまの竹林をわざわざ刈って森にしたがじゃ?なんぞ意味のあるんけの?」

おばあさんは答えました。

「稲荷さまへの恩返しじゃ、明るくなって風通しもよかろの?そっちの方が住みやすかろうて」

里の者は、はぁ、そんなもんかの、と呟きました。

おばあさんは、うん、そんなもんじゃ、と答えました。


この森を作るのに、なんと十年もかかりました。
稲荷さまへの恩返しとはいえ、大変でしたね。

そしておばあさんは、東京の女からもらった着物を、すべて売りました。着物数枚で、5両という大金になりました。とても良い生地で、この時代には無い染織技術で作られていたようです。

おじいさんとおばあさんは、竹の道具や、竹炭や、竹の子や野菜などを、里ではなく、城下で売り、お金に換える、という生活を始めました。



ある日、城下で野菜を売り、山へ戻ろうとしたとき、おばあさんが、おじいさんに言いました。


「おじいさんや、わしゃの、一度だけでもええからの、鰻のどんぶりというのをな、食べてみたいがやけんどもの、おじいさんの、どうじゃろか、おじいさんも食べたないかの?」

おじいさんは答えました。

「おばあさんや、今まで、苦労ばっかりかけての、怪我の世話までしてもろうての、鰻の一匹も食べさせられんでの、すまなんだの、本当にすまなんだ、おばあさん、わしゃええで、食べてきやあせ、わしの分までの、何杯でも食べてきやあせ、稲荷さまの森を耕して、里や城下のもんに薬を分けて、それで鰻食べてもなんもバチはあたりゃせんぞ、おばあさん、いくらんでも食べてきやあせ」

おばあさんは首を振りました。

「おじいさんや、わしゃの、おじいさんとの、ふたりでの、鰻のどんぶりが食べたいがじゃ、旨いもんが食べたいわけじゃねぇ、贅沢したいわけじゃねぇ、おじいさんと、同じ時のの、同じ味をの、食べて過ごしたいがじゃ、駄目かの?こんな老いぼれの汚ねぇ身なりのばあさんと食べるのは、恥ずかしいけの?」

おばあさんが悲しそうに言いました。

おじいさんは怒ったような顔をして、おばあさんの手を掴み、歩き出しました。

「うなぎ」と暖簾に書いた店に入り、「ふたりじゃ」とぶっきらぼうに言って、「いっちばんうまい鰻のどんぶりをふたつじゃ、600文あれば食えるかの?」と、大声で店のひとに訊きました。


店のひとが、「あ、へい、お出しできますけども」と答えると、

「それじゃあふたつ頼んだけの」

と、どや顔で注文しました。

おばあさんは、ほんの少しだけ泣きながら言いました。

「おじいさんや、ありがとう、ありがとの、わしは、幸せじゃの、幸せなばあさんじゃて、ほんに、ありがとの」

おじいさんは、「お、おぅ」と言って緊張してほんの少し震えながらも、格好をつけています。


おばあさんは、
おじいさんの手を、
強く握りました。


ふたりが食べる鰻のどんぶりは格別で、初めて食べるその美味しさに、ふたりはもくもくと食べました。

ほら、だって、いま、みなさんがいる時代とは違う、清い海と、清い川で育つ、天然の鰻です。そして米も、砂糖も醤油も、無添加、無農薬。

みなさんの時代とおなじ味なわけがないですよね。もっともっともっと、美味しいって、みなさんもわかりますよね。

肝吸いを啜り、鰻のどんぶりを食べ終え、おばあさんは深いため息をついて、おじいさんに笑いかけました。


帰りの道すがら、おじいさんが言います。

「あのとき、わしが怪我せなんだら、今日の鰻も食べられなんだの、とうきょうの、みちちゃんの助けがなかったら、百姓のわしらが、こんな町中に来て、ものを売って、買うなんてことはできなんだの、ありがてぇの、ありがてえ、ありがてえの、の、おばあさんや」

夕日に向かって歩きながら、おばあさんは、頷きました。

「おじいさんじゃから、あんな贅沢ができたがじゃ、みちちゃんと、おじいさんのお陰じゃ、ありがとの、ありがとの、おじいさんや、ほんに、ありがとの」

おじいさんは、おばあさんの手を、握りました。





そんな優しいおじいさんは、ある日の夜、眠るように息を引き取りました。最後に作ったおばあさんの菜っぱのおにぎりを一口食べて、

「うめぇの、おめえのおにぎりが、一番うめえ」と言って。



里の者たちが沢山やって来て、葬送行列を組み、埋葬して、一緒に悲しんでくれました。おばあさんは、菜っぱの握り飯と、竹の子汁を、手伝ってくれた者たちに振る舞いました。おばあさんは皆に、笑顔でお礼を沢山言いましたが、自分はなにか食べたいとは、思えませんでした。あっという間に朝が来て夜が来て、やがて葬儀が終わり五日ほどして、やっと食欲が出てきました。おばあさんはゆうげの支度をしています。米を炊き、汁を作り、そして、椀を用意している時に気づきました。

「おめえさん、おじいさんはもうおらんで、ふたりぶん作ってどうするだか、おめえ、ぼけてもうただか」

おばあさんはひとり呟いて、静かにひとり泣きました。



その翌朝、行李を風呂敷に包み、野菜籠へ入れ、おばあさんは立ち上がり、歩き出しました。

城下町へ向かったのです。




おばあさんは、城下にある、庄屋さんのお屋敷の前に来ました。

綺麗で立派な門構えの前に立つと、野菜籠を背負ったおばあさんは、とても小さく見えます。

「すいませんの、あのな、わしはの、稲辺村で薬を売っておった、キヨち言います、庄屋さまは、おられますかいの?」

おばあさんが門番に訊くと、番の者は、屋敷へ入り、少し誰かと話してから、おばあさんを中へ通しました。

そして次は、若い娘が、おばあさんを縁側へと案内し、ここでちくとまっちょいておくんなんせ、と言って、その娘は下がり、入れ替わりに、庄屋さんが現れました。

「おや、どうもどうも、お元気そうですな、おばあさん」

あの日よりもほんの少し小さく見える庄屋さんが、笑顔で言いました。しばらくして、さっきの娘が、盆に茶と菓子を持って現れ、ふたりの間に置き、また下がってました。

「どもご無沙汰しておりゃっした、庄屋さまも、の、お元気そうですの」

「何度か、おじいさんとおふたりで、竹細工売りに来とるのを見かけておった、あ、おじいさんはお元気かの?」

おばあさんは、おじいさんが亡くなったことを伝え、葬儀の時の様子を話しました。

「そうですかの、そりゃ、寂しくなったの、いい笑顔と、いい腕のおじいさんじゃった、の、ええおじいさんやった」

おばあさんは、何度も頷きました。

ふたりで黙って茶をすすり、庭を黙って見つめています。

「そうじゃそうじゃ、それで今日は、また、稲辺からはるばるどうして城下へ参ったのかの?」

庄屋さんが尋ねます。

おばあさんは、野菜籠から風呂敷包みを取りだし、包みをほどき、行李を自分の膝の上に置きました。

「庄屋さまにの、お願いがあっての、参りました、この行李をの、預かってほしいがです」

庄屋さんは行李を一瞥してから答えました。

「ほう、それは、よいぞ?これから出掛けるのかの?いつ取りに戻られるか?」

「…いや、取りに戻りやしません、この行李を、預かって頂いての、ある人にの届けて欲しいがです」

「届けるというのなら、飛脚に頼んだほうがよいであろう?なぜ、わしに?」

「飛脚では届けられまっせん、出来るのは、庄屋さましか、おりませんわい」

「そうか、なにか訳があるのだな、おばあさん、詳しく話を聴こう」

おばあさんは深く頷いてから、ゆっくりと話し始めました。









「のう、なにか面白い話はないか」

ここは、城下町が見下ろせる城の中です。

若い城主が、家老の一人に話しかけています。家老の男は、少し考えてから答えます。

「面白い話でございましょうか、それでは、誰ぞ歴史に精通したものでも連れて参りましょうか」

「いやいや、昔のことはよい、今じゃ、今起きておる出来事を知りたいのじゃ、ほれ、城下では色々なことが起きておるであろ、なんぞ珍しい魚が獲れただの、南蛮渡来の道具を見ただのと、なにかあるであろ」

家老はもう一度深く考えてから、はたと膝を打ち答えました。

「ああっ、それならば、今日は城下で、なんとも不思議な話を耳に致しましたぞ」

「不思議な?なんじゃ、聞かせてみよ」

城主は身を乗り出します。

「城下の庄屋から聞いた話にございます。
100年ほど前、とある老婆が、行李をひとつ、庄屋に預けたそうでございまして、そして庄屋は、今でもその行李を大事にとっておるらしいのです」

「100年前、行李、それには宝でも入っておるのか?」

「いえ、それが、庄屋の者たちも、中身を知らぬようで」

「なんと?中身を知らぬ?なぜそんなものを、100年もの間、大事にとっておるのだ」

「不思議なのはここからです、その行李の封には、100年前から、こんにちまでの年号と、届ける年、そして届け先が記されておるそうなのです」

「ほう、なんと、年号とな?まさか、年号をすべて言い当てておるのか?」

「はい、左様にございます」

城主は腕を何度も組み直し、天井を見上げて思案にふけっています。

このお話を最初から知っている皆さんにとっては普通のことでも、このお話を知らない人にとっては、なんとも荒唐無稽なことですからね。だって、100年前からのお届け物ってことですよ?不思議ですよね。

「して、届ける年というのはいつになっておるのだ?」

城主は気を取り直して、尋ねました。

「はい、安永伍年、今年でございます」

「ほう、なんと、我が領地で、そのようなことが真にあるのか、よし、せっかくじゃ、
その成り行きを、我が目で見届けたい、おい、急ぎ、馬を用意せよ」

そう城主は言って、立ち上がりました。




「甚四郎さま!甚四郎さま!いいいいいい一大事にごぜえますぅ!」

屋敷の縁側に駆け込んで来た杢次郎(もくじろう)が、わらじを脱ごうとして脱げず、焦れったく思いながら結局脱ぐのを諦め、縁側で屋敷の中の男に何か報告をしています。落ち着きがないですね、何かあったんでしょうかね。

さて、呼ばれた方の甚四郎は背が高く、面長で涼しげな顔つきで、まぁ、色白の色男ですね。さっき駆け込んできた杢次郎の、上司にあたる男でございます。

縁側に倒れ込み息を切らしている杢次郎を、甚四郎は呆れ顔で見下ろしながら、少し笑って言いました。

「なんじゃなんじゃ、まあた飲み代のつけが溜まって飲ませて貰えねぇのかよ、おめぇさん」

杢次郎の人柄が、なんだかすごく伝わる一言ですね。

「ちちちちがう、違うので、あります、あの、殿様が、お殿様が、」

杢次郎はたいそう慌てており、しっかり喋れないようです。

甚四郎はさらに呆れた顔をしましたが、ゆっくりと縁側に座り、彼が落ち着いて話せるようになるまで待ちました。やがて杢次郎が息を整えて言います。

「っお殿様が、参りまっす」

「声が裏返っておるぞ、参りますとは、城下へか?」

「いえ、こちらに、でございまっす」

「こちらとは、城下へという意味か?」

「いえ、このっ、お屋敷にございます」

「おい、杢次郎、落ち着け、いいか?殿が、庄屋の屋敷に、来られるわけがないでろ?の?よおく考えてみよ?わたしは、お前がそのような嘘をついて、どうやって話を繋げ私から飲み代をせびるつもりか、そっちの方に興味がある」

「いや、甚四郎さま、ほんとうのことなんでございますよ、先程城より早馬が参りましての、“殿が、この屋敷へ向かわれておる、無礼のないように、すぐに支度せよ”とのお達しでございましての、ほほほんのついさっきのことでございます、急がねば、甚四郎さま!」

杢次郎の真剣な顔を見つめていた甚四郎の涼しい顔が、さらにきりりと引き締まって、呆れ顔から真面目な顔になりました。ことの重大さを察知したようです。

大声を出し、家の者をすべて集めて、ひとりひとりに素早く指示を出していきました。

3人の下女、いわゆる召し使いの若い娘たちには、ひとりを菓子屋に走らせ菓子の用意、ひとりを酒屋に走らせ酒の用意、ひとりに、倉にしまってある漆塗りの食器と、抹茶碗の用意をそれぞれ指示しました。

妻には客間に上等の座布団を用意させ、酒や魚や茶や菓子の盛り付けの確認と、茶を点てる用意を指示し、杢次郎には玄関を掃き清めさせ、打ち水をさせ、他の者たちには、部屋の掃除を言い渡しました。帳簿をとるものや、荷物を運ぶ者らも、一斉にすばやく掃除を始めます。

そして、甚四郎自らは顔を洗い、髪を整え、上等の着物にすばやく着替えました。

先程はなんだか役立たずのような雰囲気だった杢次郎も、てきぱきと動き、妻も的確に、下女も他の者たちも、無心になって指示をこなしました。

甚四郎とその妻が玄関に正座をし、その他の者たちが玄関までの石畳の脇や門の前に膝をついて座ったのと同時に、馬の足音が響いてきました。


藍の光沢のある着物のお殿様が、庄屋の門の前で馬を降りて、白い歯をみせながら言いました。

「おっ、さすが、早いの、もう出迎えの準備をしておるではないか、早馬で先に爺が伝えておったのかの?それにしても手際がよいの」

「殿が突然出向くと言われましてもの、町の者は大忙しですからの、今度からは、もう少し余裕をもってお出掛けくださると、わたくしも、町の者たちも、おだやかに過ごせるのですが」

爺と呼ばれた家老が、殿の脇に控えながら、やんわりと皮肉めいた冗談を言いました。

「まあまあ、そう怒るな、お主のような仕事の早い者がおるからの、それを見込んでの、わしの行いである」

「はあ、殿、見てくだされ、庄屋のものたちも、肩で息をしております、大慌てで掃除や出迎えの準備をしたのでしょう、そこに一言触れていただけると、この者たちも働きの甲斐があるかと」

「ほう、なるほど、そう言われればそうじゃの、しかしそれにしても爺はそんな細かいことばかりいつも考えておるのか?疲れぬか?」

「殿、さ、庄屋の者たちが、待っておるので、さ、中へ」


10名ほどの従者を屋敷の外に待たせ、殿様、家老、従者2名で屋敷の門をくぐります。

屋敷の中の者たちが、よりいっそう頭を低くして、殿様を迎えます。

玄関先まで殿様が歩いてくると、甚四郎が玄関に額をつけ、出迎えの挨拶をします。

「代々、大庄屋を務めさせていただいております、庄屋の甚四郎と申します。なにぶん質素な暮らしをしております故、お目汚しのご無礼お許しくださいませ」

「ふむ、甚四郎と申すか、よし、甚四郎、面をあげよ、他の者も、面をあげよ、このたびは、突然に参ってすまなんだな、急ぎ支度をしてくれたようだ、ここの者たちは、よい働きをしておるな、日頃からさぞよい仕事をしているのだというのがわかるぞ、ご苦労である」

屋敷の者たちがよりいっそう身を低くして、甚四郎が答えました。

「はっ、ありがたきお言葉にございます」

「よいよい、そうじゃ、それでの、爺がこの庄屋の面白い話を耳にしての、なんでも、100年前から預かっておるという行李があるそうではないか、その話をの、聞きたくて参ったのじゃ」


「行李?行李でございますか、はっ、たしかに我が家には代々受け継いでおる行李がございます、が、しかし、行李のことは家の者しか知らぬ事でございます、なぜ殿のお耳に、そのような、行李の話がお入りになったのでございましょうか」

それには、後ろに控えていた爺が答えました。

「近々、参勤で江戸へ上るからの、幕府献上の品を見定めておる折りに、酒蔵酒場で“庄屋の者”と名乗る男が話しておったのじゃ、面白い話であったから、いろいろわしもその者から聞き出し、そしてそれを殿にお伝えした、という次第じゃ」

「酒蔵、でございますか、、」

甚四郎は、玄関の外で膝をついて座っている杢次郎を見ました。
杢次郎はびくりとして目をそらし、玄関先の石ころをしみじみと眺めているふりをしています。

「ご家老、酒蔵の男というのは、その者にございましょうか」

甚四郎が杢次郎の方を指し示しながらそう言うと、家老はなんども頷いて、
そうじゃ、この男じゃ、と頷きました。杢次郎があたふたしておるので、殿が甚四郎へ質問します。

「どうした、なんぞ不都合でもあるのか?」

「いえ、我が家では代々、行李のことは口外せぬようにと固く戒められており、ごく限られた者しかその存在を知らぬのでございます」

「ほう、それはどうしてじゃ、珍しい話であるから、話したくなるのも仕方ないであろう」

「おっしゃる通りにございます、しかし、恐れながら申し上げますと、行李には宛名が、どこの村の、誰に、いつ届けるように、と書かれておるのでございます、行李の宛名が世に出回ってしまうと、その名を騙る者も出て来るのではないかということで、代々秘匿にしておりました」

爺がふむふむと頷きます。

「ふむ、賢い選択じゃの、たしかにそうじゃ、して、そうであるのにも関わらず、それを、この男がわしにぺらぺらと喋ってしまったと、そういう訳か、そりゃ、一大事じゃの、が、しかし安心せよ、この男は、詳しいことは一切喋ってはおらなんだぞ、不思議な行李に年号が書いてあって、今年、その受け渡しがある、ということだけしか聞いておらぬ」

甚四郎が、ほっとしたようにため息をつきました。同じように杢次郎もほっと胸を撫で下ろしましたが、甚四郎がじろりと睨むと、杢次郎は固まってしまいました。甚四郎の唇が、「おぼえておきなさい」と動いたからです。

甚四郎の妻が、甚四郎を小さく叩き、耳元でなにやら呟きました。

「あなた、それより、早くお座敷へご案内しないと」

甚四郎は、はっとして、

「殿、奥へお通しもせず、ご無礼いたしました、もしよろしければ、お話の続きはじっくりと奥でいかがでございましょうか」

と言いましたが、殿はものすごく軽く答えました。

「いや、いいぞ、わしはその、板張りのところで良い、なにやら気持ち良さそうじゃ」

と、縁側を指差しました。

「え、いや、そのような所で、まことによろしいのでございましょうか」

甚四郎が驚きながら言うと、

「そこが良い、城にはない」

と、殿が言い切りました。
甚四郎は女中たちに命じて、縁側に座布団などを用意し直しましたが、殿は板張りにそのまま座りました。家老がその横に離れて座り、板張りに甚四郎が正座をしています。甚四郎の妻が、殿と家老に茶と菓子を出してすぐに下がりました。

茶を啜り、茶菓子を一口食べながら、殿がなにやら考えています。

「甚四郎よ、しかしの、中身がなにかわからぬのであるのに、お主の家では、なぜそのように厳重に行李を取り置いてきたのじゃ」

「はい、おっしゃるとおり、私どもは中身を知りませぬ、行李を受け取った甚八でさえ、中をあらためなかったそうでございます」

「100年前に、どのようにその行李を受け取ったのか、興味があるの」

「はい、私の曾祖父が15の年、行李を持った老婆が現れ、曾祖父の祖父、甚八にこれを託したそうでございます、ちょうど、この縁側で受け渡しが行われたそうで、そのときの様子は、このように聞き及んでおります」

甚四郎が、話し始めました。
100年前の縁側でのお話です。




お殿様と甚四郎の座っている縁側には、気持ちの良い風が吹き抜け、暖かい日差しが注いでいます。

甚四郎が100年前のことを話し始めました。




100年前のある日の夕方。
同じ縁側で、甚四郎の曾祖父の祖父である甚八が、おばあさんに問いかけました。

「なにか訳があるようじゃの、話を聴かせてくれんかの」

おばあさんは、行李を膝に置いたまま、お茶を一口啜り、話し始めました。




庄屋さま、あのの、あのの、わしはの、江戸の町のの、うんと先の未来のな、東京ちゆう町にの、行ったことがあるがじゃ、いまからいうたらの、18年ぐらい昔の話かの。

18年前にの、おじいさんが怪我してもうての、稲荷さまにお百度参りしたがじゃ、そしたらの、気づいたらみっだらことねぇどころに立っておっての、すごかったど、火の見櫓はの、でけくてでけくての、高うて、天に届いておっての、食い物もの、薬もの、たくさんあっての、風呂はからくりでの、すうぐ沸くしの、ほいで水はの、汲まんでええんじゃが、鉄の管での生きとる人間のすべての家にの、届いとるがじゃ、すげじゃろ。

そこでの、みちっちゅうの、娘に、会うたがじゃ。
みちちゃんもの、わしと同じように、あっちの時代の人間じゃのうて、吉原で女郎しちょって、格子女郎までやっとっての、19で東京に迷いこんだんじゃと、ほいでの、あっちで暮らしとったがじゃと、ほいでの、東京での、わっけもわかんねぐなっとるわしをの、助けてくれたがじゃ。

わしはの、百姓ばっかしかしてこなんだから、年号なんぞな、わからんかったけどもな、里にな、昔な、芭蕉さんが逗留なさっとことがあっての、それを伝えたらの、わしが、元禄から来たちゅうことを調べてくれての、元禄のの、将軍さまはだれじゃゆうて、それも綱吉公じゃと調べてくれての、ほいでの、それでの、ほいだら、みちちゃんはいつの時代からきちょるがゆうたらの、10代将軍の頃じゃと言うちょった、10代将軍家治さまじゃ、言うておったの。

綱吉様は5代将軍じゃろ?みちちゃんはの、10代将軍の時代から来ちゅう言うがじゃ。ほいでの、東京からの、薬もってけえって来るときにの、みちちゃんがの、着物やら、書物やら、薬やら、分けてくれたがじゃ、ほいでの、その薬をの、庄屋さまにも、お譲りしたがじゃ。

わしは、みちちゃんに、恩しか受けとらんけの、どうにかして、返してえ、みちちゃんにの、お返しをしてえんじゃ、これからの、100年ぐれえした年にの、この国の外れの、みざの村ちゅうとこにな、みちちゃんがな、生まれるはずなんじゃ。

けれどもの、わしら百姓の家ではの、なんかあったらばの、すぐ貧しくなるで、着物や娘や田を売らねばならねぐなるからの、里の者たちにあずけておっても、100年後の者に渡すなんてこどはできねとわしは思うがじゃ、けんどもな、100年後もな、続いておるのはの、代々大庄屋を続けておりんなっさる、庄屋さまのところしか、ねえべな、えか?

お奉行さまのとこ行ってもよ、わっしのことしらねえべの、あったまおかしいばあさんじゃ言われておわりやけんどもの、庄屋さまは違うべな、あの薬をお孫さんやの、町のものにも配っちょるべの、わしの言うちょることもの、少しはつじつまが合うじゃろわい。

ほいでよ、町のもんに聞いてもよ、里のもんに聞いてもよ、庄屋さまはお上の言いなりじゃのうての、わしらの事情を聞いてくれての、年貢の交渉もしてくださるち言うての、みいんな感謝をしちょる、そんな庄屋さまならの、わしのこの願いを、聞いちくりりゃせんかの、と思っての。

この行李を、100年後に生まれるみちちゃんに、届けて欲しいがじゃ、10代将軍家治さまの時代に、生きちょる娘っこに、返して欲しいがじゃ。

中に手紙がはいっちょりますけんの、そして、わしの、すべての財産がはいっちょります。薬売って受け取ったお金がの、すべてはいっちょります、あのときのの、庄屋さまから頂戴したお金もぜえんぶはいっちょりますきに、あとはの、みちちゃんからもらったもんは、ぜえんぶはいっちょります。

ほいでの、この年号の、安永七年にの、みざの村のの、みちという娘にの、届けてくだしゃんせ、ほいでの、こりゃの、庄屋さまへの、お礼でございますけんの、お受け取りいただけますかいの?引き受けてくれますかいの?




深く皺の刻まれ、爪の間に土のこびりついた小さな小さな日焼けした手に、3両が握られています。

庄屋さんは、複雑な気持ちでその手を見つめていました。

だって、あまりにもバカバカしい話じゃないですか。未来にやってくる、あんえい何年とかに、誰かが生まれるから、その子にこれを届けて欲しいなんて。そのお金を使って、美味しいものでも食べて、老後を過ごす方が、幸せに決まっています。

庄屋さんは、黙ったまま、どうやって断ろうかを考えていました。そしてじっくりと言葉を選び、喋り始めました。


おばあさん、よいかの。
庄屋としてな、わしらに大事なのは、数じゃ。事実じゃ。誰がいくらぶんだけの年貢を納めて、我らが藩にいくら納められるか、それだけじゃ。わしらはの、事実に基づいて行動しておる。その積み重ねが、藩からの信頼を受け、代々庄屋を勤めさせてもらっておる。

おばあさんのな、その話を否定するつもりはないが、わしは、その話を信じることは出来ぬ。信じられぬ話に、金を受け取って、ハイわかりました渡しておきます、というのはの、無責任じゃ、そないに無責任なことは、庄屋の信用に関わる話じゃ。

けれどもな、事実が、ひとつだけある。
おばあさんが庄屋であるわしを信じ、大金を預けようとしておるということじゃ。これだけは真実じゃ。
わしは、信ずるということは、事実の積み重ねから来るものだと思っておる。そのおばあさんがわしを信じようとする気持ちを、わしもまた信じ、その行李を、お預かりし、おばあさんの恩をお返しする手伝いをさせてもらおうと思う。

しかし、受け渡しのためには、不充分な点がまだある。世迷い言と思われぬための証拠があると良い。代々受け継いでいく上で、信ずるに値すると、信じさせるほどの証拠じゃ。おばあさん、年号というのは、アンエイという年号以外は、わからぬか?今は宝永であるが、次の年号はわかるのか?それと、名前と生まれた場所以外の、みちという娘の、なにか特徴があれば良いが、手がかりはなにかあるか?

おばあさんは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、甚八に手を合わせて頭を下げています。

おばあさんは、今日まで、ひとりでたくさん文字や歴史を学んできました。だから、みちが生きている安永までの年号も、すべて暗記してしまっていました。それぐらい、みちに届けるために様々な可能性を考えたんでしょうね。


「次の年号はの、正徳での、ほいでの次がや、享保、延享、寛延、宝暦、ほいでの、ほいでのえっとの、明和での、次が安永じゃ、その次が、天明じゃ。」

甚八は筆で、それらの年号を書き留めました。

「それで、みちという娘を見分けるための、なにか特徴はないかの?」

「ほうほう、ありますど、みちちゃんはの、背が高くての、すらあっとしとっての、髪の毛もの、稲穂のように輝いておっての、猫のようなやわらけえ、ばあさんのわしから見てもの、いい女じゃでの、すぐわかるろうて」

「しかしおばあさん、届ける相手はこどもなのであろう、それではわからぬぞ」

「ほか?ほだのぅ、こどものみちちゃんには会うたことはないけんのぉ、わがんねのぉ」

「東京でであったその娘に、ほくろか、傷か、もしくは、こどもの頃にこういうことがあったとか、手がかりの話は聞いてはおらぬか」

「みじけぇ間だったけのぉ、こどものころの話はのぉ、してねのぉ、わっかんねぇの、わがんね、庄屋さま、わがんねだわ」

「そうか、それでは安永7年、みざの村、みち、娘、という項目だけか、それなら仕方あ」

「そうじゃ!思い出したど、みちちゃんはの、寝る前にの、なにやらの、不思議な…」








さてさて、その日から、100年後の縁側に戻って参りました。
お殿様は、難しい顔をしながらも、熱心に甚四郎の話に、耳を傾けています。

「甚八は、その場で私の曾祖父、甚吉を呼び、この行李を、責任を持って受け継いで行くように、と老婆の前で教え諭したそうです。曾祖父の甚吉には会ったことはないですが、甚吉から代々、このときの話を、今日まで言い伝えて参りました」


「ふむ、代々、か。律儀じゃの、真面目で律儀じゃ、しかしの、それを受け継いで、いったい庄屋になんの得があるのじゃ、手間賃を受け取ったとは言え、たかだか3両であろう。なぜ3両でそこまでするのじゃ」

「はい、これも、長い話にはなりますが、よろしいでしょうか。

実は甚八は、若い頃は、ものすごく厳しい庄屋として有名でして、猶予を与えず、必ず年貢を取り上げたそうです。それが決まりだから、それが自分の職務だからと、とにかく厳しかったようでございます。

けれども、孫が生まれた途端、世の中の見え方が変わったと、後に家族に話したそうです。子を育てておったときは、庄屋を継がせるために、責任や心労もあったようですが、手放しで可愛がれる孫が生まれた時に、ふと、今までのたくさんの百姓たちが、年貢量を減らしてくれと、訴えてきた情景が甦ってきたそうです。

百姓のすべての家にも、このように孫を思う祖父母がおり、そして目に入れても痛くない、そんなこどもがおるのだと、自分の四角四面のいままでの職務のあり方に衝撃を受け、生まれて始めて、人を思いやることに気づいたのだと、そう語ったそうです。

そうして甚八は孫のために、自分で夜泣きの薬を探し歩き、里から里へ歩くうちに思ったそうでございます。

貧しきものたちの暮らしがあればこそ、国のものたちの腹を満たすことができる、貧しき者たちがさらに弱れば、一国もろとも腹が減り、弱ってしまうと。お国と百姓の間に立っているのが、自分たち庄屋であると。

そして、とある里で薬の話を聞き、老婆の家にたちより、夜泣きの薬を手にいれたそうでございます。

それから甚八は罪滅ぼしのような気持ちで、その薬を全部買い取り、里や町の、赤子のいる家庭に配って歩いたと聞いております。

それから後、弱っている里があれば、藩の助けを借り、翌年の収穫に影響が無いように、米を廻し、年貢の滞りが出ぬように努めたと聞き及んでおります。藩からの信頼も、百姓たちからの信頼も、甚八は同じように大事なものだと思っておったようでございます。

そうして、死の床で、家の者を呼び、甚八は話したそうです。

庄屋として大事なことは、信頼されることだと。ですから、貧しい老婆が、全財産を庄屋に託した信頼の塊であるこの行李は、正しく代々受け継ぐべきものだと、この行李を粗末に扱うようなことがあれば、それは我ら庄屋が腐り果てた日だと思え、貧しき者が、我らを頼り、財産を預けた、それを踏みにじるような庄屋になるな、安永7年まで、決して粗末にするな、と遺言のようにして亡くなったと、聞い」

そこへ、門をくぐり、ひとりの男が屋敷へ入って来ました。

「おい、杢次郎、おめぇなにしゃがんでんだよ、なんだよ、銭でも落ちてんのか、おい、おめえらもなんだよ、みんなして、なんだ、なんだ?蟻の行列でも見つめてんのか、なんだよ気味わりぃなあ」

背の低いこの男は、屋敷で働いている者で、いろいろな使いを任されている、喜助という者です。杢次郎が慌てて、喜助の袖をつかみ、膝をつかせようとしますが、喜助は杢次郎がふざけていると思っているようで、

「おいおい、甚四郎さまは、どちらじゃ、なんだよなんだよ、新しい相撲か?やめろよおめ、やめろ、袖がやぶれ、袖がやぶれるでねか、やめ」

「早くすわれっ、お殿様じゃ、縁側にお殿様じゃっ!」
杢次郎が言うと、喜助は笑って言いました。

「杢次郎、昼まっから酔っぱらっての、おめ、しまいには甚四郎さまに追い出されるぞ、お殿様が庄屋におるわけがねぇだろ、な?みんな、こいつ、もう、おしめえだぞ、年中酔っぱらいだぞ、杢次郎は」

喜助がへらへら笑い、周りで一緒にしゃがんでいる皆に同意を求めますが、皆は顔を上げません。
喜助が不審に思い、縁側を見ると、甚四郎がいましたので、甚四郎のもとまで歩いて行き、言いました。

「甚四郎さま、こいつら頭ぶってもうたんでねえかの、お殿様がおる言うてしゃがんどるけんども」

すると、甚四郎は、冷や汗をかきながら言いました。
「喜助、よいか、よく聞きなさい、今すぐそこにひざまずき、下がりなさい、こちらのお方は、我が藩の殿である、客人ではない、殿であるぞ、さあ下がりなさい、殿、どうかこの者のご無礼、どうかお許しを、なにとぞ」
甚四郎はお殿様に向かって、土下座をしています。

喜助は甚四郎のとなりに座っている人を見つめました。上質の着物を着て、にやにやと笑いながら喜助の事を見ています。紋付きの着物には、お殿様の紋が入っています。額に冷や汗がじんわり滲んできたかと思うと、喜助は、すぅっと意識を失いました。


しばらくしてから杢次郎が、井戸から冷たい水を汲んで来て、喜助にぶっかけました。すると、喜助はすぐに目を覚まします。

甚四郎が縁側から喜助を見ています。
そしてその隣には、やっぱりお殿様が座っています。

「お殿様、ももも申し訳ねぇでごぜます、このとおりでごぜます、まっさかお殿様がおられるとは思わなんだんで」

お殿様は、「よい」とだけ答えます。

そして、甚四郎が喜助に問いかけました。

「喜助、遠出、ご苦労であった。それで、どうだ、見つかったか?」

喜助は、水の滴る顔を拭って、答えました。


「あ?へ?あ!へ!へい!今朝、村で聞いて参りました、ほいだら、あの村に、やっぱり、おるんだそうです、甚四郎さま、言い伝えが当たっておりました!みざの村に、みちという娘がおるそうです!」

屋敷の者たちと、お殿様の一行が、どっとどよめきました。

「それでは、行李を携えて、これより参ろう、殿、殿はいかがなさいますか?」

甚四郎がお殿様へ訊くと、お殿様は頷いて、

「せっかくじゃ、わしも行くぞ。爺も来るのじゃ」

と、言います。家老は頷き、素早く侍たちを外に整列させました。

甚四郎は、杢次郎に、蔵から行李を持ってくるように言い、縁側で風呂敷をほどきました。行李には、封がしてあり、綺麗な字で年号が書かれています。

そして、「安永七年 ミザノ村 ミチ」と、おそらくはおばあさんが書いた字で、締めくくられていました。

お殿様も家老も、屋敷の者たちも、初めて見る、受け継がれてきた行李を見て、感心しています。

甚四郎は、杢次郎に行李を背負わせ、言いました。

「それでは、これより、ミザノ村へ参る。喜助と杢次郎は、共に来い」


いよいよですねえ。
ちゃんと、行李が受け渡されるんでしょうかねぇ。


ん?


その時、塀の外でひとりの男が、今までの話の一部始終を全て聞いておりました。

甚四郎やお殿様たちが出発すると、その男はうさぎのように駆けて、どこかへ消えてしまいました。

一体、誰なんでしょう。





ミザノ村へは、甚四郎、杢次郎、喜助、お殿様、爺、そして十数名の侍たちが向かいました。

城下町から、歩いて一刻半という道のりでしたが、みなさんの時代とは違って、この時代の者たちは、みな歩くのに慣れています。というより、歩く他に移動手段はないので、みなさんの時代で言えばおそらく、電車に乗るのと同じ感覚でしょうか、みなずいずいと歩いてゆきます。


「しっかし杢次郎、おめ、お殿様がいるならいるでの、早く言わねば、俺もこころの準備ってやつがあるべな」

「いや、言っただろうがよ最初によ、光の早さで言うたべな、てめが聞かなかっただけでねか」

喜助と杢次郎は、先頭で道案内をしながら、そうやって小突きあって歩いておりまして、甚四郎はその後ろを涼しげな顔で、杖をつき歩いています。いつもは杖などついていないんのですが、距離があるので持ってきたのでしょう。あ、ちなみに甚四郎は40代前半で面長、色白のやせ型、背が高いです。歌舞伎の女形なんかをやらせると、さまになるかもしれません。実際に、城下町を歩いていると、町娘たちが集まってひゃあひゃあ言っているのを、わたくしも何度か目にしたことがありますからね。

さて、爺はお殿様の前で馬に乗り、お殿様はその後ろでゆったりと馬に乗っています。そしてその馬を挟むように、侍たちがぞろぞろと歩いております。

「のぅ、爺よ、こういうのもまた、一興だな」

「と、いうと、思い付きで行動されることが、ですかな?」

「なんだ、まあだ怒っておるのか、しつこいのう、違う、こうやっての、のどかな場所をだな、焦らず急がずのんびりと馬で行くことじゃ」

「たしかに、このような田畑や川や山、心が洗われるようですな、いつも殿に振り回されておる警護の者たちにも、良い休息になりましょうぞ」

「な、え、お、おい、お主ら、そのように思っておるのか?」

お殿様が侍たちに問いかけると、侍たちは気まずそうな顔をしています。

「ほれ、殿がご質問されておられるのだ、誰ぞ、きちんと、正しく、本心で、答えぬか」

そう言って、爺が侍たちの返答を促します。
すると、侍のひとりが、恐る恐る答えました。

「恐れながら、拙者は、なんと申しますか、その日々、新しい心持ちで殿の警護につかせて頂いておりますのが、つまり、その、毎日、何が起こるのか分からぬというのが、武道の稽古、そのもののように思っております」

すると、爺が笑いながら言いました。

「なるほど、なかなか、いいように、言いよったわい」

お殿様は釈然としない顔つきで、

「爺、言葉のまま受けとれ、言葉のまま、どうやったらそのようにへそ曲がりに育つのかの、不思議じゃ」

「わたくしめを育ててくださったのは、先先代の殿にございます。苦情の類いは、先先代へお申し付けくださいませ」

「そういうところじゃっ、わしの祖父はとうの昔に鬼籍に入っとるではないかっ、ったく」

そうやって、お殿様たちご一行も、話しながら歩を進めています。
なんだか遠足みたいですよね。


振り返ると、城がかなり小さく見えていて、一行は涼しげな川沿いを歩いております。さらさらと清い水が、日の光をちらちらと反射する気持ちの良い小川です。

お殿様がその小川を気持ち良さそうに眺めていると、小川のほとりに、ひとりのこどもを見つけました。川原でなにやら熱心に捏ねています。

「爺、あれは、何をしておるんかの?」

「どうでしょうかな、見たところ、泥団子で遊んでおるようでございますが」

先頭の杢次郎も、そのこどもに気づきました。そしてその子のまわりに大人がいないことを不審に思い、声をかけました。

「おーい、おめ、ひとりでなにやっとるだ?」

こどもは、杢次郎の声が聞こえないようで、熱心に泥団子を練っております。杢次郎は、こどもに近づき、しゃがみこんで話しかけました。

「おめ、なにやっとるだ?こんなとこで、ひとりでよ」

こどもは、はっと気づき、顔を上げて言いました。
6才ぐらいの娘です。

「ほわっ、びっくりするでねか、これけ?あのの、この団子さこしらえての、魚にの食べさせての、魚ばの、捕まえて持って帰ろかのち思ての」

一行も、川に降りてきて、ふたりの会話の成り行きを見守っています。

「その泥団子をば、魚に食わせるんかの?」
喜助がそばに来て、杢次郎のとなりにしゃがみ、娘に話しかけました。

「そじゃそじゃ、腹いっぺえにの、食うてもろてからの、あとは捕まえるがじゃ」

娘はそう言っていますが、大人たちは娘の言っておる意味がよくわかりません。だいたい、こどもが言うことって意味が通らないことがほとんどですよね。泥団子を食べさせて魚を捕まえるなんて。

甚四郎や、お殿様や爺は、川の様子を観察したりしています。
というのも、小川をせき止めるように、石がならべられていたからです。どうやら、こどものただの意味の通らない言葉ではなくて、なにか、仕掛けがあるようですね。

「よし、でけたどでけたど、今からの、団子を食わせるでの、けんどもな、魚とれてもな、お侍さんたちにはあげんでの」

娘には、この一行が侍の集団だと見えているようです。そう見えても仕方ありませんね、半数以上が刀を持って歩いていますから。

そうして娘は少し歩いて川の上流へ行き、作った泥団子をすべて川にどぶんどぶんっどぶん、と投げ入れ、そしてせき止めてあるところへ駆け戻ってきました。

上流からは、ゆっくりと濁った水が流れてきます。

お殿様も爺も、興味深そうになりゆきを見つめております。トンビが鳴いて、風が吹き、小川のせせらぎがちろちろと音をたてています。とても静かで、のどかです。川を見つめる娘の、藁で結んだ髪の毛が、日を浴び稲穂色に輝いています。


甚四郎も、娘と同じように川の流れを見ておりましたが、
突然、「ほお、なるほど」と小さく声をあげました。

せき止められている石積みのあたりに、ぴくぴくと痙攣している魚が、何びきも浮かび上がってきました。娘は川にざぶざぶ入って行き、浮いた魚を握り、つぎつぎに川原へと投げています。杢次郎と喜助は、目の前に魚を何びきも投げられて、ひゃっとか、おうっとかって言って驚いています。

「やっぱりじゃやっぱりじゃ!思ったとおりじゃ!」

娘はひとり、きゃっきゃと喜んでおります。

「なんじゃおめぇ、魚に妖術でもかけとるんかの、狐が化けとるでねか?なにをしたんじゃ、薄気味わりいぃのぅ、なんじゃ、のう、のう、甚四郎さま、なんじゃねこりゃあ」

そう喜助が尋ねると、甚四郎がひざまずき、泥を捏ねていた場所に落ちている枝をつまみ上げて言いました。

「なるほどな、あめ流し、だな」

すると、お殿様が馬を降り、甚四郎に近づいてきて訊きました。

「ほう、なんじゃ、そのあめ流しというのは」

「はいっ、これは、山椒の木にございます、山椒の実には魚を痺れさせる効能がございます。食べると、口のなかがひりりとする、あの味が魚を痺れさせるのです。古来より、漁の際に山椒の実を焼いて袋に入れ、川の水に溶かし、魚を捕る漁があるのでございます。この娘は、それをどこかで見て、真似をしておるのだろうと思います」

お殿様や爺や、喜助、杢次郎が、ふむふむと頷き、なるほどと、感心をしていると、魚を掴んだ娘が反論しました。

「ちげぞちげぞ、真似ごとなんどしてねぞ、わっちが考えたがじゃ、一昨日にの、腹が減ったでの、蜜柑みてえな匂いがするで、山に生っとる山椒食べたらの、口のなかがひりひりぴりりしての、しびれたけんの、魚はいっつも口あけとるで、ひりひりさせたら痺れての、ほいだら捕れるかと思っての、今日、やってみたがじゃ、真似でねぞ!」

そう言いながら娘は、魚のエラに藁を通し、10匹ほどの鮎と同じく10匹ほどの小さなキュウリほどのドジョウを束ねています。

杢次郎が娘に訊きました。

「おめみてえな娘っこが、そげなこと思いつけるわけねえだろが、嘘はいけねぞ、俺だで初めて知ったどそんだらこと」

すると、娘は地団駄を踏んで言いました。

「嘘でねぇ!嘘でねぇ!今朝思い付いたがじゃ!嘘つきよばわりするでねぞ!」

するとその娘を援護するかのように、喜助がひとりごとのように言いました。

「嘘でねぇかもなぁ、おいは、ずうっとミザノ村の年貢の担当だけんどもな、この村でそんな漁しとるのは、見たことねえけの、たしかにこの娘っこの言う通りかもなぁ、こん子は自分で思い付いたんかも知んねえなあ」

娘が喜助の言葉にすんすんとうなずいていると、お殿様が、面白がって娘に尋ねました。

「おい、お前は百姓の子か?」

「ほうだ」

「面白い子じゃ、名はなんという」

「名を訊くんだば、名乗るが礼儀と、おらがおっかあが言うとったぞっ」

その言葉に、爺や警護の侍たちが反応しました。百姓の娘が、お殿様と話すのも無礼であるのに、お殿様に無礼なことを言ったからです。それを察したお殿様は、彼らを制し小声で言いました。

「よい、やめぬか、こどもじゃ」

そしてお殿様は、ゆっくりと自分の名前を言いました。

「お前のおっかあは、礼節をしっかりとわきまえておるのだな、よい母じゃ。わしの名は、忠政(ただまさ)と云う、して、お主の名はなんじゃ」

「ただまさ様か、お殿様みてえな名前じゃの、わっちの名はの」

娘が名前を言おうとすると、

「庄屋さまっ!お待ちしておりましたっ!庄屋さまあ!」

とおくで年寄りが声をあげて、走り寄ってきます。
それに喜助が返しました。

「お!むらおさか!ちょっと待て!俺がそっちにいくでの!話があるでの!」

喜助はむらおさの方へ走って行き、こちらの一行の方を指差しながら、なにごとかを伝えています。恐らく、お殿様が同行していることを伝えているのでしょうね。さっきは自分がびっくりしましたからね。

すると、案の定むらおさは、両手を体の前で振り、むりですむりですむりですむりです、と言ってしゃがみこんでしまいました。膝の力が入らなくなっているようです。お殿様を見るのはそれぐらい珍しいことなのですね。みなさんの時代で言えば、新入社員が入社式で一発芸を突然披露してくれって言われたぐらいの緊張感かもしれませんね。

お殿様が笑い、ふと娘の方を見ました。

けれども、娘も鮎もドジョウも、どこにもいませんでした。お殿様は首をかしげました。

すると、喜助が戻って来て言いました。

「ミザノ村の長の年寄りです。これより、みちという娘の家に案内してくれるようです」

一行は、また歩き始めました。


緊張してふらふらと歩くむらおさの先導の後、一行は「みち」という娘が住むという百姓の家の前にたどり着きました。
甚四郎が喜助に合図を送り、喜助は家の前で大声を出しました。

「庄屋じゃ、庄屋の喜助じゃ、誰ぞおるか」

すると、中から、土色の、つぎはぎだらけの着物を着た女が出てきました。

「しょ庄屋さま、これはど、ども」

女が頭を下げます。
そして喜助が続けて訊きます。

「この家に、みちという娘がおると聴いておる。みちはおるか。」




女は、俯いて、しばらく黙ってから、答えました。




「みちは、もう、死んだがです」






喜助は、母親の言った事が理解できないようで、場違いな口調で母親に質問をしました。

「なななんじゃ?なんち言うたんじゃおめ」

すると母親はもう一度、はっきりと言います。

「みちは、もう、おりまっせん。死んでもうたがです」

次は、全員が聞き取れました。
一行は、静かに母親をみています。
はだし、ぼろぼろのつぎはぎの粗末な着物、髪はぼさぼさ、手足も顔も日焼けして真っ黒、その両手を握り、震え、みちは死んだ、と言うのです。

むらおさが、慌てて聞き直しました。

「待て待て!のう!5日ほど前はおったではないか!死んだらなんだことは聴いとらんぞ!葬式もしとらんでねか!なんじゃなにがあっただか!」

「おとと、おととい、水路に転げ落ちて、溺れて死んだがです!だからおりまっせん!みちはおりまっせん!溺れて死んだがです!おらんのですけん!」


一行は、唖然としています。
100年前の言い伝え通り「みち」という娘がいたかと思ったら、つい数日前に死んだというのですから。


奥では、10才ぐらいの男の子がふたり、こちらの様子を伺っています。母親と同じくらい、汚れた着物を着ています。

「そういうことですけ、もうしわけねえです、あの、年貢はなんとかしますけ、そういうことですけ」

そう言って母親は家に入ってしまいました。

喜助が、「お、おい、ちょ、ま、待て」と母親を引き留めようとすると、家の影から男が出てきました。これまた灰色の粗末な着物を着て、泥色の手拭いを頭に巻いています。どうやら、父親のようです。

「ちゅうことですけん、みちはおりませんけん、そのすんまっせん、ご堪忍くだっさい」

一行の誰とも目を合わせようとせず、頭を下げています。

誰ひとりとして、なんと声を出してよいのかわかりませんでしたが、甚四郎が進み出ます。


「大庄屋の、甚四郎と申す。お悔やみ申し上げる。縁あって、そなたの娘には、かねてより会いたいと思っておったが、亡くなったのは、残念だ。せめて、みちの墓前で手を合わせてもよいだろうか」



「取り込み中すまねぇけんどもな、みちっちゅう娘を探しゆうがは、この皆さんかね?」

一行の背後に、髭を生やした男がたっています。着物の感じからすると、百姓のようです。その男のとなりには、べそをかいている娘がひとりいました。

「そうじゃけんども、おめさんはだれじゃね」
すぐそばにいた杢次郎が訊くと、むらおさが答えました。

「あ、へい、こいつは、村で百姓をしておる者ですが、…おい、なんじゃ、いま取り込み中じゃ」

「あ、いや、その、うちにも、みちっちゅう娘がおるもんで、連れてきたがじゃけんども」

一同がどよめきます。
そして、むらおさが男に訊きました。

「いや、おっかしいどそりゃおめ、おめえんとこに娘はひとりもおらなんだじゃねか?息子が3人しかおらなんだでねか、誰じゃそん娘は?」

男は何度かうなずいてから、むらおさの質問に答えました。

「離れた村に住んどる姉さんが、病で倒れての、重い病での、娘っこ育てられねて言われての、さっき、使いの者がの、連れてきたがじゃ、育ててくれち、おらんとこの娘として育ててくれち」

そしたら、杢次郎が大声で言いました。

「甚四郎さま!ほいだらこの子でしょう!やった!見つかった!やった!」

そんな杢次郎を、甚四郎は睨み付けます。不謹慎だぞ、と諌めているのです。杢次郎は、はっと気づき、先程のうつむいたままの父親を一瞥し、「すまね」と言って肩を落としました。

甚四郎は、「みち」のふたりの父親が着ている着物と、むらおさが着ている着物を見比べて、不審な顔をしました。むらおさとは言え、あまりにも上等な着物を着ていたからです。

「みちという娘を引き取った者、すこし待っておいてはくれぬか。ちとこの者と話があるのだ」

泣いている娘を連れてやってきた男に、甚四郎はそう言うと、娘を連れた男はすこし離れたところに行き、道端に座りました。そして甚四郎は、みちの父親に話しかけます。

「すまぬが、別の件でおぬしに聞きたいことがある、よいか?」

男は頷きました。

「さきほど、お主の妻が、年貢はどうにかする、と言うておったが、お主の家は、年貢が滞っておるのか?」

「へい、なんとかしますで、どうか、子供らだけは、どうか」

甚四郎は首をかしげました。
そしてむらおさの方へ向き直ります。

「むらおさ…この家には、年貢はどれぐらい徴収しておるのだ」

むらおさは小声でごにょごにょと答えますが、誰にも聞きとれません。

「なんと申した」

甚四郎が語気を強めて再度聞き直します。

「…さ、3石でございます」

1石は150キロのお米でしたね。
田んぼの土にもよりますが、1反という広さの田から、だいたい1石が獲れます。

甚四郎が、むらおさから向き直って、みちの父親に訊きました。

「お主の田畑は、何反ある」

父親が答えます。

「4反でごぜえます」

父親のその言葉に、喜助が声をあげました。

「はぁっ!?4反で3石?!そんだらこの家族の食う米がねえでねか!年貢は獲れ高の半分だ、4反なら2石だべ!なんで3石じゃ!計算が間違っとる!」

それに対し、父親が応えました。

「え?でも、庄屋さまが、年貢ば増やせと、そう申していると、そう、むらおさが、」

一行が、ゆっくりと、むらおさの方を向きました。

当のむらおさは、紫色の顔で、脂汗をたらりたらりと流しています。甚四郎がむらおさの方へ歩み寄り、むらおさを見下ろして問いました。

「むらおさ、過剰に取り上げた分の米は、どこに消える?ネズミが喰うには多すぎる米であろ。何に消える?その着物か?」

喜助が我慢できずに、むらおさにつかみかかり、問いただします。

「むらおさ、まさか!おめ、!村のもんから多めに米をとりあげて、くすねとっただか?わっちんがた庄屋のせいにして、村のもんからくすねとっただか?言うてみろ!」

むらおさは喜助に揺さぶられていますが、体の力が抜けてしまって呆然としています。しかし、容赦なく追い討ちをかけるように、甚四郎が言いました。

「こたえよ」

すると、むらおさはちからなく、へらへらと笑いながら返事をしました。

「百姓はなにやっても百姓のままだ、いつまんでも暮らしは楽になんねえ、おらは悪くねえ、むらおさだで、すこしはいい思いしてもええでねか」

「そうか、お前にとっては、それは同じ村の者たちを騙し、苦しい暮らしをさせるに足る理由になるのか」

甚四郎がそう言い放つのと同時に、みちの父親がむらおさに掴みかかり、獣のような声をあげて叫んでいます。慌てて喜助と杢次郎ふたりがかりで父親を引き離し、甚四郎は喜助に言いました。

「喜助、これは、喜助、お前の責任でもある。そしてもちろん私の責任でもある。庄屋としてこれは見過ごせぬ話じゃ。むらおさが不当に年貢として集め、懐に入れた金を、むらおさの家に行き、調べあげて来い。むらおさの家財道具は城下で金に換え、百姓たちに返す。ちょうど殿、ご家老たちもおられる、その後の処分はお沙汰が出されるであろう、むらおさ、覚悟しておけ」

喜助は悔し涙を流しております。むらおさを信じておったようです。

「おお、それならば、うちの者たちも調査に当たらせよう、そこの者3人、その喜助に同行し、むらおさの取り調べを手伝え」

爺が、侍たちに指示を出し、侍たちがむらおさを捕らえ、取り調べのため、家へと連行しました。





甚四郎は、無念そうな顔をしながら、みちの父親に頭を下げました。

「このようなことが起こっておろうとは、誠に申し訳なかった。庄屋でありながら、ただしくお主らとやりとりをせず、むらおさを信頼し、このような出来事を招いてしまった。必ずむらおさには、お主らから騙しとった米の分を支払わせる故、どうか許してくれ」

父親は、庄屋に頭を下げられて、どうしていいか分からないといった風でしたが、やがて口を開きました。

「それじゃあ、おらの家は、年貢は充分納めてきただな?足りなくねえだな?ほいだら、足りねえ年貢のカタに、娘は持ってかねえだな?」

「…なんの話だ?庄屋は人買いではないぞ」

「庄屋さまたちが来るめえに、知らねえ男が来て、こう言うたがじゃ、

“庄屋が、年貢のカタにお前の家の娘を連れ去りに来る、死んだということにしないと連れて行かれる”

ち、そう言うたがじゃ」

「男が?待て、死んだということにしないと…というと、娘は死んではおらぬのか?」

「そだ、連れてかれるち思って、遠くに隠しとる」

杢次郎が、甚四郎に近づいてきます。

「甚四郎さま、よかったでねえすか、みちという娘が生きとるちゃ、この行李を渡せるでねえすか」

けれども、甚四郎は釈然としない顔です。

「そうだな、だが、あっちの みち はどうする?」

甚四郎は、離れたところで成り行きを見守っている男と、まだ泣いている、その男の姪のみちを指差しました。

「あ、と、いうことは…」

「みちが、ふたりおる、ということじゃ」

甚四郎は苦い顔で、顎をゆっくりと撫でています。

「なにやら面白くなってきたではないか!のう!甚四郎!」

と、お殿様が言い、甚四郎は苦笑いをしました。






「甚四郎様、あれでねえすかの」

杢次郎が遠くの田んぼのあぜ道を指さしました。甚四郎は日差しを手のひらで遮り、杢次郎の指差す方を、目を細め、眺めます。
兄ふたりに連れられて、幼いみちが、こちらへ歩いてきます。





しばらく前、甚四郎は、みちの父親に言いました。



「わしらは、みちを連れ去りに来たのではない。この行李を、みちという娘に渡すために参ったのじゃ」

「行李を?なんでですかの、娘が、庄屋さんをどっかで助けただかの?」

「いや、そうではない、それに、まだもうひとり、みちを名乗る娘がおる。どちらに渡すのかは、まだ決まっておらぬ。どちらにせよ、話すと長い話になる、そこの息子たちに、みちを連れてくるように言ってはもらえぬか、その間に、この行李の話をしよう」


父親は息子たちに妹を探しに行かせました。


それから甚四郎は、みちの父親と、“みち”のおじの男に、行李の長い長い話を話して聴かせました。とうぜんのように、ふたりの男はあっけにとられた顔をしていました。


そうしてしばらくたって、やっとみちが現れたのです。


畦道に、兄たちと両手をつないだみちが、歩いてきます。やがて家にたどり着くと、みちは元気な声で、ただいま、と言い、腰に藁で束ねて携えているたくさんの鮎やドジョウを母親に差し出しました。母親は娘の頭を撫で、魚を受け取ってからとてもほっとしたように言いました。

「おかえんなさい、みち」

みちは、稲穂色の薄い色の髪を藁で束ね、小豆色の着物を紐で結んでいます。いつも百姓の手伝いをしているのか、はたまたいつも泥にまみれて遊んでいるのか、どちらかはわかりませんが、顔は薄っすらと土に汚れています。


杢次郎がみちを見て言いました。

「驚いたの、みちちゃあ、この子じゃったんかの」

顎肘をついていたお殿様も、おおっ!と声をあげてから言いました。

「さっきの魚とりの娘ではないか、ますます面白くなってきおったの」

自分の家に集まっている大人たちが、さっきの一行であると気づいたみちも、驚いて言いました。

「さっきのお侍さまの御一行でねえか、こりゃこげなとこで、なにしちょんのけ?」

「まあな、わしらは、すこし用があっての、それよりお主、なぜさっきは突然いなくなったのだ」

お殿様が、みちに気さくに話しかけます。
するとみちはこたえました。

「おっとおと、おっかあがの、悪りい庄屋たちと、むらおさが、みちをさらいにくるけん、遠くに行って隠れとけち言われての、そしたらあん時、とっつぜんむらおさが来よったけの、慌てて隠れたんじゃ」

みちの父親が、とてつもなく気まずそうにしています。見知らぬ男に騙されたとは言え、庄屋たちのことを娘が悪く言っているのです。

甚四郎はそれには構わず、この家の縁側に行李を置きました。縁側と言っても、古びた板で出来た家なので、みなさんが想像するよりもたくさん隙間や虫食いがあります。

甚四郎は、その縁側に、ふたりのみちを座らせ、ゆっくりと話し始めました。


「およそ100年前、わが庄屋の屋敷に、ひとりの老婆がやって来てこう言うた。

安永七年、みざの村に居る みち という娘にこの行李を渡してくれ、と。

その日から、我ら庄屋は代々この行李を受け継ぎ、本日まで守り抜いた。

そして今日、みざの村のみち という娘のそばにその行李がある。

ただし、ここにはふたりのみちがおる。
どちらかひとりがこの行李を受け取るべき娘である。

この行李の封の裏には、みちを見分けるためのたったひとつの問が記されている。この質問にどちらかが正しい答えを言えば、この行李はそのみちのものとなる。これから質問をする、よいか」


お殿様はおろか、杢次郎も、質問が書き記されているなんていうことは初耳です。みな、固唾を飲んでそ甚四郎と、ふたりのみちを見守っています。

さっきまで泣いてばかりいたみちは、いまはすこし落ち着いていて、無言で頷きます。
川にいたみちは、「ええどええど」と、わくわくして身を乗り出しています。

「お主らの母が、お主らが眠れぬ夜に、歌ってくれる歌があろう。それを歌ってみせよ」

一同がすこしどよめきました。そして黙ってふたりのみちを見守っています。誰も喋らず、誰も動きません。







すると、片方のみちが、歌い始めました。




はらぺこ子狸 山ば駆け
松の木登って 雲ぞ乗り
月の兎に 言うたげな

はらへっちょるけ
餅食いてえと
ひいとつふうたつ
みつよっつ
いーつつむーっつ
ななやっつ
ここのつとおの
餅食いて

月の子兎 餅ついて
ついとる途中に子狸に
はらぺこたぬきに言うたげな

餅食う狸は餅つきに
拍子をつけてくだしやんせ

ぴょんぽこぺったん
ぽこぺったん
ぺったんぴょんぺた
ぽこぺったん

ぺったんぽんぴょこ
ぺったんぴょん
ぺたぺたぽたぽん
ぽたぴょんぽん

子兎子狸餅食って
ぷんぽこお腹で転がって
おっ月様枕にねんころり














「のう、なんぞな、その歌は?」

東京の、みちの家。
落ち着いた照明のベッドルームの床に、高級そうな布団を敷きながら、みちが歌っています。ふかふかのベッドで横になっているおばあさんが、みちに訊いたのです。

みちはこたえます。

「え?おばあさん知らない?寝る時の歌」

「聞いたことねえぞな」

「え、そうなんだ…みんな知ってると思ってた。わたしさ、小さい時、お腹が空いてたんだよね、いっつも。特に夜は、とっても。だからさ、いつも眠れなかったの。その時にね、おっかあが歌ってくれたんだよね、

はらぺこ子狸山ば駆け
松の木登って雲ぞ乗り
月の兎に言うたげな

って。」








甚四郎は、行李の封の裏側に書いてある文章と、みちが歌う歌を比べました。おばあさんの記憶の中の歌なので、行李の封には、おおざっぱにこのように書かれていました。庄屋の甚八が代筆したようです。


みちにこと問いし
眠れぬ夜の母君の子守唄は何ぞ




こだぬきが腹減って
つきの兎にお願いばして
餅を二人でついて
たらふく食うて
眠る歌

この様子だと、どうやら、さっきの歌で間違いないようですね。ということは、歌った方の“みち”が、東京でおばあさんを助けたみち、ということになりますね。



甚四郎は、歌った方のみちを、まじまじと見つめます。

稲穂色の髪、小豆色の着物。
小川にいた、みちです。

この歌は、この時代の甚四郎たちも聞いたことがありません。おそらく、腹の減った娘に、みちの母親がその場で歌ってくれた歌なのでしょう。他の者が知れるはずもありません。


歌った方のみちの頭を、甚四郎は撫でました。

「よくぞ、今日まで元気に生きておいてくれたの、礼を言うぞ。この行李は、お主のものじゃ」

みちは、不思議な物を見るように、行李を見つめ、受け取りました。





杢次郎が、もうひとりのみちと、そのおじに話しかけます。

「はるばる来てもろうたのに、すまんかったの、おめさんも、ありがとの、連れてきてくれての」

連れてきた男は、はあ、と力ない返事をしました。そして杢次郎は、おじと名乗る男に問いかけます。

「ところでの、この娘は、隣村から来たというておったが、どっちの隣村から来たんかの?」

男は、少し間をあけてから、答えました。

「東でげす」

「東か、東でもたくさんあるろ」

「…み…みずさき村でごぜます」

「ほぅ、そうか、みずさきか、外れたの」

甚四郎が、杢次郎に訊きます。

「なんじゃ、何が外れたのじゃ」

「あ、いえ、こっちのみちっちゅう娘の、足見ると、みずさき村じゃねえと思うがです」

「お前は足を見て出身地がわかるのか、今日から庄屋を辞めて、牛飼いにでもなった方がいいんじゃねえのか」

「いや、ちょっと!辞めませんよ!ちげますちげます!ちげえますよ、この子のの、足についてるねずみ色の泥です、これ、粘土じゃけ、ここら一帯は赤土が多いけ、この色の粘土は出らんのじゃけんど、なんぞ、おかしいの、思いましての」

「ねずみ色の粘土は、ここいらじゃ珍しいのか」

「へい、ここいらは、赤土ですけんの、ほいでの、あっしの担当の村でね、陶工のおる、しまよし村がおるがじゃけんども、そこの子供らは、おんなじようにねずみ色の粘土がの、着物や手足についとるがです、この子はその村の子じゃと思ったがじゃけんどもの」

杢次郎のその言葉を聞いて、甚四郎はもう一度、男に聞き直しました。

「と、うちの者が申しておるが、この娘は、本当にみずさき村の娘か?」

すると、男は、俯いて、何もしゃべらなくなってしまいました。

甚四郎は、諦めて、黙ったままの“みずさき村から来たというみち”に話しかけました。

「お主、母親の名はなんというのだ?」

男が娘が答えるのを止めようとしましたが、杢次郎が間に入り、それを制止しました。そして、娘が答えました。

「知らね、見たことねえ」

「そうか、わかった」

甚四郎は、男に向き直り、

「と、娘は申しておるが、何か申し開きはあるか」

というと、男は震えながら答えます。

「お男に、いいい言われたがです、むすむすこを預かったから、この娘をみちと呼び、あの人が集まっておる家に行けと、そそそしたら息子を返すと、そそそそそう言われたがです」


そう男が言うと、家の裏手から悲鳴が聞こえました。


みちの母の声のようです。
皆が一斉にそちらをみると、みちの兄のひとりが、男に捕まり、短刀をこめかみに当てられています。

「使えねのぅ、ここの両親も、そっこの男も、わっしがお願げえしとること、ひっとつもしっかりしてくんねだからの、使えねのぅ」

声は短刀の男ではなく、声が聞こえるのは、屋根の上です。
屋根の上に、男が立っています。

「だだだだれじゃおめらは!!こどもに何しゆうがじゃ!」
杢次郎が怒鳴り付け、
「何がしたいがじゃ!こっちはお侍さまもおるがぞ!逃げ切れぬぞ!」
そう言ってふたりの男を牽制します。

「みいんなの、黙って騙されて、その行李をそっちの娘に渡せばええのんに、なあんでこないなめんどくさいことするんかのう、お侍さんたちは、逃がしたろ思うたけんども、もうあれじゃ、全員あれじゃ、身ぐるみ剥がして、あとは、終わりじゃ」

すると、爺が、野太い声で言い放ちました。

「今すぐその百姓の子を放せ、さもなくばこの場で打ち首にしてくれようぞ、ふたりで乗り込んだのが運の尽きじゃ、もののふをなめ腐った物言い、後悔させてくれようぞ」

すると、屋根の上の男がすかさず返事をします。

「もののふも、対したこうとねえのう、周りが見えねぇんかのう、わしらがふたりに見えるんかのう」

一行が辺りを見渡すと、たくさんの賊が、家を囲んでいました。
甚四郎一行の数は、全員で、15名ほどですが、賊たちは40名ほどいます。

屋根の上の男が、にやりと笑いました。
みちは、行李を抱きしめ不安な面持ちで、縁の下に隠れています。



たくさんの男たちに、家を囲まれ、男のひとりが、刀の切っ先をみちの兄にあてていて、母親は、自分の口を押さえ、声にならない叫び声をあげていています。しかし、男たちを刺激してもいけないので、みちの父親は母親を必死でなだめています。

屋根の上の男に向かって、甚四郎が訊きました。

「行李のことは代々秘匿にしておった。お主はどこで行李のことを耳にしたのだ」

男は、焦げ茶の着物を来ており、髷などは結っていません。長い髪を、後ろで束ね、ぼろ布を巻き付けた古い刀をひと振携えています。どうやら頭領のようですね。

「酒屋での、庄屋のもんと、何やら金持ちそうなじじいが話しているのを耳にしたのよ。100年もの間受け継いだものなら、金になるもんが入ってるだろうと思ってよ。そのあと庄屋をつけてって、家に盗みに入ろうかと思ったらよ、これからみざの村のみちという娘に届けにいくっていうじゃねえかよ、それで、本物の娘を隠させて、偽物をたて、穏便に行李を手に入れようと思ったわけよ」

杢次郎が悔しそうな顔をして、甚四郎に、「申し訳ねえです、おら、なんてことしてもうただろうか」と言いました。それに、爺が反応します。

「いや、杢次郎、わしがお主から話を根掘り葉掘り聞き出したのが、そもそも、この出来事を招いたのだ、これはわしの失態である」

屋根の上の頭領が大声で笑います。

「あ、どっかで見たことあるかと思ったら、あのときの金持ちじいさんじゃねえか、あのよ、失態だのなんだの、気にせんでもいいぞ、お前らの刀も着物も、ぜえんぶ俺らが女を買う金に換えて楽しんでやるから、気に病むなよ、な?子供らも、そこの女も殺さねえよ、ちゃんと人買いに出して、金に換えて、その金もまた俺らが責任もって使ってやるからよ、だからよ、安心しろよ、お前らはちゃあんと殺してやる、から、よっ」


そう言って頭領は、屋根から飛び降りながら刀を抜き、甚四郎の頭めがけて斬りかかります。

「甚四郎ぅっ!!」

お殿様が、とっさに声をあげました。





ぎづがちぃっぃっん!!!!!!!




という大きな音がして、甚四郎の足が二度三度ふらつき、やがてぴたりと止まりました。


大空でとんびが鳴き、風が里を吹き抜け、地面の黄色の花を揺らしています。






「お主は、人の住む屋根から勝手に飛び降り、刀を抜いて人に斬りかかってはならぬと、親には教えてもらえなんだか?」

と、甚四郎が言いました。

見ると、甚四郎は自分の杖で男の刀を受けています。
いいえ、杖じゃないですね、よく見ると、さっきまで杖だったものが、刀に変わっています。どうやら甚四郎が持っていたのは、杖の中に刀を仕込んだ、仕込み杖だったようです。

「ほう、仕込み杖か、ただの庄屋じゃねえようだな。あ、ご質問にお答えしやす、あいにく、俺は親兄弟なんぞ、見たこともねえもんでね、そんなことは一切、興味は、ございませんっ」

頭領は甚四郎を鍔元で押し戻しながら、後ろへ飛びずさりました。




「おおっ!見事じゃ!甚四郎!」

お殿様が、わくわくした顔で甚四郎を誉めます。

「恐縮にございます、殿」

と、甚四郎が刀を構えたまま、すこしだけ頭を下げました。

すると、

「はいはい、そんな茶番はいいんでね、ちょ、一旦みなさん考えましょうや、ほら、子供が殺されそうになっておりますが、こういう時って、みなさまどうされます?百姓の子供だから見殺しにされますか?どうするんすか、みなさん、え?どうすんの?刀捨てろや、ほら、聞こえてねえのかよ、刀捨てろ」

みちの兄は、10才ぐらいでしょうか、首を小刻みに振りながら、泣いています。お殿様一行は、皆で顔を見合わせながら、どうしたものか考えています。




甚四郎は、そばにいる杢次郎に小声で問いかけます。

「杢次郎、こうなったのは、お主の日頃の行いだということはわかっておるか?いつも申しておったようなことが、やって来てしまった。」

「……申し訳ねえです」

「そう思うのならば、お前の全力で、命をかけて、あの家族を助けよ」

「え、というと、その、いいんですかいの?その、使っても」

「今使わんでいつ使うんじゃ、あの子供を人質にとっておる男の、刀の握り手の小指と薬指は狙えるか」

「あ、へいっ、そりゃ、もちろんでごぜえます」

「それじゃ、わしの、 “受けとれ” という言葉を合図に、当てよ、よいか」

「へい、“受けとれ”ですな、へい、必ず、当ててみせやす」

そして、杢次郎は、そのまま地面に座り込みました。

甚四郎は、深呼吸をして、爺へ視線を送ります。
爺も、甚四郎を見ました。
甚四郎の肩の力は抜け、まるでこれから風呂に入りにいくような落ち着いた姿勢になっています。爺はそれを見て、なにか甚四郎がやろうとしていることに気がつきました。爺は甚四郎に対して、ゆっくり頷きました。

甚四郎は笑顔で、賊の頭領に向かって言いました。

「わかった、金が目当てなのだな、お互いに怪我をするのは良くない、そして、殺生もよくない、だからこういうのはどうだ、有り金をすべて渡す、そして、お主らの行く末は追わぬ、どうだ、これはなかなかによい話ではないか?」

甚四郎は手に持った刀を捨て、丸腰で一歩一歩、頭領へ近づいて行きます。

「おい、庄屋、頭が悪いのう、別に交渉せずとも、数で我らが勝っとるんだぞ?なんでお前らと交渉せねばならん、お前らは地面に這いつくばって、命乞いすりゃいいんだ、そして、殺される、それだけだぞ?」

頭領は笑いながら言います。
甚四郎は、それが聞こえないかのように、懐から財布を取りだし、中から小判を10枚取りだしました。

「まあまあ待て、殺せばそれで終わりだが、わしを人質にとって、庄屋に金を要求すれば、身代金がとれる。ここの者たちを皆殺しにして刀や着物や子供を売っても、たかが知れているだろ。ほれ、見てみよ、この小判一枚で、いい夢がみれるぞ?いまここに10枚じゃ、考えてみよ、何百両という身代金が手に入るぞ?よい話ではないか?これはその一部じゃ、
さあ、受けとれっ!」

そう言って甚四郎は小判を10枚、頭領の顔めがけて投げつけました。


10枚の小判が螺旋状に広がりながら、頭領の顔へと、ゆっくりと飛んでいきます。

頭領は刀を顔の前に持っていき、小判を鍔と自分の手の甲で受けようと防御の姿勢をとりました。


甚四郎の投げた小判が螺旋状に頭領へと、ゆっくりと近づいてゆきます。
すると、ゆっくりと飛んでゆくその小判を、白いものが三つ、しゅしゅしゅんっと素早いつばめのように追い抜いてゆきました。

その白い物は、子供を人質にして、刀を突きつけている男の薬指と小指に当たります。

そして、

ぶちゅびちんっ 

と、骨と爪と、肉を砕く音を鳴らしました。
男は突然、刀を握れなくなり、痛みに声をあげ、指を慌てて見ます。誰にもなにもされていないのに、薬指と小指の先がつぶれています。ひやあっと小さく悲鳴をあげました。

頭領は後ずさりながら、仲間の指が潰れているのを横目で見て、少しだけ焦った表情を見せました。


離れた場所の爺が大きく振りかぶり、甚四郎へ向けてなにかを投げつけました。

「庄屋ぁああっ!」

甚四郎は、投げられたものを一瞥しながら、頭領の方へ駆け出します。

そしてまるでバトンを受けとるときのように、後ろ手にそれを受け取り、そのまま大きく振りかぶって、小判で視界が遮られている頭領と、指を潰された男に向けて、受け取ったものを横なぎに振りかぶっています。

まるで、野球のバッティングのフォームみたいです。
もしこの時代に、野球中継の司会とコメンテーターみたいな人たちが居て、この光景を見ていたら、こんな風に言うかもしれません。



司会 甚四郎、かなり大振りに振りかぶりましたね

コメ そうですね、これは、頭領と、指を怪我した男、ふたり同時にダメージを与えようとしている、そういう風に見受けられますね

司会 しかし、この男の指、びっくりしましたね、突然でしたからね、ちょっとスローで見てみましょうか、はい、スローで見ると、小判の横を白いものがみっつ、飛んで行くのが見えます、巻き戻しまして、全体の映像を見ましょうか、はい、こちらが全体の映像です。

お殿様、爺が馬に乗り、その回りを十人の侍が囲んでいますね、そこから少し離れて、甚四郎が頭領に小判を投げつけています、そして、頭領の少し後ろに子供を人質にとる男が見えます。

はい、全体の映像、はいっ、ここで止めましょうか、だれか一人、動いていますが、あ、これは、杢次郎ですね、杢次郎が、ほんの一瞬、体をねじっています。一瞬ですね、それでは、スローではなく、コマ送りで見てみましょう、杢次郎が体を捻り、この次のコマには、白い小さな粒がみっつ、甚四郎のそばを通り抜けているのが見えます、すごい早さです、この白いものは、杢次郎がなにかを投げつけたものなんでしょうか、どうなんでしょうか

コメ そうですね、たぶんですけどね、これは、石じゃないかなぁと、思うんです。あのね、古代から石器とか石斧とかあるようにね、石と人類は切っても切れない間柄なんですよ、戦国時代の戦もですね、まずは石の投げ合いから始まるんです。石ってどこにも転がってるし、当たれば致命傷にもなりますからね、鉄砲使うよりも、矢を使うよりも安上がりでしょ、だからね、石を専門の武器にするって人間もね、昔からたくさんいたんですよ、まあでも、庄屋の使いの杢次郎が、なんでそんな技術をもっているのかはわかりませんけどもね

司会 いやぁ、やはり、杢次郎だったのですね、ものすごい瞬発力ですね、杢次郎。さて、それでは、甚四郎の映像へ戻ります。甚四郎が爺からなにか受け取ってますね、甚四郎が持っているもの、黒い棒のようなものですが、これは一体なんなんですかね?

コメ あ、はい、これはね、恐らく、家老の黒漆の刀でしょうね、鍔も、鞘もかなり凝っていて、高級品なのがわかります。鞘から抜く暇がないので、鞘ごとふりかぶっていますね。

司会 え?!刀を投げてくれなんてやり取り、いつしてました?

コメ いや、してないでしょうね。

司会 じゃあ、どうして刀を投げて、受けとる、なんてことが練習もなくできたんでしょうか。

コメ まあ、こういう状況ですから、それぞれが臨機応変ですよね、甚四郎も仕込み杖を持って頭領の太刀を受けるぐらいですから、腕のたつ、肝の座った男ですが、家老もあの落ち着きようは、ただものじゃないですよね、甚四郎がこの離れた距離で視線でなにかを伝えるとすれば、何かを投げてくれ、か、加勢してくれ、のどちらかだと思うんですね。距離が近ければ加勢してくれ、というメッセージは現実味がありますが、これだけ離れてるので、投げてくれ、という方が現実味があります。実際に、甚四郎は小判を投げ、杢次郎が小石を投げて、相手を撹乱させましたね、でも、甚四郎は撹乱させても、一太刀あびせる武器がありません、だからね、その瞬間にね、爺は刀を投げるということを決定していたんだと思います。

司会 なるほどぉ、深いですね、いやぁ、素人には、わからない世界です、それでは、もう一度、映像の方に戻りましょう、あ、はい、そうですね、その前に、おさらいです。

はい、杢次郎の石で指を潰された男は刀を落とし、混乱し、子供を離していますね、そして、小判の防御のために、顔の前で刀を構えている頭領は、後ずさりしながら、仲間の指が潰されたのを見て、少し動揺しています。そして、小判が螺旋状に広がっておりますので、頭領から甚四郎は見えません。

対して甚四郎は後ろ手に爺の刀を受け取り、黒塗りの鞘のまま、大きく振りかぶり、まるでバッティングのような体勢です。まさに今、刀を振ろうとしている、そんな風に見受けられます。
さて、現場にお返しします。




甚四郎は、頭領と男に駆け寄りながら、刀を後ろ手に掴み、減速しながら両手でしっかりと刀を握り直します。

左足を踏み込み、軸にし、膝、腰、肚、胸、肩、肘、手首、すべての力を込め、黒塗りの鞘ごと刀を横なぎに振ります。

ゆっくりと刀の切っ先が黒い残像を残しながら、指のつぶれた男の、鼻の付け根へと吸い込まれるように進んでゆきます。

男は自分のつぶれた指を見ていましたが、視界の端から黒いものが近づいてくるのに気づきます。不審な顔をして、黒いものを眺めます。黒いものがどんどん近づいてきて、目と鼻の先に来たので寄り目になりますが、そのあとはその黒いものが鼻の付け根にすごい音を立てて当たり、そのまま視界が真っ暗になりました。気絶したのです。

頭領の男は、視界の端で仲間が崩れていくのが見えて、目だけで真横を向きました。すると真横から、なにか黒いものが迫ってきます。その黒い根本を追っていくと、小判の隙間から、すごい形相の庄屋がその黒い棒を握り込み、振っているのが見えました。

甚四郎は眉間に当たったままの刀の勢いを落とさずに、刀を振り抜いて、体勢を建て直し防御しようとする男のこめかみ目掛けて、振り抜きました。

がぐごぉっ という頭蓋骨に固いものが当たる音がして、頭領はそのまま吹き飛ばされ、家屋の戸を破りながら、家のなかにがらごろろと、転げ込みました。


一瞬のことでした。
小判を投げ、小石が男の指を潰し、甚四郎が駆け出し、爺が刀を投げ、後ろ手に甚四郎が受け取り、男の眉間を叩き、そのまま刀の勢いを落とさず、頭領のこめかみを打ち抜き、頭領が家の中へ飛ばされていきました。

あとには、息を切らす甚四郎と、きょとんとあっけにとられた子供が立ち尽くしていました。

母親はすぐに子供を抱き締めます。甚四郎は、急いで、一家全員と、偽のみちと男を連れ、お殿様の元へ戻りました。

「ご家老、御刀をお貸し頂きまして、有り難うございました。さすがにございます、ご家老のご助力、かたじけのうございました」

甚四郎が爺に言うと、爺は馬に乗ったまま首を横に振り、

「いや、よいよい、面白いの、実に面白い。ただ者じゃないの、お主は」

と言って満足そうに笑い、刀を受け取りました。

甚四郎は黙って頭を下げます。お殿様や、他の侍たちは、ほおお!と言って、あまりのすごさに口をあけて拍手をしています。ね、かっこよかったですよね。あ、ところで、残念ながら、甚四郎の写真などはありませんので、みなさんの時代の、豊川悦司とか、佐々木蔵之介とかで再生してみてくださいね。

甚四郎は振り返って、座ったままの杢次郎に言いました。

「まだ腕は衰えておらぬどころか、磨きがかかっておったな、杢次郎、よくやってくれた」

杢次郎は黙って甚四郎に頭を下げます。間の抜けた男だと思っていましたが、こういう場だと、顔つきもきりりとしています。

「のう、お主らは、本当に庄屋か?本当は、忍びであるのかの?」

お殿様が、たいそう驚いてそう言いました。
すると甚四郎が答えます。

「年貢を集めるということは、このような賊たちに襲われるということなのでございます。ですので、わたくしどもは代々、身を守れるだけの鍛練を積んできております。そしてこの杢次郎は、みなし子の幼少の頃よりこの石つぶてで、己の身を守ってきております。昔、私が賊に囲まれたおり、この者のつぶてに助けられ、その腕を買い、それ以来雇っておるのでございます。けれども、酒に酔うと、ところかまわずこの技を使うので、やむを得ない場合と、私の許しがないところでは、絶対に使うなとずっと言いつけてあるのでございます」

すると、家のなかで、木の板を踏み抜くようなばりばりという音がして、大声が聞こえてきました。


「15対39なんだけどさ、なに、もう勝った気になってんのかね、あんたらは」

家から頭領が出てきました。
頭から血をながし、ほこりだらけですが、顔はまだにやにやと笑っています。


爺が大声で言いました。

「殿と百姓たちは我が守る、お主ら、殿にもしものことがあれば、我らは城に戻って腹を切ることになるぞ、よいか、心せよ、殿をお守りせよ!」

侍たちが大きく返事をし、刀を抜きました。
甚四郎は自分の仕込み杖の刀を拾い、構えます。
杢次郎は自分の回りに小石を集め、低い姿勢のまま両手を広げています。


賊たちが、ゆっくりと、じりじり、輪を狭くしていきます。
爺が馬を降り、百姓たちを馬にのせました。
お殿様は、子供たちを4人、自分の前後に乗せました。


頭領が奇声をあげると、男たちも奇声を発しながら、一斉に襲いかかってきました。









賊たちは、甚四郎たちを囲む輪をじりじりと狭めていきます。

馬に乗ったお殿様と、百姓たちと子ら、それらを守るように侍や爺、甚四郎や杢次郎が賊たちと向かい合っています。

賊の頭領が奇声をあげると、男たちは一斉に襲いかかってきました。
男たちの手には、刀や鎌やクワ、そして短刀やこん棒などが握られています。


甚四郎は爺に向かって言います。

「ご家老、杢次郎を馬の背に乗せ、上から皆を援護させたいのですが、よろしいですかな?」

爺が頷くと、杢次郎は百姓たちが避難している馬の背中に飛び乗りました。


そして、次々に切りかかってくる先発の者たち目掛け、馬上から小石を投げつけます。そうして小石を食らい、賊たちが怯んだところへ、侍たちが峰打ちを加え、戦線離脱させます。


杢次郎と、侍たちの息の合った戦い方、なんだか見ていて胸がすくようです。まるで餅つきみたいです。

ぺったんすっちゃんぺったんすっちゃんぺったんすっちゃん、そんな感じですね。

この戦法で、あっという間に、十名ほどの賊が呻き声をあげながら、前線を退いていきました。

「杢次郎、よいぞ、その調子で続けて参れ」

爺が杢次郎にそう言う間も、杢次郎は、へいっと大きく返事をしながら素早く石を投げ続けます。賊たちは、さっき仲間の指がつぶれるのを見ているので、なかなか近寄れないようですね。襲う方も襲われる方も命がけです。

甚四郎の前で、頭領が血を流しながら笑っています。

「さっきの一撃を受けても、まだ立っておるとは。お主は“怪我”という言葉も教わらなんだようだな」

甚四郎が挑発しましたが、頭領は反応せずに、別の方向を向いています。

「庄屋、お前はあとだ、俺はお楽しみは後にとっておく男での、殿様の大将首とったあとで、お前の相手をしてやる、待っておれ」

そう言ってお殿様の方を向き、駆け込んで、一足飛びに馬上のお殿様へと斬りかかっていきました。

するとその頭領の銀色の太刀筋を、別の太刀筋が弾き返します。頭領の前には、いつの間にやら爺が立っていました。


「賊よ、お主の相手はわしじゃ、さきほどは、武家を小馬鹿にしてくれたのう、お主には、治水工事の服役が待っておる、五体満足のまま捕らえてやるから、覚悟せよ」

頭領はその言葉を味わうように何度もうなずいて、意味を反芻するように目をつむったあと、突然袈裟斬りに爺に斬りかかりました。爺はその太刀筋を左へと弾き返します。そしてすぐに、左から右へ横なぎに斬りかかり、賊はそれを一足飛びで後ろへ避けてからすぐに前に踏み込み上から下に斬り、爺はそれを3センチほど体を引いて避け、右下から左上に切り上げます。賊は爺が切り上げた刀を鍔で受けながら、爺の方へ飛び込みました。

爺の刀が男の体重を受け、爺の方へ押し戻され、鍔迫り合いの格好になります。

「棺桶に片足突っ込んだおじいちゃんのくせによ、猿みたいにすばしっこいじゃねえか?え?」

「おぬしこそ、おしめをしとる小僧のわりには、小便をちびらず偉いの、誉めてつかわそうぞ」

爺は右手で素早く脇差しを抜き、脇差しの柄尻で、頭領のみぞおちに一撃をいれました。

「んぬうぉごぷっっ」

男は呻き、胃液を撒き散らしながら後ずさって、口許をぬぐいます。
爺は何事もなかったかのように、また刀を構えます。

「くそがぁっ!」

頭領はそう叫んでから右手一本で刀を持ち、爺に突きを入れました。こうすると、両手で突くよりも遠い距離まで突きを放つことができるのです。そうやって何度もフェンシングのように突きを放ちました。
爺はその鋭い突きを、いくつかかわし、最後に自分の右脇腹へ、いなしました。傍から見たら、頭領の突きが爺を貫通したように見えたかもしれません。

頭領の突きは、爺の着物をまるで豆腐のようにすうっと突き抜けまして、その刀が半分ほど通りすぎた頃、爺は右脇を締め、刀を脇腹と腕で挟み込み固定し、膝蹴りを食らわせて体を捻りました。すると、男の手から刀が捻じ取られ、男は手足を地につき、四つん這いになりました。

「さ、このままお主の後頭部を峰打ちして乱暴に気絶させることもできるが、どうする?降参するか?」

「そうだなぁ、このまま降参するしかねえかのお、あ、でもこういうのもあったりして!」

男は立ち上がりながら、握り込んだ砂を爺に向かって投げつけました。




「杢次郎!賊の外に抜け、外から仕掛ける!加勢せよ!」

甚四郎が杢次郎に叫ぶと、馬の上に立っている杢次郎が頷きました。

甚四郎は砂利を左手で掬い上げて、賊の目の前に行き、甚四郎は砂利を中空に投げ、野球のバットを振るかのように刀を振ります。刀の刃でも峰でもなく、腹の部分を賊たちに向けて。

すると、砂利が刀の腹で弾かれて、賊たちの顔目掛けてすごい早さで飛んで行きます。まるで散弾銃ですね。数人の賊たちが目を押さえて叫びながら右往左往しています。

「杢次郎!」

そこにすかさず杢次郎のつぶてがぴしゅぴしゅんっ、と飛んでいき、賊たちの眉間や手の指に命中していきました。まるで、西部劇みたいです。
杢次郎のつぶてを受け、そのまま数名が気絶し、数名は刀が握れなくなり、その場でのたうち回っています。

包囲が崩れ、甚四郎は遠回りをして賊の背後へ廻るべく、林の中へ姿を消しました。


さてさて、杢次郎。
方々へ360度、石を投げています。
あまりに投げすぎたのと、侍と賊がたてる土ぼこりで、命中精度はすこしづつ落ちてきているようです。
そして何より、手持ちの石が無くなってきました。
杢次郎が舌打ちをすると、

「庄屋さま、石が無くなっとるんかいの?わしらがとってこよまいか?」

みちの父がそう尋ねました。みちの母と、偽のみちのおじだと名乗っていた男が、不安そうに杢次郎を見ています。

「そうじゃのう、ここから降りるわけにゃいかぬし、お侍さまは戦っておられるしの」

「それじゃ、わしらが拾ってまいりやすけん、お待ちくだされ!」

そう言って百姓たちは、地面をはいつくばって、石を拾いまわって着物の中に詰め、馬の鞍に次々と石を置いてゆきました。
馬の鞍は瞬く間に石だらけになって、そうして、

「わしらもいっつも賊どもには迷惑しちょりました、野菜を勝手に食うたり、村の娘をさらって行ったりの、杢次郎さまのお手伝いいたしやすけん!」

そう言って3人の百姓たちは、好き好きの方向へ石を投げていきました。
彼らが投げる石は、放物線を描いて賊に届くので、あまり攻撃力はありませんでしたけれど、いっせいにたくさん投げられる石によって賊たちの注意が削がれ、侍たちがさらに自由に動けるようになりました。


お殿様と同じ鞍に乗っているみち達が、歓声をあげています。

「お侍さま!庄屋さま!おっとぉ!おっかあ!けっぱれげんばれ!まけるでねぞ!けっぱれげんばれ!」
お殿様も、興奮しているのか、わくわくした顔で周りを見ています。
子供たちと、お殿様だけは、まるでお祭り騒ぎみたいですね。







賊たちの数が次々に減っていき、気絶したものが十数名、戦意喪失したもの、刀を握れぬ者も十数名離れた場所へ避難して、呻いております。

そんななか、消極的な賊たちの一団がいました。6名くらいでしょうか。

1「こりゃ、おれたち、押されてねえだか?まけんでねか?」

2「そじゃそじゃ、こりゃ、武器ば捨てて、林んなかに逃げ込む方がええど」

3「けんども、誰かと戦っとかねば、あとで頭領さまに言い訳ができねでねか」

4「んだば、適当にお互い傷ばつけて、やり過ごそうかの」

5「ばってん、そんだら簡単にいくだろべか?」

6「そんだらごとよりも、泥だらけになって倒れたふりするだけでええべな、指つぶれても、取り返しつかねえべ」

?「うむ。わしもそう思う。杢次郎はなかなかにやりおるし、ご家老も、お侍様も、小馬鹿にされて怒っておる。そして何より、庄屋の甚四郎という男も、相当頭に来ておるそうじゃからの」


賊たちは、七人目の見知らぬ声を不思議に思い、声のするほうを見ました。そこには、頭領に一撃を浴びせた庄屋が、深刻な顔をして話に参加しています。

6人の賊は、ふむふむふむふむそうじゃそうじゃ、とうなずいてから、ゆっくりとお互い顔を見合わせて、噴水のように慌てて武器を捨て、一斉に林のなかに逃げ込んで行きました。

「あ、そうじゃ、さっきその林のなかで、雀蜂の巣を見つけたゆえ、石をいくつか投げつけておいたぞ!気を付けよ!」

甚四郎がそう言うと、林の中から、ふんぎゃあああああああ!という男たちの悲鳴が響いてきました。






さて、賊たちの数もだんだん減ってきて、一行と同じぐらいの数になってきて、侍の一人が言いました。

「賊どもよ、お主らも男であろう、数ではもう互角じゃ、男であれば、わしらと堂々と勝負をせいっ!」

口々に侍たちが、怒号を飛ばしています。
残った賊たちも、どうやら手練れたちです。侍たちの言葉に対して、同じように怒号を飛ばします。やがて、一騎打ちが始まりました。


みちが、お殿様に話しかけます。

「なんでの、お侍さんはの、自分だけ戦わんのかの?」

お殿様が答えます。

「わしか?わしはの、殿じゃから、戦ってはならんのじゃ」

「お殿様は戦わんのかの?」

「そうじゃ、座っておればよいのじゃ」

「ほいだら、お殿様はいっつも何をしとるんかいの?」

このような、のどかな会話をしておりますが、みなさまお気づきでしょうか、この周りでは侍と賊たちが刀を交え、怒号と悲鳴と呻き声が響いております。

「わしか?わしは、国の仕事を毎日しておる。近隣との外交もあるし、国の金廻りを考えたり、年貢の管理や、あとは、徳川さまとも、やりとりをせねばならぬ。わしはこう見えての、大変なのじゃ」

「ちげちげ、そういう意味じゃのうての、うちのおっとおとおっかあはの、年貢納めるために一生懸命じゃ、年貢を納めての、飯を食うちょるがじゃ、わしら子供もの、手伝いせねばならんばの、腹いっぱいに食いたいで、みな働いちょるでの、ほいでの、お殿様は、なんのために仕事ばしよるんかいの」

「…何のため、ほう…そうじゃのう…考えたこともなかったのう」


「片眼だけでよくそれだけ戦うなあ、おじいちゃん、ほれ、こっちだぞ、ほれ、こっちだっ、戦の途中に耄碌し始めたんかの?」

爺は片眼に砂の目潰しを受け、右目だけで頭領と戦っています。頭領は離れた場所から砂を何度も投げ、さらに目潰しを仕掛けようとしています。視界が半分になり、さらに砂を掛けられるので、爺は足元がおぼつかず、少しだけふらふらとしています。
これは、どうやら爺は、劣勢のようです。心配ですね。

「こんなものは戦ではない、さすが賊じゃの、卑怯な手しか使えぬか」

「卑怯だろうがなんだろうが、勝つのが戦だろうがよ」

「そうかそうか、それはいいとして、そろそろわしもお主と遊ぶのには疲れた、いい加減決着をつけようではないか」

そう言って爺はため息をつき、仁王立ちになり、刀を鞘に仕舞いました。両目に砂が入っているようで、両目ともうっすらとしか開けていません。


爺は鞘についている下げ緒を解いて刀を腰から外し、左手で鞘、右手で柄を握りました。そしてゆっくりと腰を下げ、前に出した右足に重心をかけています。刀を瞬時に抜く、居合の姿勢です。


「ほぉ、おじいちゃんが俺に居合の決闘を申し込むとは、泣けてきますなあ、いいぞ、受けてやろうじゃねえか」

そう言って頭領は、同じ構えをして腰を下げました。

さて、侍たち10人は、それぞれの相手と一騎打ちの最中です。怒号と気合の叫び声が飛び交い、あちこちで侍と賊が走り回り、剣を交えています。

そのうち、賊たちの方がひとり倒され、ふたり倒されていくと、まだ無傷で戦える賊たちが戦いを放棄して逃げ出し始めます。

侍たちは、待てっ!と怒鳴りながら追いかけましたが、走ることができる賊たちは全速力で駆け、逃げて行きました。


侍たちも、甚四郎たちも、馬の所へ戻って来ました。まともに戦える者は、とうとう頭領ひとりです。


殿も百姓も子供らも馬を降り、爺と頭領の戦いを、固唾を飲んで見守っています。


爺と頭領は、同じ姿勢のまま、動きません。さらに爺は、目を開けるのが限界になり、うっすらと片目を開けて頭領を見据えています。


頭領は、考えています。
このじじいに抜かせて、一撃目を避け、遠くから突きを入れれば、難なく片付けられる。
だから、じじいに先に攻撃をさせたい。挙動をわざと不安定にして、攻撃をする素振りを何度も見せる。じじいが引っかかったら、避けて刺す。


けれども、爺はまったく反応しません。小刻みに素早く動く蛇と、翼と足の爪を開いたまま動かないはやぶさがまるで、睨み合っているような、そんな風景に見えてきます。


にわか雨でしょうか、つとつと、ぽつぽつ、ぽたたたた、ざあああああああ、と雨が降って来ました。
風が強く吹き、雷がしゅぱぱぱん、と光ります。

どんごるごるんっ ごるるるんっ

遅れて届いた雷鳴と共に、動いたのは、爺でした。頭領を居合斬りします。

頭領は、心の中で笑いました。
いくら年寄とは言え、剣速が遅すぎる。一般的にはこれで早いと言われるのかもしれないが、真剣勝負で命を奪ってきた俺にとっては、侍の剣術なんざ、所詮おままごとだ。
こんな遅い抜刀で、俺に居合勝負を挑んできのか。こんな太刀筋なら、ゆっくりと余裕を持ってかわせる。

頭領は刀を抜き、突きの姿勢を作りながら、後ろへ少しだけ身を反らします。

一般的な刀の長さは、刃渡りが70センチから80センチほどです。爺の手先から、それぐらいの距離をとれば、刃は届きません。男は爺の手からそれぐらいの距離を取り、剣先をかわしました。

が、右のこめかみから、変な音がしました。何やら固いものと、頭蓋骨がぶつかるような、とても嫌な音です。

そして、頭領は、訳のわからぬまま、目の前が真っ暗になり、意識を失いました。




さて、ちょっと良く意味がわかりませんね。



もう一度、実況の人たちに登場してもらいましょう。

司会 はい、ということで、これ、なんなんでしょうか、これって、え?ちょっとね、頭領側のカメラからしかわたくしも見ておりませんので、ちょっとよく状況が飲み込めません。

コメ そうですね、ちょっと別のカメラからの映像で見れたら嬉しいかなっていう

司会 はい、どうでしょうか、あ、準備ができたようです、別アングルからの映像です。これは、ちょうど、左に頭領、右に爺を撮影していたカメラですね。はい、右の爺が、抜刀する素振りを見せております、スローモーションの映像です。はい、そして、刀を、いや、これまだ、刀抜いてないですね。ですよね?

コメ あ、そうですね、これ、抜けてないですね、やっぱりね、戦いが長く続くと、握力がなくなってくるっていうのがよくあるんですよ、おそらく爺は、左手の握力が疲弊してしまったまま、抜刀してしまい、うまいこと鞘が抜けなかったんでしょうね

司会 やっぱり長時間となると、心身ともに疲労が蓄積されるわけですね、はい、ここで、頭領が、少し身を反らしながら、刀を抜きはじめてますね、あ、なるほど、これは、攻撃を避けてから攻撃するつもりですね、爺の攻撃は鞘付きのままだから、剣速が遅いですね、あ、もう頭領は、ここで、ここで刀を抜ききってますね、爺の斬撃が半分ほど行ったところで、頭領は完全に刀の間合いの外にいます。
これは、完全に避けられてしまいますね。

コメ そうですね。爺のほうは、右足重心で、完全に前傾姿勢ですからね、ここから更に遠くに攻撃するなら、もう一歩必要です

司会 はい、徐々に爺の斬撃が、鞘付きですの斬撃が、半分を越えまし、あれ、見てください、鞘が外れていきますね、刀身が見えてきましたよ。

コメ あ、遠心力ですかね、剣速が最大になって、遠心力で鞘が抜けたんでしょうね、あ、いや、ちょっと映像停めることできます?ちょっと、爺の右手、握っている手をアップにしてもらいたいんですけども、はい、あ、出ましたね、この右手見てください、下げ緒、握ってますね。

司会 下げ緒?というと、鞘と帯を固定する紐、のことですが、下げ緒を握るとは、聞いたことありませんね、そんな事したら、刀が抜けないですからね

コメ じゃあスローに戻していただいて、はい、お願いします、あ、なるほどなるほど、これ、徐々に鞘が抜けて行ってますね、もう半分くらい抜けてますね、あっ!ここで、下げ緒の長さ限界ですね、下げ緒が張り詰めてます。

司会 え?となると、これ、鞘の先端、頭領にこれは届きますか?ね?これは届くか?届く?届くか!届くか!頭領は余裕の表情!余裕の表情ですが、鞘がこめかみに届く!鞘がこめかみに届き、こめかみを、打ったぁっ!当たりました!

コメ いや、こんなの初めて見ましたよ、下げ緒を握り、遠心力で鞘を抜き、下げ緒の限界の長さで鞘が止まる。これで、リーチを通常の二倍くらいにしてますね、こりゃ避けれないでしょ、いやあ怖いっすねぇ、鞘だけでも、500グラムありますからね、それをまったく予想してないタイミングでこめかみにくらったら、そりゃ、意識飛びますよこれ、怖いっすね、これは。

司会 はい、前代未聞の鞘付きの居合、果たしてこれは居合というのでしょうか、頭領は気を失い、爺は刀を振り切った姿勢のまま動きません!勝負ありですね。


雨のなか、頭領はぴくぴくと痙攣し、そして爺は刀を鞘に仕舞い、帯刀し、一息ついて言いました。

「この者らを全員、縄にかけよ。」

みちたちも、殿も百姓も侍も杢次郎も、拍手喝采です。





雨が降っております。
雷鳴が轟き、時おり稲光が、里を薄紫色に映します。
まだまだ日没には時間がありますが、分厚い雲と大粒の雨が、夕方の光を遮り、あたりは薄暗くなっています。

そんな中、侍や甚四郎たちは、手分けして賊に縄を掛けておりました。

そこへ、喜助とその他の侍たちが、簑笠を被り、小走りで戻って来ました。年貢のピンはねをしていたむらおさの取り調べが、一段落したようですね。

喜助たちは、怪我をしたたくさんの賊たちと、疲労困憊の侍たちを見て大変驚きました。そして、興奮した侍達が語るさきほど起こった出来事について聞き、さらに驚きました。すごい戦いでしたね。けれども、あれだけたくさんの人間が戦ったのにも関わらず、人死にが出なかったことは、不幸中の幸いでしたね。昔話ですものね。

頭領と賊たちは、近くの牛小屋に収容し、お殿様たちが城へ戻る時、城下へ連行することになりました。

そうそう。
息子を人質にとられていた男のもとへ、ちゃんと息子は返されました。そして偽のみちは、ひとりの侍と共に、元いた村へ帰ってゆきました。杢次郎の想像通り、陶工の村から賊に連れ去られておったようです。無事に帰れてよかったですね。




さてさて、ここからが本題です。

ほら、だってまだ、庄屋とみちの話は途中でしたから。

覚えていますか?
みちは、子狸と子兎と、お餅の歌を歌いました。

この歌で、みちが言い伝えのみちだということが判明しました。

お殿様と庄屋一行と、みちの家族は、家の中の囲炉裏の火を明かりにしながら、みちを囲んでおります。

「改めて、みち、その行李は、100年前、我が庄屋に参ったキヨという老婆が、庄屋に託したものじゃ。100年後にみざの村におる“みち”という娘に渡してくれ、という願い通りに、庄屋が代々受け継いできたものじゃ。ここに記された100年間の年号は全て当たっており、そして、お主が歌った歌のことも、ちゃんとここに記されておった。不思議な話だ。そして我ら庄屋も、代々、中身を知らぬまま受け継いできた。そこでだ、わしら庄屋が代々なにを守って来たのか、ぜひ中を改めたい、もしお主が良ければ、その行李を、ここで開いては貰えぬだろうか」


みちは、囲炉裏の明かりに照らされながら、考える仕草をしています。

「不思議じゃの、なんでそのローバーっちゅう人はの、みちのことを知っとったんじゃろうか、わしは6才じゃけの、100年前にはおらんのじゃけんどもの、会ったこともねし、なんやわっからへんの」

甚四郎はしみじみ頷きながら、言いました。

「ローバーではなく、老婆じゃ。老婆というのは、おばあさんのことじゃ。そうだの、お主の言う通り、不思議な話じゃ。わしもの、言い伝えで聞いておるだけだがの、知っておることを話そう。
おばあさんはな、未来の江戸の“東京”という町で、みち、という女に助けられたそうだ。そしておばあさんは、その未来よりたくさんの薬を持って帰ってきた。わしの曽祖父は赤子のころに、その薬を飲み、よく眠り、よく乳を飲み、元気に育つことが出来たと、そう聞いておる。その東京のみちが歌っておった歌が、さきほどお主が歌った歌のようだ」

「余計にまっこと意味がわからんの、わっちは未来の江戸に行くんかの?どげじゃて行くがじゃそこには」

「そうだな、わしにもわからぬ、どのようないきさつで、おばあさんが東京へ行ったかも、そしてお主が東京へ行ったかも、それは言い伝えられてはおらぬ。だが、もしかすると、その行李の中に、その手かがりが入っておるやもしれぬ」


みちの家族や、お殿様、爺、彼らの警護の数名の侍、喜助に杢次郎、そして甚四郎そして、みち。たくさんの者たちに、行李は見つめられ、囲炉裏の明かりに、竹が飴色にほんのり輝いています。

「なあんか開けるのが楽しみじゃけんども、なんじゃろの、なんか怖い気もするのう」

みちが皆を見ながら言います。

「けんどもの、開けるぞ、えか?」

しばらく黙ったあとに、みちが言うと、大人たちが固唾を飲んで、一斉に黙って頷きます。

生唾を飲み込む音、囲炉裏の小枝が小さく爆ぜる音が、雨音に包まれる民家に聞こえています。


みちが、行李の蓋にちいさな手をかけ、ゆっくりとずらしてゆきます。100年ぶりに、行李が開きました。


「なんじゃ、これは」

みちが小声で言います。




行李の中には、乾燥した植物のようなもので満たされていました。よく見ると、乾燥した唐辛子と、山椒の実でした。

みな、一様に、首をかしげています。

「なんじゃこれは」

みちが訊き、甚四郎が答えます。

「唐辛子と、山椒…じゃの」

「そのおばあさんは、わっちに、100年前の唐辛子や山椒を食べさせたかったんかの?」

「……いや、その、…わからん」

甚四郎は拍子抜けしています。100年受け継いできたものが、乾燥した薬味調味料だったからです。しかも100年も経っているので、香りは多少あるものの、すべて変色して砂のような色をしています。

同じように、爺もお殿様も拍子抜けしていますね。

杢次郎が行李に近寄ってきて言いました。

「甚四郎さま、わしが運んどるときは、行李のなかでもっと固えような、ぶつかるような音がしとりましたど、まだなにかあるのやもしれませぬぞ」

みちの母親が、ざるを持ってきました。

甚四郎が言います。

「みち、唐辛子と山椒をよけてみてくれんか」

みちは、すんすんと頷き、ちいさな両手で唐辛子と山椒を掬い、ざるのなかへ移してゆきました。


すると、



「おっ!!なにか見えたぞ!」

お殿様が身を乗り出して大声で言いました。

唐辛子と山椒の山の中に、布が見えます。どうやら風呂敷のようです。

表面の唐辛子と山椒が取り除かれると、その中には風呂敷に包まれた一回りちいさな箱が出てきました。

みちがそれをつかみ取りだそうとします。
少し重みがあるのか、くんっ、と力んで、ゆっくりと持ち上げました。囲炉裏の明かりに照らされるみちの顔が、ほんの少し赤くなり、ぷはぁっ、と言いながら行李を床に置きます。


風呂敷はかなりきつく結ばれていて、みちは苦労しながらそれをほどきました。やっとほどけた薄紫色の布を開くと、中には黒光りする、漆塗りの箱がありました。玉手箱のようです。その箱には赤い組紐がまたまたきつく結ばれていて、それもまた、ほどくのに大変苦労しました。

「文庫箱じゃの」

「そのようにございますな」

お殿様が言い、爺が答えました。
文庫箱とは、書物や手紙や貴重品などをいれておく箱のことです。あ、ちなみにこの箱は漆塗りなので、それだけでも大変高価なものです。

「開けるど?」

みちは紐を束ねて脇に置き、両手を床につけ、前屈みで皆の顔を見ながら言いました。皆が何度も頷きます。

とてもゆっくりと、文庫箱の蓋を開けます。
丁寧に作られた上質の文庫箱のようで、気密性が高く、すううううっと空気を吸いながら開いてゆきました。

みちがゆっくりと、蓋を脇に置くと、こたんくっ、と乾いた音が響きます。
100年ぶりに、箱の中身が、外の空気に触れました。
文庫箱から、古い紙の匂いがします。

なかには、文が2枚、紙に包まれた小包、そして書物が3冊入っておりました。


甚四郎が言いました。

「文と、書物か、なるほど。ではその唐辛子と山椒は、虫除けであったのか」

一同がふむふむと頷きます。
行李に敷き詰められた唐辛子と山椒の数々は、100年の間、紙を守るための、おばあさんの知恵袋だったようですね。

みちは、文庫箱の中身を丁寧に取り出し、床に置きました。

百姓もお殿様も子どもたちも庄屋も、膝と肩を突き合わせ、文庫箱の中身を覗き込んでいます。

お殿様が言いました。

「これは、かな文字の手習いの書物であるかのう」

「そのように見えますな」

ひらがな練習帳を指差しながら、お殿様が言うと、爺がそう答えました。みちがそれを手にとって開くと、あいうえおかきくけこと、お手本が書かれていて、その側には、誰の字なのかわかりませんが、誰かが消し炭かなにかで文字を練習した様子が伺えます。

「あいうえおかきくけこ、とは、未来の歌なのか?なにか意味が通るのかのう、しかしまぬけで腑抜けた歌じゃのう」

と、お殿様がつぶやきました。


「甚四郎様、そっちは、漢字の手習いの書物ですかな?」

杢次郎が甚四郎に訊きます。

「そのようだな、そして、これはおそらく、東京から老婆が持ち帰った書物であろう。このように厚い書は、今まで見たことがない。紙も薄い、綴紐もない。未来には、よほど腕の良い紙漉き職人と、糊職人がおるようだの」

「おい、みち、もう一つの書を開いてみてくれんか、それだけ使い古しておって、何の書なのかわからぬ」

お殿様が、みちにそうお願いしました。

ひらがな練習帳と、漢字辞典は表に書いてある文字で、どのような本なのか分かりましたが、もうひとつの本はぼろぼろで、一体なんの本なのかわかりません。

みちは、その本を手に取り、お殿様に手渡しました。

「わわ、わしが開いてもよいのか?」

「字はわかんねもんで、ええぞな」

「おおお!そうかそうか、それではわしが、開くとしよう、どれ」

本をゆっくりと開くと、カラー写真の挿絵がいくつか書かれているページでした。

「おお!この錦絵は、なんじゃ、まるで生き写しのようにありありと描かれておるのう、見よ、ほれ!将棋をさしておるわい」

お殿様がどんどんページを捲っていくと、将棋の戦法が書いてある、中級者向けの将棋の本でした。

「ほおお、なんじゃ、このさし方は、爺、見よ!見たことあるか、このような将棋のさし方を、みよ!これもじゃ!ほれ、これも!これもこれも!おっ!ほほ!ほお!居飛車穴熊という技じゃな?なんぞおもしろそうな名前じゃ、美濃囲い、とな?いやあ、実に貴重な書物じゃ!」

お殿様は大興奮で、本をめくりながら、周りの者達に、いかにこの本がすごいかを力説しています。

あまりに興奮しているので、甚四郎が尋ねました。

「殿は、将棋がお好きなのでありましょうか」

「まあ、そうじゃの、まあ、嫌いではないかの、ほれ、それより見てみよ、ここ!」

どうやら、かなり好きそうですね。


みちは、お殿様の興奮をよそに、紙の小包に興味が移っています。

みちは甚四郎に、開けてよいかを尋ねます。

「これらはすべてお主宛のものだ、わしに訊かずとも、開けてよい」

甚四郎が答えます。
みちがうなずいて、小包を開くと、中には、穴開き銭と、小判が入っておりました。みちは、銭も小判も見たことがなかったので、首をかしげています。お金だと、わからないようです。

銭は見たことはありますが、小判を見たことがなかった両親は驚嘆し、甚四郎に尋ねました。

「しょしょ庄屋様、ほほほんとにこれは、みちが受け取ってもよろしがでしょうか?こりゃ、いくらぐらいになるがでしょうか?」

「杢次郎、いくらあるのか、ざっと調べよ」
と、甚四郎は杢次郎に言って、みちの両親に対して言いました。
「もちろんだ、受け取ってよい。庄屋は100年前に、老婆より預り賃をちゃんと受け取っておるからの、故にこれはみちのものだ」

「甚四郎さま、銭と小判で9両ほどございました」
数え終わった杢次郎が甚四郎に言いました。

「9両だそうだ。1両で1石の価値となる。」

甚四郎がそう言うと両親は、床に頭を擦り付け、庄屋に感謝しました。だって今まで、あのむらおさのせいで、1年間1石で過ごしていたんですからね。むらおさが悪さをしていなかったのにしても、1年間で2石の生活です。そこに9両入ってくるんですからね。そりゃあ宝くじの一等が舞い込んだかのような心持ちでしょう。


「話し中、すまぬな、ちと、よいか、みちと、みちの父と母、ちと、よいか」

お殿様が、話を遮り、みちとその両親に話しかけました。

「その、なんというかの、お主らは、将棋は、さすのか?」

両親は首を振り、みちは首をかしげました。

「その、お主ら宛の品物であるのはわかるのだが、その、将棋を指さぬものが、その、持っておってもな、なんというか、その、宝の持ち腐れじゃ、だから、その、よければじゃな、この書物を、なんというか、わしに譲ってはもらえんかの?」

「殿!いかに殿と言えど、ちとそれはお手が早いかとそう拙者は思いますがの、まだこの者たちはその書を手にとってもおらぬではないですか」

爺が苦い顔をしながら言いました。

「いや、爺、違うのじゃ、これにはわけがある、この者達にも、わしにも、そして我が藩にも、必ずや利になることなのじゃ」

「殿、殿が小さき頃よりお仕えしておりますが、本当に、お変わりありませんですな、ほしいものがあると、なにかと理由をつけてご自分のものにしたがる、まあなにか理由があるとのこと、それでは、利になるとは、どういうことでございましょうか」

「爺よ、城におる時より、毒舌になっておらんか、ちと寂しいぞわしは。……まあよい、聞け。聞けば納得するであろう。
まずこの書物、わしが20両で買い付ける。20両をこのもの達に渡すでも、20両分の年貢を免除するでも、好きな方にしたらよかろう。これが、この者たちの利じゃ。
そして次に、わしが城でこの書を読み、楽しむ。これがわしの利じゃ。」

年貢を免除という言葉や、20両という単語に、みちの両親は、気が気でない、そわそわした雰囲気になっています。意味としては、年貢を10年免除する、と言っていることになりますからね。

「書物に20両とは、これまた破格ですな、それで、我が藩の利になるとは、どのような考えがあるのでしょうかの?」

爺が、眉唾な顔つきで殿に尋ねます。

「まあ聞け、せっかちじゃのう、気性の荒いすっぽんのようじゃ、よいか、まずこの書物を清書させ、上質の和紙と紐で製本させる。複製をつくるのだ。そして、ほれ、わからぬか、爺」

「売るのでございますか?」

「ダメじゃ、製本するのは一冊だけじゃ。そうでないと価値がなくなる。わしが原本を持ち、製本して作った高級な一冊をどうするか、ほれ、爺、わからぬか」

爺はしばらく考えますが、降参した、という顔をします。

「考えてもみよ、ほれ、この秋、わしは江戸に行くであろう?」

「はい、将軍さまとの謁見日がございますな。それはそうですが、それがどうかしましたかな」

「ほれ、江戸で、一番の将棋好きなお方は誰じゃ、ほれ、ほれ」

「え……というと、…まさか」

「そうじゃ!!徳川家治様に、製本したものを献上する。これは、将棋好きな家治さまなら狂喜する書物、たいそうお喜びになるはずじゃ、それでの、お喜びになられ、将棋の話に話の弾んだころ、長年頓挫しておった、街道整備の費用についても話をもちかける。この書の力で、話も通し易くなろうかと、わしは思う。」

「なるほど、拙者も、献上の品物をどうするかは、思案しておりましたところです、たしかに今の時代にはない将棋の書物であれば、目から鱗の書物になりましょう。街道整備の件についても、名案にございます。これは、ご無礼つかまつりました」

爺もどうやら納得したようですね。

「と、いうことじゃ、この書物を、20両で譲ってはくれぬか」

と、お殿様が、みちとその両親に訊きます。するとみちが言いました。

「けんども、わっちも、それがほしいの」

すると、父親が慌ててみちをたしなめます。
「なに言うとるだ、おめにわかりっこね、字も読めねでねか、いらね、お殿様に差し上げろ、すげ大金なんだからの、わがまま言うでね」

「わかんねくても、わっちに届いたもんじゃ、何が書いてあるのかはわかんねくても、持っておきてがじゃ」

お殿様が頷いて言いました。

「よし、わかったわかった、じゃあそれでは、2冊製本し、この原本はみちが持て、しかし清書するのには時間がかかるゆえ、それまで預からせてもらうがよいか?清書が終われば、この本を返そう。どうじゃ?」

みちは、こくりとうなずきました。

「それでは決まりじゃな、20両分の年貢を免除とするがそれでよいか?うむ、それでは甚四郎、よいな?」

「かしこまりましてございます」
甚四郎、喜助、杢次郎が頭を下げ、

みちの両親がお殿様に頭をさげました。。


でもほら、思い出してみてください、こんな重要な話をしていますが、庄屋もお殿様も百姓も、子供も、膝を付き合わせてこじんまり座っているんですよ、なんだかおかしいですよね。


さて、みちは、最後の品物に触れました。
文です。
みちも、両親も字は読めないので、

「庄屋さま、読んでくれねかの」

と、みちが庄屋に頼みました。

庄屋は1枚目の文の封を解き、文を開きます。

文は、すべてカタカナで書かれていました。

甚四郎が、読み上げます。


ミチチヤン オメサンハワシノコト
シラネダロケレドモ 
ワシハミチチヤンニ
タイソウオタスケイタダイタデ
ショウヤサマニタノンデコレヲトドケルデノ
トウキョウデノタベタミトボルハ
イマデモオモ……

と、甚四郎は中身を読み上げていきます。文字も手紙も書いたことのないおばあさんが、一生懸命文字を覚え、おぼつかない字と文章で、綴った手紙でした。

手紙をすべて読み終えましたが、みちに届いたとはいえ、みちにとっては見ず知らずのおばあさんです。東京で起こった出来事はみちが大人になったあとの出来事ですし、このときのみちはまったくもって想像ができませんし、理解もできませんでした。読み終わったあとも、みちはぴんとこない、そういった顔をしています。

これは甚四郎たちも同じで、知らない単語もたくさん出て来るので、よく意味がわからず、読み取りあぐねているようでした。

みちは首をかしげながら、もう1枚の文を、甚四郎に渡し、読んでくれるように頼みました。

甚四郎はさきほどの手紙を丁寧にたたみ、新たな文の封を切り、読み始めようとしました。が、なかなか読み上げません。
というのも、手紙を開くと、そこに書いてあるのは文字ではなかったからです。

「これは、地図?であろうか?」

みなが覗きこみます。

そこには、“イナベムラ”と記されていて、川や大きな岩や、里の様子が記されていて、里の山の中腹あたりに、×印が描かれており、印の上には、“イナリサマ”と書かれていました。

そして、地図の端の方に文章が書いてあります。
そこには、こう記されておりました。

甚四郎が読み上げます。


天明ニキキンガクルデ
ソノマエニココニ

大人たちは一同、顔を見合わせました。
子供たちは、きょろんと、首をかしげています。





「もうイナベ村へは着いたのかの?」

「へい、あの民家のあたりから、イナベ村にございます」


お殿様が杢次郎に尋ねると、杢次郎はすぐに答えました。




お殿様、爺が馬に乗り、護衛の30名ほどの侍たちが歩いております。侍たちの数はすこし増えてますね。
そして、甚四郎、杢次郎、喜助が先頭を歩き、共に、みちも歩いています。

昨日の天気とはうってかわり、この朝は雲ひとつない青空。夏から秋へ変わる気持ちのよい風が吹いております。

昨日、みちの家の囲炉裏を囲みながら地図について話しているうちに、明日、地図の場所へ行ってみようということになりました。

けれどもみちの両親は、翌日は村の共同の水路の補強を行うために、一緒について行くことはできないということで、みちだけ城下の甚四郎の屋敷に泊まり、翌朝出発することになりました。

みちは、畳も行灯も風呂も、立派な晩御飯も、一度も見たことがなかったので、なにか新しいものを知るたび、騒ぎ通しでした。お風呂のなかでは、女中に体を洗ってもらいながら、腹ぺこ子狸の歌を歌って、女中を笑わせ、風呂上がりには、甚四郎が子供の頃に着ていた浴衣を着て、ふかふかの布団で横になり、甚四郎の妻の語る昔話を聞きながら、ころんと眠りにつきました。本当にいろんなことがあった1日でしたからね。さぞ疲れたでしょう。

そして翌朝、お殿様一行と共に、地図に記されているイナベ村へと出発したのです。




イナベ村に差し掛かると、甚四郎が杢次郎に尋ねました。杢次郎は、この村の担当なのです。

「稲が実ってはおるが、なにやら隙間が多いの、稲の病気か?」

「いえ、ここ数年、稲の育ちが悪いというのは村の者たちより聞いちょりました。年貢に影響するほどのことではなかったがですが、この様子じゃと、今年はちと、心配ですな」

甚四郎はそれを聞いて無言でうなずき、田畑を見渡しました。
ところどころ枯れたような稲があり、ぼこぼこと凹凸のある田は、黄金色というには乏しい色合いで、貧相な印象でした。



年寄りの村人がいましたので、杢次郎が道を尋ねます。

「お、ちょうどよか、おい、お主は、山の中腹にある、イナリ様というのは知っておるか?」

すると村人が答えます。

「あ、庄屋さま、こりゃどうも、イナリ様ですか?うーん、だいぶ昔はお祀りして里のものらも、山登ってイナリ様へ参っておったようですけんども、今は森が深くなってしもうておるけ、山に登るものは、あんまり聞いたことねですの、そうやけ、もう、詳しい場所を知るもんは、うちの村にはおらんように思いますけんどもな」

杢次郎は年寄りに礼を言いました。

「甚四郎さま、その地図がどこまんで正しいかわからんけんども、その印を頼りに進むほかねえみてですの」

おばあさんのいた時代から100年です。道も景色も、人も、たくさん変わっているでしょうね。




一行は里を抜け、山にさしかかりました。
やはり、山に入る者はいないようで、倒木や暗い竹林が目立ちます。
竹林の間の細い道を抜けていると、古い朽ち果てた民家があることに、みちが気づきました。

雑草の生えた屋根は半分落ち、障子はすべて破れ、かまどはところどころわれ煎餅のようにひびが入っています。


「誰か住んでおるんかの?」

みちが誰にともなく尋ねると、喜助が腕を組みながら言いました。

「あの家に住めるのは、獣か、もののけかって、とこだろうなあ」

みちはその言葉を聞きながら、ぼんやりとその家を見つめて、やがてまた歩きはじめました。



じつは、この家は、100年以上前におじいさんとおばあさんが住んでいたあの家なのです。この家には、庄屋さんが夜泣きの薬を買いにきましたし、いろんな人が怪我や薬のために訪れました。

けれども今は喜助の言う通り、獣か、もののけか、という雰囲気です。みちは、おばあさんを知らないはずなのに、なにか感じたんでしょうかね。

小さな小川を抜け、大きな岩の脇を通りすぎ、地図の示した印のあたりにたどり着きました。あたりには人が入った形跡はまるでなく、複数の獣道が森に広がっています。馬に乗っていては前に進めないので、お殿様と爺も馬を降りて歩いています。


すると、お殿様の警護の侍の一人が声をあげました。

「痛ってえ!」

一同、昨日のことがあるので、敵襲かと、騒然とします。
その侍は、一同が自分に注目しているので、気まずくなりながら説明をしました。

「あ、そ、その申し訳ございませぬ、このタラの木のトゲが額に当たったので、その、つい、も、申し訳ございませぬ」

止まっている木を避けられぬでは、太刀を受けることも出来ぬではないか、と誰かが軽口を言うと、侍たちが、どっと笑いました。


そのタラの木を触りながら、みちが言いました。

「こんだらでけえトゲがあったらば、動物たちもここには近づけねえの、ほいで、このタラの木の奥は、ありゃかぶれる木でねえか?気いつけなならんばの」

大人たちは、みちが言うように奥の木を見ました。すると確かに、タラの木の奥には、さわるとかぶれる漆があり、そして漆の奥には竹林が広がっていました。よくよくタラの木の並びをみてみると、タラ、漆、竹の順番に木が生えており、まるで柵のようになっておりました。

甚四郎がその林を見ながら、なにやら思案しております。

「人や動物を寄せ付けぬような森だの。まるで、人が敢えてそのようにして植えたような、そんな森だ。この向こうになにかあるのやもしれぬ、杢、喜助」
そうして甚四郎は、杢次郎と喜助に、この森がどこで終わるのかを、左右に手分けをして探させました。



すると、かなり時間が経ってから、二人が一緒の方向から戻ってきました。

「どうであった。この森の様子は」

杢次郎が答えます。

「丸き形の林のようでして、たどってゆくと喜助と出くわしましたわい。やはりどこも同じように、タラと漆と竹の並びになっておるよでごぜます。反対側に、この林の中心部へと入れそうな入り口を見つけましたで」


甚四郎がお殿様へその旨を報告し、一行はその小さな入り口へとむかって歩いてゆきました。



「甚四郎さま」と、みちが甚四郎に声をかけました。

「なんだ、どうした」

「昨日はの、晩のご飯を食わしてもろうて、まっことうまかたの」

「ほう、うまかったか、そうか、よかった。あの飯を作ったものはの、うちで数年前から女中をしておる15の娘じゃが、物覚えが良くての、料理の腕もあるようじゃ」

「ほうか、あん姉様の料理うんまかったのぅ、あ、あとはの、風呂にもいれてもろうたけんどもな、風呂はな、初めてじゃった!」

「そうか、どうであった、風呂は」

「姉さんにの、歌っての、楽しかったの」

「ほう、どういうとこが楽しかったのだ」

「声がの、響いての、神楽堂みたいにの、響いての、なんぞわっちは誇らしかったど」

「そうか、みちは声がよく通るから、女中もさぞ楽しかったろうな」

甚四郎が言うと、みちはすこし照れたような顔をしながらも、嬉しそうにしております。

風呂に入ったので、肌や髪はつややかで、輝いています。6歳という幼い年齢ですが、美しい娘になる、というのが一目でわかる顔立ちと髪と肌のつやです。みなさまにも、見えておりますか?

「みち、足は疲れておらんか?」

甚四郎がみちを気遣い、声をかけます。

みちは首をかしげます。
「まだなあんもしとらんでの」

なにもしとらんと、みちは言いますが、城下から4時間ほどの場所です。それほど歩いてもなんともない顔をしているので、毎日の百姓の仕事を、甚四郎は否が応でも実感しました。みちにとっては、数時間歩き続けることなど、“なにもしていない”に等しいのです。

その様子を、お殿様もぼんやりと眺めております。
お殿様は馬に揺られていただけでも疲れているというのに、6歳の娘は、まだなにもしてない、と言うのです。そして、風呂にも初めて入ったというのです。身分の差とは言え、複雑な気持ちになりました。難しい顔をして、なにやら考え事をしています。


「入り口は、ここにあるがです」

杢次郎が甚四郎に言いました。

人一人が通れるほどの狭い隙間があり、足元には石が敷き詰めてあるようでした。神社の参道のように見えなくもありません。杢次郎と喜助が鉈を抜いて、枝葉を切り落としながら前へ進んで行きます。

「なんぞ、隠里のようじゃの、だれかこの森のなかに隠れ住んでおるような、そんな森じゃの」

「忍びが住む場所はこういう場所なんかの」

杢次郎と喜助が話しながら歩いていくと、竹林が途切れ、雰囲気が変わりました。木々の背丈が低く、あたりが明るくなったのです。

みちが、森の真ん中にある祠に気づき、「あっ!なんかあるど」と声をあげます。
みちの身長ほどの大きさの石の祠と、朽ちかけた小さな赤い鳥居がありました。


一行は祠の前に立ちました。

「さて、ここに来い、ということであったが、稲荷大明神の祠か。他にはなにかあるのかのう、この森に」

お殿様が、開けた森を見渡しながら、甚四郎に言うと、

「ここに来い、だけですので、何があるのかまではわかりませぬな」甚四郎はそう答えました。

「よし、手分けをし、老婆が何を託そうとしておったのかを探そうぞ」

と、お殿様が全員に指示を出しました。

40人ほどの大人たちが、広い森に散らばって、上をみたり、下を見たりして“なにか”を探し始めました。

さて、みちは、というと、ひとりで黙々となにか拾って遊んでいるように見えますね。


大人たちはしばらく森のなかを探しましたが、とうとうなにも見つけることはできませんでした。

「どうであった、なにかあったかの」

お殿様が皆を集め、質問しました。

大人たちは、渋い顔をしながら、収穫なしという雰囲気です。

けれども、みちは違いました。喜助の持っていた手ぬぐいを借り、そのの中に何やらたくさん詰め込んでいます。

お殿様がみちの様子を見ながら、尋ねました。

「みち、何を包んでおるのじゃ」

みちは手ぬぐいを手際よく包みながら答えました。

「おっかあたちへのみやげじゃ」

「土産?ちと、中を開いて見せてみよ、一体何を土産に持ち帰るのじゃ」

お殿様が言うと、みちは手拭いを解いて開き、大人たちは、手拭いのなかを覗き込みました。



みちが手拭いを開いている、まったく同じ場所。
およそ100年前、おばあさんとおじいさんがそこで話をしています。
まだ、稲荷さまの周りは森ではなく、竹林に覆われていた頃のお話です。


「おじいさんや、こうやって立って見上げとるとな、竹の葉がさらさらと落ちてきてな、風が吹いてな、美しい音がするんだど」

おばあさんが稲荷さまのそばでそう言い、おじいさんは笑顔で頷きながらおばあさんの話を聴きます。

「おんなじじゃ、わしもの、おじいさんもの、葉っぱと同じようにの、やがて地の上で眠るんじゃ。みいんなそうやって生きてきたんじゃなあ、くるくるくるくる回っての」

「そうじゃなあ、人も土も変わらんなあ」

「あのな、わしはな、あのな、みちちゃんをの、娘みたいに思うとるがじゃ、わしが土になった時にの、みちちゃんにな、届くように、なにか残してあげときたいがじゃ、100年後、生まれてくるみちちゃんにの、渡したいがよ」

そうして、おばあさんは、おじいさんに向き直って言いました。

「おじいさん、手伝ってくれんかいの、わしのわがままにつき合うてくれんかいの?」

おじいさんは、ゆっくりとうなずいて、笑顔で言いました。

「ええよ、なにしたらええ?」

おばあさんは竹林を見上げます。

「この林を、拓いて、森にするんよ」





「なんで森ば作るんかの?」


稲荷さまの竹林の中で、おじいさんがおばあさんに尋ねると、おばあさんは背中の籠の中から一冊の本を取り出して、おじいさんに見せました。

「こりゃの、みちちゃんからもろうた歴史の書での、読めねえ漢字もあるんだけんどもや、みちちゃんに聴いたことも合わせるとの、」

そう言って、おばあさんは自分が知った歴史のことをおじいさんに説明しました。

みちが生まれ、幼少期を過ごした頃の将軍が、10代将軍家治だということ。9才の頃に売られ、女郎小屋で掃除や洗濯をしていたということ。数年経った頃に飢饉が起き、娘たちがたくさん女郎小屋にやってきたこと。

「せやけの、おそらくの、みちちゃんの家はの、飢饉の前から貧しくての、みちちゃんを売らねばならんかったんじゃろの、じゃからの、わしは、庄屋さまに頼んでの、薬を売ったお金やらをみざの村のみちちゃんにの、届けてもらおうち思うとるんよ」

「届けてもらうち簡単にいいよるけんども、そげな簡単に届けてくれやっせるかの?みちちゃんが生まれるまで、どれぐらいかかるっちゃろかい?」

「でえてえ100年ぐらいじゃの、けんども、庄屋さまにお願げして、信じて、お任せしやるしかないのんや」

「そじゃの、出来ることよりでけへんことばっかり増えてくんの、頼るしかないもんの。けんどもや、森ばなんで作らないかんとやろか、なんぞみちちゃんに関係あるかいの?」

「そじゃそじゃ、ほいでの、この書物にはの、飢饉のことが書いてあるがよ、飢饉の時はの、食いもんがなくなるで、村のもん同士での亡くなったもんばな、食いあったそうじゃわ、お金があってもや、食いもんなけりゃ人間は動物ぞ、ほいやからの、飢饉の時のためにの、この森をの、なんとか食いつなげるような天然の倉にしたいがよ」

「飢饉は人を変えよるけんの…けんども、なんぞばかでけえ話じゃのぅ、わっしら二人でできるんかの、そげなこと」

「じっくり時間かけて、ふたりで森ばつくっていこわい、えか?」

「そりゃあ、もっちろんええぞ、つくろわい」




そうしてその日から10年以上かけ、小学校の校庭ぐらいの広さまで竹を刈り、土をほぐし、様々な可食の植物を植えました。そして、まだ当時日本に入ってきて間もなかった“じゃがたら芋”を分けてもらい、種芋を増やし、森に植えてゆきました。
竹の周りには、動物避けに、漆とタラの木を植え、森を囲みました。


おじいさんとおばあさんは、稲荷さまの祠の前に立ち、自分たちで時間をかけて作った森を見渡しました。

栗 桃 アケビ 椎 山桃 猿梨 鬼胡桃 金柑 林檎 芋 タラ 筍

この森のなかには、これだけの植物が共生しています。ひとつの村の人たちが節制しながら食べていけば、なんとか食いつないでいけるかもしれない、それぐらいの大きさの森でした。




みちは地面にしゃがみこみ、手拭いを開いて、大人たちに説明します。

「ほれ、胡桃じゃろ、ほいでの、もう時期じゃないで、小さいけんどもや、これは桃じゃろ、ほいで林檎これもちっせえの、ほいだらのあっちの奥には、栗がたっくさんあったど、ほいでの、下には芋が実っとるど、足元の草は全部芋じゃぞこりゃ、見ったらことねえ芋だけんども、食うてみようかと思っての」

大人たちは、みちの話を熱心に聴きました。芋があると言われてそれぞれ足元を掘ってみると、長年にわたり蓄えられた様々な種類の落ち葉が、空気と養分を含んだ柔らかい土壌になっており、すこし掘ると、小振りのじゃがたら芋がぼろぼろと出てきました。

当時はまだじゃがたら芋、あ、みなさんの時代のじゃが芋はまだまだ一般的な農作物ではありませんでした。ここの大人たちも、食べたことがある、見たことがある程度だったかもしれません。

「こりゃ、じゃがたら芋かのう」

「そうじゃのう、そのように見えるけんども、なんぞ小ぶりじゃの」

「違う種類でねか?」

「けんども、鈴なりに実っとるの、焼いて胡麻油と塩でもかけて食うたらうまそうじゃの、のう?」

大人たちがそうやって話していると、お殿様が爺に言いました。

「爺、ここで料理をさせることはできるか?この芋を食うてみたい」

「この芋をでございますか」

「茹でるでも蒸かすでも、焼くでもなんでもよい、食うてみたい」

「かしこまりましてございます」

そう言って爺は芋を掘らせ、落ち葉を集め、火を焚き、じゃがたら芋の焼きいもをさせました。
数十人の大人たちが、焚き火を囲んで、なにやら楽しそうです。みちはその火の周りをきゃっきゃと言って駆け回っています。
やがて、芋が焼けて、それぞれ土や灰を払い、芋を食べてみました。

ほくほく、ねっとりとして、深い甘みがあります。土が肥えているんでしょうかね。みな、口々にうまいうまいと言って食べておりますよ。そんななか、お殿様はぼんやりと遠くを見ながら、黙って口を動かしております。考え事をしているようです。

やがて、わいわいがやがや騒がしくしている皆へ向けて、問いかけました。

「のう、みなのもの、老婆の言うように、飢饉はくると思うか?」

皆が静になり、お殿様を見ます。

「のう、お主らの考えが聴きたい。みちに行李やこの森を託した老婆は、みちが歌う歌や、年号をすべて当てておった。それと同じように飢饉がくるということも当てると思うか?」

それに、甚四郎が答えます。

「恐れながら、殿、この森を作るのには、並々ならぬ労力と時間が必要であったことは素人目に見てもあきらかでございます。この森は、老婆がみちを飢えさせぬために作った森なのでしょう。そしてわたくしは、昨今の稲の実りからしても、飢饉が来ると考える方が妥当のように思います」

喜助と杢次郎も、同感だ、というように何度もうなずいております。そして杢次郎が言いました。

「お殿様、百姓のものらと話しとってもですな、最近寒い年が多く、稲が弱っとるとは言うておりました、ほとんどの百姓たちが、そのように、なにやら感じておるようでごぜます」

そうして侍たちも、自分達の体験談を話しました。

隣国へ赴いた際、百姓どもがそうやって同じように話しておったとか、行商の者が北国では食べ物が年々なくなっているから北では商売ができないとか言っておったとか、そういうことです。



お殿様はその話ひとつひとつに耳を傾け、空を見上げながら考えています。
そしてやがて、何か考えがまとまったかのように両頬を叩き、言いました。


「みち、お主には悪いが、この森は、我が藩のものとする、いや、正確に言えば、この芋、だな。よいか。いや、お主が嫌と言っても、わしは芋をもらうがの。」

お殿様は不敵な笑みで、みちに笑いかけました。







「ここの芋は、すべて貰う。」



と、お殿様が言うと、爺や甚四郎たち大人は、驚いた顔を見せました。だって、いままでのお殿様の雰囲気とまったく違う発言ですもの。そういう発言が許される立場とは言え、将棋の本を20両で買い取るお殿様が、“すべて貰う”と言えば、そりゃ驚きます。わたくしも、あの時そばで見ていたので、とても驚きました。

けれども、みちはしばらく考えてから、そりゃ当然、というような顔で言ったのです。

「山のもんは、山のもんだ。みちのもんでねえ、別にいやとは言わんぞな」そして続けて、両手をすりすりと擦り合わせながら「けんども、芋をもうすこしもろうてもええかの?」と言いました。そんな仕草どこで覚えたんでしょうね。わたくしの予想だと、杢次郎の真似をしているように思いますけど。

お殿様は、みちのその言葉に笑って頷き、「もちろんだ、お主は持てるだけ持って行くがよい」と言って、次は皆に向かって言いました。

「これより、数名、山を降り、村から鋤や鍬、車や牛を借りて参れ。総員で、この芋を城へと運ぶ。甚四郎たちも、手伝いを頼む、わしも爺も、皆でやろう。みちもな。」

すると爺が慌てた様子で訊きました。

「殿、なにをなさるおつもりですか、突然、芋掘りなどと…」

お殿様は、照れ臭そうに、観念したような面立ちで、そばにあった倒木に腰掛け、言いました。


「…昨日な、お主たちが戦っておる時に、みちにの、お殿様はなんで戦わぬのだ?と、お殿様は、どんな仕事をしているんだ?と。そのように尋ねられたのだ。

そしての、わしはの、その答えがわからんかった。しばらく考えて、城に戻ってからも、考えた。わしは、一体、なにをしておるのかと。皆に殿と呼ばれ、藩主として馬に乗っておるが、一体わしは、なにをしているのだろう、とな。

幼き頃より、この藩の主になるのは決まっておった。
言われるがまま、恥ずかしくないように、立派な藩主となるように、勉学、武道に励み、お家存続のため、こんにちまでやって参った。

けれどもな、昨日、お主らに守られながら思ったのじゃ。藩主として、ただ座っておる。自ら勝ち取った地位ではなく、親から受け継いだ場所にただ、座っておる。わしではない誰かが、この藩の藩主をしても、この藩は続くだろう。じゃあ、わしは何者ぞ、とな。」

すると、爺が、声をあげました。

「先代より城を、藩を受け継ぎ、藩主をお勤めになる。それは充分に、いえ、十二分に尊いことにございます、その双肩の重み、この爺には重くとても支えられるものではありませぬ、それを殿は若き頃より成し遂げておいでになる。それは、だれにでもできることなどとは到底思えませぬ」

お殿様は優しく爺に笑いながら言いました。

「けれどもな、先代と同じようなことをして、城を、藩を守るなら、それならば誰でも構わんのだ。わしでなくともよい。わしに兄がおれば、兄がなったやもしれぬ、父上に息子が生まれなんだら、どこぞから誰かが養子にきて、城主を務めたまでのことだ。

そしてな、思うのだ、おそらくな、老婆が未来の東京で知り得た情報の中に、この藩の飢饉のこともあったのであろう。このような広大な森を老婆が拓くのは並大抵のことではなかったであろうに、このような森を長い時間をかけて作った。この森の大きさはすなわち、飢饉が大きく、人が飢えて苦しむ規模を表しておるように思う。

そして、おそらく、わしは飢饉で民を守れず、たくさん死なせたのであろう。なにが藩主だ。城主だ。わしが守れなんだから、老婆はこの森を作り、せめて、みちだけでも、と行李に銭と地図を託したのであろう。

わしは、貧しき老婆に、問われておるように思う。
お殿様は何しなさるんかね?どうしなさるんかね?と、この森を通じて問われておるように思うのだ。

だからの、わしは決めたのじゃ。昨日のお主らが、我や、みちらを守ってくれたように、わしも、お主らを、民を守りたいと、そう思う。

よって、この芋を、藩で管理しようとおもう。
世迷いの、芋藩主と笑われるかもしれぬ。
言い伝えを信じた呆け城主と呼ばれるかもしれぬ。
けれども、みちと老婆の、時間を越えた不思議な巡り合わせを、わしはこの目で見てしまった。信じぬというほうが、わしには難しい。

わしは、飢饉が起こる、という老婆の言葉を信じ、老婆が植えたこの芋で、我が藩を、民を守りたい」

一同、お殿様の演説を黙って聞いております。
セキレイが遠くの小川のそばで鳴いているのが聞こえました。
大粒のイガグリが、落ち葉のなかに、ぼぶさりっと落ち、森をゆっくりと風がすり抜けていきます。

「城に戻ってまた改めて城の者全員に話をしようと思うが、まずは、お前たちに先に話そう」

お殿様は立ち上がり、みちの手拭いの中の芋を拾い上げます。

「まずは、我らがこの芋を50倍に増やす。この芋の葉勢の様子じゃと、秋と春に収穫できそうじゃ、来年までに、芋を増やし、その増やした芋を種芋とし、武家、町民、百姓に分配し、それぞれ庭や畑で育てさせる。天明という年号がいつやってくるのか、わからぬ。もしかすると明日かもしれぬ。だからこそ、本日たった今から、我らはできることを、やる」

そう言って、お殿様は、刀を鞘ごと抜いて、近くの木にたてかけました。

「土を耕すのに、刀は要らぬ。お主らも、お主らの父君や母君や、先祖から受け継いだこの国の土地を、そしてお主らの血を誇りに思っておろう。しからばそれらを守るため、お主らも刀を置き、土を耕せ。侍だの百姓だのと言ってはおれぬ。国をあげて、この国を守るぞ。」

爺が、ゆっくりと刀を、近くにあった木にたてかけて、お殿様に跪きました。他の侍たちもそれにならい、刀を置いて跪きました。

甚四郎たちは正座をし、お殿様に向かって頭を垂れています。杢次郎が、頭を下げていないみちに気づき、彼女の頭を優しく支え、お殿様に向かって頭をさげさせました。

みちは、おとなしく頭を下げながら、拾ったクルミで手遊びをしています。



その後、村から大八車と鋤と鍬と野菜籠などを借りてきて、皆で芋を掘り返し、収穫をしました。茎や葉の部分も苗に使えるということで、水をかけ、むしろにくるまれて、車に積まれました。

一日がかりで掘り出し、泥だらけになった一同の前には、たくさんの芋が大八車にのせられています。その量はなんと、車3台分の収穫量でした。その芋を城内へ持ち帰ると、お殿様はそのたくさんの芋を半分に切りらせました。侍たちは刀を置き、城内のあちこちを掘り返し、耕して、半分に切った芋の苗や、種芋を植えました。そうして、城の中には中庭に至るまで、足の踏み場がなくなりました。この不思議な出来事は、安永7年の出来事として、藩史にも記されております。



そして安永8年。
西暦1779年のこと。
何日も続いた地震の末、薩摩、桜島が大噴火しました。
この噴火は何年も続き、溶岩が地上や海底で噴出し、津波や火砕流などが起こりました。

この火山活動は数年にわたり続き、広い地域の農作物が日照量の低下や火山灰などで影響を受け、日本全体で徐々に収穫量が低下してゆきます。

そして安永10年。
1781年。
年号が改元されました。

新しい年号は、天明。

天明に入ってから、夏は寒く、冬は暖かく、雨は降らず、という不思議な日々が続き、農作物はさらに被害を受けていきます。

そして、天明3年。
弘前、岩木山が噴火。
長野、浅間山が噴火。

安永から続く不作に追い討ちをかけるように、火山が相次いで噴火し、飢饉が始まりました。


さて、桜島の噴火が起こった、安永8年へと戻り、昔話の続きをお伝えし





さて、稲荷さまの森から城に戻ってきてから、お殿様はいろいろと考えました。

イナベ村へ向かっている途中の稲も、枯れて弱ってしまっていたので、今年の収穫量は、例年よりもかなり少ないでしょう。
するとまずは、米を守らないといけません。

そしてお殿様は、藩内での米を使った菓子や嗜好品の類いの製造を禁止としました。
酒蔵や菓子屋には、藩から助成金を出し、代わりに種芋を与え、敷地内や藩領の敷地にて、芋の栽培を命じました。いきなり芋を育てろだなんて横暴だ、命じられた側はそのように思ったでしょうね。

安永8年、種芋が増えてからは、百姓や町民や侍にも同じように芋の栽培が命じられていきました。

そんな変な政令を出したお殿様は、国の者たちから、芋狂いの城主と呼ばれ、よくない噂がたくさんたちました。悪い易者の言葉を信じて、大金を貢いでいるとか、病にかかって世迷い言で国を動かしいているとか、そういう類いの噂です。

そしてそのような噂は他国へも広がりました。他国の者たちは、侍なのに芋を育てているこの国の侍たちを、芋侍とか百姓侍だとの揶揄するようになります。そして使者で来ていた隣国の侍たちが、泥だらけで芋を植えているこの国の侍たちを見て、芋侍と直接揶揄するような出来事もありました。しかし、侍たちは、広大な範囲を耕し、芋を植えるのに忙しかったので、はらわたは煮えくりかえっておりましたが、その怒りを鍬に向け、土を掘り返してゆきました。

ひとつの芋を半分に切り、植えると、そのひとつの種芋から50、60個ほどの芋が収穫できました。そして、芋の苗も切り分けて植えると、同じように芋を収穫できたので、芋を掘り返した時にお殿様が言っていた“50倍に増やす”という言葉は翌年にはあっさりと完遂することができました。

当時の事を記した町民の日記を見てみると、城下町の長い通りに、大八車が行列を成し、そこには芋が沢山積まれていたと言います。

そうやってお殿様が種芋を増やし、通りに車を並べ、人々に芋を配り、芋を育てるように、と藩令を出したその年。

遠く離れた薩摩の地の、桜島が大噴火を起こしました。お殿様の藩にも火山灰がやってきました。この噴火が、天明の飢饉の前触れとも言われております。

安永10年。
みちは9才になりました。
村では不作がずっと続いています。

おばあさんとみちが繋がっていなかった歴史の中では、この年に、みちは人買いに売りに出されるはずでした。

不作 年貢 そしてむらおさの悪事で、みちの家族は苦境に立たされ、みちひとりを売れば、家族が飢えずに済んだからです。

けれども、お殿様が免除した年貢20両分と、おばあさんが遺した9両、そしてむらおさが長年くすねていた年貢が返還されたことで、みちはこの年、売りに出されずに済みました。でも、だれひとり、みちが売りに出されるだなんて出来事を知るよしもありませんでした。不思議ですね。

あ、そうそう、あの将棋の本はちゃんと徳川家治様の手にわたり、お殿様の思惑通り、街道整備の費用援助にまでこぎつけることができたそうですよ。どうやらたいそう喜ばれたそうです。東京のみち、無意識とはいえ、とても良いセレクトでしたね。

そして安永のみちは、おばあさんからもらったひらがな練習帳をどこにいくにも持ち歩きました。そしてすぐに文字を覚え、その次は漢字辞典を手にさまざまな漢字の知識を手にいれて行きました。

そういえばもうひとつ、みちからおばあさんに手渡された書物、歴史の教科書がありましたね。あの教科書があったので、おばあさんは年号を覚えたり、飢饉のことを学んだりできたのでしたね。

けれども、みちにその本が渡ることはありませんでした。
なぜでしょう。

その教科書には徳川幕府が倒れることも書かれていたので、おばあさんはその事実を知った時、おじいさんに相談しました。
こんなことが書いてある本をみちちゃんに渡して、もし幕府に見つかったら、とんでもねえことにあっちまうでねえのか、と。

するとおじいさんも、その通りだ、そりゃ渡さねえほうがええ、と応えました。そして歴史の教科書は、おばあさんが年号を覚えて飢饉のことを学び尽くした後、庭で燃やした、とそういうわけなんです。


さて、文字を覚えたみちは、時おりやってくる喜助に、なんでもいいから本を貸してくれと、そうお願いして、古本を借りて読むようになりました。

けれども、喜助はみちに言われるがままに、「みちが本を、かせかせかせかせ蝉みてえにうるせえもんで、甚四郎さま、ちとお借りしてもいいですかの?」と言ってみちに本を持って行きました。

庄屋の書庫には、さまざまな書がありました。その中には杢次郎がこっそり隠して忍ばせていた本もありました。井原西鶴の浮世草子「好色一代男」もそのひとつでした。

わたくしも少しだけこの本を覗きみたことがあります。
世之介という7才の少年が、60才になるまで、沢山の男女と色恋を楽しむお話です。みちがなんでもいいと言うものだから、喜助は書庫から数冊抜き取ってみちに渡すのですが、こんな本を10才のみちが読んだら大変ですが、けれども、挿し絵がふんだんに使われているので、みちは不思議に漢字ながらも、興味深く読み進めていきました。

わからない部分は両親に聞くのですが、両親は文字が読めません。文字が読めそうな旅の人を捕まえて、みちは質問します。

「旅のお方、ちくとばかり聞きたいことがあるんじゃけども、ええかの?」

「なんだい娘っこ」

「これの、今の、これを読んじょるのじゃけんどもの、意味がわかんねからの。えかの?この世之介がの、ここでな、なあんで火を吹き消すんかの、と思っての、小便するのに、明かりがねえとあぶねえでねか?」

旅人は、本を受けとり、その場で立ち読みします。

裕福な7才の世之介が、自分の世話をしてくれる侍女に蝋燭を持たせ、夜中に用を足しに行きました。すると世之介は「もっと近くによりなよ」と言って侍女が持つ蝋燭の火を吹き消すのです。侍女が「明かりがないとあぶないですよ」と言うと、「恋は闇だと言うじゃないか」と言って、侍女の袖を引き、あたりにだれかいないか窺う。

という場面です。なんとこの小説の主人公は7才で女性を誘惑するのです。みちは、自分より年下の子供が意味のわからないことをするのが、不思議でなりませんでした。

「おめえ、これは、その、親御さんが、おめに渡したんかの?」

旅人は気まずそうに尋ねまして、みちは自信満々に応えます。

「庄屋さまから借りとるがじゃ」

旅人は、わけがわかりません。この国では、庄屋が子供にこのような本を貸し与えるのか、と目を丸くしています。

「なあんで明かりを消せばならんのかの、便所に落ち込んで怪我するんでねかの?」

「いや、その、なんというか、えっと、まあ、んー」

旅人は、答えあぐねています。

みなさんも考えてもみてください。
みちは10才。
あれからさらに背も伸び、可愛らしい少女になっております。その少女が、大人たちがにやにやしながら読むような本の内容について、興味津々質問してくるのです。

旅人は、

「なんか、そだの、あの、あれだな、なんか、あれだ、眩しいんでのかの」

と言って、曖昧な答えを残し、立ち去って行きます。

みちは、「納得できね」という面持ちで立ち尽くし、旅人の後ろ姿を眺めました。


この年、年号は改元され、天明にかわりました。


みちはのんきにしておりますが、各地で異常気象と、天変地異が続き、食べるものが徐々になくなってゆきました。

追い討ちをかけて、青森の岩木山噴火。
そして、長野の浅間山が噴火しました。


「殿、城下へも、浅間山の灰が届いております。浅間山の麓の村では人死にも出たと聞き及んでおります」

爺がお殿様に報告をしているようです。
お殿様は、城の廊下にうっすらと積もっている火山灰を指先で撫でてから言いました。

「むごいのう、まさか、今日自分が死ぬとは思っておらんだったろうに」

そう言ってお殿様は、とおく離れた浅間山の方角へ手を合わせました。

「左様にございますな」

爺もそれにならい、手を合わせながら応えました。

「我が藩では、なにか損害は出ておるか」

「はあ、やはり灰が次から次に降ってくるゆえ、米が、かなり被害を受けておるようです、どうやら今年は、米は…」

「そうか。しかし、米は備蓄米があるからよい。とにかく芋を増やし、民を餓えさせぬように努めよ、よいな」

「はっ、かしこまりましてございます。
そして、殿、別件ではございますが、隣国より使者の者が参っておりますが、いかがいたしましょうか。」

「用件はなんと」

「食料を分けてくれと、藩主名義で願い立てて来ております」

「そうか、隣国というと、東か?西か?」

「西にございます」

「そうか。なるほど。西か。西の侍どもは、我が藩の侍たちを、芋侍と揶揄しておったと聞くが、そこから使者が参ったということか?」

「左様にございます」

「そうか、通せ」


なんだかお殿様、とっても敏腕になっているような気がしませんか?爺も、なんだか従順というか、お殿様に対して嫌味をまったく言っていませんね。ここ数年で、お殿様が人間的にとても成長したようなそんな気が、わたくしはしています。

あ、隣国の使者が、お殿様の前へ通されました。


「よく参ったの」

「はっ、殿より書状を預かり、参じました」

「読もう」

お殿様は書状を受けとり、読みました。



「うむ、理解した。食料を分けてくれということじゃな」

「はっ、左様にございます」

「それは、よい、多少ならこちらも備蓄がある、少し分けるのは、よい、よいのじゃが、あ、そうじゃ、ところでお主、お主はうちの藩の侍たちを、芋侍と呼んだことはあるか?」

使いの侍の者は、びくりとして、畳を見つめています。

「いや、怒っておるのではない。呼んだことがあるかどうか聞いておるのだ。なんでも、畑を耕しておる我が藩の侍たちを小馬鹿にするように、お主らの藩の者たちが芋侍だの百姓侍だのと呼んでいったそうだが、どうじゃ」

「いや、その、わたくしは、呼んだことはございませぬが、その」

「そうじゃの、お主は呼んではおらぬが、呼んでおるのを聞いたことがあるという口ぶりじゃの」

使者は申し訳なさそうに諦めて頷きます。
お殿様は笑顔で言いました。

「主君に仕えるのが武士であるからの、主君の命は絶対じゃ。泥を飲めと言われれば泥を飲むし、戦えと言われれば戦う。そして、芋を作れと言われれば、芋を作る。なにも戦で戦うだけが武士ではない。戦国の籠城戦では、木の皮や畳まで食ろうたと聞くぞ。国のために畳を食うてなお、降伏せずに戦う。武士の鏡だとは思わぬか。のう。お主はそのようなに戦う武人を揶揄できるか?

わしはの、芋を作っておるあの者らは、わしの命をあまんじて受け、汗を流し泥だらけになっておる。あの者らは、戦をしておるのだ。

どんな戦だと思う。国を守り、民を守る戦じゃ。なにも刀を携え馬に乗るのだけが武士ではない。わしはの、あの者らを、武士の鏡じゃと思っておる。

わしを芋城主だの世迷い藩主だのと呼んで馬鹿にするのはどうでも良いが、国のため民のために忠義を尽くしておる武士を、同じ武士が馬鹿にするのを、許せるほど、わしは心が広くない。

そしてお主らは、自分達は手を汚さずに、食料だけ貰おうとする。お主は、それを子供に教えられるか?武士とはこういうものぞ、と教えられるのであろうか。

これは、食料を渡さぬということではない。今一度城へ帰り、この話を皆でして、今一度武士の一分を考えてはくれぬだろうか」

使者の者は冷や汗を流しながら帰ってゆきました。


お殿様は、灰に煙る城下町や、霞んでほとんど見えない遠くの村々をぼんやりと眺めています。

「殿、今回はいささか、強い姿勢での外交でございましたな」

「やはり、そうかの、かっとなってしまったかの」

「いえ、殿らしい外交でございました」

爺は、頭を下げ、いたずらっぽい笑みを湛えてお殿様をみています。




そうして数日後、その隣国の侍たちが、数十名でやって参りました。






隣国の殿様と家老が、侍たちを連れ、数十名でお城へやって参りました。
まるで大名行列のような出で立ちで、全員が礼装の着物を身に付けております。

いったいなにが起こるのでしょうね。


お殿様は、自国の侍たちにも礼装を身に付けさせ、彼らを迎えました。


城の客間で待っている隣国の殿様や家老や侍たちは仏頂面です。何やら、ものものしい雰囲気が漂っております。

お殿様、家老たちが、礼装を整え、隣国に応対する為に、客間へ現れました。

隣国の家老が口を開きます。

「書状をご拝読頂き、誠に感謝いたす」

爺が答えます。

「遠路はるばる、ようこそおいでくださった」

すると、それきり、会話が途絶えてしまいました。双方、緊張しておるようでございます。


相手方の殿様が話し出し、お殿様が答えました。

「実に久しぶりですのう」

「そうでありますな。…して今日は、どうなさいましたかの」

「前回の、書状の返答を、城内で調査し、吟味した。すると、我が藩内には確かに、貴藩の武士を愚弄するような不届き者がおった」

「なるほど」

「その者らが、謝罪したいと申し出ておる、受け入れてはもらえぬだろうか」

「そうでしたか、それはもちろんです」

すると、城の庭に、呉座が何重にも敷かれ、その上に3人の武士が座りました。庭と言っても、ほとんどが芋畑になっていて、風流な庭ではないのですが。お殿様は不審な顔をして、なりゆきを見守っています。謝罪にしても、呉座が何重にも敷かれるのは、不審だったからです。その顔を察した相手の殿様が言いました。

「あの者らは、軽率な行いで我が藩に泥を塗ったゆえ、けじめをつけて腹を切りたいと、自ら願い出てきた。庭は汚さぬゆえ、そのようにさせてやってはくれぬか、わしが止めてもまったく聞かぬ、譲らぬ。強情なやつらよ」

なんと、芋侍と揶揄した3人の武士が、この場で腹を切って詫びると言うのです。どうやら食料が乏しい中、支援が貰えぬかもしれないという状況に、深く責任を感じたのかもしれませんね。でも、詫びるとは言え、さすがに死ぬことはないですよね。

お殿様は、その言葉に頷くと、爺に言って、芋侍と呼ばれた当の本人たちを呼び寄せました。

しばらくするとその者たちがやってきて、お殿様に向かって低頭し、座りました。

「おもてをあげよ、さて、お主らを芋侍と呼び、愚弄した者たちがそこで、今、腹を切って詫びたいと申し出ておるそうじゃ、お主らはどう思う」

5人はこういう場に呼び出され、なにごとかと、内心びくびくして緊張しておりました。そしてさらに、この状況を理解すると、一同騒然とします。そして、庭で微動だにしない武士たちを振り返り、5人で顔を見合わせました。この者たちは、普段はお殿様に会うことも出来ない、下級武士たちです。この場の雰囲気と、そして状況に、明らかに動揺しているのが見てとれます。

だって、芋侍と呼ばれたのなんてだいぶ前のことですし、そして仲間同士でも冗談でそのように呼び合うことも最近はしばしばあります。芋を作り始めた当初はそのように呼ばれた悔しさで、上の者に報告をしましたが、今日までそんなことは、まったく忘れてしまっていました。それほどに、日々の仕事は忙しく、辛いものでした。

「黙っておってはならぬ、お主らも当事者だ、さて、どのように思う」

お殿様の言葉に、5人はまたびくりとして、お互いに肘をつつき合いながら、“お前が答えろ”と小声で言い合っておりました。そのうち、一番若くて背の低い侍が、言葉を選びながら、お殿様に返答しました。


「恐れながら、その、申し上げます。武士が、腹を切るとばですね、その武士が腹ば切ると決めたその決意ばですね、他のもんがどうこう言うのは、こりゃ、その決意に泥を塗るようなもんで、不粋なことやけん、拙者は口を挟みとうないとですけど、先程、殿は、拙者らがどう思うのかを、その問われたように思いますけん、拙者らの感じとることば、申し述べてもよかとですか」

お殿様は、ゆっくりと頷きました。

するとその若い侍は、少し早口になって語り始めました。

「腹を切るのは一瞬ですけんども、畑ば何反も耕すとは、何日もかかります。腹を切るその刀を鍬に、死ぬ気で畑を作るとが、わしは、両国にとっても、お互いにとっても、ええんじゃねかと、そう思うとですけど、その、はい」

他の4人の武士たちも、ふんすんふんすんと頷きながら若い武士の言葉に同意しています。

お殿様は、庭の3人に向かって、言いました。

「と、この者らは言うておる、そして、わしも同じ考えだ。腹を切るというその覚悟を、誰よりも働き抜いて藩に報いるという形にしては、だめなんかの?せっかくこの飢饉で生き抜いておるのだ。どうだ」

すると、隣国の殿様が言いました。

「いやそれが、わしもそのように言うたのだが、あの者らも強情での。わしの顔に泥を塗ってしまったのが、どうしてもあやつらの中で許せぬようだ」

「左様ですか……参りましたの。それでは、こうしてはどうでしょうか」

お殿様は、3人に向かって提案しました。

「お主ら3人を、我が藩にしばらく留め置き、芋づくりの労役につかせる。そうじゃのう、ふた月でどうだ。これで我が藩には芋の収穫が増える。そしてお主らは、種芋を持ち帰り、藩内でこの芋の栽培手法を広めればよかろう。我が藩にとっても貴藩にとっても、こんなに利になることはないぞ。どうだ」


庭の3人はお互いに顔を見合わせ、お殿様に向けてゆっくりと頭をさげました。どうやら、その提案を受け入れたようです。隣国の殿様も、異論はないという顔つきです。すると、3人のなかのひとりが、お殿様と5人に向けて言いました。

「拙者どもの、拙い軽忽で慮外なる行いを、寛大なるご懇篤、ご仁恕にて手を差し伸べてくださり、奉謝の意耐えませぬ。どうかご容赦されず、なんなりとお申し付けください。一意専心、奉公する所存にございます」

これにて、どうやら一件落着したようです。
お殿様も、ひとり廊下に出たあとに、ほっと一息ついて安心したご様子でした。お侍さんたちも、大変ですね。



さて、3人の侍たちはふた月の間、一日も休まず毎日毎日、畑を耕し、芋を植え、水をやり、草を抜き、また別の畑を耕し、芋を植え、水をやり、また別の畑を、というのを繰り返し、芋作りの技術を体得し、帰ってゆきました。5人の侍が、3人の侍に丹念に芋づくりを教えたので、8人の間には、友情のようなものまで芽生えていきました。

3人が帰国するとき、みなで笑いながら抱き合って涙を流したといいます。


このように、食料を分けてもらったり、芋作りについての知識や技術を学ぶために、近隣の藩からの人々の往来が増え、お殿様の藩には人が行き交うことが増えてきました。すると宿が足りなくなり、新しく宿を始める者も出まして、そうすると行商の者もやってきて、またさらに人の往来が増えるということで、飢饉の真っ只中にはありながら、城下町は活気づいていきました。


さて、そんななか、この国に善右衛門という薬売りがやって参りました。年の頃は甚四郎と同じくらいの40前後でしょうか。その善右衛門が、城下町へ向かう途中、みざの村を通りかかっておった時のことです。


「旅のお方、ちくとええかの?」

「ん?なんだよ、どうした?」

みちが、城下町へと急ぐ善右衛門に話しかけました。

「今の、この、養生訓ちゅうのを読みゆうがやけんどもの、わからんところがあるもんで、聞いてもえかの?」

みちは、ただいま12才です。身長はさらに伸び、手足はすらりとして、髪は結い上げております。東京のみちの面影がありますね。

「なんだいなんだい、百姓の娘が養生訓?なんだいこの国は、百姓まで普通に字が読めるのかい?たいしたもんだね、噂に違わぬいい国だよこりゃ」

善右衛門は目を白黒させながら驚いております。恰幅がよくて、勢いがあって、赤ら顔の、気のいい男という感じがします。

「子供の頃にの、文字の勉強したでの、読めるようになったがじゃ、ほいでの、ここじゃ、ここの意味が、ようわからんのんじゃけんども」

みちは、養生訓を開い昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

おじいさんは、杖をついて川へ洗濯に。
おばあさんは、東京都墨田区押上駅近くのドラッグストアへ行きました。


普通、こういう時って、おじいさんは山へ柴刈りに、そしておばあさんは川へ洗濯に、行くものですよね。わたくしもそう思います。

けれど、普通と違うこの物語の始まりには、深い深い、長い長いわけが、あるのです。もしご興味があれば、続きを聴いていってくださいね。


さて。

3年前のある日、おじいさんは山へ柴刈りに。そして、おばあさんは川へ洗濯に行きました。


洗濯が終わりおばあさんは家に帰ってきましたが、お昼時になっても、夕時になっても、おじいさんは帰ってきません。

あたりが暗くなり、フクロウが鳴き始めると、外で足音がしました。やっとおじいさんが帰ってきたのです。
おばあさんは慌てて外に出て、おじいさんに駆け寄りました。
すると、おじいさんは、片足を引きずり、木の枝で杖をついています。

「おじいさん!どうしたがね!」

おばあさんが慌てて尋ねると、おじいさんは痛そうに額の汗を拭いながら、

「沢に落ちてしまっての、足を挫いた。痛くて夜まで動けなんだ。まだ足首が痛くてたまらん。布団を敷いてくれろ、もう寝るど。」

そう言って、おばさんが敷いた寝床に入りました。けれども、痛みで眠れるわけもなく、足をさすりながらウンウンと唸っています。

おばあさんは、おじいさんの怪我を冷やさねばと思い、水瓶からタライに水を張り、おじいさんの足を、水手拭いで冷やしながら、一晩を過ごしました。

明日の朝、お山の稲荷さまのところへ行って、おじいさんの怪我が治るようにお百度参りしよう、おばあさんは怪我を冷やしながら、そう思いました。


翌朝、おばあさんは畑でとれた野菜を、稲荷さまに供える為に、背中の籠にたくさん詰め、籠を背負い、お山の竹林のなかにある、稲荷さまへ向かいました。

山を登り、森を抜け、静かな竹林を進むと、稲荷さまの祠があります。


「稲荷さま、うちのおじいさんがの、足を痛めて苦しんどるけ、どうにか助けてくれろ。どうにか、稲荷さまの力で助けてくれろ」

そう言いながら、おばあさんは何度も何度も竹林を出て、またお参りをする、お百度参りをしました。何度も何度も、竹林の入り口と稲荷さまの祠を往復しています。

いつも、ここの稲荷さまにはおじいさんと一緒にお参りに来ていたので、助けてくれるのではないかと、おばあさんはそう思いました。

汗を拭い、必死に竹林を歩き続けるおばあさんのそのお参りが、101回目になったとき、あたりが突然、眩しい光に包まれました。おばあさんは、目を瞑り、顔をしかめ、眩しい光を両手で遮ります。大きな音が聞こえて遠ざかって、嵐のようになって静かになって、そして、突然騒がしいところに、立っていました。

さっきまでは風の音もしない静かな竹林だったのに、今では人の話し声や風の音や、聞いたこともない騒がしい音がたくさんしています。

おばあさんは、眩しそうに辺りを見回しました。石でできた沢山の高いお城のようなものが数え切れないほどあります。牛馬のいない荷車が、たくさん動いています。里では今まで見たこともないようなたくさんの人々が、見たこともない着物を着て歩いています。

おばあさんは、不安になって空を見上げました。すると、白い色の火の見櫓のようなものが見えました。でも、里の村にある、火の見櫓とは比べ物にならないほど、もっともっと高くて、とても大きいものでした。おばあさんは怖くなって、

「こ、ここ、ここここ、ここが、稲荷さまのお国かね?」

そうひとりで、呟きました。
すると、近くを通りがかった女が怪訝そうに立ち止まり、おばあさんに話しかけます。

「おばあちゃん、どうしたの?道に迷ったの?大丈夫?」

おばあちゃんは、震えながら、ものすごく不安そうな顔をして女に訊きました。

「あああんたは、い稲荷さまのお使いのか方かね?」



おばあさんが女に訊くと、

女は、少し困った顔をして答えました。


「あ、えっと、お使いっていうか、今昼休み中なんですよ。これからランチに行く途中で。で、おばあちゃん、だ大丈夫ですか?」


「わたしはどうもないが、おじいさんが足を怪我しとるで、稲荷さまにお百度参りしたんじゃ。そしたら突然ここにおったんじゃよ。ここでは、稲荷さまのお導きで、妙薬のお授けをいただけるんじゃろうか?」


女が見たこともない着物を着ているものだから、おばあさんは女を稲荷の国の巫女だと勘違いしていて、そして薬をこの女から貰えると思っているようなのです。


けれど女は、巫女ではなく、近くのオフィスの事務員です。

お昼休みのランチで外に出たら、おばあさんが困っていたので声をかけました。女は、“なんだか変わったおばあちゃんだけど、たぶん薬を買いにきたのだろう”と思いました。


「えっとね、おばあちゃん、お薬屋さんなら、ここまっすぐ歩いていったところにありますよ?ほら、あの赤い看板」

そう女は言い、道の先にある赤い看板のドラッグストアを指差しました。


おばあさんは目を細め、不安そうに看板を見つめ、

「あそこで妙薬のお授けがあるかね?お授け頂けるんかね?」

と女に尋ねました。

「えっと、うん、たぶん、お店の人におじいちゃんの怪我のこと言ったら、教えてくれるはずだよ、うん。それじゃあ気を付けてくださいね。」

女は、そう答えてからヒールをこつこつと云わせて立ち去っていきました。


おばあさんは、立ち去っていく女の背に向かって手を合わせて拝み、ドラッグストアへ向けて歩き出しました。


おばあさんは、裸足にわらじ。灰色の脚絆をつけ、土色のふるぼけた着物を、ぼろぼろの麻の粗末な帯で巻き、首には薄汚れた黄土色の手拭いを結び、頭には竹の皮で作った笠を被っています。

そして大きな竹籠を背負っていて、その中には稲荷さまへのお供えの野菜がたくさんです。そんなおばあさんが、東京スカイツリーのしたをドラッグストアへ歩いています。


やがてドラッグストアの前に来ました。

城下町で一度だけ見たことがある、ビードロで出来た美しい戸が並んでいます。けれど、その戸には、取手も手掛かりもありません。入り口はどこだろうと、あたふたしていましたが、ここも祠の一種だと思い直し、お参りをしようとその祠の真ん前に立って二礼しました。


すると、ビードロの戸がすぅっと、触ってもいないのに開き、中から“いらっしゃいませぇ”という声が聞こえてきました。おばあさんは、たいそう驚いて「ははぁっ、失礼いたしますっっ」と平身低頭したあと、白く光輝く祠のなかに入って行きました。









祠のなかは、秋のように涼しく、そして日を浴びる畑のように明るく、どこかで誰かが歌い、誰かが楽器を演奏しています。壁や仕切りには、大小の箱や徳利のようなものが、たくさん並べられています。シャンプーやリンスやボディーソープや歯磨き粉の棚をしげしげと見つめ、これだけ妙薬があれば、おじいさんの怪我も治るだろう、とおばあさんは安心した顔をしました。そして、白い服を着て、その妙薬のひとつを手にとって愛でている若い神官に平身低頭し、お祈りをしました。


「お招きいただき、まっことありがとうございますっ おじいさんの怪我が不憫で見ておれなんだから、稲荷さまにお参りさせていただきました。どうか、なにとぞどうか、妙薬をお分けくださいっ、おねげえしますっ!」


おばあさんは、神官だと思っていますが、この男はドラッグストアの店員です。そして妙薬を愛でている訳ではなく、ウナコーワクールを陳列しているだけなのです。そこへ、突然昔話の中のような格好のおばあさんがやってきて、土下座をしながら、「妙薬をお分けくださいっ」と言うので、男はおばあさんを五度見したあとに、小さく「いらっ、しゃい、ませ?」と言いました。


「ははぁっ!どうか!なにとぞ!」


「あのぅ、なにかご用でしょうか。どうかされましたか?」


「この通りでございますっ おじいさんの足首を治す妙薬をば、稲荷さまにどうかっ、どうかなにとぞっ おねげえしますっ どうかっ」


「あっ、あの、その、まず、はい、じゃあ、あの、とりあえず、おばあちゃん、顔をあげてください。あの、お薬の場所は、ね、普通にお伝えしますので、ね、とりあえず、おばあちゃん、たちましょうか、ね?」


おばあさんが何度も頭を下げるので、背中に背負った籠から茄子やキュウリが、ぼとぼと前にこぼれ出てきます。それを店員は籠に戻しながらおばあさんを立たせます。


「えっと、その、どうされました?ご主人がお怪我されてるんですか?」


「へい、芝刈りに行っとったら、沢に落ちてしもうて、足挫いて、腫れ上がってもうとる、っもう痛そうでかわいそうで不憫じゃ。どうか妙薬をお授けください。どうか、この通りです」


おばあさんはまた土下座しようとするので、店員はおばあさんの脇を掴み、ちょちょちょちょ、ね、大丈夫ですから、立ったままでね、と言いながら、なんとかそれを制止しました。


「わかわかりましたから、ね、それよりね、あの、ご主人は、病院とかって行かれました?」


「ビョウイン?…ビョウイン…?……ビョウイン?そのビョウインというところに行かんと、お授けしてくれんのじゃろか…」


「あ、その、行ってないんですね?お医者さんに診てもらってないんですね?」


「山にも、里にも医者はおらんで、村から二日ばっかり歩いてった城下におるかもしれんけんども、おじいさんは足を怪我しとるし、お医者に診てもらうような銭はもっとらんで、みせとりません」


「あ、そ、そうなんですね。あのね、まずはお医者さんに診てもらうのが、まず先決ですよ。骨が折れてるかも知れないですからね。骨が折れててね、変な風に繋がったら、後遺症も残りますから。でね、ここはドラッグスト、あの、お薬売ってるところなので、痛み止めとか、炎症を抑えるとかそういう症状にしか対応できないんですよ。それでもいいですか?」


「どうか、頼るのが稲荷さましかおりません、なにとぞ、どうか」


「えっと、はい、まあ、わ、わかりました、ご案内はちゃんとしますから。あの、一応それでは、足を挫いたということで、お薬と湿布持ってくるので、こちらでお待ちくださいね。」


そう言って店員はその場をあとにしました。

おばあさんは、店員に向かって手を合わせ、両手をさすり、なんども頭を下げました。





店員は、オレンジ色のカゴに、湿布と薬を入れて持ってきました。そして大きな声で説明を始めます。

「おばあちゃん、一応ね、お薬と湿布もってきました。ね。まずね、バファリンプレミアム、これは、痛み止めです。1回2錠で、1日3回までですからね。注意書き読んでから、飲んでくださいね。それでね、こっちは湿布。湿布はね、2種類。でね、まず今日おうちに帰ったらこっちを貼ってあげてください。これね、冷感湿布、ひんやりする湿布、サロンシップEXです。インドメタシンっていうのが入ってるから、痛みも炎症も抑える効果がありますから。そしてね、4日目ぐらいからね、こっちのね、赤いラベルのね、ハリックス55EXって書いてる方の湿布ね、こっちの湿布。こっちはね、温感湿布です。温かい湿布なんです。冷やしたあとはね、温めてね、捻挫した患部をね、治すんです。でね、どっちの湿布にもね、ちゃんと使い方が書いてあるから。それ読んで、ご主人に貼ってあげ」

店員が話している途中、おばあさんは、申し訳なさそうに、店員に言いました。

「あのう、すみませんっ、あの、わしもおじいさんも、字が読めんから、どうしたらいいんじゃろうか、そんなに覚えきらんし、間違えたことをしたら、おじいさんがかわいそうじゃし、いったい、どうしたらいいんじゃろうか」

おばあさんはうつむいて、悲しい顔をしています。

店員は、驚いた顔をしましたが、しばらく考えておばあさんをサービスカウンターに案内し、椅子に座らせました。

そして店員は、A4の紙を用意し、

「それじゃ、今から、絵で説明しますねっ」

と言ってA4の紙にマスをいくつか描き、そこに絵を描いていきます。

痛そうな顔をして、足首が腫れているおじいさんの足に、サロンシップEXの箱の湿布を貼っているおばあさんの絵。

バファリンプレミアムという小さな箱から出した錠剤を二粒、湯飲みで飲む、痛そうな顔をしたおじいさんの絵。枕元には、リンゴが切って置いてあり、山からは朝日が昇り、スズメが何匹か飛んでいます。
そして、同じ絵で、太陽が、月と入れ替わった夜の絵。

少し痛そうな顔がほぐれてきたおじいさんに、人が走っているようなパッケージのハリックス55の湿布を貼っているおばあさんの絵。この絵の右上には、親指を曲げて、指を四本出した手のひらが描かれています。


「はい、じゃあね、おばあさん、いいですか。こっちの湿布ね、サロンシップEXの方、今日、帰ったら、こっちのを貼ってくださいね。こうやって、中の袋に湿布が入ってます、こうやって破って、この透明なフィルムを剥がして、患部に貼ってくださいね、そうです。そしてね、このバファリンプレミアムは、こういうふうにね、二粒、お水かお湯で飲んでください。こうやって、透明の部分を押すと、薬が裏の銀色の紙のところを破って出てきますからね。二粒です。でね、この絵に描いてるみたいに、朝、夜、分けて飲む方がいいですよ。できるだけお腹すいてる時じゃなくて、リンゴでもお茶漬けでもなんでもいいので、なにかちょっと食べてから、飲んでくださいね。そしてこっちの温感湿布ね、ハリックス55は、四日目から貼ってくださいね。」

おばあさんは絵をみながら熱心に学び、それぞれの絵を見比べながらなんども頷きました。

「まっことありがとうございますっ、わっかり易いふうにご説明くださって、まっことありがとうございますっ、これで安心でございます。この御朱印も頂いてもよろしいのでしょうか?」

おばあさんは絵を胸に抱きしめながら訊きました。

「あ、もちろんですよ。お持ちください。じゃあ、お会計してきますので、ちょっとこちらでお待ちくださいね。

………はい、お待たせいたしました。おばあちゃん、お会計が、これ全部合わせて、税込みで、2919円です。にせん、きゅうひゃく、じゅうきゅう、円。」

店員が、そう言うと、おばあさんは、不思議そうな顔をしています。里で買い物をするときはほとんどが物々交換ですし、もしなにかを買う時は、数文から数十文ぐらいのものが多く、百文だってめったに使うことはありません。だから、2919という数字は途方もない数字です。そして、「円」という言葉もなんのことを言っているのかわかりませんでした。

「あの、申し訳ないんじゃけども、今は一文も持っとりませんで、この、野菜っこでどうにか、なりませんじゃろうか。」





若い男の店員は、困った顔をしています。
だって、いくらなんでも野菜と湿布や薬は交換できないですからね。

「どうにか、この野菜っこと交換でお薬お授けいただけまっせんでしょうか?」

おばあさんは、野菜の籠をカウンターに置き、不安そうに店員の目を覗きこみます。さすがに、店主ではない店員が勝手に「いいですよ」とは言えません。


店員が困っていると、そこへ別の店員が現れました。背の高い男です。
男は店員に「なに、どうかしたの?」と問いかけました。店員はこたえます。

「あ、店長、あの、こちらのお客様が、現金の持ち合わせがなくて、野菜と交換でお薬が買えないかっておっしゃってまして。」

どうやらこの背の高い男は、このドラッグストアの店長のようです。店員も、どうしたらいいかわからないといった様子で店長を見上げ、おばあさんはそれ以上に不安な面持ちで店長を見上げています。

店長は優しい声でおばあさんに言いました。でも、目は笑っていませんでしたし、どことなく迷惑そうでした。

「すみませんね、野菜じゃ、ご購入は難しいです。そとに郵便局あるんで、そこで現金おろして、またお越しくださいね。これはお取り置きしとくんで。それじゃ、また、お越しください。」

そう言っておばあさんに野菜籠を背負わせ、歩かせ、出入り口の自動ドアの外まで連れていきます。

そして店長は「またお越しくださいませ。」と、とても短いおじぎをし、顔をあげながら踵を返し、どこかへ行ってしまいました。

おばあさんは、野菜のお供えでは薬が手に入らないことがわかると、肩を落とし、祠に深く一礼し、ドラッグストアをあとにしました。ユウビンナントカとかいうこともゲンキンヲオロスということも、全く意味がわかりませんでした。でも、だめだということだけはわかりました。

店員は、申し訳なさそうな顔をしながらおばあさんの後ろ姿を見送ります。おばあさんは、なんとも言えない寂しい背中で、とぼとぼと歩いていきます。

おばあさんの小さな背中から、「…おじいさん、…すまねえ、おじいさん、もうしわけねぇ…」という小さな声が聴こえました。


おばあさんは東京スカイツリーのそばの、北十間川のほとりに腰掛けました。籠を置き、額の汗をぬぐい、野菜じゃのて米持ってくるべきじゃったんやろか、と、そう呟きました。

おばあさんは途方に暮れてぼんやりと川をながめています。
そうやって時間が少しづつ過ぎてゆき、やがて日は傾きはじめました。

喉も乾き、お腹も減ってきたおばあさんは、籠の中から胡瓜を取りだし、手を合わせ、なんまんだと小さく呟き、食べました。

そしておばあさんは思いつくのです。

この野菜をこの国の巫女さまや神官さまに買ってもらい、「ゲンキン」というものを手に入れよう。それを持って、また、祠に行き、妙薬をお授け頂こう、と。

おばあさんは、さっそく手ぬぐいを額に巻き、人通りのあるところまで歩き、野菜販売をはじめました。

けれども田舎の山奥で暮らしてきたおばあさんは、あまり大勢の人を見たことすらありませんし、ましてやここは、稲荷さまの国。とても緊張しているので、小声です。

「野菜。あの…いかがでございますか、…あの…野菜は、その…いらんかのぅ…あの、やさい…やさいはいりませんか…」

値段も貼っていないし、身なりもぼろぼろなので、通行人はおばあさんが存在しないみたいに、目をそらして歩き過ぎて行きます。

あまりに人々が立ち止まらないので、途方も無いような気がしてきて、おばあさんはうつむき黙りました。

やがて、スカイツリーがライトアップされ、街灯が灯り始めます。

ふと、おじいさんがつらそうな顔をしているのが、おばあさんの脳裏に浮かびました。痛い痛いと、足を擦っています。

おばあさんは、顔をあげました。

こんなことで諦めとったら、稲荷さまのご厚意も台無しになる。おばあさんは、大きな声で話し始めます。

「山奥の、清い清い、冷てえ小川から、おじいさんが毎日毎日、一生懸命水を運んできて、わしらふたりで丁寧に作った野菜じゃけ、おいしいけ、みなさんどうぞ、野菜を、どうぞ、買うてくだされ、今年の夏は、雨が少なかったで、おじいさんが甘い水汲んできて作った野菜だで、味も濃くてわしはこのわしらの野菜が好きだで、皆様どうぞ、野菜を、買うてくだされ、どうかみなさま野菜を、どうか。」

すると、主婦や女子高生が立ち止まり、野菜のかごを覗き込んだり、おばあさんの写真をスマホで撮ったりし始めました。いつの間にかおばあさんの周りには5人ほどの人が立ち止まり、「買おうかな」という面持ちになっています。



そこに、藍色の服を着て、烏帽子のようなものを被っている二人組の男性が現れました。

「はーい、ちょっとすみませんね、ごめんね、あのさ、おばあちゃん、ちょっといい?あのさ、ここってさ、許可とかって取ってないよね?許可。キョカ。え?だからキョカよ。警察署と保健所に申請出してる?そう、だしてないよね、そうだよね。あのね、ここね、歩道だからさ、許可取らないと、もの売っちゃだめなのよ。うん。違法になっちゃうのよ、おばあちゃん、わかる?」

おばあさんはわけがわからずあたふたしています。立ち止まって見ていた人たちは、少し距離をとり、成り行きを見たり、スマホで撮影したりしています。

「おばあちゃん、あのね、ちょっとさ、住所と名前、教えてもらえるかな?免許証とか保険証とか、なんかそういうの持ってない?すぐ済むから。」

「あのぅ、わしは、神官さまに、おじいさんの妙薬をお授け頂く為に野菜っこを売っとります。おじいさんが怪我をしとります。」

おばあさんは、藍色の服を着たふたり組に事情を説明します。


でも、皆さんはもうおわかりですね。
男性二人組は、警察官で、おばあさんは、職務質問をされているのです。警察ふたりは、腕を組んで警察官同士、小声でやりとりをしています。


そこへ、髪の長い、赤いワンピースを着た女性が、つかつかと歩み寄り、大声で言いました。

「ちょっとおばあちゃん!勝手に表に出ちゃだめって何回言ったら分かるの?!危ないから外出たら駄目だって毎日毎日言ってるよね?!勘弁してよ!もう!!うんざりなのよ!!!頼むよ!!!こっちも生活があるんだからたのむよ!ほんっとに!もう!!!

………あの、すみません、おまわりさん、あの、母はちょっと徘徊グセがありまして、すみません、あの、申し訳ございません。すぐに連れて帰りますので、あの、どうか、その。」

その女性は申し訳無さそうに警察官に事情を説明します。

「母は、父が怪我をして、その薬を買いに来ている、って思い込んでるらしいんです。父はもう何年も前に亡くなってるんです。ほんとに、申し訳ないです。ご迷惑おかけして。」

警察官は、何度も頷き、ふたりで話し合って、去っていきました。それと同時に、人々も去って行きます。

赤いワンピースの女性は、強い口調で、もう一度言いました。

「もう、早く帰るよ、お母さん。ったく。」

おばあさんは、わけがわからず、とても困った顔をして、立ち尽くしています。






赤い服を着た見知らぬ女にお母さんと言われ、おばあさんは、わけがわかりませんでした。なので、とても困った顔をして、立ち尽くしています。

「あのぅ、申し訳ねぇんだが、わしはおめぇさんのこと、知らねぇんだけども、なぁんでわしのことお母さん呼ぶんかのう」

おばあさんは、女にそう言いましたが、女はおばあさんの手を握り、歩き始めます。おばあさんは、あたふたしながらも女の後をついてゆきます。


「すまねぇけどもな、おじいさん足首挫いたもんでな、それで稲荷さまに頼んで妙薬のお授けのためにここにおるんだけどもな、おめぇさん人違いしとるうんじゃあねぇかのぅわしんがたんは、娘はおらんけどものう」

おばあさんは、早足で手を引く女の背中に向かってそう話しかけましたが、女は黙ったまま、なにも答えません。

いくつかの路地を入り、いくつかの角を曲がり、やがて女が立ち止まったのは、マンションのエントランスでした。掃除も行き届いていて、ガラスも輝き、照明は、柔らかく高級な光でエントランスを照らしています。

「とりあえず、ついてきて。」

女はおばあさんの手を離し、鍵を取り出してエントランスの自動ドアを開けました。おばあさんは、不安そうな顔をしながらも、小さくお辞儀をして、女についてゆきます。

女はエレベーターに乗り、ボタンを押し、おばあさんに、

「はやく。」

と言いました。おばあさんは頭を下げて、女の目の前に立ちます。

「あのぅ、こんな狭いとこで話さんでも、さっきから言っとるとおり、わしはおめぇさんのおっかあではねぇし、おじいさ」

おばあさんの背後の扉が突然閉まり、小さな部屋が小刻みに揺れ始めました。馬はおろか、籠や乗り物にのったことのないおばあさんは、大慌てで、エレベーターの環境について女に感想を言います。

「なんぞなこれは、なんか気持ちわりいのぅ、なんか気持ちわりい部屋だのここは、のぅおめえさん、なんだここはなんか動いとるでねぇかこの部屋きもちわりいぞ、なあんぞ変なバテレンのなんぞ変なまじないでもかかっとるでねぇのか、こりゃきもちわりいぞ、なぁもし、」

おばあさんが独り言を言っているうちにエレベーターは止まり、赤い服の女はつかつかとエレベーターを降り、「こっちだから。ついてきて。」と言いました。

おばあさんは、振り返り、エレベーターの先の景色をみて驚きました。
まるで1時間ほど山を昇ったぐらいの高さに自分が立っているのがわかったからです。

「こりゃあ、おったまげた、いっつのまにか天高く登っとるでねぇか、バテレンでのうて、こりゃぁ狐にでも騙されたんかのぅ」

そう感慨深げにいいながら、女についてゆきます。女は、茶色い重そうな扉を開けて、部屋に入って行きます。


「入ってきて。ここでわらじは脱いで。」

言われたとおり、おばさんもついて行き、籠を置き、わらじをほどきます。白い石で出来た玄関。その先はつやつやとした長い廊下が続き、廊下の合間にいくつか部屋の入り口が見えます。女はそのまま廊下を歩き、奥の部屋へ行き、アイランドキッチンにある冷蔵庫からハイネケンの缶ビールを取りだし、飲み始めました。

おばあさんは、女を慌てて追いかけて、部屋に入り、高級そうな部屋のなかをしげしげと見つめています。

「あんたさま、いつのまに火をつけなすった、あの行灯は、きれいですのぅ、星のように輝いておるのう」

おばあさんは、壁の間接照明をみながら女に言いました。女は、浄水器から水をコップに注ぎ、おばあさんに手渡します。
おばあさんは、お辞儀をして水を飲み、一息つきました。

「おばあさん、あのさ、わたしも、おばあさんと一緒だよ。」



「うんと、えっと、どういう意味じゃろのう?畑で野菜育てとるっちゅう意味かいのう?」




「…ううん。違う。よその場所から来たってこと。違う時代から来たってこと。」





間接照明の灯る部屋で、赤いワンピースの女はビールを飲みながら言いました。

「わたしも、おばあさんと同じで、別の時代から来たの。」

おばあさんは、首を捻ったり、天井を見たり、腕を組んだり、顎を触ったりして、女の言葉の意味を考えています。

「ちょおっとぉ、おめえさんのな、言うちょることが、わっからんのんやけんども」


女は何度も頷き、そりゃそうよねぇ、と云いながら、冷蔵庫からクリームチーズを取り出し、包みを開けて噛り、ビールを喉に流し込んでいます。

赤いワンピースの女は、30才ぐらいでしょうか。黒髪は長く艶やか。肌は白く、口角は少しだけ上がり、眼差しはどこか冷ややか。妖しく美しい女です。

「あ、ねぇ、ずっと稲荷さまって言ってたけど、なんでここの事、稲荷さまの国だって思うの?」女がビールを飲み、一息ついておばあさんに訊きました。

「それはな、今日の朝な、いつもお参りしとる山の竹の林のとこのな、稲荷さまにな、お参りをしてじゃな、おじいさんの足の怪我をどうにかしたいとな、ほいだら、んもぅ、まんぶしい光に包まれてな、それでさっきの場所にな、おったんじゃ。稲荷さまに願いが通じて、ご自分の国へお連れくださったんじゃろうて。」

「それで稲荷さまの国だって思ってるわけか。なるほどね。あ、じゃあ朝からなにも食べてないの?おなかすいてない?」

「いや、あのぅ、そろそろわしは、おじいさんのところに戻らないかんで、お構い頂かんでも大丈夫ですけ。」

「…あのさ、おばあさんさ、戻るって言っても、戻り方わかるの?今からまたあの場所戻っても、お年寄りの徘徊と間違われて、またさっきの紺色の服の人たちにつかまっちゃうよ。面倒なことになって、それこそ戻れなくなるよ。今夜は出ないほうがいいよ。」

「そうかねぇ。おじいさんのところに戻れんのは寂しいねぇ。でも、ここに居させてもらっても、構わんのじゃろうか。」

「もちろん。そのために連れてきたんだから。」と、女は答えてから、少し前のめりになって、「ねぇ、おばあさんは、何年に生まれたの?」と、質問しました。

おばあさんは、
「春夏秋冬は大事やけんども、何年に生まれて何年に死ぬいうのは誰んも構わんもんで、わっすれてしまい申した」
と言ってひとりで笑いました。

「え?じゃあ、年号とかもわかんないの?」

「年号ちゃあ、年の名前じゃろ?お役人様やお寺様たちには大事じゃろうけんども、わしらにはまったぐ、年の呼び方なんぞは、猿のお尻の毛ぇほども関係はねぇから、わっからんっ」
そしてまた一人で笑っています。

女は、唇を尖らせてつまらさなそうです。どうやら、おばあさんが来た時代を特定したいようですね。

「あ!じゃあさ!うーんと、そうだな。最近でさ、なにか、凄いことってなかった?山が火を吹いたとかさ、あとは、戦があったとか、あとは、えっと、誰かすごく有名な人の噂を聞いたとか。」

おばあさんはしばらく考えて、膝を打ちました。

「あぁ!それならのぅ、おじいさんがな、里に芝を売りに行った時にな、俳句をつくりんなしゃる、なんぞ有名な人に会った言うとったかのう。なあんでも、旅をしとる言うとったわな。わしもじいさんもそん人のことは知らんかったけんども、里のものが大騒ぎしとって、それでおじいさんもそん方に挨拶ばしての、持っとったアケビを差し上げたんじゃと。嬉しそうに話しとったぞ、おじいさん。」

「俳句で、旅って言ったら、松尾芭蕉かな。」

「あああ!なんかおじいさんがそないなこと言うとったぞ!芭蕉さんにアケビあげたぞって言うとった!」

おばあさんはなぜか興奮してます。テレビのクイズに正解したような興奮具合です。女は続けて尋ねます。

「えっと、じゃあそれっておじいさんが怪我してからどれぐらい前の話?」

「去年の秋ぐらいだったかのう」そうやっておばあさんが答えると、女はスマホを取りだし、何度かタップして云いました。

「すると、おばあさん、元禄から来たってことになるね。徳川様の時代だよ、私とおそろいだね。」

「まぁ、そうゲンロクじゃのなんじゃの言われても、わからんのぅ」

「あ、そうか、そうだね。あ、そうだ、ごめん、おなかすいてるよね、なんか作るよ。待ってて。」

女は、手早くエプロンをつけ、お湯を沸かし、冷凍庫から、作りおきのミートボールとミートソースを取りだし、レンジに入れてボタンを押します。

皿を二つと、少し迷って箸を一膳とフォークを一本取り出しまし、飲み終わった缶ビールを潰し、もうひとつ缶を開け、飲んでいます。

おばあさんはその様子を、子供のような目で眺めています。女はそれを見て、少しだけ笑い、鍋に塩を入れ、パスタをねじり入れました。

「そういえば、おめえさん、わしのこと、さっきおっかさん言うとったけども、ありゃなんでかね?」

女は冷蔵庫から出したパセリを刻みながら答えます。

「あー、そういえば、そうだったね。長い話だけどさ、私さ、19のときに、ここに来たんだよね。そのとき私も、おばあさんと一緒でさ、ここがなんなのかわけがわかんなくて、三日ぐらい、神社の森に隠れてたりしてたの。でもやっぱり腹は減るからさ、つい、お店の大根を一本盗んだのよ。そしたら、さっきの紺色の服のひとたちに捕まってね。」

女はそう言いながら、パスタの湯を切り、麺にオリーブオイルをかけました。

「そのあとは、身元不明で、しかも、ものを盗んでるから、簡単に解放はしてもらえなかったの。ほら、年貢収めずに、村から逃げたみたいな感じだよ。だからさ、さっきのおばあさんの感じだと、おばあさんも同じようにさ、面倒なことになりそうだったから。だから、お母さんって言って、あの場を取り繕ったの。ごめんね、おどろかせて。」

そう言って女は思い出したように、冷蔵庫からパルミジャーノチーズを取り出しました。

「あの道を通って買い物から帰ってる時にさ、人だかりを見つけて、なんかね、あのね、おばあさんをひと目見て、わかったの。この人、こっちの人間じゃないって。で、一度は通り過ぎたんだけどさ、気になって戻ったら、警察が来てて、あ、紺の服の人たちのこと。それで、とっさにお母さんって、言ってた。」

おばあさんは、わかったような、わからないようなそんな顔をしながら聴いていました。まぁなんとなく、わしを助けるために嘘をついてくれたんじゃろうのぉ、と理解することにして、ありがとのぅ、と手を合わせてお辞儀をしました。

「さ、おばあさん、できたよ。お箸で食べてね。」

女が、ミートボールパスタと箸をおばあさんの前に置き、パルミジャーノチーズを削り入れ、パセリを散らします。いい香りが立ち上るその、いままで見たことのない料理に、おばあさんは目を丸くしています。

「ほうとう…でもねぇなぁ、そば?でもねぇし。けれども不思議なうまそうな匂いでねぇか。ありがとうなぁ、おめえさん。」

そう言っておばあさんは、女に手を合わせます。女はおばあさんと横並びに座り、いただきます、と言ってから、

「あ、この団子はね、山鯨の肉とかを、混ぜて捏ねたおだんごだよ。わたし、好きなんだよね。これ。」

牛肉も本当は入ってはいますが、牛肉を食べるようになったのは明治からです。畑の仕事の手伝いをしてくれる牛を食べるのは、とても酷いことなので、女はミートボールをイノシシ肉だと嘘をつきました。そして女は、少女のような顔をしてミートボールを幸せそうに頬張ります。おばあさんも箸でミートボールやパスタを口に運びながら、うめぇ、ありがてぇ、うまい、こりゃすごい、おめえさん猟師もやっとるんけ、すっげぇのぅ、おじいさんにも食べさせてぇ、と呟きながら、ありがたそうに食べています。


食べ終わり、おばあさんは女が淹れてくれたかりがね茶を飲みながらキッチンの内側の女に訊きました。

「そいで、おめえさんは、何年もここにおるみたいやけんども、どこから来なすったんかね?」

女は、洗い物を食洗機にかけてから返事をしました。お湯が食器に当たる音が部屋に小さく響いています。

「どこからっていうよりも、“いつから”っていう方が正しいよ。おばあさんがいた国も、そして私の国も、そしてこの国も同じ国なの。ただ、おばあさんもわたしも、別々の“時”から来てるってだけなの。」

おばあさんは、しばらく考えて、うーん、わからん、と女に言いました。

「あ、じゃあさ、おばあさんの時の、徳川の将軍様は、誰?」

「将軍様かね?将軍様は綱吉公じゃ。これはちゃあんと覚えておらんと、お役人に叱られて大変な目に合うからの、ちゃあんとおぼえちょる」

「うん、じゃあさ、おばあさん、わたしのいた時代の将軍様は、誰だと思う?」

「え、そりゃぁおめえさん、綱吉公に決まっとるでねぇか。将軍様が二人もおったらまった戦が始まってまうじゃろうがて」

女は、首を振って言いました。

「ちがうの。私の時の将軍様は、
十代将軍家治公。だから、おばあさんが生きてた時から、大体百年後くらいにわたしが生まれてるの。」

「そんだらことあるわけねえじゃろ、聞いたこともねえ将軍様でねえか、そいでそいだらわしは、あと百年生きねばおめえさんに会えねえではねえか」

「まあ、そう思うよね。でも、それが事実なの。わたしはわたしの時代から。おばあさんはおばあさんの時代から来たの。」

「わっかんねぇなぁ。わっかんねぇ。わしにはようわからん。」

おばあさんはうんうん唸りながら考えています。けれどもやがて顔を上げて、思いついたように女に訊きました。

「そいだら、それが真なら、わしより百年あとに、おめえさんも稲荷さまにお参りしたんかのう?」

女は、ゆっくりソファに座り背中を預け、天井を見上げながら答えます。

「私は弁天さまに願ってるとき、突然ここへ来たの。」

「弁天さまにか…そいで、なんち言うてお参りしたんじゃ」

「ここから出してくれって。ここから逃げたいです。だからお願いしますって。芸なんか上達しなくてもいいから、ここから出してくださいって。その日だけじゃなくてさ、11歳の時から、19まで、毎日ずうっとそうやって、お参りしてたの、私。」

「なんぞ、11の時から。おめえさん、奉公にでも出とったんかいの、いったいどこにおったんじゃ」

食洗機が食器を洗い終わり、部屋が静かになりました。

「吉原。わたし、女郎だったの。」






朝になりました。
おばあさんは、女と一緒にドラッグストアへと歩いています。
たくさんの人々が、みな同じ方へ早足で歩いていて、まるで祭りに向かっているみたいです。

「のぅ、あん人たちは、なんぞ祭りでもあるんかいの?」

早足で自分達を追い抜いていく人々を不思議そうに眺めながら、おばあさんが女に尋ねると、女は笑いながら言います。

「いや、そうそう、わたしも最初それ思ったんだよ。なんでここの人たちはこんなに早足で歩いてるんだろうって、飛脚なのかなって。あのね、今日はお祭りでもなくて、あの人たちは飛脚でもなくてさ、ただ仕事場に向かってるだけなの。」

「そんだら急いで、働きもんじゃわいな。ほいだら、寄り合いの頃合いにでも遅れとるんかね?こん人たちは。」

「いや、この歩き方が、今のこの国の人たちの普通なんだよ。」

そう言って女は、ジーンズのおしりのポケットに両手を入れて、ゆっくりと歩いています。今朝は赤いワンピースではなく、細身のジーンズに白いシャツを着ています。昨日とは印象がかなり違いますね。

そしておばあさんも、昨日とは印象が違います。
藍の着物に銀ねずの帯、薄鴬の帯揚に黒の帯締め。そして白足袋に竹の皮の草履を履き、髪はきれいに整えられて、まるで別人です。茶道の先生と美人のお弟子さんが一緒に歩いているように見えますよね。

今朝女が、おばあさんに着付けをしてくれたました。着付けが終わり、おばあさんを鏡の前に立たせると、こんだらうっつくしい着物は、城下でも見たこともねぇ。と、嬉しそうに姿見の前をくるくる回って言いました。

女は、それを満足そうに見ながら、言いました。

「それじゃあ、妙薬のお授けに出掛けますか。でもちょっとその前に、せっかくこっち来たんだから、まずなんか食べようよ。」そうして今ふたりは歩いているのです。

ふたりはスカイツリーの真下にやってきて、女はおばあさんを連れ、STARBUCKSに入りました。
男女の店員たちが、にこやかに、「おはようございます」と挨拶をしてきます。女は軽く目元で笑って会釈をしましたが、おばあさんは大声で「おはようごぜえます。ご苦労様でごぜえます」と挨拶を返しました。店員たちは少し驚きながらも、また笑顔で挨拶を返していました。

女は注文カウンターで、女性店員と親しげに話をしながら、「おばあさん、そこのビードロの窓の前に腰掛けがあるでしょ?そこで座って待ってて。」とおばあさんに伝えました。おばあさんは、へいっと言って、ガラス張りのカウンター席に座ります。

そして秋らしくなってきたガラス越しの空をみながら、昨日の話を思い出していました。女が話してくれた話です。

女が9つの時、人買いに売られたこと。
女郎小屋の掃除洗濯をし、殴られ、蹴られ、粗末な布団の中で毎日泣いていたこと。そして飢饉が起こり、売られてくる子供たちが増えたこと。その子達と友達になっても、すぐに別のところに連れて行かれるから、友達を作らなくなったこと。

吉原に入り、同じように掃除洗濯をしていたが、そのうち、ここの女たちと同じように働くであろうことを、ある日悟ったこと。

姐さんたちに、文字や礼儀作法や芸事を厳しく教え込まれ、掃除や洗濯や蹴られることの方が、ましだと思ったこと。

毎日弁天さまにお参りしたこと。

年頃になってくると女郎として働き始めたこと。やがて客がたくさんつき、花魁の下の位の、格子女郎にまでなったこと。

いつものようにお参りしていたら、眩しい光に吸い寄せられるようにして、いつの間にか“東京”に立っていたこと。

それからは、“キオクソウシツ”の女として扱われ、警察に保護され、入院し、やがて“コセキ”というものを取得したこと。

コセキを取得してからは、医師のすすめもあり、花柳会に入り働き始めたこと。仕事をしながら、現代の日本語、一般常識、マナーそして歴史やさまざまなことを、本や、“すまほ”というものを使って勉強したこと。

歴史の勉強をしていて、自分が売られた後に起こった天明の飢饉で、当時の人々が家族の肉を食べねば、生きられなかったという事を知り、売られた自分は運が良かったと思えたこと。

そして今は、“くらぶ”というところで働いていて、かつてとは比べ物にならないくらい、自由で快適な暮らしができているということ。

「はい、おまちどおさま。おばあちゃん、朝から甘いもの食べるなんていう文化はないと思うんだけど、まぁ、ここは令和の東京だから。ピーチタルトと、アイスのほうじ茶ラテね」

女はおばあさんの前に、桃のタルトとアイスほうじ茶ラテを置きました。おばあさんは、宝のようにつやつやと輝く桃を掲げて、空にかざしたり覗きこんだりして、女になにか尋ねたそうにしています。

「あ、そうか、えっとね、桃の菓子だよ。焼いた菓子の上に桃が乗ってるの。」

おばあさんはすんすんと頷いて、ほうじ茶ラテをすすります。蓋もストローも女が外してくれています。

「こりゃ、つっめてぇなぁ思ったら、夏のこげな時期に氷が浮かんどるぞ。氷室があんのけ?こんだら高価なもんおめえさんよっくも買えたのぅ。それでこりゃ、牛の乳でねぇか?乳とほうじ茶ばまぜくりかえしとるんか?すげぇのぅ、おめえさん、こげな高い茶をば、飲んでええんかのわしが」

女はくすくすと笑います。

「もちろんだよ。」そしてゆっくりと話し始めます。「あのさ、なんか昨日からさ、私さ、なんだか妙に嬉しくって。ほら、いま一緒に働いてる子たちが、“里帰り”とか、“東京に親が来る”とか、なんかそういう家族の話、聞くたんびにさ、なんかすっごく嫌だったの。売られた時に、親子の縁はなくなっちゃったんだけど、違う時代にたったひとり佇んでるとさ、誰かが会いに来るとか、会いに行くとかさ、すっごく羨ましいと思える。そんな話聞くたび、私はこの時代にたったひとりだって、ずっと感じてた。でもさ、昨日から、なんか、この時代に、十年ぶりに、だれかと一緒にいる。ふたりっきりでいる。だから、なんか、嬉しいよ。」

おばあさんは、話を聴きながら、そうかえそうかえ、と笑顔で何度も頷きました。

「だから、ほんのちょっとだけ、帰ってほしくない気持ちも、ある。ほんの少し。少しある。いや、ほんとはけっこうある。」

おばあさんは、寂しそうな顔をして、頷いてから言いました。

「おめえさんは、戻りたくはねぇんかの?」

女は、アイスラテを飲み、フランスパンのサンドイッチを小さく齧って答えます。

「戻りたくない。絶対に。でも、もし、できるなら、戻りたい瞬間はある。家族と、もう一度、あの頃の家族と、暮らしたい。贅沢じゃなくていい、貧しくてえぇ。村の子ぉらと、沢でば魚ばとって、森で鳥ばとって、おっとぉやおっかぁや、お兄ぃたちと、鍋囲んで食いてぇ。貧しくてもの、誰かのおならで家族がけたけた笑うような、そんな普通の暮らしをしてた頃に、あの時間に戻りたい。でも、私が売られた後、村の大人も、たくさんの子らも、たくさん死んだと思う。それに比べたら、こっちにきて、こんな贅沢な暮らししてる。こんな奇跡、感謝しなかったらバチがあたるよ。だから、わたしは、ここに来れたことには、すごく感謝してる」

女は黙って、ガラス越しの空を見上げ続け、おばあさんは、ほうじ茶ラテをずずずと啜って、ピーチタルトをちびちびと食べ、そうやって、ふたりの間に静かな時間と静かな音楽が流れていきました。

なんだか、どうしたらいいんでしょうね。こういう時って。


おばあさんが食べ終わり、手を合わせるのを見届けてから、女は言いました。

「よし、じゃあ、ドラッグストアにお授けのお受けに参りましょう」







ふたりがドラッグストアに入ると、いらっしゃいませ、と若い男の店員が言いました。おばあさんが頭を下げ、昨日はまっことお世話になってかたじけねぇ、と言うと、店員は品出しの手を止め、大きく口を開け、

「あ!!昨日の!おばあちゃん!!」と驚いています。昨日は野良仕事から抜け出してきたような着物でしたが、今日は茶道の師範みたいな雰囲気ですからね。しかも、となりにはすらりと美しい女性も立っています。

「昨日はあのぅ、ゲンキンをもっとらなんだで、おめぇさんがたに迷惑かけてもうたように思うてなぁ、もうしわけねなぁ」

おばあさんは、ちょぼちょぼと店員に歩みより小さく頭を下げました。店員は両手を顔の前で振り、いやそんな謝られることじゃないです、と反論する。

「それよりも、なんか、追い返すようなかたちになってしまってすいませんでした。」

店員が頭を下げると、そこに女が割って入り言いました。

「いや、ほんとにごめんなさい。おじいちゃん助けたい気持ちが先走っちゃったみたいで。今日は、ちゃんと買いに来ました。現金で。」

店員は女に見とれていましたが、すぐに我に帰って返事をし、バックヤードから湿布と薬の入った袋を持って来ました。

店員は女に湿布などの説明をしていますが、女はなにやら考え事をしています。なにか思い付くとやがて、店員に指示を出し始め、追加の薬を持ってくるようにお願いして、そそくさとレジに行って会計を済ませてしまいます。さて、追加の薬は、一体何に使うんでしょうね。

店員は、サービスカウンターのところへ二人を連れてきて、昨日描いた絵をおばあさんに見せました。薬や湿布の使い方の説明の絵です。おばあさんが文字が読めないので、店員さんが描いてくれていましたね。

「あ、この絵、どうします?」

店員が絵を見せると、女が驚いて言いました。薬や湿布の使い方がひと目見てわかったからです。

「え!すごおいっ!これ、店員さんが描いたんですか?」

「あ、そうなんです。昨日、その、おばあさんが文字が読めないっておっしゃってて、それじゃあ、絵で説明できないかなって思って描きました」

「すごい、お兄さん、すぐにこういうのが思い付くってすごいことですよ。才能と、あと、人の良さが光ってますね。すごいですよ」

女が店員をしきりに誉めています。店員は照れながら話し始めます。

「いや、そんな、そんな感じでもないですよ。いや、実は僕、絵を描くのが好きで、学校にも通ってたんです。でもまぁ、なかなか食べてくのは難しくて、描かなくなってたんです。でも昨日、家に帰ったあと、僕の描いた絵をおばあさんがあんなにありがたがってくれて、すごく、なんか、わくわくしたんです。また、描いてみようかな、って、描き始めてみようかなって、昨日、ひとり、思ってました。だから、おばあさんには、すごく感謝してます。」

店員は、おばあさんに頭を下げ、昨日描いた絵を、おばあさんに差し出しました。おばあさんは絵をありがたそうに受け取り、半分に折り、大切そうにして懐にしまいます。

そして、女とおばあさんは、店員に礼を言い、ドラッグストアをあとにしました。


「さて、おばあちゃん、どうしようか。」
しばらく歩いて、大きなレジ袋を下げている女がぽつりと言います。

「どうしようっちゃ、どういうことじゃね?」
おばあさんは、少しとぼけたように聞き返します。

「もう、帰るでしょ?お授けも終わったし。」
女はすこし、俯いて喋ります。

「んー、いんやぁ、まあだ、帰れんなぁ」
おばあさんが笑顔で言うと、

「え、なんで?」
女が不思議そうな顔をして、おばあさんを見ています。


「世話になったおめぇさんに、最後にわしんがたの畑の菜っぱ飯を食うてもらわないけんけの」

おばあさんは、胸を張ってそう言って、にんまりと笑いました。





おばあさんは、女に炊飯器の使い方を教わりながら、菜っぱ飯を作っています。大根やカブなどの葉っぱの菜を茹でて刻み、塩をまぶし、米に混ぜたものを菜っぱ飯と呼びます。

ご飯を炊きながら、味噌汁も作り、菜っぱも刻んだおばあさんは、ほっと一息つきました。

「そういやぁ、おめぇさんの名前を聞いとらんかったの」

「わたし?あ、そうだね、確かに。私は、ミチだよ。ずっと源氏名だったから、なんだか本名言うのは懐かしいけど。」

「そうかえ、みちちゃんかね。みちちゃんは、お国はどこかね?」

女は、自分の国の名前を言いました。するとおばあさんは、あらま、と言って、

「みっちゃん、わしと同じお国でねぇか、わしは、稲辺村の山に住んどるで。稲辺村の芝刈りのじいさんとこの、キヨいうんよ。」

「え!そうなの!稲辺村はわかるよ、城下の西の方だったと思うけど。そっかぁ、稲辺村のキヨさんかぁ、あ、私のところは、城下の東の方の国境のみざの村いうんよ。」

「ほうかえ、城下にも行くことがあんまりねぇで、他の村んことはわっからんけんども、ほうかえほうかえ、同郷でねぇか」

「そうだねぇ、どおりでなんだか懐かしいはずだ。ほうかほうか、懐かしいなぁ、まぁ、100年も時代が違うから、そりゃしゃべり方もすこし違うけど、やっぱり懐かしいよ。あ、そうだ、思い出した。支度をしとかなきゃ。」


女はそう言って、慌てて寝室へ行きました。おばあさんが女の寝室に行くと、女がなにやら整理をしています。

「なにしとるんけ?」
おばあさんが覗き込むと、女は寝室の本棚から何冊か本を出し、ベッドの上に並べています。

「昨日から考えてたんだけどさ、おばあさんに、なんかお土産を渡したくてさ。だからさっき、薬も多めに買ったの。痛み止めとか、風邪薬とか、あと、夜泣きの薬とか、あっちに戻って困ってる村の人とかに分けたら、その人達も助かるし、おばあさんも、少しでもお金になるでしょ?あ、そうそう、だからさ、薬のこと分かるために、ちょっとだけでも、文字も覚えたほうが良いと思うの。私が使ってた、ひらがな帳と、あと漢字辞典、これも持ってってよ。あとは、なにかの役に立つかもしれないから、これ!日本の歴史の教科書!あ!あと!怪我してるときにさ、おじいさん暇だろうから、囲碁とか将棋とかやる?」

「おじいさんは、村に降りたときに、村のもんと将棋さしよるみてえじゃの」

「そしたらこれ、将棋の本も入れておくよ。こっちのお客さんとさ、ちゃんと話が合うように、色々勉強してたの。もう使わないから、あげるよ。絵だけでもさ、なんとなく解るだろうし。」

「そげそげ、ありがてぇの、やっさしい子じゃあのぅ、けんども、こおんな年寄でも、字が読めるようになるかいのう?まっだぐそげなよには思えんけんども」

「大丈夫だよ。こっちの時代ではね、80歳とか90歳のお年寄りでも、楽器や学問なんかを学んだりもしてるんだよ。だから、おばあちゃんも大丈夫だよ。」

ほうかえ、とおばあさんが言うと、キッチンの方から、

「ぴーっ ぴーっ」

と、音がしました。

「みっちゃん、鹿の子でも飼うとるんかね?なんか鳴いとるぞな」

「鹿の子じゃなくて、ご飯が炊けた音だよ。」

「ほうかえ、知らせてくれるんけ?空海さまの台所みてえじゃの、それじゃあの、菜っぱ飯作ろかいのう」

「あ、おばあちゃん、野菜籠に、薬と本、あと、おばあちゃんが着てた着物と、あと、私の着なくなった着物も入れておくね」

「かたじけねなぁ、ありがとなぁ」

おばあさんはそう言って、キッチンへ向かいました。電気炊飯器を開け、その中に刻んだ菜を入れ、かき混ぜます。香ばしい湯気がたちのぼっていますね。

「すげえの、こいだら白い飯はみたことねぇなぁ、お殿様みてぇな暮らしばしちょるのぉ、みっちゃんは。こりゃ、たいそううめぇ菜っぱ飯ができるぞぉ」

とひとり呟いています。
そしてお皿を出し、少し冷えた菜っぱ飯を手に載せ、おむすびを作ってゆきます。手際よく、心地よい拍子で、どんどんどんどんおむすびが出来上がっていきます。ぽこっ ぽこっ ぽこっ ぽこぽこぽこ!みたいな感じです。おいしそうですね。みなさんも、食べたくなりませんか?

女が野菜籠をアイランドキッチンの側に置いて言いました。

「なっつかしい匂いがしとるの、キヨばあちゃん。」

「そげそげ、ばあちゃんが作る菜っぱ飯はの、おじいさんが飛び上がるごと美味いけん、みっちゃんも飛び上がってまうで気ぃつけなならんば。さ、お食べ、みっちゃんや、野菜のお味噌汁もあるでの」


女は、小ぶりでまるっこい、いくつかのおにぎりを嬉しそうな顔つきで見つめ、味噌汁の香りを胸いっぱいに吸い込んでいます。

そしてゆっくりと、涙をこらえながら、菜っぱ飯のおにぎりを頬張りました。素朴な、米と野菜に塩の薄い薄い味付け。素材の味が体中に染み渡るようです。

「懐かしいなぁ、寂しくなるなぁ、もうこれは最初で最後だよね。おばあちゃん帰っちゃったらさ。あ、でもさ、…帰りは、どうやったらいいのか、分かるの?」

「帰り方かの。稲荷さまの祠がこの近くにあったらば、そごに行っての、来た時と同じごと、お参りばしようかと思っちょるけんどもな」

「あ、それなら、お稲荷さんの神社が、確か近くにあったから、食べ終わったら送っ」


女が、おばあさんを見上げながら言うと、キッチンには、誰もいませんでした。

立ち上がり、キッチンの向こう側を覗きますが、姿は見えません。
慌てて野菜籠をおいた場所をみると、そこにもなにもありませんでした。
女は息を呑み、呆然としました。
おばあさんは、野菜籠と一緒に消えてしまったのです。おそらく、もと来た時代に、帰ってしまったのです。

突然やってきた、あっけないお別れ。部屋には、時計の音が響き、さっきおばあさんが温めたばかりの味噌汁の鍋から、湯気が立ち昇っています。
女は、ゆっくりと座り、菜っぱ飯のおにぎりをもぐもぐもぐと、ひとりで黙って食べ続けました。

ぽろぽろぽろと、涙がこぼれています。





昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

おじいさんは、杖をついて川へ洗濯に。
おばあさんは、東京都墨田区押上駅近くの、ドラッグストアへ向かいました。

おじいさんは、あの怪我の日から、山のなかに入るのを控え、そして転ばぬ先の杖として、文字通り杖をついて歩き、川で洗濯や釣りをし、田畑の手入れをしたりしています。

そしておばあさんは、東京で世話になった女に会いに行くために、祠へ向かってます。

女のマンションは入り組んだ場所にあったので、おばあさんは場所が思いだせません。唯一わかるのが、ドラッグストアとスカイツリーです。おばあさんは、稲荷さまの祠の前で、お願いするのです。

「稲荷さま、東京さで世話になったみちっちゅう娘っこにもう一度会わせてくだしゃんせ、どうか、もう一度、会わせておくれやしゃんせ、どらっぐすと、すかいつりのあの場所にお連れくだしゃんせ」

おばあさんは、東京から帰ってきたあの日から、3年間、毎日、こうやって祠の前でお百度参りをしています。

けれども、毎日毎日、何度も何度も試しても、もうあの場所に行くことは、できませんでした。それでも、ずっと、おばあさんは、稲荷さまにお参りをしているのです。



あ、そうそう、まずは、東京から戻ってきた時のお話をしましょう。
みなさんも気になりますよね。
東京の、女の家のキッチンから、突然おばあさんの時代に戻った時のお話です。





上がり框のところで、昼めしと夕餉の間の、何飯とも言えない飯を、おじいさんが食べています。そして、将棋でむらおさにやっと勝った、という話をとても嬉しそうに、飯粒を飛ばしながら、おじいさんは喋り続けています。

おばあさんは、それをぼおっと眺めていますが、やがて我に返って、こう言いました。

「おじいさん!みっちゃんはどこじゃ?おじいさんやっ!みっちゃんはどこべな!!?」

おじいさんは、突然立ち上がって大声を出して誰かを探しているおばあさんを、漬け物を噛みながら見つめています。

「なんじゃ、おばあさん、みっちゃんちゃあ誰ぞな?なあにわっけのわっかんねこと言うとるだ」

「そじゃ!そうじゃ!おじいさん!足は!足の怪我は大丈夫べな?稲荷さまにお百度参りして、東京さいうところに行っとったがじゃ!ほれ!こげに妙薬もたっくさんもろうてきたど!」

おばあさんは、自分のそばの空間を指差しますが、そこには、なにもありません。

「んなあに昼間っから寝ぼけとるけ?わしゃあ怪我なんぞしとらんぞ?なあに言うとるだおめ」

おじいさんは怪訝そうな顔をして、飯をかきこみ、おばあさんを見ながら顎を動かしています。慌てておばあさんがおじいさんの足首を見ると、たしかに腫れてもいないですし、痛そうな顔もしていません。

「おじいさん!昨日の夜に足引きずって帰ってきたじゃろ?沢から落ちて、それでわしは、稲荷さまのとこへ行っ」

「じゃあから!わしはこん通り怪我もなあんもしとらん、沢にも行っとらん、気味悪いこと言うでねぇぞ、おばあさん、なんじゃ薄気味わりぃぞ、おめぇ、今日はもう休め、もう寝とれ、あとはわしがやっとくで」

おばあさんは力なく頷いて、言われた通りに、横になりました。とても混乱しているようです。


さっき。ついさっき。菜っぱの握り飯ごしに、女と話しているとき、背中に野菜籠を背負う感覚があって、そして眩しいひかりに包まれました。そしてふと気づけば、おじいさんが目の前で飯を食っています。

なんとも不思議な出来事です。夢を見ているにしては、東京での時間はとても長く、匂いも味も暑さも涼しさもありました。そして、真っ白に輝くおにぎりを握った感触や、女が幸せそうに握り飯を頬張る顔もついさっきのこととして覚えています。

でも、おじいさんは、現に怪我をしていません。

……夢だったと思う方が現実的ですね。

「なんじゃあ、ありゃあ、夢じゃったんかのぅ…」

おばあさんはそう呟いて、気を失うように眠ってしましました。

真夜中、おばあさんはひとり目覚めました。遠田で蛙が鳴き、月明かりが木戸の隙間からすうーっと、毛羽立った畳を照らしています。おばあさんは、真っ暗な天井を見上げながら、眠っているおじいさんに話しかけました。

「なぁ、おじいさんや、おじいさんや」

「う、な、なんじゃ、どうしたがじゃ、なにごとかいの」

「あのな、おじいさんがの、怪我をしての、それでわしはの、稲荷さまへお参りしたんじゃ。それでの、何百年もあとのな、東京という街に行ったんじゃ。そこでの、みち、という娘っこに助けてもろうての、またここに戻ってきたがじゃ、ありゃ、夢じゃねぇど、夢じゃねぇ、わしゃ狂うとらんど、ありゃ夢でねぇ」

おばあさんがあまりに熱心に言うので、おじいさんは落ち着いた声で返事をしました。

「…ほうかほうか、わしの怪我でそこまでしてくれたんじゃの、ありがてぇのぉ、ほうかほうか。おばあさん、ありがとのぉ。けんどもな、足は怪我しとらんで、大丈夫じゃ、おばあさん、今日はとりえず、眠れ、まあた明日考えたらええぞな、この夜は眠れ。の?えか?」

おじいさんがやさしくそう言ったので、おばあさんはまた気を失うように、ことりっ、と眠りました。

翌朝目覚めると、おじいさんは柴刈りの準備をしています。

あ、もしかすると、芝刈りと柴刈りを混同している方もいるかもしれませんね。芝刈りは、草を刈ることですが、柴刈りはすこし違います。

あ、でもここではご説明しないことにしますね。気になる方は調べてみてください。そちらの時代では、いくらでも学べますもの。

さて、そうそう。おじいさんが柴刈りの準備をしているのでしたね。

「どうじゃね、おばあさん、あれから眠れたかの?」

「うん、おかげで眠れたわいの。昨日は夜中に起こしてすまなんだな、おじいさんや」

「なあに言うとるべな、お互い様じゃろて、ほいだらのう、おばあさん、わしゃ行ってくるで。洗濯はきょうはせんでもええど。おばあさんは休んどったらええぞ、ほいだら行ってくるでの」

おじいさんはそう言って、山へ入って行きました。おばあさんは、たしかになんだか洗濯する気持ちにはなれなくて、ぼおっと外を見ながら、縁側に座っていました。

しばらくしてから、のそりと動き出し、ぼんやりと玄米を研ぎ始めました。おじいさんの昼時のご飯のためです。

この家では、朝は食べず、昼に米を炊き、ご飯を食べ、夜は、めしを食べるようです。

あ、なんだか不思議に思いましたか?
そうなんです。昔は、ご飯をその都度炊くわけではなく、1日に1度だけ炊いていたのです。そして、炊きたてのお米を“ご飯”と呼び、冷えたお米を“めし”と呼んだそうですよ。

ほら、五平餅とか、きりたんぽや、焼きおにぎりって、冷えためしをどうやって温めて喰おうか、という昔の人々の知恵の調理法なのです。

じょきしょきと、小気味よい音をたてる玄米を見つめながら、おばあさんは、東京で炊いた白い米の菜っぱ飯を思い出しています。鹿の子が鳴くような音がして、女は「米が炊けた音だよ」と言いました。

おばあさんが竈に薪を焚べると、ぱちぱちと薪が燃え、ぼつぶつと、釜の蓋が揺れています。

そのうち米が炊きあがったので、汁や漬物や青菜を用意しました。もうそろそろ、いつものようにおじいさんが帰ってくる時間です。


しかしお昼時になっても、
夕時になっても、
おじいさんは帰ってきません。
あたりが暗くなり、
フクロウが鳴き始めると、
外で足音がしました。
やっとおじいさんが帰ってきたのです。
おばあさんが慌てて外に出て、
おじいさんに駆け寄ると、
おじいさんは、片足を引きずり、
木の枝で作った杖をついています。

「まさか!おじいさん!どうしたがね!」

おじいさんは額の汗を拭いながら、

「沢に落ちてしまっての、足を挫いた。痛くてしばらく動けなんだ。まだ足首が痛くてたまらん。なんぞ、おばあさんが言うとったとおりになってもうた、正夢なんかのう、おばあさんが言うとる事ばちゃあんと聞いとかなんだから、バチが当たったんかいのう」

おばあさんは、言いました。

「やっぱり、夢でねかった、まことじゃった」

そしておばあさんは、何か思いつき、裏の野菜籠の掛けてあるところへ駆けて行きました。暗闇の中野菜籠を持つと、ずしりと重みがありまして、おばあさんは、確信して、おじいさんのもとへ戻りました。

上がり框へ腰掛けて、足首を擦っているおじいさんのそばに、野菜籠を、どさりと置いて、おばあさんは言いました。

「おじいさん、やっぱり夢でねかったど、ほれ見てみい、妙薬が籠いっぺえに入っとる、ほれ、大丈夫じゃ、おじいさんの怪我はわしがなんとかするでの」

野菜籠の中には、湿布や薬や、高価な着物や、いくつかの書物や、ドラッグストアの店員が描いてくれた絵が、ちゃあんと入っておりました。





「おじいさん、なあんも食べとらんじゃろ?なんでもええで、まずは何か食べ、の?の?」

そう言っておばあさんは、温めておいた汁を椀に注ぎ、その中に飯と漬け物を入れ、おじいさんに手渡しました。おじいさんは痛そうな顔をしながらも、飯をかきこみます。

その間におばあさんは、裏の小川から冷たい水を汲んできて、手拭いでおじいさんの足首を拭き清めてから、おじいさんの足をタライに浸しました。その冷たさに、おじいさんは、ひっ、と声をあげます。

おばあさんは、野菜籠から絵を取りだし、絵に描いてあるのと同じ箱のバファリンプレミアムを開け、店員に教えられたとおりに、二錠出し、湯飲みの水とともに、おじいさんに差し出します。

「これはの、痛み止めなんじゃと、なんじゃ、ばふりんとか言うとったかのう、ほれ、飲んでけれ」

おじいさんは、粒を口の中に入れ、水で飲み干し、

「これで治るんかいのう?」

と、痛みに顔を歪めながら、おばあさんに尋ねました。

「未来の薬だで、信じての、よく効くはずじゃでの、痛みを止めてくれるぞな」


しばらくして、おじいさんの足首がちゃんと冷えたのを確認したおばあさんは、目を細めて、また別の絵を見つめます。痛そうな顔で、足首が腫れたおじいさんの絵です。

痛そうな顔のおじいさんの横には、サロンシップEXのパッケージが描かれています。おばあさんは野菜籠の中から、サロンシップEXを探しだし、箱を開け、袋を破り、透明なフィルムを剥がし、おじいさんの足首に貼り、そしてその上から手ぬぐいを巻き付けて包帯のようにしました。

「おじいさん、足を下にしとると、どくどくして、痛いじゃろ?もう横になって休んでけろ、座蒲持ってくるでそれに足のせて、寝てくれろ」

そう言っておじいさんを寝かせ、足の下に座蒲団を折り、挟みました。



みなさんは、不思議に思いませんか。なんだかおばあさん、手際がいいですよね。

実は、女の家に泊まったあの日、女が応急処置の方法をスマホで調べてくれて、おばあさんが理解するまで、何度も教えてくれたのです。


「おばあさん、お風呂どうだった?」

「ありがとのぉ、よか風呂でようけ寛いだよ、ありがとのぉ」

「そっか。よかったよ。あ、そこ、お水置いてるから飲んでね」

「ほう、そかね、すまんね、ちょうだいするかね」

おばあさんは、女が用意した白いバスローブを身にまとって、ちょぼちょぼと歩いて、テーブルの上の水に手を伸ばします。

「おばあさん、あのさ、今調べてたんだ、足挫いた時の、手当の方法」

「ほうかね?ありがてぇの、やっさしい子ぉじゃの」

「まずね、安静にしてね、足を動かさないようにするんだって。でね足首を冷やすの。冷やすとね、血の流れがゆっくりになるから、腫れるのを抑えるんだってさ。で、布を巻いて、ほんの少しだけ圧を加えてあげるといいんだって。そして、心臓より高い位置にしてあげるといいんだって、要するに、腫れて過剰に流れてる血液を抑えてあげるって考え方だね」

「ほうかね、冷やしたらいいかね?温めたらいかんかね?」

「そうみたい。温まるとさ、血の流れが早くなって、怪我には良くないんだって」

「ほいで、なんぞ布を巻いたらいいんかの?」

「うん。きつく縛るみたいな感じじゃなくて、そうだなぁ、脚絆を巻くぐらいの圧力でいいと思うよ」

「ほうかね、ほいでの、心の臓よりも、あの、な、のう、なんか言うとったの?」

「そう、心臓よりも、足首を高くして休むといいんだって。腫れを抑えるんだってさ」

「ほうかね、ほいだらの、冷やして、ちゃあんと冷えたらの、布巻いて、足の下に枕なぞ置いて、休んでもろうたらええんかの?」

「そうだね、あ、あとは痛み止めのお薬と、貼り薬も忘れずにね。貼り薬を貼ってから、布を巻いてあげるんだよ」

「ほかほか、わしゃ、おぼえたど、えか?まずの、冷やす、井戸水で冷やそうかの、冷えたらの、貼り薬貼っての、布ば巻く、ほいだらの、足枕しての、おじいさんに休んでもらう、どうじゃね?ほうじゃ、痛み止めの薬も忘れたらいかんの」

「そうそう、正解、すごいね、おばあさん」

女は、おばあさんに笑いかけ、おばあさんも笑顔になりました。



遠田の蛙の声が静かな夜に響き、庭の虫の音がちいさな雨の音のように部屋を通り過ぎ、そして、おじいさんの小さな寝息が聞こえてきます。

「みっちゃんや、ありがとの、おじいさんの手当、ちゃあんと出来たけの、ありがとの」

おばあちゃんは表に出て、月を見上げ、手を合わせながら、そうつぶやきました。





おじいさんの怪我は、おばあさんの適切な手当ての甲斐あって、5日ほどで治りました。

その後おじいさんは、山に入らなくなり、その代わりに、釣りや洗濯をしたり、家の周りで刈ってきた竹で生活用品を作り、それを里で売り歩くようになります。売ると言ってもほとんどが物々交換で、籠やざるや柄杓や湯呑みなどと、雑穀や野菜を交換してもらうのです。

ある時、里を歩いていると、知り合いの男が話しかけてきました。

「おや、柴じいじゃねぇか、なんだよ、籠なんぞもって、もう柴は売らねぇのかい?」

「それがよぉ、沢に落ちて足を挫いちまってからよ、山に入るのは控えとるがじゃ、ほいでよ、家の周りの竹での、籠だのざるだの作っとる」

「ほぅ、怪我したのかい?具合はどうだい」

「うちのおばあさんがよ、妙薬を授かってきたでよ、そいでこの通り歩けとるがじゃ」

「なあんじゃその妙薬ちゅうんは」

「ばふりんっちゅう薬らしいけんどもの、足の痛みもの、ぴたりと止んだぞ、ありゃあ妙薬じゃわ、あとはの、なんぞ、貼り薬もの、もらってきちょおるぞ」

「ほぉ、いったいどこでお授け頂いたんだよ」

「これがの、おかしな話での、お山の稲荷さまにお参りしてお授けされたらしいんじゃわ、ありがたいことじゃて」

「なんだと!稲荷さまから!そりゃ珍しいなぁ!」

前におじいさんは柴を売っていたので、里では柴じいさんと呼ばれていました。まるで柴犬みたいですね。そしておばあさんの薬のことをこんな風に毎日のように話すものだから、そんな不思議な薬をひと目見ようと、人々が家へやって来たりもしました。

そんなある日、田んぼの水路に足を踏み外し、足を挫いた男が、おばあさんの家を訪ねてきました。15~16歳ぐらいの息子二人に戸板に載せられ、痛そうな顔をしています。里で妙薬の話を聞いて、となりの村からやって来たのだそうで、お金を払うから、どうか手当てをしてくれ、と言うのです。

見ると、おじいさんと同じように足を挫き、足首が腫れ上がっています。おばあさんとおじいさんは、手際よく手拭いやタライや布を用意して、男を畳に寝かせ、足を小川の水でじっくりと冷やしました。男に薬を飲ませ、しばらくすると、痛みがひいて来たようで、少し安心した顔をしています。おばあさんは冷えた足に、湿布を貼り布を足首に巻き付けながら言いました。

「ほいでの、足を高くしての、足の下になんぞ敷いてから寝とったらええど、じいさんの時は翌日も痛みだしたからの、この痛み止めも2粒もってけ、あとは、この貼り薬も二枚の、2、3日は痛みが無くなっても歩いたらいかんど」

すると、怪我した男も、息子ふたりもほっとしたような顔をして、みんなで顔を見合わせています。

「ありがとうごぜえます、痛みもほっとんどなくなっとる、ほんにありがとうごぜえます、おい、ほれ、薬礼をお出しせんか、ほれ」

男にそう言われ、息子のひとりが、粗末な布にくるんだ銭を差し出しました。

「40文ばかりしかないけんども、足りますかいの?足りなんだらまたお持ちするで、もうちくとばかし待ってはくれませんかいの?」

男がそう言いました。
おばあさんとおじいさんは顔を見合わせます。
受け取ってもよいものかどうか判断しかねているようです。

あ、そうですね、40文ってどれくらいの価値だか、あんまりぴんとこないですよね。当時の物価としては、

甘酒 1杯 8文
沢庵漬け1本 15文
かけ蕎麦1杯 16文
米1升 100文
鰻丼1杯 200文

と、なるのですが、これで考えると、40文はおおよそ、おじいさんとおばあさんがそばを2杯食べ、お釣りが来るぐらいの値段です。飲み薬、貼り薬、手当て代を合わせて考えたら、妥当な値段かもしれませんね。

おばあさんとおじいさんは特に裕福というわけではなく、どちらかと言えば貧しい家庭です。40文というお金は欲しいですが、お金をもらうつもりはありませんでした。

「足りませんか?」

おばあさんたちが渋った顔をするので、男が不安な顔でそう訊きました。
おばあさんが答えます。

「いや、困っとる人を助けるのは当たり前のことだで、それでお代をいただくんは、ええんかの、この薬は自分で作っとりゃせんし、ある人に頂いたものになるけんの」

「いやいやそれではわっちんどもも、気が収まりませんで、銭がだめならば、また明日にでも野菜や漬け物でも持って来ますけんども」

男がそう言うと、支払いのためにまた来てもらうのはかわいそうだから、とおばあさんとおじいさんはそれを断り、ありがたく40文を、受けとることにしました。そうしてしばらく休んでから、男はまた息子たちに戸板に載せて運ばれ、帰っていきました。

おばあさんは、40文というお金を見ながら、なにやら考えています。

「おじいさんや、えか」

「どうしたんじゃ、おばあさんや」

「みちちゃんがの、東京での、言うとったんじゃ。余計に薬があれば、わしやおじいさんの暮らしも楽になるし、村の人たちも助かるじゃろて、薬を多めにの、渡してくれたんじゃ」

「ほうかえほうかえ、やっさしい娘っこじゃの、そのみちちゅうおなごはの」

「ほうじゃ、やっさしい子じゃ、せやからの、わしはの、もう一度の、あの子に会って礼をしたいがじゃ、この40文という銭も、もとはと言えばあの子のもんじゃからの、なんとかしてお返しがしたい、明日も稲荷さまの祠に行って試してみるでの」

こうしておばあさんは毎日稲荷さまの祠にお参りするようになり、そしてひらがなやカタカナ、そして漢字についても少しづつ覚えていきました。やがて、薬に書いてある文字も読めるようになり。、女が託してくれた、赤ちゃんの夜泣きの薬や、湿布、葛根湯など、それらの薬の飲み方のことも、少しづつ理解ができるようになっていきました。

そしておばあさんの薬の噂を聞き付けた人々が、はるばる遠くから痛み止めを買いにきたりすることも増えてきて、その度に皆がお金を置いてゆきました。


おばあさんが東京から帰ってきてから、3年経ったある日、城下町の庄屋さんが訪ねてきました。

「すまんの、ここが、薬を売っとるという、家かの?」








おばあさんが東京から帰ってきてから、3年ほど経ったある日、噂を聞き付けた城下町の庄屋さんが訪ねてきました。

「すまんの、ここが、薬を売っとるという、家かの?」






そうやって、綺麗な身なりの庄屋さんが、家の前で籠を作っていたおじいさんに訊きました。庄屋さんは、そちらの時代で言う自治会長さんとか、町長さんとか市長さんとかそういう仕事に近いかもしれませんね。

おじいさんは頷いて言いました。

「ほう、そうでございますけども、どうされましたかいの?」

「ここにの、夜泣きの薬があると聞いての、参った次第じゃ」

「あ、へい、おばあさん呼びます故お待ちを、おい、おばあさん、おばあさんや」

「へいへい、どうしたな、おじいさん、おや、あ、こりゃどうも、ほう、はい、ございますぞ、夜泣きの薬じゃね、ありますぞ、こちらやけんども」

おばあさんは、竹の行李の中から、夜泣きの薬を取り出しました。

「ほう、これか」

「庄屋さま、赤子が泣きよりますかの?」

「初孫が生まれたんじゃが、どうにも毎晩泣いての、見ておって不憫で、街の医者にも診てもろうたが、悪いところはないと言うのだ、それでも泣き止まぬで、孫も私らも参っておる、それで、噂を聞いて、こちらに参ったという訳だ、それで、その薬を譲ってはもらえぬか」

「あ、へい、そりゃもう、もちろんでございます、いかほどお包みしましょうかいの」

「ここまで来るのにも一苦労であったから、多目にもらっておこう、10日分では、いくらになる」

「あぁ、その、値段というのは決まっておりませぬで、みなさまのお気持ち頂いておりますですで」

「そうか、じゃあ、城下で薬は、一包20文じゃから、10日分で200文でどうじゃ」

「あ、そりゃもう、ありがてぇことでございます、それじゃあ、1服2粒、乳飲む前に、水かぬるま湯で飲ませてもうてください、夜泣きだけじゃのうて、下痢や風邪にも効きますきに」

「そうか、わかった、効き目があれば、また来るかもしれん」

そう言って庄屋さんは、お金を置いて、帰ってゆきました。




さて、それから、10日後。

また、庄屋さんがやって来ました。




「おい、おるかの?」

「ありゃま、庄屋さまでねか、どうですかの、赤子さんのご様子は」

おばあさんが笑顔で訊ねると、庄屋さんは深く頷いて、

「実はの、あの晩からの、一度も夜泣きをせんようになっての、わしら家族も、なにより孫も、健やかに過ごしておる、ばあさん、礼を言う」

そういって庄屋さんは深く頭を下げました。
おばあさんはとんでもないというように驚いた顔をして、同じようにお辞儀をしています。

「それでの、追加の薬をわけてもらいたいのだ、わしのとこだけではなく、町のものにも分けてやりたい、故に多目に売ってはくれんかの、全部でどれくらいある」

おばあさんは、おじいさんが作った竹の行李の中から夜泣きの薬を取り出して数えました。全部で4つあります。

「まだ封を切っておらんのは、4つありますけんども」

「では、4つ全部欲しいが、よいか?」

「あ、そりゃ、へい、よかです」

「いくらになる」

「そうですのぉ、あのぅ、勘定が苦手でしてのぉ、わかりゃんせんのですけんどもなぁ」

「そうか、以前は、2粒の10日分、20粒で200文だったであろう。ならば、その包みひとつで何粒入っておる」

「この箱に120粒入っとるみたいですの」

「それでは、箱で1200文になるな、それが4箱で、4800文じゃ」

おばあさんは、4800文という途方もない数字にぼんやりとしています。何度も言うように、物々交換しか経験してきていないので、1000という数字もいまいちぴんと来ません。その様子を見て庄屋さんが言いました。

「4000文は1両と同じ価値じゃ。よって薬礼は、1両と800文。しかし、わしは、800文も持ち合わせはあらぬから、500文をこの2朱金、250文を1朱金で支払う。これで750文じゃ、残りの50文はそのまま支払う、これで4800文となる、良いかの?」

庄屋さんは、おばあさんにお金を見せて説明します。

当時の貨幣価値は複雑で、金の貨幣と、銀の貨幣が別々に存在していて、そして金の価値も変動していました。金や銀が混ざると、庶民たちにとっては支払いが複雑になってしまいます。ですので庶民はなかなか1両というお金を手にすることはありませんでした。だからこそ、おばあさんが混乱するのも、当然なのです。

「もし、米のほうがよければ、値段のだけ米を後日持参するが、どうかの?世話になっておるのに困らせたくはないでの」

ぼんやりとしているおばあさんを庄屋さんが心配してそのように声をかけましたが、おばあさんは首を横に振り、差し出されたお金を、ありがたそうに受けとりました。はじめて見る1両です。時代によってお金の価値は変わりますが、おばあさんの時代では、1両で、1石の米が買えたそうです。1石とは、150キロの米のことを言います。大金ですね。


これで、東京で女が買ってくれた薬は、ほとんどがなくなりました。

これまでも毎日、稲荷さまの祠へおばあさんは行っていましたが、

「みちちゃんに会わせてくれ」

という願いから、

「みちちゃんが息災でたくさん笑ってくれるように」

という願いに変わってゆきました。

手元に薬はもうほとんど残っていませんが、ひらがな帳、漢字辞典、歴史の本、将棋の本が残っていて、そして、人々から薬礼として頂戴したお金は、すべて手を付けずに残しています。

おばあさんは文字を学び、歴史の教科書も少しづつ読めるようになりました。おじいさんは将棋の本を携えて、里へ将棋をさしに行くのがひとつの楽しみになりました。

将棋は歴史を重ねていくほど新たな戦術が増えるので、未来の戦術はこの時代には存在しません。ですので、おじいさんは里では将棋が強いともてはやされ、えらくご満悦のご様子です。女が、将棋の本を野菜籠に入れてくれて、本当に良かったですね。


そしてそうやって、怪我が治ったおじいさんとおばあさんは二人仲良く幸せに、長生きして暮らしましたとさ、めでたしめでたし。












という言葉で、本来ならば昔ばなしは終わりますよね。

でも、めでたしめでたしのこの日から、

十五年後へ、物語は続いてゆくのです。





さて、めでたしめでたしから、十五年後のことです。





ある朝のこと。
おばあさんは、城下町へ向かって歩いています。






あれから年月が過ぎましたので、腰は曲がり、皺は増え、杖をつき、歩くのは、とてもゆっくりです。

背中には、竹の行李の入った野菜籠を背負い、時折立ち止まり、息を整えながら、歩いています。

季節は夏の終わり。田には稲が成り、胡瓜や茄子の葉は枯れ始め、おばあさんが歩く畦道を、枯葉色の殿様バッタが、ぎちぎちと鳴いて横切っていきます。






十五年の間に、さまざまなことがありました。

まずはそれをお話していきましょう。






ある日から、おじいさんとおばあさんは、ふたりで山に入り、稲荷さまの祠の周りの竹を刈り取り始めました。その竹で道具を作り売ったり、竹炭にして売ったり、竹の子を売ったりしました。

そして広くなった竹林の中に、いくつもの苗木を植えました。

栗や桃、アケビや椎の木、ヤマモモやサルナシ、オニグルミ、金柑やりんごなど、山から木を採ってきて苗木にし、二人で植えていったのです。     

そして木の間には、里で買ってきた馬鈴薯を半分に切って植え、種芋をどんどん増やして行きました。

みなさんのそちらの時代の、学校の校庭ぐらいの広さになるでしょうか。それぐらいの広さに、竹林を切り開いてゆき、沢山の木や、馬鈴薯を植えたのです。

しばらくは、山から獣が降りてきて新芽を食べられたりして大変でした。でも、この林を囲うように、触るとかぶれる漆の木や、棘のあるタラの木なんかをたくさん植えたので、少しづつ動物たちも近寄らなくなってきました。

やがて木々が育ち、実が落ち、また新たな木が生え、ちいさな広葉樹の森ができました。毎年葉が落ち、その腐葉土の中では芋が育っていきます。その森の真ん中に、稲荷さまの祠がちょこりと座っています。

その森を眺めながら、おばあさんとおじいさんは満足そうに頷きました。


ある日、里の者たちが訊きました。

「なあんで稲荷さまの竹林をわざわざ刈って森にしたがじゃ?なんぞ意味のあるんけの?」

おばあさんは答えました。

「稲荷さまへの恩返しじゃ、明るくなって風通しもよかろの?そっちの方が住みやすかろうて」

里の者は、はぁ、そんなもんかの、と呟きました。

おばあさんは、うん、そんなもんじゃ、と答えました。


この森を作るのに、なんと十年もかかりました。
稲荷さまへの恩返しとはいえ、大変でしたね。

そしておばあさんは、東京の女からもらった着物を、すべて売りました。着物数枚で、5両という大金になりました。とても良い生地で、この時代には無い染織技術で作られていたようです。

おじいさんとおばあさんは、竹の道具や、竹炭や、竹の子や野菜などを、里ではなく、城下で売り、お金に換える、という生活を始めました。



ある日、城下で野菜を売り、山へ戻ろうとしたとき、おばあさんが、おじいさんに言いました。


「おじいさんや、わしゃの、一度だけでもええからの、鰻のどんぶりというのをな、食べてみたいがやけんどもの、おじいさんの、どうじゃろか、おじいさんも食べたないかの?」

おじいさんは答えました。

「おばあさんや、今まで、苦労ばっかりかけての、怪我の世話までしてもろうての、鰻の一匹も食べさせられんでの、すまなんだの、本当にすまなんだ、おばあさん、わしゃええで、食べてきやあせ、わしの分までの、何杯でも食べてきやあせ、稲荷さまの森を耕して、里や城下のもんに薬を分けて、それで鰻食べてもなんもバチはあたりゃせんぞ、おばあさん、いくらんでも食べてきやあせ」

おばあさんは首を振りました。

「おじいさんや、わしゃの、おじいさんとの、ふたりでの、鰻のどんぶりが食べたいがじゃ、旨いもんが食べたいわけじゃねぇ、贅沢したいわけじゃねぇ、おじいさんと、同じ時のの、同じ味をの、食べて過ごしたいがじゃ、駄目かの?こんな老いぼれの汚ねぇ身なりのばあさんと食べるのは、恥ずかしいけの?」

おばあさんが悲しそうに言いました。

おじいさんは怒ったような顔をして、おばあさんの手を掴み、歩き出しました。

「うなぎ」と暖簾に書いた店に入り、「ふたりじゃ」とぶっきらぼうに言って、「いっちばんうまい鰻のどんぶりをふたつじゃ、600文あれば食えるかの?」と、大声で店のひとに訊きました。


店のひとが、「あ、へい、お出しできますけども」と答えると、

「それじゃあふたつ頼んだけの」

と、どや顔で注文しました。

おばあさんは、ほんの少しだけ泣きながら言いました。

「おじいさんや、ありがとう、ありがとの、わしは、幸せじゃの、幸せなばあさんじゃて、ほんに、ありがとの」

おじいさんは、「お、おぅ」と言って緊張してほんの少し震えながらも、格好をつけています。


おばあさんは、
おじいさんの手を、
強く握りました。


ふたりが食べる鰻のどんぶりは格別で、初めて食べるその美味しさに、ふたりはもくもくと食べました。

ほら、だって、いま、みなさんがいる時代とは違う、清い海と、清い川で育つ、天然の鰻です。そして米も、砂糖も醤油も、無添加、無農薬。

みなさんの時代とおなじ味なわけがないですよね。もっともっともっと、美味しいって、みなさんもわかりますよね。

肝吸いを啜り、鰻のどんぶりを食べ終え、おばあさんは深いため息をついて、おじいさんに笑いかけました。


帰りの道すがら、おじいさんが言います。

「あのとき、わしが怪我せなんだら、今日の鰻も食べられなんだの、とうきょうの、みちちゃんの助けがなかったら、百姓のわしらが、こんな町中に来て、ものを売って、買うなんてことはできなんだの、ありがてぇの、ありがてえ、ありがてえの、の、おばあさんや」

夕日に向かって歩きながら、おばあさんは、頷きました。

「おじいさんじゃから、あんな贅沢ができたがじゃ、みちちゃんと、おじいさんのお陰じゃ、ありがとの、ありがとの、おじいさんや、ほんに、ありがとの」

おじいさんは、おばあさんの手を、握りました。





そんな優しいおじいさんは、ある日の夜、眠るように息を引き取りました。最後に作ったおばあさんの菜っぱのおにぎりを一口食べて、

「うめぇの、おめえのおにぎりが、一番うめえ」と言って。



里の者たちが沢山やって来て、葬送行列を組み、埋葬して、一緒に悲しんでくれました。おばあさんは、菜っぱの握り飯と、竹の子汁を、手伝ってくれた者たちに振る舞いました。おばあさんは皆に、笑顔でお礼を沢山言いましたが、自分はなにか食べたいとは、思えませんでした。あっという間に朝が来て夜が来て、やがて葬儀が終わり五日ほどして、やっと食欲が出てきました。おばあさんはゆうげの支度をしています。米を炊き、汁を作り、そして、椀を用意している時に気づきました。

「おめえさん、おじいさんはもうおらんで、ふたりぶん作ってどうするだか、おめえ、ぼけてもうただか」

おばあさんはひとり呟いて、静かにひとり泣きました。



その翌朝、行李を風呂敷に包み、野菜籠へ入れ、おばあさんは立ち上がり、歩き出しました。

城下町へ向かったのです。




おばあさんは、城下にある、庄屋さんのお屋敷の前に来ました。

綺麗で立派な門構えの前に立つと、野菜籠を背負ったおばあさんは、とても小さく見えます。

「すいませんの、あのな、わしはの、稲辺村で薬を売っておった、キヨち言います、庄屋さまは、おられますかいの?」

おばあさんが門番に訊くと、番の者は、屋敷へ入り、少し誰かと話してから、おばあさんを中へ通しました。

そして次は、若い娘が、おばあさんを縁側へと案内し、ここでちくとまっちょいておくんなんせ、と言って、その娘は下がり、入れ替わりに、庄屋さんが現れました。

「おや、どうもどうも、お元気そうですな、おばあさん」

あの日よりもほんの少し小さく見える庄屋さんが、笑顔で言いました。しばらくして、さっきの娘が、盆に茶と菓子を持って現れ、ふたりの間に置き、また下がってました。

「どもご無沙汰しておりゃっした、庄屋さまも、の、お元気そうですの」

「何度か、おじいさんとおふたりで、竹細工売りに来とるのを見かけておった、あ、おじいさんはお元気かの?」

おばあさんは、おじいさんが亡くなったことを伝え、葬儀の時の様子を話しました。

「そうですかの、そりゃ、寂しくなったの、いい笑顔と、いい腕のおじいさんじゃった、の、ええおじいさんやった」

おばあさんは、何度も頷きました。

ふたりで黙って茶をすすり、庭を黙って見つめています。

「そうじゃそうじゃ、それで今日は、また、稲辺からはるばるどうして城下へ参ったのかの?」

庄屋さんが尋ねます。

おばあさんは、野菜籠から風呂敷包みを取りだし、包みをほどき、行李を自分の膝の上に置きました。

「庄屋さまにの、お願いがあっての、参りました、この行李をの、預かってほしいがです」

庄屋さんは行李を一瞥してから答えました。

「ほう、それは、よいぞ?これから出掛けるのかの?いつ取りに戻られるか?」

「…いや、取りに戻りやしません、この行李を、預かって頂いての、ある人にの届けて欲しいがです」

「届けるというのなら、飛脚に頼んだほうがよいであろう?なぜ、わしに?」

「飛脚では届けられまっせん、出来るのは、庄屋さましか、おりませんわい」

「そうか、なにか訳があるのだな、おばあさん、詳しく話を聴こう」

おばあさんは深く頷いてから、ゆっくりと話し始めました。









「のう、なにか面白い話はないか」

ここは、城下町が見下ろせる城の中です。

若い城主が、家老の一人に話しかけています。家老の男は、少し考えてから答えます。

「面白い話でございましょうか、それでは、誰ぞ歴史に精通したものでも連れて参りましょうか」

「いやいや、昔のことはよい、今じゃ、今起きておる出来事を知りたいのじゃ、ほれ、城下では色々なことが起きておるであろ、なんぞ珍しい魚が獲れただの、南蛮渡来の道具を見ただのと、なにかあるであろ」

家老はもう一度深く考えてから、はたと膝を打ち答えました。

「ああっ、それならば、今日は城下で、なんとも不思議な話を耳に致しましたぞ」

「不思議な?なんじゃ、聞かせてみよ」

城主は身を乗り出します。

「城下の庄屋から聞いた話にございます。
100年ほど前、とある老婆が、行李をひとつ、庄屋に預けたそうでございまして、そして庄屋は、今でもその行李を大事にとっておるらしいのです」

「100年前、行李、それには宝でも入っておるのか?」

「いえ、それが、庄屋の者たちも、中身を知らぬようで」

「なんと?中身を知らぬ?なぜそんなものを、100年もの間、大事にとっておるのだ」

「不思議なのはここからです、その行李の封には、100年前から、こんにちまでの年号と、届ける年、そして届け先が記されておるそうなのです」

「ほう、なんと、年号とな?まさか、年号をすべて言い当てておるのか?」

「はい、左様にございます」

城主は腕を何度も組み直し、天井を見上げて思案にふけっています。

このお話を最初から知っている皆さんにとっては普通のことでも、このお話を知らない人にとっては、なんとも荒唐無稽なことですからね。だって、100年前からのお届け物ってことですよ?不思議ですよね。

「して、届ける年というのはいつになっておるのだ?」

城主は気を取り直して、尋ねました。

「はい、安永伍年、今年でございます」

「ほう、なんと、我が領地で、そのようなことが真にあるのか、よし、せっかくじゃ、
その成り行きを、我が目で見届けたい、おい、急ぎ、馬を用意せよ」

そう城主は言って、立ち上がりました。




「甚四郎さま!甚四郎さま!いいいいいい一大事にごぜえますぅ!」

屋敷の縁側に駆け込んで来た杢次郎(もくじろう)が、わらじを脱ごうとして脱げず、焦れったく思いながら結局脱ぐのを諦め、縁側で屋敷の中の男に何か報告をしています。落ち着きがないですね、何かあったんでしょうかね。

さて、呼ばれた方の甚四郎は背が高く、面長で涼しげな顔つきで、まぁ、色白の色男ですね。さっき駆け込んできた杢次郎の、上司にあたる男でございます。

縁側に倒れ込み息を切らしている杢次郎を、甚四郎は呆れ顔で見下ろしながら、少し笑って言いました。

「なんじゃなんじゃ、まあた飲み代のつけが溜まって飲ませて貰えねぇのかよ、おめぇさん」

杢次郎の人柄が、なんだかすごく伝わる一言ですね。

「ちちちちがう、違うので、あります、あの、殿様が、お殿様が、」

杢次郎はたいそう慌てており、しっかり喋れないようです。

甚四郎はさらに呆れた顔をしましたが、ゆっくりと縁側に座り、彼が落ち着いて話せるようになるまで待ちました。やがて杢次郎が息を整えて言います。

「っお殿様が、参りまっす」

「声が裏返っておるぞ、参りますとは、城下へか?」

「いえ、こちらに、でございまっす」

「こちらとは、城下へという意味か?」

「いえ、このっ、お屋敷にございます」

「おい、杢次郎、落ち着け、いいか?殿が、庄屋の屋敷に、来られるわけがないでろ?の?よおく考えてみよ?わたしは、お前がそのような嘘をついて、どうやって話を繋げ私から飲み代をせびるつもりか、そっちの方に興味がある」

「いや、甚四郎さま、ほんとうのことなんでございますよ、先程城より早馬が参りましての、“殿が、この屋敷へ向かわれておる、無礼のないように、すぐに支度せよ”とのお達しでございましての、ほほほんのついさっきのことでございます、急がねば、甚四郎さま!」

杢次郎の真剣な顔を見つめていた甚四郎の涼しい顔が、さらにきりりと引き締まって、呆れ顔から真面目な顔になりました。ことの重大さを察知したようです。

大声を出し、家の者をすべて集めて、ひとりひとりに素早く指示を出していきました。

3人の下女、いわゆる召し使いの若い娘たちには、ひとりを菓子屋に走らせ菓子の用意、ひとりを酒屋に走らせ酒の用意、ひとりに、倉にしまってある漆塗りの食器と、抹茶碗の用意をそれぞれ指示しました。

妻には客間に上等の座布団を用意させ、酒や魚や茶や菓子の盛り付けの確認と、茶を点てる用意を指示し、杢次郎には玄関を掃き清めさせ、打ち水をさせ、他の者たちには、部屋の掃除を言い渡しました。帳簿をとるものや、荷物を運ぶ者らも、一斉にすばやく掃除を始めます。

そして、甚四郎自らは顔を洗い、髪を整え、上等の着物にすばやく着替えました。

先程はなんだか役立たずのような雰囲気だった杢次郎も、てきぱきと動き、妻も的確に、下女も他の者たちも、無心になって指示をこなしました。

甚四郎とその妻が玄関に正座をし、その他の者たちが玄関までの石畳の脇や門の前に膝をついて座ったのと同時に、馬の足音が響いてきました。


藍の光沢のある着物のお殿様が、庄屋の門の前で馬を降りて、白い歯をみせながら言いました。

「おっ、さすが、早いの、もう出迎えの準備をしておるではないか、早馬で先に爺が伝えておったのかの?それにしても手際がよいの」

「殿が突然出向くと言われましてもの、町の者は大忙しですからの、今度からは、もう少し余裕をもってお出掛けくださると、わたくしも、町の者たちも、おだやかに過ごせるのですが」

爺と呼ばれた家老が、殿の脇に控えながら、やんわりと皮肉めいた冗談を言いました。

「まあまあ、そう怒るな、お主のような仕事の早い者がおるからの、それを見込んでの、わしの行いである」

「はあ、殿、見てくだされ、庄屋のものたちも、肩で息をしております、大慌てで掃除や出迎えの準備をしたのでしょう、そこに一言触れていただけると、この者たちも働きの甲斐があるかと」

「ほう、なるほど、そう言われればそうじゃの、しかしそれにしても爺はそんな細かいことばかりいつも考えておるのか?疲れぬか?」

「殿、さ、庄屋の者たちが、待っておるので、さ、中へ」


10名ほどの従者を屋敷の外に待たせ、殿様、家老、従者2名で屋敷の門をくぐります。

屋敷の中の者たちが、よりいっそう頭を低くして、殿様を迎えます。

玄関先まで殿様が歩いてくると、甚四郎が玄関に額をつけ、出迎えの挨拶をします。

「代々、大庄屋を務めさせていただいております、庄屋の甚四郎と申します。なにぶん質素な暮らしをしております故、お目汚しのご無礼お許しくださいませ」

「ふむ、甚四郎と申すか、よし、甚四郎、面をあげよ、他の者も、面をあげよ、このたびは、突然に参ってすまなんだな、急ぎ支度をしてくれたようだ、ここの者たちは、よい働きをしておるな、日頃からさぞよい仕事をしているのだというのがわかるぞ、ご苦労である」

屋敷の者たちがよりいっそう身を低くして、甚四郎が答えました。

「はっ、ありがたきお言葉にございます」

「よいよい、そうじゃ、それでの、爺がこの庄屋の面白い話を耳にしての、なんでも、100年前から預かっておるという行李があるそうではないか、その話をの、聞きたくて参ったのじゃ」


「行李?行李でございますか、はっ、たしかに我が家には代々受け継いでおる行李がございます、が、しかし、行李のことは家の者しか知らぬ事でございます、なぜ殿のお耳に、そのような、行李の話がお入りになったのでございましょうか」

それには、後ろに控えていた爺が答えました。

「近々、参勤で江戸へ上るからの、幕府献上の品を見定めておる折りに、酒蔵酒場で“庄屋の者”と名乗る男が話しておったのじゃ、面白い話であったから、いろいろわしもその者から聞き出し、そしてそれを殿にお伝えした、という次第じゃ」

「酒蔵、でございますか、、」

甚四郎は、玄関の外で膝をついて座っている杢次郎を見ました。
杢次郎はびくりとして目をそらし、玄関先の石ころをしみじみと眺めているふりをしています。

「ご家老、酒蔵の男というのは、その者にございましょうか」

甚四郎が杢次郎の方を指し示しながらそう言うと、家老はなんども頷いて、
そうじゃ、この男じゃ、と頷きました。杢次郎があたふたしておるので、殿が甚四郎へ質問します。

「どうした、なんぞ不都合でもあるのか?」

「いえ、我が家では代々、行李のことは口外せぬようにと固く戒められており、ごく限られた者しかその存在を知らぬのでございます」

「ほう、それはどうしてじゃ、珍しい話であるから、話したくなるのも仕方ないであろう」

「おっしゃる通りにございます、しかし、恐れながら申し上げますと、行李には宛名が、どこの村の、誰に、いつ届けるように、と書かれておるのでございます、行李の宛名が世に出回ってしまうと、その名を騙る者も出て来るのではないかということで、代々秘匿にしておりました」

爺がふむふむと頷きます。

「ふむ、賢い選択じゃの、たしかにそうじゃ、して、そうであるのにも関わらず、それを、この男がわしにぺらぺらと喋ってしまったと、そういう訳か、そりゃ、一大事じゃの、が、しかし安心せよ、この男は、詳しいことは一切喋ってはおらなんだぞ、不思議な行李に年号が書いてあって、今年、その受け渡しがある、ということだけしか聞いておらぬ」

甚四郎が、ほっとしたようにため息をつきました。同じように杢次郎もほっと胸を撫で下ろしましたが、甚四郎がじろりと睨むと、杢次郎は固まってしまいました。甚四郎の唇が、「おぼえておきなさい」と動いたからです。

甚四郎の妻が、甚四郎を小さく叩き、耳元でなにやら呟きました。

「あなた、それより、早くお座敷へご案内しないと」

甚四郎は、はっとして、

「殿、奥へお通しもせず、ご無礼いたしました、もしよろしければ、お話の続きはじっくりと奥でいかがでございましょうか」

と言いましたが、殿はものすごく軽く答えました。

「いや、いいぞ、わしはその、板張りのところで良い、なにやら気持ち良さそうじゃ」

と、縁側を指差しました。

「え、いや、そのような所で、まことによろしいのでございましょうか」

甚四郎が驚きながら言うと、

「そこが良い、城にはない」

と、殿が言い切りました。
甚四郎は女中たちに命じて、縁側に座布団などを用意し直しましたが、殿は板張りにそのまま座りました。家老がその横に離れて座り、板張りに甚四郎が正座をしています。甚四郎の妻が、殿と家老に茶と菓子を出してすぐに下がりました。

茶を啜り、茶菓子を一口食べながら、殿がなにやら考えています。

「甚四郎よ、しかしの、中身がなにかわからぬのであるのに、お主の家では、なぜそのように厳重に行李を取り置いてきたのじゃ」

「はい、おっしゃるとおり、私どもは中身を知りませぬ、行李を受け取った甚八でさえ、中をあらためなかったそうでございます」

「100年前に、どのようにその行李を受け取ったのか、興味があるの」

「はい、私の曾祖父が15の年、行李を持った老婆が現れ、曾祖父の祖父、甚八にこれを託したそうでございます、ちょうど、この縁側で受け渡しが行われたそうで、そのときの様子は、このように聞き及んでおります」

甚四郎が、話し始めました。
100年前の縁側でのお話です。




お殿様と甚四郎の座っている縁側には、気持ちの良い風が吹き抜け、暖かい日差しが注いでいます。

甚四郎が100年前のことを話し始めました。




100年前のある日の夕方。
同じ縁側で、甚四郎の曾祖父の祖父である甚八が、おばあさんに問いかけました。

「なにか訳があるようじゃの、話を聴かせてくれんかの」

おばあさんは、行李を膝に置いたまま、お茶を一口啜り、話し始めました。




庄屋さま、あのの、あのの、わしはの、江戸の町のの、うんと先の未来のな、東京ちゆう町にの、行ったことがあるがじゃ、いまからいうたらの、18年ぐらい昔の話かの。

18年前にの、おじいさんが怪我してもうての、稲荷さまにお百度参りしたがじゃ、そしたらの、気づいたらみっだらことねぇどころに立っておっての、すごかったど、火の見櫓はの、でけくてでけくての、高うて、天に届いておっての、食い物もの、薬もの、たくさんあっての、風呂はからくりでの、すうぐ沸くしの、ほいで水はの、汲まんでええんじゃが、鉄の管での生きとる人間のすべての家にの、届いとるがじゃ、すげじゃろ。

そこでの、みちっちゅうの、娘に、会うたがじゃ。
みちちゃんもの、わしと同じように、あっちの時代の人間じゃのうて、吉原で女郎しちょって、格子女郎までやっとっての、19で東京に迷いこんだんじゃと、ほいでの、あっちで暮らしとったがじゃと、ほいでの、東京での、わっけもわかんねぐなっとるわしをの、助けてくれたがじゃ。

わしはの、百姓ばっかしかしてこなんだから、年号なんぞな、わからんかったけどもな、里にな、昔な、芭蕉さんが逗留なさっとことがあっての、それを伝えたらの、わしが、元禄から来たちゅうことを調べてくれての、元禄のの、将軍さまはだれじゃゆうて、それも綱吉公じゃと調べてくれての、ほいでの、それでの、ほいだら、みちちゃんはいつの時代からきちょるがゆうたらの、10代将軍の頃じゃと言うちょった、10代将軍家治さまじゃ、言うておったの。

綱吉様は5代将軍じゃろ?みちちゃんはの、10代将軍の時代から来ちゅう言うがじゃ。ほいでの、東京からの、薬もってけえって来るときにの、みちちゃんがの、着物やら、書物やら、薬やら、分けてくれたがじゃ、ほいでの、その薬をの、庄屋さまにも、お譲りしたがじゃ。

わしは、みちちゃんに、恩しか受けとらんけの、どうにかして、返してえ、みちちゃんにの、お返しをしてえんじゃ、これからの、100年ぐれえした年にの、この国の外れの、みざの村ちゅうとこにな、みちちゃんがな、生まれるはずなんじゃ。

けれどもの、わしら百姓の家ではの、なんかあったらばの、すぐ貧しくなるで、着物や娘や田を売らねばならねぐなるからの、里の者たちにあずけておっても、100年後の者に渡すなんてこどはできねとわしは思うがじゃ、けんどもな、100年後もな、続いておるのはの、代々大庄屋を続けておりんなっさる、庄屋さまのところしか、ねえべな、えか?

お奉行さまのとこ行ってもよ、わっしのことしらねえべの、あったまおかしいばあさんじゃ言われておわりやけんどもの、庄屋さまは違うべな、あの薬をお孫さんやの、町のものにも配っちょるべの、わしの言うちょることもの、少しはつじつまが合うじゃろわい。

ほいでよ、町のもんに聞いてもよ、里のもんに聞いてもよ、庄屋さまはお上の言いなりじゃのうての、わしらの事情を聞いてくれての、年貢の交渉もしてくださるち言うての、みいんな感謝をしちょる、そんな庄屋さまならの、わしのこの願いを、聞いちくりりゃせんかの、と思っての。

この行李を、100年後に生まれるみちちゃんに、届けて欲しいがじゃ、10代将軍家治さまの時代に、生きちょる娘っこに、返して欲しいがじゃ。

中に手紙がはいっちょりますけんの、そして、わしの、すべての財産がはいっちょります。薬売って受け取ったお金がの、すべてはいっちょります、あのときのの、庄屋さまから頂戴したお金もぜえんぶはいっちょりますきに、あとはの、みちちゃんからもらったもんは、ぜえんぶはいっちょります。

ほいでの、この年号の、安永七年にの、みざの村のの、みちという娘にの、届けてくだしゃんせ、ほいでの、こりゃの、庄屋さまへの、お礼でございますけんの、お受け取りいただけますかいの?引き受けてくれますかいの?




深く皺の刻まれ、爪の間に土のこびりついた小さな小さな日焼けした手に、3両が握られています。

庄屋さんは、複雑な気持ちでその手を見つめていました。

だって、あまりにもバカバカしい話じゃないですか。未来にやってくる、あんえい何年とかに、誰かが生まれるから、その子にこれを届けて欲しいなんて。そのお金を使って、美味しいものでも食べて、老後を過ごす方が、幸せに決まっています。

庄屋さんは、黙ったまま、どうやって断ろうかを考えていました。そしてじっくりと言葉を選び、喋り始めました。


おばあさん、よいかの。
庄屋としてな、わしらに大事なのは、数じゃ。事実じゃ。誰がいくらぶんだけの年貢を納めて、我らが藩にいくら納められるか、それだけじゃ。わしらはの、事実に基づいて行動しておる。その積み重ねが、藩からの信頼を受け、代々庄屋を勤めさせてもらっておる。

おばあさんのな、その話を否定するつもりはないが、わしは、その話を信じることは出来ぬ。信じられぬ話に、金を受け取って、ハイわかりました渡しておきます、というのはの、無責任じゃ、そないに無責任なことは、庄屋の信用に関わる話じゃ。

けれどもな、事実が、ひとつだけある。
おばあさんが庄屋であるわしを信じ、大金を預けようとしておるということじゃ。これだけは真実じゃ。
わしは、信ずるということは、事実の積み重ねから来るものだと思っておる。そのおばあさんがわしを信じようとする気持ちを、わしもまた信じ、その行李を、お預かりし、おばあさんの恩をお返しする手伝いをさせてもらおうと思う。

しかし、受け渡しのためには、不充分な点がまだある。世迷い言と思われぬための証拠があると良い。代々受け継いでいく上で、信ずるに値すると、信じさせるほどの証拠じゃ。おばあさん、年号というのは、アンエイという年号以外は、わからぬか?今は宝永であるが、次の年号はわかるのか?それと、名前と生まれた場所以外の、みちという娘の、なにか特徴があれば良いが、手がかりはなにかあるか?

おばあさんは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、甚八に手を合わせて頭を下げています。

おばあさんは、今日まで、ひとりでたくさん文字や歴史を学んできました。だから、みちが生きている安永までの年号も、すべて暗記してしまっていました。それぐらい、みちに届けるために様々な可能性を考えたんでしょうね。


「次の年号はの、正徳での、ほいでの次がや、享保、延享、寛延、宝暦、ほいでの、ほいでのえっとの、明和での、次が安永じゃ、その次が、天明じゃ。」

甚八は筆で、それらの年号を書き留めました。

「それで、みちという娘を見分けるための、なにか特徴はないかの?」

「ほうほう、ありますど、みちちゃんはの、背が高くての、すらあっとしとっての、髪の毛もの、稲穂のように輝いておっての、猫のようなやわらけえ、ばあさんのわしから見てもの、いい女じゃでの、すぐわかるろうて」

「しかしおばあさん、届ける相手はこどもなのであろう、それではわからぬぞ」

「ほか?ほだのぅ、こどものみちちゃんには会うたことはないけんのぉ、わがんねのぉ」

「東京でであったその娘に、ほくろか、傷か、もしくは、こどもの頃にこういうことがあったとか、手がかりの話は聞いてはおらぬか」

「みじけぇ間だったけのぉ、こどものころの話はのぉ、してねのぉ、わっかんねぇの、わがんね、庄屋さま、わがんねだわ」

「そうか、それでは安永7年、みざの村、みち、娘、という項目だけか、それなら仕方あ」

「そうじゃ!思い出したど、みちちゃんはの、寝る前にの、なにやらの、不思議な…」








さてさて、その日から、100年後の縁側に戻って参りました。
お殿様は、難しい顔をしながらも、熱心に甚四郎の話に、耳を傾けています。

「甚八は、その場で私の曾祖父、甚吉を呼び、この行李を、責任を持って受け継いで行くように、と老婆の前で教え諭したそうです。曾祖父の甚吉には会ったことはないですが、甚吉から代々、このときの話を、今日まで言い伝えて参りました」


「ふむ、代々、か。律儀じゃの、真面目で律儀じゃ、しかしの、それを受け継いで、いったい庄屋になんの得があるのじゃ、手間賃を受け取ったとは言え、たかだか3両であろう。なぜ3両でそこまでするのじゃ」

「はい、これも、長い話にはなりますが、よろしいでしょうか。

実は甚八は、若い頃は、ものすごく厳しい庄屋として有名でして、猶予を与えず、必ず年貢を取り上げたそうです。それが決まりだから、それが自分の職務だからと、とにかく厳しかったようでございます。

けれども、孫が生まれた途端、世の中の見え方が変わったと、後に家族に話したそうです。子を育てておったときは、庄屋を継がせるために、責任や心労もあったようですが、手放しで可愛がれる孫が生まれた時に、ふと、今までのたくさんの百姓たちが、年貢量を減らしてくれと、訴えてきた情景が甦ってきたそうです。

百姓のすべての家にも、このように孫を思う祖父母がおり、そして目に入れても痛くない、そんなこどもがおるのだと、自分の四角四面のいままでの職務のあり方に衝撃を受け、生まれて始めて、人を思いやることに気づいたのだと、そう語ったそうです。

そうして甚八は孫のために、自分で夜泣きの薬を探し歩き、里から里へ歩くうちに思ったそうでございます。

貧しきものたちの暮らしがあればこそ、国のものたちの腹を満たすことができる、貧しき者たちがさらに弱れば、一国もろとも腹が減り、弱ってしまうと。お国と百姓の間に立っているのが、自分たち庄屋であると。

そして、とある里で薬の話を聞き、老婆の家にたちより、夜泣きの薬を手にいれたそうでございます。

それから甚八は罪滅ぼしのような気持ちで、その薬を全部買い取り、里や町の、赤子のいる家庭に配って歩いたと聞いております。

それから後、弱っている里があれば、藩の助けを借り、翌年の収穫に影響が無いように、米を廻し、年貢の滞りが出ぬように努めたと聞き及んでおります。藩からの信頼も、百姓たちからの信頼も、甚八は同じように大事なものだと思っておったようでございます。

そうして、死の床で、家の者を呼び、甚八は話したそうです。

庄屋として大事なことは、信頼されることだと。ですから、貧しい老婆が、全財産を庄屋に託した信頼の塊であるこの行李は、正しく代々受け継ぐべきものだと、この行李を粗末に扱うようなことがあれば、それは我ら庄屋が腐り果てた日だと思え、貧しき者が、我らを頼り、財産を預けた、それを踏みにじるような庄屋になるな、安永7年まで、決して粗末にするな、と遺言のようにして亡くなったと、聞い」

そこへ、門をくぐり、ひとりの男が屋敷へ入って来ました。

「おい、杢次郎、おめぇなにしゃがんでんだよ、なんだよ、銭でも落ちてんのか、おい、おめえらもなんだよ、みんなして、なんだ、なんだ?蟻の行列でも見つめてんのか、なんだよ気味わりぃなあ」

背の低いこの男は、屋敷で働いている者で、いろいろな使いを任されている、喜助という者です。杢次郎が慌てて、喜助の袖をつかみ、膝をつかせようとしますが、喜助は杢次郎がふざけていると思っているようで、

「おいおい、甚四郎さまは、どちらじゃ、なんだよなんだよ、新しい相撲か?やめろよおめ、やめろ、袖がやぶれ、袖がやぶれるでねか、やめ」

「早くすわれっ、お殿様じゃ、縁側にお殿様じゃっ!」
杢次郎が言うと、喜助は笑って言いました。

「杢次郎、昼まっから酔っぱらっての、おめ、しまいには甚四郎さまに追い出されるぞ、お殿様が庄屋におるわけがねぇだろ、な?みんな、こいつ、もう、おしめえだぞ、年中酔っぱらいだぞ、杢次郎は」

喜助がへらへら笑い、周りで一緒にしゃがんでいる皆に同意を求めますが、皆は顔を上げません。
喜助が不審に思い、縁側を見ると、甚四郎がいましたので、甚四郎のもとまで歩いて行き、言いました。

「甚四郎さま、こいつら頭ぶってもうたんでねえかの、お殿様がおる言うてしゃがんどるけんども」

すると、甚四郎は、冷や汗をかきながら言いました。
「喜助、よいか、よく聞きなさい、今すぐそこにひざまずき、下がりなさい、こちらのお方は、我が藩の殿である、客人ではない、殿であるぞ、さあ下がりなさい、殿、どうかこの者のご無礼、どうかお許しを、なにとぞ」
甚四郎はお殿様に向かって、土下座をしています。

喜助は甚四郎のとなりに座っている人を見つめました。上質の着物を着て、にやにやと笑いながら喜助の事を見ています。紋付きの着物には、お殿様の紋が入っています。額に冷や汗がじんわり滲んできたかと思うと、喜助は、すぅっと意識を失いました。


しばらくしてから杢次郎が、井戸から冷たい水を汲んで来て、喜助にぶっかけました。すると、喜助はすぐに目を覚まします。

甚四郎が縁側から喜助を見ています。
そしてその隣には、やっぱりお殿様が座っています。

「お殿様、ももも申し訳ねぇでごぜます、このとおりでごぜます、まっさかお殿様がおられるとは思わなんだんで」

お殿様は、「よい」とだけ答えます。

そして、甚四郎が喜助に問いかけました。

「喜助、遠出、ご苦労であった。それで、どうだ、見つかったか?」

喜助は、水の滴る顔を拭って、答えました。


「あ?へ?あ!へ!へい!今朝、村で聞いて参りました、ほいだら、あの村に、やっぱり、おるんだそうです、甚四郎さま、言い伝えが当たっておりました!みざの村に、みちという娘がおるそうです!」

屋敷の者たちと、お殿様の一行が、どっとどよめきました。

「それでは、行李を携えて、これより参ろう、殿、殿はいかがなさいますか?」

甚四郎がお殿様へ訊くと、お殿様は頷いて、

「せっかくじゃ、わしも行くぞ。爺も来るのじゃ」

と、言います。家老は頷き、素早く侍たちを外に整列させました。

甚四郎は、杢次郎に、蔵から行李を持ってくるように言い、縁側で風呂敷をほどきました。行李には、封がしてあり、綺麗な字で年号が書かれています。

そして、「安永七年 ミザノ村 ミチ」と、おそらくはおばあさんが書いた字で、締めくくられていました。

お殿様も家老も、屋敷の者たちも、初めて見る、受け継がれてきた行李を見て、感心しています。

甚四郎は、杢次郎に行李を背負わせ、言いました。

「それでは、これより、ミザノ村へ参る。喜助と杢次郎は、共に来い」


いよいよですねえ。
ちゃんと、行李が受け渡されるんでしょうかねぇ。


ん?


その時、塀の外でひとりの男が、今までの話の一部始終を全て聞いておりました。

甚四郎やお殿様たちが出発すると、その男はうさぎのように駆けて、どこかへ消えてしまいました。

一体、誰なんでしょう。





ミザノ村へは、甚四郎、杢次郎、喜助、お殿様、爺、そして十数名の侍たちが向かいました。

城下町から、歩いて一刻半という道のりでしたが、みなさんの時代とは違って、この時代の者たちは、みな歩くのに慣れています。というより、歩く他に移動手段はないので、みなさんの時代で言えばおそらく、電車に乗るのと同じ感覚でしょうか、みなずいずいと歩いてゆきます。


「しっかし杢次郎、おめ、お殿様がいるならいるでの、早く言わねば、俺もこころの準備ってやつがあるべな」

「いや、言っただろうがよ最初によ、光の早さで言うたべな、てめが聞かなかっただけでねか」

喜助と杢次郎は、先頭で道案内をしながら、そうやって小突きあって歩いておりまして、甚四郎はその後ろを涼しげな顔で、杖をつき歩いています。いつもは杖などついていないんのですが、距離があるので持ってきたのでしょう。あ、ちなみに甚四郎は40代前半で面長、色白のやせ型、背が高いです。歌舞伎の女形なんかをやらせると、さまになるかもしれません。実際に、城下町を歩いていると、町娘たちが集まってひゃあひゃあ言っているのを、わたくしも何度か目にしたことがありますからね。

さて、爺はお殿様の前で馬に乗り、お殿様はその後ろでゆったりと馬に乗っています。そしてその馬を挟むように、侍たちがぞろぞろと歩いております。

「のぅ、爺よ、こういうのもまた、一興だな」

「と、いうと、思い付きで行動されることが、ですかな?」

「なんだ、まあだ怒っておるのか、しつこいのう、違う、こうやっての、のどかな場所をだな、焦らず急がずのんびりと馬で行くことじゃ」

「たしかに、このような田畑や川や山、心が洗われるようですな、いつも殿に振り回されておる警護の者たちにも、良い休息になりましょうぞ」

「な、え、お、おい、お主ら、そのように思っておるのか?」

お殿様が侍たちに問いかけると、侍たちは気まずそうな顔をしています。

「ほれ、殿がご質問されておられるのだ、誰ぞ、きちんと、正しく、本心で、答えぬか」

そう言って、爺が侍たちの返答を促します。
すると、侍のひとりが、恐る恐る答えました。

「恐れながら、拙者は、なんと申しますか、その日々、新しい心持ちで殿の警護につかせて頂いておりますのが、つまり、その、毎日、何が起こるのか分からぬというのが、武道の稽古、そのもののように思っております」

すると、爺が笑いながら言いました。

「なるほど、なかなか、いいように、言いよったわい」

お殿様は釈然としない顔つきで、

「爺、言葉のまま受けとれ、言葉のまま、どうやったらそのようにへそ曲がりに育つのかの、不思議じゃ」

「わたくしめを育ててくださったのは、先先代の殿にございます。苦情の類いは、先先代へお申し付けくださいませ」

「そういうところじゃっ、わしの祖父はとうの昔に鬼籍に入っとるではないかっ、ったく」

そうやって、お殿様たちご一行も、話しながら歩を進めています。
なんだか遠足みたいですよね。


振り返ると、城がかなり小さく見えていて、一行は涼しげな川沿いを歩いております。さらさらと清い水が、日の光をちらちらと反射する気持ちの良い小川です。

お殿様がその小川を気持ち良さそうに眺めていると、小川のほとりに、ひとりのこどもを見つけました。川原でなにやら熱心に捏ねています。

「爺、あれは、何をしておるんかの?」

「どうでしょうかな、見たところ、泥団子で遊んでおるようでございますが」

先頭の杢次郎も、そのこどもに気づきました。そしてその子のまわりに大人がいないことを不審に思い、声をかけました。

「おーい、おめ、ひとりでなにやっとるだ?」

こどもは、杢次郎の声が聞こえないようで、熱心に泥団子を練っております。杢次郎は、こどもに近づき、しゃがみこんで話しかけました。

「おめ、なにやっとるだ?こんなとこで、ひとりでよ」

こどもは、はっと気づき、顔を上げて言いました。
6才ぐらいの娘です。

「ほわっ、びっくりするでねか、これけ?あのの、この団子さこしらえての、魚にの食べさせての、魚ばの、捕まえて持って帰ろかのち思ての」

一行も、川に降りてきて、ふたりの会話の成り行きを見守っています。

「その泥団子をば、魚に食わせるんかの?」
喜助がそばに来て、杢次郎のとなりにしゃがみ、娘に話しかけました。

「そじゃそじゃ、腹いっぺえにの、食うてもろてからの、あとは捕まえるがじゃ」

娘はそう言っていますが、大人たちは娘の言っておる意味がよくわかりません。だいたい、こどもが言うことって意味が通らないことがほとんどですよね。泥団子を食べさせて魚を捕まえるなんて。

甚四郎や、お殿様や爺は、川の様子を観察したりしています。
というのも、小川をせき止めるように、石がならべられていたからです。どうやら、こどものただの意味の通らない言葉ではなくて、なにか、仕掛けがあるようですね。

「よし、でけたどでけたど、今からの、団子を食わせるでの、けんどもな、魚とれてもな、お侍さんたちにはあげんでの」

娘には、この一行が侍の集団だと見えているようです。そう見えても仕方ありませんね、半数以上が刀を持って歩いていますから。

そうして娘は少し歩いて川の上流へ行き、作った泥団子をすべて川にどぶんどぶんっどぶん、と投げ入れ、そしてせき止めてあるところへ駆け戻ってきました。

上流からは、ゆっくりと濁った水が流れてきます。

お殿様も爺も、興味深そうになりゆきを見つめております。トンビが鳴いて、風が吹き、小川のせせらぎがちろちろと音をたてています。とても静かで、のどかです。川を見つめる娘の、藁で結んだ髪の毛が、日を浴び稲穂色に輝いています。


甚四郎も、娘と同じように川の流れを見ておりましたが、
突然、「ほお、なるほど」と小さく声をあげました。

せき止められている石積みのあたりに、ぴくぴくと痙攣している魚が、何びきも浮かび上がってきました。娘は川にざぶざぶ入って行き、浮いた魚を握り、つぎつぎに川原へと投げています。杢次郎と喜助は、目の前に魚を何びきも投げられて、ひゃっとか、おうっとかって言って驚いています。

「やっぱりじゃやっぱりじゃ!思ったとおりじゃ!」

娘はひとり、きゃっきゃと喜んでおります。

「なんじゃおめぇ、魚に妖術でもかけとるんかの、狐が化けとるでねか?なにをしたんじゃ、薄気味わりいぃのぅ、なんじゃ、のう、のう、甚四郎さま、なんじゃねこりゃあ」

そう喜助が尋ねると、甚四郎がひざまずき、泥を捏ねていた場所に落ちている枝をつまみ上げて言いました。

「なるほどな、あめ流し、だな」

すると、お殿様が馬を降り、甚四郎に近づいてきて訊きました。

「ほう、なんじゃ、そのあめ流しというのは」

「はいっ、これは、山椒の木にございます、山椒の実には魚を痺れさせる効能がございます。食べると、口のなかがひりりとする、あの味が魚を痺れさせるのです。古来より、漁の際に山椒の実を焼いて袋に入れ、川の水に溶かし、魚を捕る漁があるのでございます。この娘は、それをどこかで見て、真似をしておるのだろうと思います」

お殿様や爺や、喜助、杢次郎が、ふむふむと頷き、なるほどと、感心をしていると、魚を掴んだ娘が反論しました。

「ちげぞちげぞ、真似ごとなんどしてねぞ、わっちが考えたがじゃ、一昨日にの、腹が減ったでの、蜜柑みてえな匂いがするで、山に生っとる山椒食べたらの、口のなかがひりひりぴりりしての、しびれたけんの、魚はいっつも口あけとるで、ひりひりさせたら痺れての、ほいだら捕れるかと思っての、今日、やってみたがじゃ、真似でねぞ!」

そう言いながら娘は、魚のエラに藁を通し、10匹ほどの鮎と同じく10匹ほどの小さなキュウリほどのドジョウを束ねています。

杢次郎が娘に訊きました。

「おめみてえな娘っこが、そげなこと思いつけるわけねえだろが、嘘はいけねぞ、俺だで初めて知ったどそんだらこと」

すると、娘は地団駄を踏んで言いました。

「嘘でねぇ!嘘でねぇ!今朝思い付いたがじゃ!嘘つきよばわりするでねぞ!」

するとその娘を援護するかのように、喜助がひとりごとのように言いました。

「嘘でねぇかもなぁ、おいは、ずうっとミザノ村の年貢の担当だけんどもな、この村でそんな漁しとるのは、見たことねえけの、たしかにこの娘っこの言う通りかもなぁ、こん子は自分で思い付いたんかも知んねえなあ」

娘が喜助の言葉にすんすんとうなずいていると、お殿様が、面白がって娘に尋ねました。

「おい、お前は百姓の子か?」

「ほうだ」

「面白い子じゃ、名はなんという」

「名を訊くんだば、名乗るが礼儀と、おらがおっかあが言うとったぞっ」

その言葉に、爺や警護の侍たちが反応しました。百姓の娘が、お殿様と話すのも無礼であるのに、お殿様に無礼なことを言ったからです。それを察したお殿様は、彼らを制し小声で言いました。

「よい、やめぬか、こどもじゃ」

そしてお殿様は、ゆっくりと自分の名前を言いました。

「お前のおっかあは、礼節をしっかりとわきまえておるのだな、よい母じゃ。わしの名は、忠政(ただまさ)と云う、して、お主の名はなんじゃ」

「ただまさ様か、お殿様みてえな名前じゃの、わっちの名はの」

娘が名前を言おうとすると、

「庄屋さまっ!お待ちしておりましたっ!庄屋さまあ!」

とおくで年寄りが声をあげて、走り寄ってきます。
それに喜助が返しました。

「お!むらおさか!ちょっと待て!俺がそっちにいくでの!話があるでの!」

喜助はむらおさの方へ走って行き、こちらの一行の方を指差しながら、なにごとかを伝えています。恐らく、お殿様が同行していることを伝えているのでしょうね。さっきは自分がびっくりしましたからね。

すると、案の定むらおさは、両手を体の前で振り、むりですむりですむりですむりです、と言ってしゃがみこんでしまいました。膝の力が入らなくなっているようです。お殿様を見るのはそれぐらい珍しいことなのですね。みなさんの時代で言えば、新入社員が入社式で一発芸を突然披露してくれって言われたぐらいの緊張感かもしれませんね。

お殿様が笑い、ふと娘の方を見ました。

けれども、娘も鮎もドジョウも、どこにもいませんでした。お殿様は首をかしげました。

すると、喜助が戻って来て言いました。

「ミザノ村の長の年寄りです。これより、みちという娘の家に案内してくれるようです」

一行は、また歩き始めました。


緊張してふらふらと歩くむらおさの先導の後、一行は「みち」という娘が住むという百姓の家の前にたどり着きました。
甚四郎が喜助に合図を送り、喜助は家の前で大声を出しました。

「庄屋じゃ、庄屋の喜助じゃ、誰ぞおるか」

すると、中から、土色の、つぎはぎだらけの着物を着た女が出てきました。

「しょ庄屋さま、これはど、ども」

女が頭を下げます。
そして喜助が続けて訊きます。

「この家に、みちという娘がおると聴いておる。みちはおるか。」




女は、俯いて、しばらく黙ってから、答えました。




「みちは、もう、死んだがです」






喜助は、母親の言った事が理解できないようで、場違いな口調で母親に質問をしました。

「なななんじゃ?なんち言うたんじゃおめ」

すると母親はもう一度、はっきりと言います。

「みちは、もう、おりまっせん。死んでもうたがです」

次は、全員が聞き取れました。
一行は、静かに母親をみています。
はだし、ぼろぼろのつぎはぎの粗末な着物、髪はぼさぼさ、手足も顔も日焼けして真っ黒、その両手を握り、震え、みちは死んだ、と言うのです。

むらおさが、慌てて聞き直しました。

「待て待て!のう!5日ほど前はおったではないか!死んだらなんだことは聴いとらんぞ!葬式もしとらんでねか!なんじゃなにがあっただか!」

「おとと、おととい、水路に転げ落ちて、溺れて死んだがです!だからおりまっせん!みちはおりまっせん!溺れて死んだがです!おらんのですけん!」


一行は、唖然としています。
100年前の言い伝え通り「みち」という娘がいたかと思ったら、つい数日前に死んだというのですから。


奥では、10才ぐらいの男の子がふたり、こちらの様子を伺っています。母親と同じくらい、汚れた着物を着ています。

「そういうことですけ、もうしわけねえです、あの、年貢はなんとかしますけ、そういうことですけ」

そう言って母親は家に入ってしまいました。

喜助が、「お、おい、ちょ、ま、待て」と母親を引き留めようとすると、家の影から男が出てきました。これまた灰色の粗末な着物を着て、泥色の手拭いを頭に巻いています。どうやら、父親のようです。

「ちゅうことですけん、みちはおりませんけん、そのすんまっせん、ご堪忍くだっさい」

一行の誰とも目を合わせようとせず、頭を下げています。

誰ひとりとして、なんと声を出してよいのかわかりませんでしたが、甚四郎が進み出ます。


「大庄屋の、甚四郎と申す。お悔やみ申し上げる。縁あって、そなたの娘には、かねてより会いたいと思っておったが、亡くなったのは、残念だ。せめて、みちの墓前で手を合わせてもよいだろうか」



「取り込み中すまねぇけんどもな、みちっちゅう娘を探しゆうがは、この皆さんかね?」

一行の背後に、髭を生やした男がたっています。着物の感じからすると、百姓のようです。その男のとなりには、べそをかいている娘がひとりいました。

「そうじゃけんども、おめさんはだれじゃね」
すぐそばにいた杢次郎が訊くと、むらおさが答えました。

「あ、へい、こいつは、村で百姓をしておる者ですが、…おい、なんじゃ、いま取り込み中じゃ」

「あ、いや、その、うちにも、みちっちゅう娘がおるもんで、連れてきたがじゃけんども」

一同がどよめきます。
そして、むらおさが男に訊きました。

「いや、おっかしいどそりゃおめ、おめえんとこに娘はひとりもおらなんだじゃねか?息子が3人しかおらなんだでねか、誰じゃそん娘は?」

男は何度かうなずいてから、むらおさの質問に答えました。

「離れた村に住んどる姉さんが、病で倒れての、重い病での、娘っこ育てられねて言われての、さっき、使いの者がの、連れてきたがじゃ、育ててくれち、おらんとこの娘として育ててくれち」

そしたら、杢次郎が大声で言いました。

「甚四郎さま!ほいだらこの子でしょう!やった!見つかった!やった!」

そんな杢次郎を、甚四郎は睨み付けます。不謹慎だぞ、と諌めているのです。杢次郎は、はっと気づき、先程のうつむいたままの父親を一瞥し、「すまね」と言って肩を落としました。

甚四郎は、「みち」のふたりの父親が着ている着物と、むらおさが着ている着物を見比べて、不審な顔をしました。むらおさとは言え、あまりにも上等な着物を着ていたからです。

「みちという娘を引き取った者、すこし待っておいてはくれぬか。ちとこの者と話があるのだ」

泣いている娘を連れてやってきた男に、甚四郎はそう言うと、娘を連れた男はすこし離れたところに行き、道端に座りました。そして甚四郎は、みちの父親に話しかけます。

「すまぬが、別の件でおぬしに聞きたいことがある、よいか?」

男は頷きました。

「さきほど、お主の妻が、年貢はどうにかする、と言うておったが、お主の家は、年貢が滞っておるのか?」

「へい、なんとかしますで、どうか、子供らだけは、どうか」

甚四郎は首をかしげました。
そしてむらおさの方へ向き直ります。

「むらおさ…この家には、年貢はどれぐらい徴収しておるのだ」

むらおさは小声でごにょごにょと答えますが、誰にも聞きとれません。

「なんと申した」

甚四郎が語気を強めて再度聞き直します。

「…さ、3石でございます」

1石は150キロのお米でしたね。
田んぼの土にもよりますが、1反という広さの田から、だいたい1石が獲れます。

甚四郎が、むらおさから向き直って、みちの父親に訊きました。

「お主の田畑は、何反ある」

父親が答えます。

「4反でごぜえます」

父親のその言葉に、喜助が声をあげました。

「はぁっ!?4反で3石?!そんだらこの家族の食う米がねえでねか!年貢は獲れ高の半分だ、4反なら2石だべ!なんで3石じゃ!計算が間違っとる!」

それに対し、父親が応えました。

「え?でも、庄屋さまが、年貢ば増やせと、そう申していると、そう、むらおさが、」

一行が、ゆっくりと、むらおさの方を向きました。

当のむらおさは、紫色の顔で、脂汗をたらりたらりと流しています。甚四郎がむらおさの方へ歩み寄り、むらおさを見下ろして問いました。

「むらおさ、過剰に取り上げた分の米は、どこに消える?ネズミが喰うには多すぎる米であろ。何に消える?その着物か?」

喜助が我慢できずに、むらおさにつかみかかり、問いただします。

「むらおさ、まさか!おめ、!村のもんから多めに米をとりあげて、くすねとっただか?わっちんがた庄屋のせいにして、村のもんからくすねとっただか?言うてみろ!」

むらおさは喜助に揺さぶられていますが、体の力が抜けてしまって呆然としています。しかし、容赦なく追い討ちをかけるように、甚四郎が言いました。

「こたえよ」

すると、むらおさはちからなく、へらへらと笑いながら返事をしました。

「百姓はなにやっても百姓のままだ、いつまんでも暮らしは楽になんねえ、おらは悪くねえ、むらおさだで、すこしはいい思いしてもええでねか」

「そうか、お前にとっては、それは同じ村の者たちを騙し、苦しい暮らしをさせるに足る理由になるのか」

甚四郎がそう言い放つのと同時に、みちの父親がむらおさに掴みかかり、獣のような声をあげて叫んでいます。慌てて喜助と杢次郎ふたりがかりで父親を引き離し、甚四郎は喜助に言いました。

「喜助、これは、喜助、お前の責任でもある。そしてもちろん私の責任でもある。庄屋としてこれは見過ごせぬ話じゃ。むらおさが不当に年貢として集め、懐に入れた金を、むらおさの家に行き、調べあげて来い。むらおさの家財道具は城下で金に換え、百姓たちに返す。ちょうど殿、ご家老たちもおられる、その後の処分はお沙汰が出されるであろう、むらおさ、覚悟しておけ」

喜助は悔し涙を流しております。むらおさを信じておったようです。

「おお、それならば、うちの者たちも調査に当たらせよう、そこの者3人、その喜助に同行し、むらおさの取り調べを手伝え」

爺が、侍たちに指示を出し、侍たちがむらおさを捕らえ、取り調べのため、家へと連行しました。





甚四郎は、無念そうな顔をしながら、みちの父親に頭を下げました。

「このようなことが起こっておろうとは、誠に申し訳なかった。庄屋でありながら、ただしくお主らとやりとりをせず、むらおさを信頼し、このような出来事を招いてしまった。必ずむらおさには、お主らから騙しとった米の分を支払わせる故、どうか許してくれ」

父親は、庄屋に頭を下げられて、どうしていいか分からないといった風でしたが、やがて口を開きました。

「それじゃあ、おらの家は、年貢は充分納めてきただな?足りなくねえだな?ほいだら、足りねえ年貢のカタに、娘は持ってかねえだな?」

「…なんの話だ?庄屋は人買いではないぞ」

「庄屋さまたちが来るめえに、知らねえ男が来て、こう言うたがじゃ、

“庄屋が、年貢のカタにお前の家の娘を連れ去りに来る、死んだということにしないと連れて行かれる”

ち、そう言うたがじゃ」

「男が?待て、死んだということにしないと…というと、娘は死んではおらぬのか?」

「そだ、連れてかれるち思って、遠くに隠しとる」

杢次郎が、甚四郎に近づいてきます。

「甚四郎さま、よかったでねえすか、みちという娘が生きとるちゃ、この行李を渡せるでねえすか」

けれども、甚四郎は釈然としない顔です。

「そうだな、だが、あっちの みち はどうする?」

甚四郎は、離れたところで成り行きを見守っている男と、まだ泣いている、その男の姪のみちを指差しました。

「あ、と、いうことは…」

「みちが、ふたりおる、ということじゃ」

甚四郎は苦い顔で、顎をゆっくりと撫でています。

「なにやら面白くなってきたではないか!のう!甚四郎!」

と、お殿様が言い、甚四郎は苦笑いをしました。






「甚四郎様、あれでねえすかの」

杢次郎が遠くの田んぼのあぜ道を指さしました。甚四郎は日差しを手のひらで遮り、杢次郎の指差す方を、目を細め、眺めます。
兄ふたりに連れられて、幼いみちが、こちらへ歩いてきます。





しばらく前、甚四郎は、みちの父親に言いました。



「わしらは、みちを連れ去りに来たのではない。この行李を、みちという娘に渡すために参ったのじゃ」

「行李を?なんでですかの、娘が、庄屋さんをどっかで助けただかの?」

「いや、そうではない、それに、まだもうひとり、みちを名乗る娘がおる。どちらに渡すのかは、まだ決まっておらぬ。どちらにせよ、話すと長い話になる、そこの息子たちに、みちを連れてくるように言ってはもらえぬか、その間に、この行李の話をしよう」


父親は息子たちに妹を探しに行かせました。


それから甚四郎は、みちの父親と、“みち”のおじの男に、行李の長い長い話を話して聴かせました。とうぜんのように、ふたりの男はあっけにとられた顔をしていました。


そうしてしばらくたって、やっとみちが現れたのです。


畦道に、兄たちと両手をつないだみちが、歩いてきます。やがて家にたどり着くと、みちは元気な声で、ただいま、と言い、腰に藁で束ねて携えているたくさんの鮎やドジョウを母親に差し出しました。母親は娘の頭を撫で、魚を受け取ってからとてもほっとしたように言いました。

「おかえんなさい、みち」

みちは、稲穂色の薄い色の髪を藁で束ね、小豆色の着物を紐で結んでいます。いつも百姓の手伝いをしているのか、はたまたいつも泥にまみれて遊んでいるのか、どちらかはわかりませんが、顔は薄っすらと土に汚れています。


杢次郎がみちを見て言いました。

「驚いたの、みちちゃあ、この子じゃったんかの」

顎肘をついていたお殿様も、おおっ!と声をあげてから言いました。

「さっきの魚とりの娘ではないか、ますます面白くなってきおったの」

自分の家に集まっている大人たちが、さっきの一行であると気づいたみちも、驚いて言いました。

「さっきのお侍さまの御一行でねえか、こりゃこげなとこで、なにしちょんのけ?」

「まあな、わしらは、すこし用があっての、それよりお主、なぜさっきは突然いなくなったのだ」

お殿様が、みちに気さくに話しかけます。
するとみちはこたえました。

「おっとおと、おっかあがの、悪りい庄屋たちと、むらおさが、みちをさらいにくるけん、遠くに行って隠れとけち言われての、そしたらあん時、とっつぜんむらおさが来よったけの、慌てて隠れたんじゃ」

みちの父親が、とてつもなく気まずそうにしています。見知らぬ男に騙されたとは言え、庄屋たちのことを娘が悪く言っているのです。

甚四郎はそれには構わず、この家の縁側に行李を置きました。縁側と言っても、古びた板で出来た家なので、みなさんが想像するよりもたくさん隙間や虫食いがあります。

甚四郎は、その縁側に、ふたりのみちを座らせ、ゆっくりと話し始めました。


「およそ100年前、わが庄屋の屋敷に、ひとりの老婆がやって来てこう言うた。

安永七年、みざの村に居る みち という娘にこの行李を渡してくれ、と。

その日から、我ら庄屋は代々この行李を受け継ぎ、本日まで守り抜いた。

そして今日、みざの村のみち という娘のそばにその行李がある。

ただし、ここにはふたりのみちがおる。
どちらかひとりがこの行李を受け取るべき娘である。

この行李の封の裏には、みちを見分けるためのたったひとつの問が記されている。この質問にどちらかが正しい答えを言えば、この行李はそのみちのものとなる。これから質問をする、よいか」


お殿様はおろか、杢次郎も、質問が書き記されているなんていうことは初耳です。みな、固唾を飲んでそ甚四郎と、ふたりのみちを見守っています。

さっきまで泣いてばかりいたみちは、いまはすこし落ち着いていて、無言で頷きます。
川にいたみちは、「ええどええど」と、わくわくして身を乗り出しています。

「お主らの母が、お主らが眠れぬ夜に、歌ってくれる歌があろう。それを歌ってみせよ」

一同がすこしどよめきました。そして黙ってふたりのみちを見守っています。誰も喋らず、誰も動きません。







すると、片方のみちが、歌い始めました。




はらぺこ子狸 山ば駆け
松の木登って 雲ぞ乗り
月の兎に 言うたげな

はらへっちょるけ
餅食いてえと
ひいとつふうたつ
みつよっつ
いーつつむーっつ
ななやっつ
ここのつとおの
餅食いて

月の子兎 餅ついて
ついとる途中に子狸に
はらぺこたぬきに言うたげな

餅食う狸は餅つきに
拍子をつけてくだしやんせ

ぴょんぽこぺったん
ぽこぺったん
ぺったんぴょんぺた
ぽこぺったん

ぺったんぽんぴょこ
ぺったんぴょん
ぺたぺたぽたぽん
ぽたぴょんぽん

子兎子狸餅食って
ぷんぽこお腹で転がって
おっ月様枕にねんころり














「のう、なんぞな、その歌は?」

東京の、みちの家。
落ち着いた照明のベッドルームの床に、高級そうな布団を敷きながら、みちが歌っています。ふかふかのベッドで横になっているおばあさんが、みちに訊いたのです。

みちはこたえます。

「え?おばあさん知らない?寝る時の歌」

「聞いたことねえぞな」

「え、そうなんだ…みんな知ってると思ってた。わたしさ、小さい時、お腹が空いてたんだよね、いっつも。特に夜は、とっても。だからさ、いつも眠れなかったの。その時にね、おっかあが歌ってくれたんだよね、

はらぺこ子狸山ば駆け
松の木登って雲ぞ乗り
月の兎に言うたげな

って。」








甚四郎は、行李の封の裏側に書いてある文章と、みちが歌う歌を比べました。おばあさんの記憶の中の歌なので、行李の封には、おおざっぱにこのように書かれていました。庄屋の甚八が代筆したようです。


みちにこと問いし
眠れぬ夜の母君の子守唄は何ぞ




こだぬきが腹減って
つきの兎にお願いばして
餅を二人でついて
たらふく食うて
眠る歌

この様子だと、どうやら、さっきの歌で間違いないようですね。ということは、歌った方の“みち”が、東京でおばあさんを助けたみち、ということになりますね。



甚四郎は、歌った方のみちを、まじまじと見つめます。

稲穂色の髪、小豆色の着物。
小川にいた、みちです。

この歌は、この時代の甚四郎たちも聞いたことがありません。おそらく、腹の減った娘に、みちの母親がその場で歌ってくれた歌なのでしょう。他の者が知れるはずもありません。


歌った方のみちの頭を、甚四郎は撫でました。

「よくぞ、今日まで元気に生きておいてくれたの、礼を言うぞ。この行李は、お主のものじゃ」

みちは、不思議な物を見るように、行李を見つめ、受け取りました。





杢次郎が、もうひとりのみちと、そのおじに話しかけます。

「はるばる来てもろうたのに、すまんかったの、おめさんも、ありがとの、連れてきてくれての」

連れてきた男は、はあ、と力ない返事をしました。そして杢次郎は、おじと名乗る男に問いかけます。

「ところでの、この娘は、隣村から来たというておったが、どっちの隣村から来たんかの?」

男は、少し間をあけてから、答えました。

「東でげす」

「東か、東でもたくさんあるろ」

「…み…みずさき村でごぜます」

「ほぅ、そうか、みずさきか、外れたの」

甚四郎が、杢次郎に訊きます。

「なんじゃ、何が外れたのじゃ」

「あ、いえ、こっちのみちっちゅう娘の、足見ると、みずさき村じゃねえと思うがです」

「お前は足を見て出身地がわかるのか、今日から庄屋を辞めて、牛飼いにでもなった方がいいんじゃねえのか」

「いや、ちょっと!辞めませんよ!ちげますちげます!ちげえますよ、この子のの、足についてるねずみ色の泥です、これ、粘土じゃけ、ここら一帯は赤土が多いけ、この色の粘土は出らんのじゃけんど、なんぞ、おかしいの、思いましての」

「ねずみ色の粘土は、ここいらじゃ珍しいのか」

「へい、ここいらは、赤土ですけんの、ほいでの、あっしの担当の村でね、陶工のおる、しまよし村がおるがじゃけんども、そこの子供らは、おんなじようにねずみ色の粘土がの、着物や手足についとるがです、この子はその村の子じゃと思ったがじゃけんどもの」

杢次郎のその言葉を聞いて、甚四郎はもう一度、男に聞き直しました。

「と、うちの者が申しておるが、この娘は、本当にみずさき村の娘か?」

すると、男は、俯いて、何もしゃべらなくなってしまいました。

甚四郎は、諦めて、黙ったままの“みずさき村から来たというみち”に話しかけました。

「お主、母親の名はなんというのだ?」

男が娘が答えるのを止めようとしましたが、杢次郎が間に入り、それを制止しました。そして、娘が答えました。

「知らね、見たことねえ」

「そうか、わかった」

甚四郎は、男に向き直り、

「と、娘は申しておるが、何か申し開きはあるか」

というと、男は震えながら答えます。

「お男に、いいい言われたがです、むすむすこを預かったから、この娘をみちと呼び、あの人が集まっておる家に行けと、そそそしたら息子を返すと、そそそそそう言われたがです」


そう男が言うと、家の裏手から悲鳴が聞こえました。


みちの母の声のようです。
皆が一斉にそちらをみると、みちの兄のひとりが、男に捕まり、短刀をこめかみに当てられています。

「使えねのぅ、ここの両親も、そっこの男も、わっしがお願げえしとること、ひっとつもしっかりしてくんねだからの、使えねのぅ」

声は短刀の男ではなく、声が聞こえるのは、屋根の上です。
屋根の上に、男が立っています。

「だだだだれじゃおめらは!!こどもに何しゆうがじゃ!」
杢次郎が怒鳴り付け、
「何がしたいがじゃ!こっちはお侍さまもおるがぞ!逃げ切れぬぞ!」
そう言ってふたりの男を牽制します。

「みいんなの、黙って騙されて、その行李をそっちの娘に渡せばええのんに、なあんでこないなめんどくさいことするんかのう、お侍さんたちは、逃がしたろ思うたけんども、もうあれじゃ、全員あれじゃ、身ぐるみ剥がして、あとは、終わりじゃ」

すると、爺が、野太い声で言い放ちました。

「今すぐその百姓の子を放せ、さもなくばこの場で打ち首にしてくれようぞ、ふたりで乗り込んだのが運の尽きじゃ、もののふをなめ腐った物言い、後悔させてくれようぞ」

すると、屋根の上の男がすかさず返事をします。

「もののふも、対したこうとねえのう、周りが見えねぇんかのう、わしらがふたりに見えるんかのう」

一行が辺りを見渡すと、たくさんの賊が、家を囲んでいました。
甚四郎一行の数は、全員で、15名ほどですが、賊たちは40名ほどいます。

屋根の上の男が、にやりと笑いました。
みちは、行李を抱きしめ不安な面持ちで、縁の下に隠れています。



たくさんの男たちに、家を囲まれ、男のひとりが、刀の切っ先をみちの兄にあてていて、母親は、自分の口を押さえ、声にならない叫び声をあげていています。しかし、男たちを刺激してもいけないので、みちの父親は母親を必死でなだめています。

屋根の上の男に向かって、甚四郎が訊きました。

「行李のことは代々秘匿にしておった。お主はどこで行李のことを耳にしたのだ」

男は、焦げ茶の着物を来ており、髷などは結っていません。長い髪を、後ろで束ね、ぼろ布を巻き付けた古い刀をひと振携えています。どうやら頭領のようですね。

「酒屋での、庄屋のもんと、何やら金持ちそうなじじいが話しているのを耳にしたのよ。100年もの間受け継いだものなら、金になるもんが入ってるだろうと思ってよ。そのあと庄屋をつけてって、家に盗みに入ろうかと思ったらよ、これからみざの村のみちという娘に届けにいくっていうじゃねえかよ、それで、本物の娘を隠させて、偽物をたて、穏便に行李を手に入れようと思ったわけよ」

杢次郎が悔しそうな顔をして、甚四郎に、「申し訳ねえです、おら、なんてことしてもうただろうか」と言いました。それに、爺が反応します。

「いや、杢次郎、わしがお主から話を根掘り葉掘り聞き出したのが、そもそも、この出来事を招いたのだ、これはわしの失態である」

屋根の上の頭領が大声で笑います。

「あ、どっかで見たことあるかと思ったら、あのときの金持ちじいさんじゃねえか、あのよ、失態だのなんだの、気にせんでもいいぞ、お前らの刀も着物も、ぜえんぶ俺らが女を買う金に換えて楽しんでやるから、気に病むなよ、な?子供らも、そこの女も殺さねえよ、ちゃんと人買いに出して、金に換えて、その金もまた俺らが責任もって使ってやるからよ、だからよ、安心しろよ、お前らはちゃあんと殺してやる、から、よっ」


そう言って頭領は、屋根から飛び降りながら刀を抜き、甚四郎の頭めがけて斬りかかります。

「甚四郎ぅっ!!」

お殿様が、とっさに声をあげました。





ぎづがちぃっぃっん!!!!!!!




という大きな音がして、甚四郎の足が二度三度ふらつき、やがてぴたりと止まりました。


大空でとんびが鳴き、風が里を吹き抜け、地面の黄色の花を揺らしています。






「お主は、人の住む屋根から勝手に飛び降り、刀を抜いて人に斬りかかってはならぬと、親には教えてもらえなんだか?」

と、甚四郎が言いました。

見ると、甚四郎は自分の杖で男の刀を受けています。
いいえ、杖じゃないですね、よく見ると、さっきまで杖だったものが、刀に変わっています。どうやら甚四郎が持っていたのは、杖の中に刀を仕込んだ、仕込み杖だったようです。

「ほう、仕込み杖か、ただの庄屋じゃねえようだな。あ、ご質問にお答えしやす、あいにく、俺は親兄弟なんぞ、見たこともねえもんでね、そんなことは一切、興味は、ございませんっ」

頭領は甚四郎を鍔元で押し戻しながら、後ろへ飛びずさりました。




「おおっ!見事じゃ!甚四郎!」

お殿様が、わくわくした顔で甚四郎を誉めます。

「恐縮にございます、殿」

と、甚四郎が刀を構えたまま、すこしだけ頭を下げました。

すると、

「はいはい、そんな茶番はいいんでね、ちょ、一旦みなさん考えましょうや、ほら、子供が殺されそうになっておりますが、こういう時って、みなさまどうされます?百姓の子供だから見殺しにされますか?どうするんすか、みなさん、え?どうすんの?刀捨てろや、ほら、聞こえてねえのかよ、刀捨てろ」

みちの兄は、10才ぐらいでしょうか、首を小刻みに振りながら、泣いています。お殿様一行は、皆で顔を見合わせながら、どうしたものか考えています。




甚四郎は、そばにいる杢次郎に小声で問いかけます。

「杢次郎、こうなったのは、お主の日頃の行いだということはわかっておるか?いつも申しておったようなことが、やって来てしまった。」

「……申し訳ねえです」

「そう思うのならば、お前の全力で、命をかけて、あの家族を助けよ」

「え、というと、その、いいんですかいの?その、使っても」

「今使わんでいつ使うんじゃ、あの子供を人質にとっておる男の、刀の握り手の小指と薬指は狙えるか」

「あ、へいっ、そりゃ、もちろんでごぜえます」

「それじゃ、わしの、 “受けとれ” という言葉を合図に、当てよ、よいか」

「へい、“受けとれ”ですな、へい、必ず、当ててみせやす」

そして、杢次郎は、そのまま地面に座り込みました。

甚四郎は、深呼吸をして、爺へ視線を送ります。
爺も、甚四郎を見ました。
甚四郎の肩の力は抜け、まるでこれから風呂に入りにいくような落ち着いた姿勢になっています。爺はそれを見て、なにか甚四郎がやろうとしていることに気がつきました。爺は甚四郎に対して、ゆっくり頷きました。

甚四郎は笑顔で、賊の頭領に向かって言いました。

「わかった、金が目当てなのだな、お互いに怪我をするのは良くない、そして、殺生もよくない、だからこういうのはどうだ、有り金をすべて渡す、そして、お主らの行く末は追わぬ、どうだ、これはなかなかによい話ではないか?」

甚四郎は手に持った刀を捨て、丸腰で一歩一歩、頭領へ近づいて行きます。

「おい、庄屋、頭が悪いのう、別に交渉せずとも、数で我らが勝っとるんだぞ?なんでお前らと交渉せねばならん、お前らは地面に這いつくばって、命乞いすりゃいいんだ、そして、殺される、それだけだぞ?」

頭領は笑いながら言います。
甚四郎は、それが聞こえないかのように、懐から財布を取りだし、中から小判を10枚取りだしました。

「まあまあ待て、殺せばそれで終わりだが、わしを人質にとって、庄屋に金を要求すれば、身代金がとれる。ここの者たちを皆殺しにして刀や着物や子供を売っても、たかが知れているだろ。ほれ、見てみよ、この小判一枚で、いい夢がみれるぞ?いまここに10枚じゃ、考えてみよ、何百両という身代金が手に入るぞ?よい話ではないか?これはその一部じゃ、
さあ、受けとれっ!」

そう言って甚四郎は小判を10枚、頭領の顔めがけて投げつけました。


10枚の小判が螺旋状に広がりながら、頭領の顔へと、ゆっくりと飛んでいきます。

頭領は刀を顔の前に持っていき、小判を鍔と自分の手の甲で受けようと防御の姿勢をとりました。


甚四郎の投げた小判が螺旋状に頭領へと、ゆっくりと近づいてゆきます。
すると、ゆっくりと飛んでゆくその小判を、白いものが三つ、しゅしゅしゅんっと素早いつばめのように追い抜いてゆきました。

その白い物は、子供を人質にして、刀を突きつけている男の薬指と小指に当たります。

そして、

ぶちゅびちんっ 

と、骨と爪と、肉を砕く音を鳴らしました。
男は突然、刀を握れなくなり、痛みに声をあげ、指を慌てて見ます。誰にもなにもされていないのに、薬指と小指の先がつぶれています。ひやあっと小さく悲鳴をあげました。

頭領は後ずさりながら、仲間の指が潰れているのを横目で見て、少しだけ焦った表情を見せました。


離れた場所の爺が大きく振りかぶり、甚四郎へ向けてなにかを投げつけました。

「庄屋ぁああっ!」

甚四郎は、投げられたものを一瞥しながら、頭領の方へ駆け出します。

そしてまるでバトンを受けとるときのように、後ろ手にそれを受け取り、そのまま大きく振りかぶって、小判で視界が遮られている頭領と、指を潰された男に向けて、受け取ったものを横なぎに振りかぶっています。

まるで、野球のバッティングのフォームみたいです。
もしこの時代に、野球中継の司会とコメンテーターみたいな人たちが居て、この光景を見ていたら、こんな風に言うかもしれません。



司会 甚四郎、かなり大振りに振りかぶりましたね

コメ そうですね、これは、頭領と、指を怪我した男、ふたり同時にダメージを与えようとしている、そういう風に見受けられますね

司会 しかし、この男の指、びっくりしましたね、突然でしたからね、ちょっとスローで見てみましょうか、はい、スローで見ると、小判の横を白いものがみっつ、飛んで行くのが見えます、巻き戻しまして、全体の映像を見ましょうか、はい、こちらが全体の映像です。

お殿様、爺が馬に乗り、その回りを十人の侍が囲んでいますね、そこから少し離れて、甚四郎が頭領に小判を投げつけています、そして、頭領の少し後ろに子供を人質にとる男が見えます。

はい、全体の映像、はいっ、ここで止めましょうか、だれか一人、動いていますが、あ、これは、杢次郎ですね、杢次郎が、ほんの一瞬、体をねじっています。一瞬ですね、それでは、スローではなく、コマ送りで見てみましょう、杢次郎が体を捻り、この次のコマには、白い小さな粒がみっつ、甚四郎のそばを通り抜けているのが見えます、すごい早さです、この白いものは、杢次郎がなにかを投げつけたものなんでしょうか、どうなんでしょうか

コメ そうですね、たぶんですけどね、これは、石じゃないかなぁと、思うんです。あのね、古代から石器とか石斧とかあるようにね、石と人類は切っても切れない間柄なんですよ、戦国時代の戦もですね、まずは石の投げ合いから始まるんです。石ってどこにも転がってるし、当たれば致命傷にもなりますからね、鉄砲使うよりも、矢を使うよりも安上がりでしょ、だからね、石を専門の武器にするって人間もね、昔からたくさんいたんですよ、まあでも、庄屋の使いの杢次郎が、なんでそんな技術をもっているのかはわかりませんけどもね

司会 いやぁ、やはり、杢次郎だったのですね、ものすごい瞬発力ですね、杢次郎。さて、それでは、甚四郎の映像へ戻ります。甚四郎が爺からなにか受け取ってますね、甚四郎が持っているもの、黒い棒のようなものですが、これは一体なんなんですかね?

コメ あ、はい、これはね、恐らく、家老の黒漆の刀でしょうね、鍔も、鞘もかなり凝っていて、高級品なのがわかります。鞘から抜く暇がないので、鞘ごとふりかぶっていますね。

司会 え?!刀を投げてくれなんてやり取り、いつしてました?

コメ いや、してないでしょうね。

司会 じゃあ、どうして刀を投げて、受けとる、なんてことが練習もなくできたんでしょうか。

コメ まあ、こういう状況ですから、それぞれが臨機応変ですよね、甚四郎も仕込み杖を持って頭領の太刀を受けるぐらいですから、腕のたつ、肝の座った男ですが、家老もあの落ち着きようは、ただものじゃないですよね、甚四郎がこの離れた距離で視線でなにかを伝えるとすれば、何かを投げてくれ、か、加勢してくれ、のどちらかだと思うんですね。距離が近ければ加勢してくれ、というメッセージは現実味がありますが、これだけ離れてるので、投げてくれ、という方が現実味があります。実際に、甚四郎は小判を投げ、杢次郎が小石を投げて、相手を撹乱させましたね、でも、甚四郎は撹乱させても、一太刀あびせる武器がありません、だからね、その瞬間にね、爺は刀を投げるということを決定していたんだと思います。

司会 なるほどぉ、深いですね、いやぁ、素人には、わからない世界です、それでは、もう一度、映像の方に戻りましょう、あ、はい、そうですね、その前に、おさらいです。

はい、杢次郎の石で指を潰された男は刀を落とし、混乱し、子供を離していますね、そして、小判の防御のために、顔の前で刀を構えている頭領は、後ずさりしながら、仲間の指が潰されたのを見て、少し動揺しています。そして、小判が螺旋状に広がっておりますので、頭領から甚四郎は見えません。

対して甚四郎は後ろ手に爺の刀を受け取り、黒塗りの鞘のまま、大きく振りかぶり、まるでバッティングのような体勢です。まさに今、刀を振ろうとしている、そんな風に見受けられます。
さて、現場にお返しします。




甚四郎は、頭領と男に駆け寄りながら、刀を後ろ手に掴み、減速しながら両手でしっかりと刀を握り直します。

左足を踏み込み、軸にし、膝、腰、肚、胸、肩、肘、手首、すべての力を込め、黒塗りの鞘ごと刀を横なぎに振ります。

ゆっくりと刀の切っ先が黒い残像を残しながら、指のつぶれた男の、鼻の付け根へと吸い込まれるように進んでゆきます。

男は自分のつぶれた指を見ていましたが、視界の端から黒いものが近づいてくるのに気づきます。不審な顔をして、黒いものを眺めます。黒いものがどんどん近づいてきて、目と鼻の先に来たので寄り目になりますが、そのあとはその黒いものが鼻の付け根にすごい音を立てて当たり、そのまま視界が真っ暗になりました。気絶したのです。

頭領の男は、視界の端で仲間が崩れていくのが見えて、目だけで真横を向きました。すると真横から、なにか黒いものが迫ってきます。その黒い根本を追っていくと、小判の隙間から、すごい形相の庄屋がその黒い棒を握り込み、振っているのが見えました。

甚四郎は眉間に当たったままの刀の勢いを落とさずに、刀を振り抜いて、体勢を建て直し防御しようとする男のこめかみ目掛けて、振り抜きました。

がぐごぉっ という頭蓋骨に固いものが当たる音がして、頭領はそのまま吹き飛ばされ、家屋の戸を破りながら、家のなかにがらごろろと、転げ込みました。


一瞬のことでした。
小判を投げ、小石が男の指を潰し、甚四郎が駆け出し、爺が刀を投げ、後ろ手に甚四郎が受け取り、男の眉間を叩き、そのまま刀の勢いを落とさず、頭領のこめかみを打ち抜き、頭領が家の中へ飛ばされていきました。

あとには、息を切らす甚四郎と、きょとんとあっけにとられた子供が立ち尽くしていました。

母親はすぐに子供を抱き締めます。甚四郎は、急いで、一家全員と、偽のみちと男を連れ、お殿様の元へ戻りました。

「ご家老、御刀をお貸し頂きまして、有り難うございました。さすがにございます、ご家老のご助力、かたじけのうございました」

甚四郎が爺に言うと、爺は馬に乗ったまま首を横に振り、

「いや、よいよい、面白いの、実に面白い。ただ者じゃないの、お主は」

と言って満足そうに笑い、刀を受け取りました。

甚四郎は黙って頭を下げます。お殿様や、他の侍たちは、ほおお!と言って、あまりのすごさに口をあけて拍手をしています。ね、かっこよかったですよね。あ、ところで、残念ながら、甚四郎の写真などはありませんので、みなさんの時代の、豊川悦司とか、佐々木蔵之介とかで再生してみてくださいね。

甚四郎は振り返って、座ったままの杢次郎に言いました。

「まだ腕は衰えておらぬどころか、磨きがかかっておったな、杢次郎、よくやってくれた」

杢次郎は黙って甚四郎に頭を下げます。間の抜けた男だと思っていましたが、こういう場だと、顔つきもきりりとしています。

「のう、お主らは、本当に庄屋か?本当は、忍びであるのかの?」

お殿様が、たいそう驚いてそう言いました。
すると甚四郎が答えます。

「年貢を集めるということは、このような賊たちに襲われるということなのでございます。ですので、わたくしどもは代々、身を守れるだけの鍛練を積んできております。そしてこの杢次郎は、みなし子の幼少の頃よりこの石つぶてで、己の身を守ってきております。昔、私が賊に囲まれたおり、この者のつぶてに助けられ、その腕を買い、それ以来雇っておるのでございます。けれども、酒に酔うと、ところかまわずこの技を使うので、やむを得ない場合と、私の許しがないところでは、絶対に使うなとずっと言いつけてあるのでございます」

すると、家のなかで、木の板を踏み抜くようなばりばりという音がして、大声が聞こえてきました。


「15対39なんだけどさ、なに、もう勝った気になってんのかね、あんたらは」

家から頭領が出てきました。
頭から血をながし、ほこりだらけですが、顔はまだにやにやと笑っています。


爺が大声で言いました。

「殿と百姓たちは我が守る、お主ら、殿にもしものことがあれば、我らは城に戻って腹を切ることになるぞ、よいか、心せよ、殿をお守りせよ!」

侍たちが大きく返事をし、刀を抜きました。
甚四郎は自分の仕込み杖の刀を拾い、構えます。
杢次郎は自分の回りに小石を集め、低い姿勢のまま両手を広げています。


賊たちが、ゆっくりと、じりじり、輪を狭くしていきます。
爺が馬を降り、百姓たちを馬にのせました。
お殿様は、子供たちを4人、自分の前後に乗せました。


頭領が奇声をあげると、男たちも奇声を発しながら、一斉に襲いかかってきました。









賊たちは、甚四郎たちを囲む輪をじりじりと狭めていきます。

馬に乗ったお殿様と、百姓たちと子ら、それらを守るように侍や爺、甚四郎や杢次郎が賊たちと向かい合っています。

賊の頭領が奇声をあげると、男たちは一斉に襲いかかってきました。
男たちの手には、刀や鎌やクワ、そして短刀やこん棒などが握られています。


甚四郎は爺に向かって言います。

「ご家老、杢次郎を馬の背に乗せ、上から皆を援護させたいのですが、よろしいですかな?」

爺が頷くと、杢次郎は百姓たちが避難している馬の背中に飛び乗りました。


そして、次々に切りかかってくる先発の者たち目掛け、馬上から小石を投げつけます。そうして小石を食らい、賊たちが怯んだところへ、侍たちが峰打ちを加え、戦線離脱させます。


杢次郎と、侍たちの息の合った戦い方、なんだか見ていて胸がすくようです。まるで餅つきみたいです。

ぺったんすっちゃんぺったんすっちゃんぺったんすっちゃん、そんな感じですね。

この戦法で、あっという間に、十名ほどの賊が呻き声をあげながら、前線を退いていきました。

「杢次郎、よいぞ、その調子で続けて参れ」

爺が杢次郎にそう言う間も、杢次郎は、へいっと大きく返事をしながら素早く石を投げ続けます。賊たちは、さっき仲間の指がつぶれるのを見ているので、なかなか近寄れないようですね。襲う方も襲われる方も命がけです。

甚四郎の前で、頭領が血を流しながら笑っています。

「さっきの一撃を受けても、まだ立っておるとは。お主は“怪我”という言葉も教わらなんだようだな」

甚四郎が挑発しましたが、頭領は反応せずに、別の方向を向いています。

「庄屋、お前はあとだ、俺はお楽しみは後にとっておく男での、殿様の大将首とったあとで、お前の相手をしてやる、待っておれ」

そう言ってお殿様の方を向き、駆け込んで、一足飛びに馬上のお殿様へと斬りかかっていきました。

するとその頭領の銀色の太刀筋を、別の太刀筋が弾き返します。頭領の前には、いつの間にやら爺が立っていました。


「賊よ、お主の相手はわしじゃ、さきほどは、武家を小馬鹿にしてくれたのう、お主には、治水工事の服役が待っておる、五体満足のまま捕らえてやるから、覚悟せよ」

頭領はその言葉を味わうように何度もうなずいて、意味を反芻するように目をつむったあと、突然袈裟斬りに爺に斬りかかりました。爺はその太刀筋を左へと弾き返します。そしてすぐに、左から右へ横なぎに斬りかかり、賊はそれを一足飛びで後ろへ避けてからすぐに前に踏み込み上から下に斬り、爺はそれを3センチほど体を引いて避け、右下から左上に切り上げます。賊は爺が切り上げた刀を鍔で受けながら、爺の方へ飛び込みました。

爺の刀が男の体重を受け、爺の方へ押し戻され、鍔迫り合いの格好になります。

「棺桶に片足突っ込んだおじいちゃんのくせによ、猿みたいにすばしっこいじゃねえか?え?」

「おぬしこそ、おしめをしとる小僧のわりには、小便をちびらず偉いの、誉めてつかわそうぞ」

爺は右手で素早く脇差しを抜き、脇差しの柄尻で、頭領のみぞおちに一撃をいれました。

「んぬうぉごぷっっ」

男は呻き、胃液を撒き散らしながら後ずさって、口許をぬぐいます。
爺は何事もなかったかのように、また刀を構えます。

「くそがぁっ!」

頭領はそう叫んでから右手一本で刀を持ち、爺に突きを入れました。こうすると、両手で突くよりも遠い距離まで突きを放つことができるのです。そうやって何度もフェンシングのように突きを放ちました。
爺はその鋭い突きを、いくつかかわし、最後に自分の右脇腹へ、いなしました。傍から見たら、頭領の突きが爺を貫通したように見えたかもしれません。

頭領の突きは、爺の着物をまるで豆腐のようにすうっと突き抜けまして、その刀が半分ほど通りすぎた頃、爺は右脇を締め、刀を脇腹と腕で挟み込み固定し、膝蹴りを食らわせて体を捻りました。すると、男の手から刀が捻じ取られ、男は手足を地につき、四つん這いになりました。

「さ、このままお主の後頭部を峰打ちして乱暴に気絶させることもできるが、どうする?降参するか?」

「そうだなぁ、このまま降参するしかねえかのお、あ、でもこういうのもあったりして!」

男は立ち上がりながら、握り込んだ砂を爺に向かって投げつけました。




「杢次郎!賊の外に抜け、外から仕掛ける!加勢せよ!」

甚四郎が杢次郎に叫ぶと、馬の上に立っている杢次郎が頷きました。

甚四郎は砂利を左手で掬い上げて、賊の目の前に行き、甚四郎は砂利を中空に投げ、野球のバットを振るかのように刀を振ります。刀の刃でも峰でもなく、腹の部分を賊たちに向けて。

すると、砂利が刀の腹で弾かれて、賊たちの顔目掛けてすごい早さで飛んで行きます。まるで散弾銃ですね。数人の賊たちが目を押さえて叫びながら右往左往しています。

「杢次郎!」

そこにすかさず杢次郎のつぶてがぴしゅぴしゅんっ、と飛んでいき、賊たちの眉間や手の指に命中していきました。まるで、西部劇みたいです。
杢次郎のつぶてを受け、そのまま数名が気絶し、数名は刀が握れなくなり、その場でのたうち回っています。

包囲が崩れ、甚四郎は遠回りをして賊の背後へ廻るべく、林の中へ姿を消しました。


さてさて、杢次郎。
方々へ360度、石を投げています。
あまりに投げすぎたのと、侍と賊がたてる土ぼこりで、命中精度はすこしづつ落ちてきているようです。
そして何より、手持ちの石が無くなってきました。
杢次郎が舌打ちをすると、

「庄屋さま、石が無くなっとるんかいの?わしらがとってこよまいか?」

みちの父がそう尋ねました。みちの母と、偽のみちのおじだと名乗っていた男が、不安そうに杢次郎を見ています。

「そうじゃのう、ここから降りるわけにゃいかぬし、お侍さまは戦っておられるしの」

「それじゃ、わしらが拾ってまいりやすけん、お待ちくだされ!」

そう言って百姓たちは、地面をはいつくばって、石を拾いまわって着物の中に詰め、馬の鞍に次々と石を置いてゆきました。
馬の鞍は瞬く間に石だらけになって、そうして、

「わしらもいっつも賊どもには迷惑しちょりました、野菜を勝手に食うたり、村の娘をさらって行ったりの、杢次郎さまのお手伝いいたしやすけん!」

そう言って3人の百姓たちは、好き好きの方向へ石を投げていきました。
彼らが投げる石は、放物線を描いて賊に届くので、あまり攻撃力はありませんでしたけれど、いっせいにたくさん投げられる石によって賊たちの注意が削がれ、侍たちがさらに自由に動けるようになりました。


お殿様と同じ鞍に乗っているみち達が、歓声をあげています。

「お侍さま!庄屋さま!おっとぉ!おっかあ!けっぱれげんばれ!まけるでねぞ!けっぱれげんばれ!」
お殿様も、興奮しているのか、わくわくした顔で周りを見ています。
子供たちと、お殿様だけは、まるでお祭り騒ぎみたいですね。







賊たちの数が次々に減っていき、気絶したものが十数名、戦意喪失したもの、刀を握れぬ者も十数名離れた場所へ避難して、呻いております。

そんななか、消極的な賊たちの一団がいました。6名くらいでしょうか。

1「こりゃ、おれたち、押されてねえだか?まけんでねか?」

2「そじゃそじゃ、こりゃ、武器ば捨てて、林んなかに逃げ込む方がええど」

3「けんども、誰かと戦っとかねば、あとで頭領さまに言い訳ができねでねか」

4「んだば、適当にお互い傷ばつけて、やり過ごそうかの」

5「ばってん、そんだら簡単にいくだろべか?」

6「そんだらごとよりも、泥だらけになって倒れたふりするだけでええべな、指つぶれても、取り返しつかねえべ」

?「うむ。わしもそう思う。杢次郎はなかなかにやりおるし、ご家老も、お侍様も、小馬鹿にされて怒っておる。そして何より、庄屋の甚四郎という男も、相当頭に来ておるそうじゃからの」


賊たちは、七人目の見知らぬ声を不思議に思い、声のするほうを見ました。そこには、頭領に一撃を浴びせた庄屋が、深刻な顔をして話に参加しています。

6人の賊は、ふむふむふむふむそうじゃそうじゃ、とうなずいてから、ゆっくりとお互い顔を見合わせて、噴水のように慌てて武器を捨て、一斉に林のなかに逃げ込んで行きました。

「あ、そうじゃ、さっきその林のなかで、雀蜂の巣を見つけたゆえ、石をいくつか投げつけておいたぞ!気を付けよ!」

甚四郎がそう言うと、林の中から、ふんぎゃあああああああ!という男たちの悲鳴が響いてきました。






さて、賊たちの数もだんだん減ってきて、一行と同じぐらいの数になってきて、侍の一人が言いました。

「賊どもよ、お主らも男であろう、数ではもう互角じゃ、男であれば、わしらと堂々と勝負をせいっ!」

口々に侍たちが、怒号を飛ばしています。
残った賊たちも、どうやら手練れたちです。侍たちの言葉に対して、同じように怒号を飛ばします。やがて、一騎打ちが始まりました。


みちが、お殿様に話しかけます。

「なんでの、お侍さんはの、自分だけ戦わんのかの?」

お殿様が答えます。

「わしか?わしはの、殿じゃから、戦ってはならんのじゃ」

「お殿様は戦わんのかの?」

「そうじゃ、座っておればよいのじゃ」

「ほいだら、お殿様はいっつも何をしとるんかいの?」

このような、のどかな会話をしておりますが、みなさまお気づきでしょうか、この周りでは侍と賊たちが刀を交え、怒号と悲鳴と呻き声が響いております。

「わしか?わしは、国の仕事を毎日しておる。近隣との外交もあるし、国の金廻りを考えたり、年貢の管理や、あとは、徳川さまとも、やりとりをせねばならぬ。わしはこう見えての、大変なのじゃ」

「ちげちげ、そういう意味じゃのうての、うちのおっとおとおっかあはの、年貢納めるために一生懸命じゃ、年貢を納めての、飯を食うちょるがじゃ、わしら子供もの、手伝いせねばならんばの、腹いっぱいに食いたいで、みな働いちょるでの、ほいでの、お殿様は、なんのために仕事ばしよるんかいの」

「…何のため、ほう…そうじゃのう…考えたこともなかったのう」


「片眼だけでよくそれだけ戦うなあ、おじいちゃん、ほれ、こっちだぞ、ほれ、こっちだっ、戦の途中に耄碌し始めたんかの?」

爺は片眼に砂の目潰しを受け、右目だけで頭領と戦っています。頭領は離れた場所から砂を何度も投げ、さらに目潰しを仕掛けようとしています。視界が半分になり、さらに砂を掛けられるので、爺は足元がおぼつかず、少しだけふらふらとしています。
これは、どうやら爺は、劣勢のようです。心配ですね。

「こんなものは戦ではない、さすが賊じゃの、卑怯な手しか使えぬか」

「卑怯だろうがなんだろうが、勝つのが戦だろうがよ」

「そうかそうか、それはいいとして、そろそろわしもお主と遊ぶのには疲れた、いい加減決着をつけようではないか」

そう言って爺はため息をつき、仁王立ちになり、刀を鞘に仕舞いました。両目に砂が入っているようで、両目ともうっすらとしか開けていません。


爺は鞘についている下げ緒を解いて刀を腰から外し、左手で鞘、右手で柄を握りました。そしてゆっくりと腰を下げ、前に出した右足に重心をかけています。刀を瞬時に抜く、居合の姿勢です。


「ほぉ、おじいちゃんが俺に居合の決闘を申し込むとは、泣けてきますなあ、いいぞ、受けてやろうじゃねえか」

そう言って頭領は、同じ構えをして腰を下げました。

さて、侍たち10人は、それぞれの相手と一騎打ちの最中です。怒号と気合の叫び声が飛び交い、あちこちで侍と賊が走り回り、剣を交えています。

そのうち、賊たちの方がひとり倒され、ふたり倒されていくと、まだ無傷で戦える賊たちが戦いを放棄して逃げ出し始めます。

侍たちは、待てっ!と怒鳴りながら追いかけましたが、走ることができる賊たちは全速力で駆け、逃げて行きました。


侍たちも、甚四郎たちも、馬の所へ戻って来ました。まともに戦える者は、とうとう頭領ひとりです。


殿も百姓も子供らも馬を降り、爺と頭領の戦いを、固唾を飲んで見守っています。


爺と頭領は、同じ姿勢のまま、動きません。さらに爺は、目を開けるのが限界になり、うっすらと片目を開けて頭領を見据えています。


頭領は、考えています。
このじじいに抜かせて、一撃目を避け、遠くから突きを入れれば、難なく片付けられる。
だから、じじいに先に攻撃をさせたい。挙動をわざと不安定にして、攻撃をする素振りを何度も見せる。じじいが引っかかったら、避けて刺す。


けれども、爺はまったく反応しません。小刻みに素早く動く蛇と、翼と足の爪を開いたまま動かないはやぶさがまるで、睨み合っているような、そんな風景に見えてきます。


にわか雨でしょうか、つとつと、ぽつぽつ、ぽたたたた、ざあああああああ、と雨が降って来ました。
風が強く吹き、雷がしゅぱぱぱん、と光ります。

どんごるごるんっ ごるるるんっ

遅れて届いた雷鳴と共に、動いたのは、爺でした。頭領を居合斬りします。

頭領は、心の中で笑いました。
いくら年寄とは言え、剣速が遅すぎる。一般的にはこれで早いと言われるのかもしれないが、真剣勝負で命を奪ってきた俺にとっては、侍の剣術なんざ、所詮おままごとだ。
こんな遅い抜刀で、俺に居合勝負を挑んできのか。こんな太刀筋なら、ゆっくりと余裕を持ってかわせる。

頭領は刀を抜き、突きの姿勢を作りながら、後ろへ少しだけ身を反らします。

一般的な刀の長さは、刃渡りが70センチから80センチほどです。爺の手先から、それぐらいの距離をとれば、刃は届きません。男は爺の手からそれぐらいの距離を取り、剣先をかわしました。

が、右のこめかみから、変な音がしました。何やら固いものと、頭蓋骨がぶつかるような、とても嫌な音です。

そして、頭領は、訳のわからぬまま、目の前が真っ暗になり、意識を失いました。




さて、ちょっと良く意味がわかりませんね。



もう一度、実況の人たちに登場してもらいましょう。

司会 はい、ということで、これ、なんなんでしょうか、これって、え?ちょっとね、頭領側のカメラからしかわたくしも見ておりませんので、ちょっとよく状況が飲み込めません。

コメ そうですね、ちょっと別のカメラからの映像で見れたら嬉しいかなっていう

司会 はい、どうでしょうか、あ、準備ができたようです、別アングルからの映像です。これは、ちょうど、左に頭領、右に爺を撮影していたカメラですね。はい、右の爺が、抜刀する素振りを見せております、スローモーションの映像です。はい、そして、刀を、いや、これまだ、刀抜いてないですね。ですよね?

コメ あ、そうですね、これ、抜けてないですね、やっぱりね、戦いが長く続くと、握力がなくなってくるっていうのがよくあるんですよ、おそらく爺は、左手の握力が疲弊してしまったまま、抜刀してしまい、うまいこと鞘が抜けなかったんでしょうね

司会 やっぱり長時間となると、心身ともに疲労が蓄積されるわけですね、はい、ここで、頭領が、少し身を反らしながら、刀を抜きはじめてますね、あ、なるほど、これは、攻撃を避けてから攻撃するつもりですね、爺の攻撃は鞘付きのままだから、剣速が遅いですね、あ、もう頭領は、ここで、ここで刀を抜ききってますね、爺の斬撃が半分ほど行ったところで、頭領は完全に刀の間合いの外にいます。
これは、完全に避けられてしまいますね。

コメ そうですね。爺のほうは、右足重心で、完全に前傾姿勢ですからね、ここから更に遠くに攻撃するなら、もう一歩必要です

司会 はい、徐々に爺の斬撃が、鞘付きですの斬撃が、半分を越えまし、あれ、見てください、鞘が外れていきますね、刀身が見えてきましたよ。

コメ あ、遠心力ですかね、剣速が最大になって、遠心力で鞘が抜けたんでしょうね、あ、いや、ちょっと映像停めることできます?ちょっと、爺の右手、握っている手をアップにしてもらいたいんですけども、はい、あ、出ましたね、この右手見てください、下げ緒、握ってますね。

司会 下げ緒?というと、鞘と帯を固定する紐、のことですが、下げ緒を握るとは、聞いたことありませんね、そんな事したら、刀が抜けないですからね

コメ じゃあスローに戻していただいて、はい、お願いします、あ、なるほどなるほど、これ、徐々に鞘が抜けて行ってますね、もう半分くらい抜けてますね、あっ!ここで、下げ緒の長さ限界ですね、下げ緒が張り詰めてます。

司会 え?となると、これ、鞘の先端、頭領にこれは届きますか?ね?これは届くか?届く?届くか!届くか!頭領は余裕の表情!余裕の表情ですが、鞘がこめかみに届く!鞘がこめかみに届き、こめかみを、打ったぁっ!当たりました!

コメ いや、こんなの初めて見ましたよ、下げ緒を握り、遠心力で鞘を抜き、下げ緒の限界の長さで鞘が止まる。これで、リーチを通常の二倍くらいにしてますね、こりゃ避けれないでしょ、いやあ怖いっすねぇ、鞘だけでも、500グラムありますからね、それをまったく予想してないタイミングでこめかみにくらったら、そりゃ、意識飛びますよこれ、怖いっすね、これは。

司会 はい、前代未聞の鞘付きの居合、果たしてこれは居合というのでしょうか、頭領は気を失い、爺は刀を振り切った姿勢のまま動きません!勝負ありですね。


雨のなか、頭領はぴくぴくと痙攣し、そして爺は刀を鞘に仕舞い、帯刀し、一息ついて言いました。

「この者らを全員、縄にかけよ。」

みちたちも、殿も百姓も侍も杢次郎も、拍手喝采です。





雨が降っております。
雷鳴が轟き、時おり稲光が、里を薄紫色に映します。
まだまだ日没には時間がありますが、分厚い雲と大粒の雨が、夕方の光を遮り、あたりは薄暗くなっています。

そんな中、侍や甚四郎たちは、手分けして賊に縄を掛けておりました。

そこへ、喜助とその他の侍たちが、簑笠を被り、小走りで戻って来ました。年貢のピンはねをしていたむらおさの取り調べが、一段落したようですね。

喜助たちは、怪我をしたたくさんの賊たちと、疲労困憊の侍たちを見て大変驚きました。そして、興奮した侍達が語るさきほど起こった出来事について聞き、さらに驚きました。すごい戦いでしたね。けれども、あれだけたくさんの人間が戦ったのにも関わらず、人死にが出なかったことは、不幸中の幸いでしたね。昔話ですものね。

頭領と賊たちは、近くの牛小屋に収容し、お殿様たちが城へ戻る時、城下へ連行することになりました。

そうそう。
息子を人質にとられていた男のもとへ、ちゃんと息子は返されました。そして偽のみちは、ひとりの侍と共に、元いた村へ帰ってゆきました。杢次郎の想像通り、陶工の村から賊に連れ去られておったようです。無事に帰れてよかったですね。




さてさて、ここからが本題です。

ほら、だってまだ、庄屋とみちの話は途中でしたから。

覚えていますか?
みちは、子狸と子兎と、お餅の歌を歌いました。

この歌で、みちが言い伝えのみちだということが判明しました。

お殿様と庄屋一行と、みちの家族は、家の中の囲炉裏の火を明かりにしながら、みちを囲んでおります。

「改めて、みち、その行李は、100年前、我が庄屋に参ったキヨという老婆が、庄屋に託したものじゃ。100年後にみざの村におる“みち”という娘に渡してくれ、という願い通りに、庄屋が代々受け継いできたものじゃ。ここに記された100年間の年号は全て当たっており、そして、お主が歌った歌のことも、ちゃんとここに記されておった。不思議な話だ。そして我ら庄屋も、代々、中身を知らぬまま受け継いできた。そこでだ、わしら庄屋が代々なにを守って来たのか、ぜひ中を改めたい、もしお主が良ければ、その行李を、ここで開いては貰えぬだろうか」


みちは、囲炉裏の明かりに照らされながら、考える仕草をしています。

「不思議じゃの、なんでそのローバーっちゅう人はの、みちのことを知っとったんじゃろうか、わしは6才じゃけの、100年前にはおらんのじゃけんどもの、会ったこともねし、なんやわっからへんの」

甚四郎はしみじみ頷きながら、言いました。

「ローバーではなく、老婆じゃ。老婆というのは、おばあさんのことじゃ。そうだの、お主の言う通り、不思議な話じゃ。わしもの、言い伝えで聞いておるだけだがの、知っておることを話そう。
おばあさんはな、未来の江戸の“東京”という町で、みち、という女に助けられたそうだ。そしておばあさんは、その未来よりたくさんの薬を持って帰ってきた。わしの曽祖父は赤子のころに、その薬を飲み、よく眠り、よく乳を飲み、元気に育つことが出来たと、そう聞いておる。その東京のみちが歌っておった歌が、さきほどお主が歌った歌のようだ」

「余計にまっこと意味がわからんの、わっちは未来の江戸に行くんかの?どげじゃて行くがじゃそこには」

「そうだな、わしにもわからぬ、どのようないきさつで、おばあさんが東京へ行ったかも、そしてお主が東京へ行ったかも、それは言い伝えられてはおらぬ。だが、もしかすると、その行李の中に、その手かがりが入っておるやもしれぬ」


みちの家族や、お殿様、爺、彼らの警護の数名の侍、喜助に杢次郎、そして甚四郎そして、みち。たくさんの者たちに、行李は見つめられ、囲炉裏の明かりに、竹が飴色にほんのり輝いています。

「なあんか開けるのが楽しみじゃけんども、なんじゃろの、なんか怖い気もするのう」

みちが皆を見ながら言います。

「けんどもの、開けるぞ、えか?」

しばらく黙ったあとに、みちが言うと、大人たちが固唾を飲んで、一斉に黙って頷きます。

生唾を飲み込む音、囲炉裏の小枝が小さく爆ぜる音が、雨音に包まれる民家に聞こえています。


みちが、行李の蓋にちいさな手をかけ、ゆっくりとずらしてゆきます。100年ぶりに、行李が開きました。


「なんじゃ、これは」

みちが小声で言います。




行李の中には、乾燥した植物のようなもので満たされていました。よく見ると、乾燥した唐辛子と、山椒の実でした。

みな、一様に、首をかしげています。

「なんじゃこれは」

みちが訊き、甚四郎が答えます。

「唐辛子と、山椒…じゃの」

「そのおばあさんは、わっちに、100年前の唐辛子や山椒を食べさせたかったんかの?」

「……いや、その、…わからん」

甚四郎は拍子抜けしています。100年受け継いできたものが、乾燥した薬味調味料だったからです。しかも100年も経っているので、香りは多少あるものの、すべて変色して砂のような色をしています。

同じように、爺もお殿様も拍子抜けしていますね。

杢次郎が行李に近寄ってきて言いました。

「甚四郎さま、わしが運んどるときは、行李のなかでもっと固えような、ぶつかるような音がしとりましたど、まだなにかあるのやもしれませぬぞ」

みちの母親が、ざるを持ってきました。

甚四郎が言います。

「みち、唐辛子と山椒をよけてみてくれんか」

みちは、すんすんと頷き、ちいさな両手で唐辛子と山椒を掬い、ざるのなかへ移してゆきました。


すると、



「おっ!!なにか見えたぞ!」

お殿様が身を乗り出して大声で言いました。

唐辛子と山椒の山の中に、布が見えます。どうやら風呂敷のようです。

表面の唐辛子と山椒が取り除かれると、その中には風呂敷に包まれた一回りちいさな箱が出てきました。

みちがそれをつかみ取りだそうとします。
少し重みがあるのか、くんっ、と力んで、ゆっくりと持ち上げました。囲炉裏の明かりに照らされるみちの顔が、ほんの少し赤くなり、ぷはぁっ、と言いながら行李を床に置きます。


風呂敷はかなりきつく結ばれていて、みちは苦労しながらそれをほどきました。やっとほどけた薄紫色の布を開くと、中には黒光りする、漆塗りの箱がありました。玉手箱のようです。その箱には赤い組紐がまたまたきつく結ばれていて、それもまた、ほどくのに大変苦労しました。

「文庫箱じゃの」

「そのようにございますな」

お殿様が言い、爺が答えました。
文庫箱とは、書物や手紙や貴重品などをいれておく箱のことです。あ、ちなみにこの箱は漆塗りなので、それだけでも大変高価なものです。

「開けるど?」

みちは紐を束ねて脇に置き、両手を床につけ、前屈みで皆の顔を見ながら言いました。皆が何度も頷きます。

とてもゆっくりと、文庫箱の蓋を開けます。
丁寧に作られた上質の文庫箱のようで、気密性が高く、すううううっと空気を吸いながら開いてゆきました。

みちがゆっくりと、蓋を脇に置くと、こたんくっ、と乾いた音が響きます。
100年ぶりに、箱の中身が、外の空気に触れました。
文庫箱から、古い紙の匂いがします。

なかには、文が2枚、紙に包まれた小包、そして書物が3冊入っておりました。


甚四郎が言いました。

「文と、書物か、なるほど。ではその唐辛子と山椒は、虫除けであったのか」

一同がふむふむと頷きます。
行李に敷き詰められた唐辛子と山椒の数々は、100年の間、紙を守るための、おばあさんの知恵袋だったようですね。

みちは、文庫箱の中身を丁寧に取り出し、床に置きました。

百姓もお殿様も子どもたちも庄屋も、膝と肩を突き合わせ、文庫箱の中身を覗き込んでいます。

お殿様が言いました。

「これは、かな文字の手習いの書物であるかのう」

「そのように見えますな」

ひらがな練習帳を指差しながら、お殿様が言うと、爺がそう答えました。みちがそれを手にとって開くと、あいうえおかきくけこと、お手本が書かれていて、その側には、誰の字なのかわかりませんが、誰かが消し炭かなにかで文字を練習した様子が伺えます。

「あいうえおかきくけこ、とは、未来の歌なのか?なにか意味が通るのかのう、しかしまぬけで腑抜けた歌じゃのう」

と、お殿様がつぶやきました。


「甚四郎様、そっちは、漢字の手習いの書物ですかな?」

杢次郎が甚四郎に訊きます。

「そのようだな、そして、これはおそらく、東京から老婆が持ち帰った書物であろう。このように厚い書は、今まで見たことがない。紙も薄い、綴紐もない。未来には、よほど腕の良い紙漉き職人と、糊職人がおるようだの」

「おい、みち、もう一つの書を開いてみてくれんか、それだけ使い古しておって、何の書なのかわからぬ」

お殿様が、みちにそうお願いしました。

ひらがな練習帳と、漢字辞典は表に書いてある文字で、どのような本なのか分かりましたが、もうひとつの本はぼろぼろで、一体なんの本なのかわかりません。

みちは、その本を手に取り、お殿様に手渡しました。

「わわ、わしが開いてもよいのか?」

「字はわかんねもんで、ええぞな」

「おおお!そうかそうか、それではわしが、開くとしよう、どれ」

本をゆっくりと開くと、カラー写真の挿絵がいくつか書かれているページでした。

「おお!この錦絵は、なんじゃ、まるで生き写しのようにありありと描かれておるのう、見よ、ほれ!将棋をさしておるわい」

お殿様がどんどんページを捲っていくと、将棋の戦法が書いてある、中級者向けの将棋の本でした。

「ほおお、なんじゃ、このさし方は、爺、見よ!見たことあるか、このような将棋のさし方を、みよ!これもじゃ!ほれ、これも!これもこれも!おっ!ほほ!ほお!居飛車穴熊という技じゃな?なんぞおもしろそうな名前じゃ、美濃囲い、とな?いやあ、実に貴重な書物じゃ!」

お殿様は大興奮で、本をめくりながら、周りの者達に、いかにこの本がすごいかを力説しています。

あまりに興奮しているので、甚四郎が尋ねました。

「殿は、将棋がお好きなのでありましょうか」

「まあ、そうじゃの、まあ、嫌いではないかの、ほれ、それより見てみよ、ここ!」

どうやら、かなり好きそうですね。


みちは、お殿様の興奮をよそに、紙の小包に興味が移っています。

みちは甚四郎に、開けてよいかを尋ねます。

「これらはすべてお主宛のものだ、わしに訊かずとも、開けてよい」

甚四郎が答えます。
みちがうなずいて、小包を開くと、中には、穴開き銭と、小判が入っておりました。みちは、銭も小判も見たことがなかったので、首をかしげています。お金だと、わからないようです。

銭は見たことはありますが、小判を見たことがなかった両親は驚嘆し、甚四郎に尋ねました。

「しょしょ庄屋様、ほほほんとにこれは、みちが受け取ってもよろしがでしょうか?こりゃ、いくらぐらいになるがでしょうか?」

「杢次郎、いくらあるのか、ざっと調べよ」
と、甚四郎は杢次郎に言って、みちの両親に対して言いました。
「もちろんだ、受け取ってよい。庄屋は100年前に、老婆より預り賃をちゃんと受け取っておるからの、故にこれはみちのものだ」

「甚四郎さま、銭と小判で9両ほどございました」
数え終わった杢次郎が甚四郎に言いました。

「9両だそうだ。1両で1石の価値となる。」

甚四郎がそう言うと両親は、床に頭を擦り付け、庄屋に感謝しました。だって今まで、あのむらおさのせいで、1年間1石で過ごしていたんですからね。むらおさが悪さをしていなかったのにしても、1年間で2石の生活です。そこに9両入ってくるんですからね。そりゃあ宝くじの一等が舞い込んだかのような心持ちでしょう。


「話し中、すまぬな、ちと、よいか、みちと、みちの父と母、ちと、よいか」

お殿様が、話を遮り、みちとその両親に話しかけました。

「その、なんというかの、お主らは、将棋は、さすのか?」

両親は首を振り、みちは首をかしげました。

「その、お主ら宛の品物であるのはわかるのだが、その、将棋を指さぬものが、その、持っておってもな、なんというか、その、宝の持ち腐れじゃ、だから、その、よければじゃな、この書物を、なんというか、わしに譲ってはもらえんかの?」

「殿!いかに殿と言えど、ちとそれはお手が早いかとそう拙者は思いますがの、まだこの者たちはその書を手にとってもおらぬではないですか」

爺が苦い顔をしながら言いました。

「いや、爺、違うのじゃ、これにはわけがある、この者達にも、わしにも、そして我が藩にも、必ずや利になることなのじゃ」

「殿、殿が小さき頃よりお仕えしておりますが、本当に、お変わりありませんですな、ほしいものがあると、なにかと理由をつけてご自分のものにしたがる、まあなにか理由があるとのこと、それでは、利になるとは、どういうことでございましょうか」

「爺よ、城におる時より、毒舌になっておらんか、ちと寂しいぞわしは。……まあよい、聞け。聞けば納得するであろう。
まずこの書物、わしが20両で買い付ける。20両をこのもの達に渡すでも、20両分の年貢を免除するでも、好きな方にしたらよかろう。これが、この者たちの利じゃ。
そして次に、わしが城でこの書を読み、楽しむ。これがわしの利じゃ。」

年貢を免除という言葉や、20両という単語に、みちの両親は、気が気でない、そわそわした雰囲気になっています。意味としては、年貢を10年免除する、と言っていることになりますからね。

「書物に20両とは、これまた破格ですな、それで、我が藩の利になるとは、どのような考えがあるのでしょうかの?」

爺が、眉唾な顔つきで殿に尋ねます。

「まあ聞け、せっかちじゃのう、気性の荒いすっぽんのようじゃ、よいか、まずこの書物を清書させ、上質の和紙と紐で製本させる。複製をつくるのだ。そして、ほれ、わからぬか、爺」

「売るのでございますか?」

「ダメじゃ、製本するのは一冊だけじゃ。そうでないと価値がなくなる。わしが原本を持ち、製本して作った高級な一冊をどうするか、ほれ、爺、わからぬか」

爺はしばらく考えますが、降参した、という顔をします。

「考えてもみよ、ほれ、この秋、わしは江戸に行くであろう?」

「はい、将軍さまとの謁見日がございますな。それはそうですが、それがどうかしましたかな」

「ほれ、江戸で、一番の将棋好きなお方は誰じゃ、ほれ、ほれ」

「え……というと、…まさか」

「そうじゃ!!徳川家治様に、製本したものを献上する。これは、将棋好きな家治さまなら狂喜する書物、たいそうお喜びになるはずじゃ、それでの、お喜びになられ、将棋の話に話の弾んだころ、長年頓挫しておった、街道整備の費用についても話をもちかける。この書の力で、話も通し易くなろうかと、わしは思う。」

「なるほど、拙者も、献上の品物をどうするかは、思案しておりましたところです、たしかに今の時代にはない将棋の書物であれば、目から鱗の書物になりましょう。街道整備の件についても、名案にございます。これは、ご無礼つかまつりました」

爺もどうやら納得したようですね。

「と、いうことじゃ、この書物を、20両で譲ってはくれぬか」

と、お殿様が、みちとその両親に訊きます。するとみちが言いました。

「けんども、わっちも、それがほしいの」

すると、父親が慌ててみちをたしなめます。
「なに言うとるだ、おめにわかりっこね、字も読めねでねか、いらね、お殿様に差し上げろ、すげ大金なんだからの、わがまま言うでね」

「わかんねくても、わっちに届いたもんじゃ、何が書いてあるのかはわかんねくても、持っておきてがじゃ」

お殿様が頷いて言いました。

「よし、わかったわかった、じゃあそれでは、2冊製本し、この原本はみちが持て、しかし清書するのには時間がかかるゆえ、それまで預からせてもらうがよいか?清書が終われば、この本を返そう。どうじゃ?」

みちは、こくりとうなずきました。

「それでは決まりじゃな、20両分の年貢を免除とするがそれでよいか?うむ、それでは甚四郎、よいな?」

「かしこまりましてございます」
甚四郎、喜助、杢次郎が頭を下げ、

みちの両親がお殿様に頭をさげました。。


でもほら、思い出してみてください、こんな重要な話をしていますが、庄屋もお殿様も百姓も、子供も、膝を付き合わせてこじんまり座っているんですよ、なんだかおかしいですよね。


さて、みちは、最後の品物に触れました。
文です。
みちも、両親も字は読めないので、

「庄屋さま、読んでくれねかの」

と、みちが庄屋に頼みました。

庄屋は1枚目の文の封を解き、文を開きます。

文は、すべてカタカナで書かれていました。

甚四郎が、読み上げます。


ミチチヤン オメサンハワシノコト
シラネダロケレドモ 
ワシハミチチヤンニ
タイソウオタスケイタダイタデ
ショウヤサマニタノンデコレヲトドケルデノ
トウキョウデノタベタミトボルハ
イマデモオモ……

と、甚四郎は中身を読み上げていきます。文字も手紙も書いたことのないおばあさんが、一生懸命文字を覚え、おぼつかない字と文章で、綴った手紙でした。

手紙をすべて読み終えましたが、みちに届いたとはいえ、みちにとっては見ず知らずのおばあさんです。東京で起こった出来事はみちが大人になったあとの出来事ですし、このときのみちはまったくもって想像ができませんし、理解もできませんでした。読み終わったあとも、みちはぴんとこない、そういった顔をしています。

これは甚四郎たちも同じで、知らない単語もたくさん出て来るので、よく意味がわからず、読み取りあぐねているようでした。

みちは首をかしげながら、もう1枚の文を、甚四郎に渡し、読んでくれるように頼みました。

甚四郎はさきほどの手紙を丁寧にたたみ、新たな文の封を切り、読み始めようとしました。が、なかなか読み上げません。
というのも、手紙を開くと、そこに書いてあるのは文字ではなかったからです。

「これは、地図?であろうか?」

みなが覗きこみます。

そこには、“イナベムラ”と記されていて、川や大きな岩や、里の様子が記されていて、里の山の中腹あたりに、×印が描かれており、印の上には、“イナリサマ”と書かれていました。

そして、地図の端の方に文章が書いてあります。
そこには、こう記されておりました。

甚四郎が読み上げます。


天明ニキキンガクルデ
ソノマエニココニ

大人たちは一同、顔を見合わせました。
子供たちは、きょろんと、首をかしげています。





「もうイナベ村へは着いたのかの?」

「へい、あの民家のあたりから、イナベ村にございます」


お殿様が杢次郎に尋ねると、杢次郎はすぐに答えました。




お殿様、爺が馬に乗り、護衛の30名ほどの侍たちが歩いております。侍たちの数はすこし増えてますね。
そして、甚四郎、杢次郎、喜助が先頭を歩き、共に、みちも歩いています。

昨日の天気とはうってかわり、この朝は雲ひとつない青空。夏から秋へ変わる気持ちのよい風が吹いております。

昨日、みちの家の囲炉裏を囲みながら地図について話しているうちに、明日、地図の場所へ行ってみようということになりました。

けれどもみちの両親は、翌日は村の共同の水路の補強を行うために、一緒について行くことはできないということで、みちだけ城下の甚四郎の屋敷に泊まり、翌朝出発することになりました。

みちは、畳も行灯も風呂も、立派な晩御飯も、一度も見たことがなかったので、なにか新しいものを知るたび、騒ぎ通しでした。お風呂のなかでは、女中に体を洗ってもらいながら、腹ぺこ子狸の歌を歌って、女中を笑わせ、風呂上がりには、甚四郎が子供の頃に着ていた浴衣を着て、ふかふかの布団で横になり、甚四郎の妻の語る昔話を聞きながら、ころんと眠りにつきました。本当にいろんなことがあった1日でしたからね。さぞ疲れたでしょう。

そして翌朝、お殿様一行と共に、地図に記されているイナベ村へと出発したのです。




イナベ村に差し掛かると、甚四郎が杢次郎に尋ねました。杢次郎は、この村の担当なのです。

「稲が実ってはおるが、なにやら隙間が多いの、稲の病気か?」

「いえ、ここ数年、稲の育ちが悪いというのは村の者たちより聞いちょりました。年貢に影響するほどのことではなかったがですが、この様子じゃと、今年はちと、心配ですな」

甚四郎はそれを聞いて無言でうなずき、田畑を見渡しました。
ところどころ枯れたような稲があり、ぼこぼこと凹凸のある田は、黄金色というには乏しい色合いで、貧相な印象でした。



年寄りの村人がいましたので、杢次郎が道を尋ねます。

「お、ちょうどよか、おい、お主は、山の中腹にある、イナリ様というのは知っておるか?」

すると村人が答えます。

「あ、庄屋さま、こりゃどうも、イナリ様ですか?うーん、だいぶ昔はお祀りして里のものらも、山登ってイナリ様へ参っておったようですけんども、今は森が深くなってしもうておるけ、山に登るものは、あんまり聞いたことねですの、そうやけ、もう、詳しい場所を知るもんは、うちの村にはおらんように思いますけんどもな」

杢次郎は年寄りに礼を言いました。

「甚四郎さま、その地図がどこまんで正しいかわからんけんども、その印を頼りに進むほかねえみてですの」

おばあさんのいた時代から100年です。道も景色も、人も、たくさん変わっているでしょうね。




一行は里を抜け、山にさしかかりました。
やはり、山に入る者はいないようで、倒木や暗い竹林が目立ちます。
竹林の間の細い道を抜けていると、古い朽ち果てた民家があることに、みちが気づきました。

雑草の生えた屋根は半分落ち、障子はすべて破れ、かまどはところどころわれ煎餅のようにひびが入っています。


「誰か住んでおるんかの?」

みちが誰にともなく尋ねると、喜助が腕を組みながら言いました。

「あの家に住めるのは、獣か、もののけかって、とこだろうなあ」

みちはその言葉を聞きながら、ぼんやりとその家を見つめて、やがてまた歩きはじめました。



じつは、この家は、100年以上前におじいさんとおばあさんが住んでいたあの家なのです。この家には、庄屋さんが夜泣きの薬を買いにきましたし、いろんな人が怪我や薬のために訪れました。

けれども今は喜助の言う通り、獣か、もののけか、という雰囲気です。みちは、おばあさんを知らないはずなのに、なにか感じたんでしょうかね。

小さな小川を抜け、大きな岩の脇を通りすぎ、地図の示した印のあたりにたどり着きました。あたりには人が入った形跡はまるでなく、複数の獣道が森に広がっています。馬に乗っていては前に進めないので、お殿様と爺も馬を降りて歩いています。


すると、お殿様の警護の侍の一人が声をあげました。

「痛ってえ!」

一同、昨日のことがあるので、敵襲かと、騒然とします。
その侍は、一同が自分に注目しているので、気まずくなりながら説明をしました。

「あ、そ、その申し訳ございませぬ、このタラの木のトゲが額に当たったので、その、つい、も、申し訳ございませぬ」

止まっている木を避けられぬでは、太刀を受けることも出来ぬではないか、と誰かが軽口を言うと、侍たちが、どっと笑いました。


そのタラの木を触りながら、みちが言いました。

「こんだらでけえトゲがあったらば、動物たちもここには近づけねえの、ほいで、このタラの木の奥は、ありゃかぶれる木でねえか?気いつけなならんばの」

大人たちは、みちが言うように奥の木を見ました。すると確かに、タラの木の奥には、さわるとかぶれる漆があり、そして漆の奥には竹林が広がっていました。よくよくタラの木の並びをみてみると、タラ、漆、竹の順番に木が生えており、まるで柵のようになっておりました。

甚四郎がその林を見ながら、なにやら思案しております。

「人や動物を寄せ付けぬような森だの。まるで、人が敢えてそのようにして植えたような、そんな森だ。この向こうになにかあるのやもしれぬ、杢、喜助」
そうして甚四郎は、杢次郎と喜助に、この森がどこで終わるのかを、左右に手分けをして探させました。



すると、かなり時間が経ってから、二人が一緒の方向から戻ってきました。

「どうであった。この森の様子は」

杢次郎が答えます。

「丸き形の林のようでして、たどってゆくと喜助と出くわしましたわい。やはりどこも同じように、タラと漆と竹の並びになっておるよでごぜます。反対側に、この林の中心部へと入れそうな入り口を見つけましたで」


甚四郎がお殿様へその旨を報告し、一行はその小さな入り口へとむかって歩いてゆきました。



「甚四郎さま」と、みちが甚四郎に声をかけました。

「なんだ、どうした」

「昨日はの、晩のご飯を食わしてもろうて、まっことうまかたの」

「ほう、うまかったか、そうか、よかった。あの飯を作ったものはの、うちで数年前から女中をしておる15の娘じゃが、物覚えが良くての、料理の腕もあるようじゃ」

「ほうか、あん姉様の料理うんまかったのぅ、あ、あとはの、風呂にもいれてもろうたけんどもな、風呂はな、初めてじゃった!」

「そうか、どうであった、風呂は」

「姉さんにの、歌っての、楽しかったの」

「ほう、どういうとこが楽しかったのだ」

「声がの、響いての、神楽堂みたいにの、響いての、なんぞわっちは誇らしかったど」

「そうか、みちは声がよく通るから、女中もさぞ楽しかったろうな」

甚四郎が言うと、みちはすこし照れたような顔をしながらも、嬉しそうにしております。

風呂に入ったので、肌や髪はつややかで、輝いています。6歳という幼い年齢ですが、美しい娘になる、というのが一目でわかる顔立ちと髪と肌のつやです。みなさまにも、見えておりますか?

「みち、足は疲れておらんか?」

甚四郎がみちを気遣い、声をかけます。

みちは首をかしげます。
「まだなあんもしとらんでの」

なにもしとらんと、みちは言いますが、城下から4時間ほどの場所です。それほど歩いてもなんともない顔をしているので、毎日の百姓の仕事を、甚四郎は否が応でも実感しました。みちにとっては、数時間歩き続けることなど、“なにもしていない”に等しいのです。

その様子を、お殿様もぼんやりと眺めております。
お殿様は馬に揺られていただけでも疲れているというのに、6歳の娘は、まだなにもしてない、と言うのです。そして、風呂にも初めて入ったというのです。身分の差とは言え、複雑な気持ちになりました。難しい顔をして、なにやら考え事をしています。


「入り口は、ここにあるがです」

杢次郎が甚四郎に言いました。

人一人が通れるほどの狭い隙間があり、足元には石が敷き詰めてあるようでした。神社の参道のように見えなくもありません。杢次郎と喜助が鉈を抜いて、枝葉を切り落としながら前へ進んで行きます。

「なんぞ、隠里のようじゃの、だれかこの森のなかに隠れ住んでおるような、そんな森じゃの」

「忍びが住む場所はこういう場所なんかの」

杢次郎と喜助が話しながら歩いていくと、竹林が途切れ、雰囲気が変わりました。木々の背丈が低く、あたりが明るくなったのです。

みちが、森の真ん中にある祠に気づき、「あっ!なんかあるど」と声をあげます。
みちの身長ほどの大きさの石の祠と、朽ちかけた小さな赤い鳥居がありました。


一行は祠の前に立ちました。

「さて、ここに来い、ということであったが、稲荷大明神の祠か。他にはなにかあるのかのう、この森に」

お殿様が、開けた森を見渡しながら、甚四郎に言うと、

「ここに来い、だけですので、何があるのかまではわかりませぬな」甚四郎はそう答えました。

「よし、手分けをし、老婆が何を託そうとしておったのかを探そうぞ」

と、お殿様が全員に指示を出しました。

40人ほどの大人たちが、広い森に散らばって、上をみたり、下を見たりして“なにか”を探し始めました。

さて、みちは、というと、ひとりで黙々となにか拾って遊んでいるように見えますね。


大人たちはしばらく森のなかを探しましたが、とうとうなにも見つけることはできませんでした。

「どうであった、なにかあったかの」

お殿様が皆を集め、質問しました。

大人たちは、渋い顔をしながら、収穫なしという雰囲気です。

けれども、みちは違いました。喜助の持っていた手ぬぐいを借り、そのの中に何やらたくさん詰め込んでいます。

お殿様がみちの様子を見ながら、尋ねました。

「みち、何を包んでおるのじゃ」

みちは手ぬぐいを手際よく包みながら答えました。

「おっかあたちへのみやげじゃ」

「土産?ちと、中を開いて見せてみよ、一体何を土産に持ち帰るのじゃ」

お殿様が言うと、みちは手拭いを解いて開き、大人たちは、手拭いのなかを覗き込みました。



みちが手拭いを開いている、まったく同じ場所。
およそ100年前、おばあさんとおじいさんがそこで話をしています。
まだ、稲荷さまの周りは森ではなく、竹林に覆われていた頃のお話です。


「おじいさんや、こうやって立って見上げとるとな、竹の葉がさらさらと落ちてきてな、風が吹いてな、美しい音がするんだど」

おばあさんが稲荷さまのそばでそう言い、おじいさんは笑顔で頷きながらおばあさんの話を聴きます。

「おんなじじゃ、わしもの、おじいさんもの、葉っぱと同じようにの、やがて地の上で眠るんじゃ。みいんなそうやって生きてきたんじゃなあ、くるくるくるくる回っての」

「そうじゃなあ、人も土も変わらんなあ」

「あのな、わしはな、あのな、みちちゃんをの、娘みたいに思うとるがじゃ、わしが土になった時にの、みちちゃんにな、届くように、なにか残してあげときたいがじゃ、100年後、生まれてくるみちちゃんにの、渡したいがよ」

そうして、おばあさんは、おじいさんに向き直って言いました。

「おじいさん、手伝ってくれんかいの、わしのわがままにつき合うてくれんかいの?」

おじいさんは、ゆっくりとうなずいて、笑顔で言いました。

「ええよ、なにしたらええ?」

おばあさんは竹林を見上げます。

「この林を、拓いて、森にするんよ」





「なんで森ば作るんかの?」


稲荷さまの竹林の中で、おじいさんがおばあさんに尋ねると、おばあさんは背中の籠の中から一冊の本を取り出して、おじいさんに見せました。

「こりゃの、みちちゃんからもろうた歴史の書での、読めねえ漢字もあるんだけんどもや、みちちゃんに聴いたことも合わせるとの、」

そう言って、おばあさんは自分が知った歴史のことをおじいさんに説明しました。

みちが生まれ、幼少期を過ごした頃の将軍が、10代将軍家治だということ。9才の頃に売られ、女郎小屋で掃除や洗濯をしていたということ。数年経った頃に飢饉が起き、娘たちがたくさん女郎小屋にやってきたこと。

「せやけの、おそらくの、みちちゃんの家はの、飢饉の前から貧しくての、みちちゃんを売らねばならんかったんじゃろの、じゃからの、わしは、庄屋さまに頼んでの、薬を売ったお金やらをみざの村のみちちゃんにの、届けてもらおうち思うとるんよ」

「届けてもらうち簡単にいいよるけんども、そげな簡単に届けてくれやっせるかの?みちちゃんが生まれるまで、どれぐらいかかるっちゃろかい?」

「でえてえ100年ぐらいじゃの、けんども、庄屋さまにお願げして、信じて、お任せしやるしかないのんや」

「そじゃの、出来ることよりでけへんことばっかり増えてくんの、頼るしかないもんの。けんどもや、森ばなんで作らないかんとやろか、なんぞみちちゃんに関係あるかいの?」

「そじゃそじゃ、ほいでの、この書物にはの、飢饉のことが書いてあるがよ、飢饉の時はの、食いもんがなくなるで、村のもん同士での亡くなったもんばな、食いあったそうじゃわ、お金があってもや、食いもんなけりゃ人間は動物ぞ、ほいやからの、飢饉の時のためにの、この森をの、なんとか食いつなげるような天然の倉にしたいがよ」

「飢饉は人を変えよるけんの…けんども、なんぞばかでけえ話じゃのぅ、わっしら二人でできるんかの、そげなこと」

「じっくり時間かけて、ふたりで森ばつくっていこわい、えか?」

「そりゃあ、もっちろんええぞ、つくろわい」




そうしてその日から10年以上かけ、小学校の校庭ぐらいの広さまで竹を刈り、土をほぐし、様々な可食の植物を植えました。そして、まだ当時日本に入ってきて間もなかった“じゃがたら芋”を分けてもらい、種芋を増やし、森に植えてゆきました。
竹の周りには、動物避けに、漆とタラの木を植え、森を囲みました。


おじいさんとおばあさんは、稲荷さまの祠の前に立ち、自分たちで時間をかけて作った森を見渡しました。

栗 桃 アケビ 椎 山桃 猿梨 鬼胡桃 金柑 林檎 芋 タラ 筍

この森のなかには、これだけの植物が共生しています。ひとつの村の人たちが節制しながら食べていけば、なんとか食いつないでいけるかもしれない、それぐらいの大きさの森でした。




みちは地面にしゃがみこみ、手拭いを開いて、大人たちに説明します。

「ほれ、胡桃じゃろ、ほいでの、もう時期じゃないで、小さいけんどもや、これは桃じゃろ、ほいで林檎これもちっせえの、ほいだらのあっちの奥には、栗がたっくさんあったど、ほいでの、下には芋が実っとるど、足元の草は全部芋じゃぞこりゃ、見ったらことねえ芋だけんども、食うてみようかと思っての」

大人たちは、みちの話を熱心に聴きました。芋があると言われてそれぞれ足元を掘ってみると、長年にわたり蓄えられた様々な種類の落ち葉が、空気と養分を含んだ柔らかい土壌になっており、すこし掘ると、小振りのじゃがたら芋がぼろぼろと出てきました。

当時はまだじゃがたら芋、あ、みなさんの時代のじゃが芋はまだまだ一般的な農作物ではありませんでした。ここの大人たちも、食べたことがある、見たことがある程度だったかもしれません。

「こりゃ、じゃがたら芋かのう」

「そうじゃのう、そのように見えるけんども、なんぞ小ぶりじゃの」

「違う種類でねか?」

「けんども、鈴なりに実っとるの、焼いて胡麻油と塩でもかけて食うたらうまそうじゃの、のう?」

大人たちがそうやって話していると、お殿様が爺に言いました。

「爺、ここで料理をさせることはできるか?この芋を食うてみたい」

「この芋をでございますか」

「茹でるでも蒸かすでも、焼くでもなんでもよい、食うてみたい」

「かしこまりましてございます」

そう言って爺は芋を掘らせ、落ち葉を集め、火を焚き、じゃがたら芋の焼きいもをさせました。
数十人の大人たちが、焚き火を囲んで、なにやら楽しそうです。みちはその火の周りをきゃっきゃと言って駆け回っています。
やがて、芋が焼けて、それぞれ土や灰を払い、芋を食べてみました。

ほくほく、ねっとりとして、深い甘みがあります。土が肥えているんでしょうかね。みな、口々にうまいうまいと言って食べておりますよ。そんななか、お殿様はぼんやりと遠くを見ながら、黙って口を動かしております。考え事をしているようです。

やがて、わいわいがやがや騒がしくしている皆へ向けて、問いかけました。

「のう、みなのもの、老婆の言うように、飢饉はくると思うか?」

皆が静になり、お殿様を見ます。

「のう、お主らの考えが聴きたい。みちに行李やこの森を託した老婆は、みちが歌う歌や、年号をすべて当てておった。それと同じように飢饉がくるということも当てると思うか?」

それに、甚四郎が答えます。

「恐れながら、殿、この森を作るのには、並々ならぬ労力と時間が必要であったことは素人目に見てもあきらかでございます。この森は、老婆がみちを飢えさせぬために作った森なのでしょう。そしてわたくしは、昨今の稲の実りからしても、飢饉が来ると考える方が妥当のように思います」

喜助と杢次郎も、同感だ、というように何度もうなずいております。そして杢次郎が言いました。

「お殿様、百姓のものらと話しとってもですな、最近寒い年が多く、稲が弱っとるとは言うておりました、ほとんどの百姓たちが、そのように、なにやら感じておるようでごぜます」

そうして侍たちも、自分達の体験談を話しました。

隣国へ赴いた際、百姓どもがそうやって同じように話しておったとか、行商の者が北国では食べ物が年々なくなっているから北では商売ができないとか言っておったとか、そういうことです。



お殿様はその話ひとつひとつに耳を傾け、空を見上げながら考えています。
そしてやがて、何か考えがまとまったかのように両頬を叩き、言いました。


「みち、お主には悪いが、この森は、我が藩のものとする、いや、正確に言えば、この芋、だな。よいか。いや、お主が嫌と言っても、わしは芋をもらうがの。」

お殿様は不敵な笑みで、みちに笑いかけました。







「ここの芋は、すべて貰う。」



と、お殿様が言うと、爺や甚四郎たち大人は、驚いた顔を見せました。だって、いままでのお殿様の雰囲気とまったく違う発言ですもの。そういう発言が許される立場とは言え、将棋の本を20両で買い取るお殿様が、“すべて貰う”と言えば、そりゃ驚きます。わたくしも、あの時そばで見ていたので、とても驚きました。

けれども、みちはしばらく考えてから、そりゃ当然、というような顔で言ったのです。

「山のもんは、山のもんだ。みちのもんでねえ、別にいやとは言わんぞな」そして続けて、両手をすりすりと擦り合わせながら「けんども、芋をもうすこしもろうてもええかの?」と言いました。そんな仕草どこで覚えたんでしょうね。わたくしの予想だと、杢次郎の真似をしているように思いますけど。

お殿様は、みちのその言葉に笑って頷き、「もちろんだ、お主は持てるだけ持って行くがよい」と言って、次は皆に向かって言いました。

「これより、数名、山を降り、村から鋤や鍬、車や牛を借りて参れ。総員で、この芋を城へと運ぶ。甚四郎たちも、手伝いを頼む、わしも爺も、皆でやろう。みちもな。」

すると爺が慌てた様子で訊きました。

「殿、なにをなさるおつもりですか、突然、芋掘りなどと…」

お殿様は、照れ臭そうに、観念したような面立ちで、そばにあった倒木に腰掛け、言いました。


「…昨日な、お主たちが戦っておる時に、みちにの、お殿様はなんで戦わぬのだ?と、お殿様は、どんな仕事をしているんだ?と。そのように尋ねられたのだ。

そしての、わしはの、その答えがわからんかった。しばらく考えて、城に戻ってからも、考えた。わしは、一体、なにをしておるのかと。皆に殿と呼ばれ、藩主として馬に乗っておるが、一体わしは、なにをしているのだろう、とな。

幼き頃より、この藩の主になるのは決まっておった。
言われるがまま、恥ずかしくないように、立派な藩主となるように、勉学、武道に励み、お家存続のため、こんにちまでやって参った。

けれどもな、昨日、お主らに守られながら思ったのじゃ。藩主として、ただ座っておる。自ら勝ち取った地位ではなく、親から受け継いだ場所にただ、座っておる。わしではない誰かが、この藩の藩主をしても、この藩は続くだろう。じゃあ、わしは何者ぞ、とな。」

すると、爺が、声をあげました。

「先代より城を、藩を受け継ぎ、藩主をお勤めになる。それは充分に、いえ、十二分に尊いことにございます、その双肩の重み、この爺には重くとても支えられるものではありませぬ、それを殿は若き頃より成し遂げておいでになる。それは、だれにでもできることなどとは到底思えませぬ」

お殿様は優しく爺に笑いながら言いました。

「けれどもな、先代と同じようなことをして、城を、藩を守るなら、それならば誰でも構わんのだ。わしでなくともよい。わしに兄がおれば、兄がなったやもしれぬ、父上に息子が生まれなんだら、どこぞから誰かが養子にきて、城主を務めたまでのことだ。

そしてな、思うのだ、おそらくな、老婆が未来の東京で知り得た情報の中に、この藩の飢饉のこともあったのであろう。このような広大な森を老婆が拓くのは並大抵のことではなかったであろうに、このような森を長い時間をかけて作った。この森の大きさはすなわち、飢饉が大きく、人が飢えて苦しむ規模を表しておるように思う。

そして、おそらく、わしは飢饉で民を守れず、たくさん死なせたのであろう。なにが藩主だ。城主だ。わしが守れなんだから、老婆はこの森を作り、せめて、みちだけでも、と行李に銭と地図を託したのであろう。

わしは、貧しき老婆に、問われておるように思う。
お殿様は何しなさるんかね?どうしなさるんかね?と、この森を通じて問われておるように思うのだ。

だからの、わしは決めたのじゃ。昨日のお主らが、我や、みちらを守ってくれたように、わしも、お主らを、民を守りたいと、そう思う。

よって、この芋を、藩で管理しようとおもう。
世迷いの、芋藩主と笑われるかもしれぬ。
言い伝えを信じた呆け城主と呼ばれるかもしれぬ。
けれども、みちと老婆の、時間を越えた不思議な巡り合わせを、わしはこの目で見てしまった。信じぬというほうが、わしには難しい。

わしは、飢饉が起こる、という老婆の言葉を信じ、老婆が植えたこの芋で、我が藩を、民を守りたい」

一同、お殿様の演説を黙って聞いております。
セキレイが遠くの小川のそばで鳴いているのが聞こえました。
大粒のイガグリが、落ち葉のなかに、ぼぶさりっと落ち、森をゆっくりと風がすり抜けていきます。

「城に戻ってまた改めて城の者全員に話をしようと思うが、まずは、お前たちに先に話そう」

お殿様は立ち上がり、みちの手拭いの中の芋を拾い上げます。

「まずは、我らがこの芋を50倍に増やす。この芋の葉勢の様子じゃと、秋と春に収穫できそうじゃ、来年までに、芋を増やし、その増やした芋を種芋とし、武家、町民、百姓に分配し、それぞれ庭や畑で育てさせる。天明という年号がいつやってくるのか、わからぬ。もしかすると明日かもしれぬ。だからこそ、本日たった今から、我らはできることを、やる」

そう言って、お殿様は、刀を鞘ごと抜いて、近くの木にたてかけました。

「土を耕すのに、刀は要らぬ。お主らも、お主らの父君や母君や、先祖から受け継いだこの国の土地を、そしてお主らの血を誇りに思っておろう。しからばそれらを守るため、お主らも刀を置き、土を耕せ。侍だの百姓だのと言ってはおれぬ。国をあげて、この国を守るぞ。」

爺が、ゆっくりと刀を、近くにあった木にたてかけて、お殿様に跪きました。他の侍たちもそれにならい、刀を置いて跪きました。

甚四郎たちは正座をし、お殿様に向かって頭を垂れています。杢次郎が、頭を下げていないみちに気づき、彼女の頭を優しく支え、お殿様に向かって頭をさげさせました。

みちは、おとなしく頭を下げながら、拾ったクルミで手遊びをしています。



その後、村から大八車と鋤と鍬と野菜籠などを借りてきて、皆で芋を掘り返し、収穫をしました。茎や葉の部分も苗に使えるということで、水をかけ、むしろにくるまれて、車に積まれました。

一日がかりで掘り出し、泥だらけになった一同の前には、たくさんの芋が大八車にのせられています。その量はなんと、車3台分の収穫量でした。その芋を城内へ持ち帰ると、お殿様はそのたくさんの芋を半分に切りらせました。侍たちは刀を置き、城内のあちこちを掘り返し、耕して、半分に切った芋の苗や、種芋を植えました。そうして、城の中には中庭に至るまで、足の踏み場がなくなりました。この不思議な出来事は、安永7年の出来事として、藩史にも記されております。



そして安永8年。
西暦1779年のこと。
何日も続いた地震の末、薩摩、桜島が大噴火しました。
この噴火は何年も続き、溶岩が地上や海底で噴出し、津波や火砕流などが起こりました。

この火山活動は数年にわたり続き、広い地域の農作物が日照量の低下や火山灰などで影響を受け、日本全体で徐々に収穫量が低下してゆきます。

そして安永10年。
1781年。
年号が改元されました。

新しい年号は、天明。

天明に入ってから、夏は寒く、冬は暖かく、雨は降らず、という不思議な日々が続き、農作物はさらに被害を受けていきます。

そして、天明3年。
弘前、岩木山が噴火。
長野、浅間山が噴火。

安永から続く不作に追い討ちをかけるように、火山が相次いで噴火し、飢饉が始まりました。


さて、桜島の噴火が起こった、安永8年へと戻り、昔話の続きをお伝えし





さて、稲荷さまの森から城に戻ってきてから、お殿様はいろいろと考えました。

イナベ村へ向かっている途中の稲も、枯れて弱ってしまっていたので、今年の収穫量は、例年よりもかなり少ないでしょう。
するとまずは、米を守らないといけません。

そしてお殿様は、藩内での米を使った菓子や嗜好品の類いの製造を禁止としました。
酒蔵や菓子屋には、藩から助成金を出し、代わりに種芋を与え、敷地内や藩領の敷地にて、芋の栽培を命じました。いきなり芋を育てろだなんて横暴だ、命じられた側はそのように思ったでしょうね。

安永8年、種芋が増えてからは、百姓や町民や侍にも同じように芋の栽培が命じられていきました。

そんな変な政令を出したお殿様は、国の者たちから、芋狂いの城主と呼ばれ、よくない噂がたくさんたちました。悪い易者の言葉を信じて、大金を貢いでいるとか、病にかかって世迷い言で国を動かしいているとか、そういう類いの噂です。

そしてそのような噂は他国へも広がりました。他国の者たちは、侍なのに芋を育てているこの国の侍たちを、芋侍とか百姓侍だとの揶揄するようになります。そして使者で来ていた隣国の侍たちが、泥だらけで芋を植えているこの国の侍たちを見て、芋侍と直接揶揄するような出来事もありました。しかし、侍たちは、広大な範囲を耕し、芋を植えるのに忙しかったので、はらわたは煮えくりかえっておりましたが、その怒りを鍬に向け、土を掘り返してゆきました。

ひとつの芋を半分に切り、植えると、そのひとつの種芋から50、60個ほどの芋が収穫できました。そして、芋の苗も切り分けて植えると、同じように芋を収穫できたので、芋を掘り返した時にお殿様が言っていた“50倍に増やす”という言葉は翌年にはあっさりと完遂することができました。

当時の事を記した町民の日記を見てみると、城下町の長い通りに、大八車が行列を成し、そこには芋が沢山積まれていたと言います。

そうやってお殿様が種芋を増やし、通りに車を並べ、人々に芋を配り、芋を育てるように、と藩令を出したその年。

遠く離れた薩摩の地の、桜島が大噴火を起こしました。お殿様の藩にも火山灰がやってきました。この噴火が、天明の飢饉の前触れとも言われております。

安永10年。
みちは9才になりました。
村では不作がずっと続いています。

おばあさんとみちが繋がっていなかった歴史の中では、この年に、みちは人買いに売りに出されるはずでした。

不作 年貢 そしてむらおさの悪事で、みちの家族は苦境に立たされ、みちひとりを売れば、家族が飢えずに済んだからです。

けれども、お殿様が免除した年貢20両分と、おばあさんが遺した9両、そしてむらおさが長年くすねていた年貢が返還されたことで、みちはこの年、売りに出されずに済みました。でも、だれひとり、みちが売りに出されるだなんて出来事を知るよしもありませんでした。不思議ですね。

あ、そうそう、あの将棋の本はちゃんと徳川家治様の手にわたり、お殿様の思惑通り、街道整備の費用援助にまでこぎつけることができたそうですよ。どうやらたいそう喜ばれたそうです。東京のみち、無意識とはいえ、とても良いセレクトでしたね。

そして安永のみちは、おばあさんからもらったひらがな練習帳をどこにいくにも持ち歩きました。そしてすぐに文字を覚え、その次は漢字辞典を手にさまざまな漢字の知識を手にいれて行きました。

そういえばもうひとつ、みちからおばあさんに手渡された書物、歴史の教科書がありましたね。あの教科書があったので、おばあさんは年号を覚えたり、飢饉のことを学んだりできたのでしたね。

けれども、みちにその本が渡ることはありませんでした。
なぜでしょう。

その教科書には徳川幕府が倒れることも書かれていたので、おばあさんはその事実を知った時、おじいさんに相談しました。
こんなことが書いてある本をみちちゃんに渡して、もし幕府に見つかったら、とんでもねえことにあっちまうでねえのか、と。

するとおじいさんも、その通りだ、そりゃ渡さねえほうがええ、と応えました。そして歴史の教科書は、おばあさんが年号を覚えて飢饉のことを学び尽くした後、庭で燃やした、とそういうわけなんです。


さて、文字を覚えたみちは、時おりやってくる喜助に、なんでもいいから本を貸してくれと、そうお願いして、古本を借りて読むようになりました。

けれども、喜助はみちに言われるがままに、「みちが本を、かせかせかせかせ蝉みてえにうるせえもんで、甚四郎さま、ちとお借りしてもいいですかの?」と言ってみちに本を持って行きました。

庄屋の書庫には、さまざまな書がありました。その中には杢次郎がこっそり隠して忍ばせていた本もありました。井原西鶴の浮世草子「好色一代男」もそのひとつでした。

わたくしも少しだけこの本を覗きみたことがあります。
世之介という7才の少年が、60才になるまで、沢山の男女と色恋を楽しむお話です。みちがなんでもいいと言うものだから、喜助は書庫から数冊抜き取ってみちに渡すのですが、こんな本を10才のみちが読んだら大変ですが、けれども、挿し絵がふんだんに使われているので、みちは不思議に漢字ながらも、興味深く読み進めていきました。

わからない部分は両親に聞くのですが、両親は文字が読めません。文字が読めそうな旅の人を捕まえて、みちは質問します。

「旅のお方、ちくとばかり聞きたいことがあるんじゃけども、ええかの?」

「なんだい娘っこ」

「これの、今の、これを読んじょるのじゃけんどもの、意味がわかんねからの。えかの?この世之介がの、ここでな、なあんで火を吹き消すんかの、と思っての、小便するのに、明かりがねえとあぶねえでねか?」

旅人は、本を受けとり、その場で立ち読みします。

裕福な7才の世之介が、自分の世話をしてくれる侍女に蝋燭を持たせ、夜中に用を足しに行きました。すると世之介は「もっと近くによりなよ」と言って侍女が持つ蝋燭の火を吹き消すのです。侍女が「明かりがないとあぶないですよ」と言うと、「恋は闇だと言うじゃないか」と言って、侍女の袖を引き、あたりにだれかいないか窺う。

という場面です。なんとこの小説の主人公は7才で女性を誘惑するのです。みちは、自分より年下の子供が意味のわからないことをするのが、不思議でなりませんでした。

「おめえ、これは、その、親御さんが、おめに渡したんかの?」

旅人は気まずそうに尋ねまして、みちは自信満々に応えます。

「庄屋さまから借りとるがじゃ」

旅人は、わけがわかりません。この国では、庄屋が子供にこのような本を貸し与えるのか、と目を丸くしています。

「なあんで明かりを消せばならんのかの、便所に落ち込んで怪我するんでねかの?」

「いや、その、なんというか、えっと、まあ、んー」

旅人は、答えあぐねています。

みなさんも考えてもみてください。
みちは10才。
あれからさらに背も伸び、可愛らしい少女になっております。その少女が、大人たちがにやにやしながら読むような本の内容について、興味津々質問してくるのです。

旅人は、

「なんか、そだの、あの、あれだな、なんか、あれだ、眩しいんでのかの」

と言って、曖昧な答えを残し、立ち去って行きます。

みちは、「納得できね」という面持ちで立ち尽くし、旅人の後ろ姿を眺めました。


この年、年号は改元され、天明にかわりました。


みちはのんきにしておりますが、各地で異常気象と、天変地異が続き、食べるものが徐々になくなってゆきました。

追い討ちをかけて、青森の岩木山噴火。
そして、長野の浅間山が噴火しました。


「殿、城下へも、浅間山の灰が届いております。浅間山の麓の村では人死にも出たと聞き及んでおります」

爺がお殿様に報告をしているようです。
お殿様は、城の廊下にうっすらと積もっている火山灰を指先で撫でてから言いました。

「むごいのう、まさか、今日自分が死ぬとは思っておらんだったろうに」

そう言ってお殿様は、とおく離れた浅間山の方角へ手を合わせました。

「左様にございますな」

爺もそれにならい、手を合わせながら応えました。

「我が藩では、なにか損害は出ておるか」

「はあ、やはり灰が次から次に降ってくるゆえ、米が、かなり被害を受けておるようです、どうやら今年は、米は…」

「そうか。しかし、米は備蓄米があるからよい。とにかく芋を増やし、民を餓えさせぬように努めよ、よいな」

「はっ、かしこまりましてございます。
そして、殿、別件ではございますが、隣国より使者の者が参っておりますが、いかがいたしましょうか。」

「用件はなんと」

「食料を分けてくれと、藩主名義で願い立てて来ております」

「そうか、隣国というと、東か?西か?」

「西にございます」

「そうか。なるほど。西か。西の侍どもは、我が藩の侍たちを、芋侍と揶揄しておったと聞くが、そこから使者が参ったということか?」

「左様にございます」

「そうか、通せ」


なんだかお殿様、とっても敏腕になっているような気がしませんか?爺も、なんだか従順というか、お殿様に対して嫌味をまったく言っていませんね。ここ数年で、お殿様が人間的にとても成長したようなそんな気が、わたくしはしています。

あ、隣国の使者が、お殿様の前へ通されました。


「よく参ったの」

「はっ、殿より書状を預かり、参じました」

「読もう」

お殿様は書状を受けとり、読みました。



「うむ、理解した。食料を分けてくれということじゃな」

「はっ、左様にございます」

「それは、よい、多少ならこちらも備蓄がある、少し分けるのは、よい、よいのじゃが、あ、そうじゃ、ところでお主、お主はうちの藩の侍たちを、芋侍と呼んだことはあるか?」

使いの侍の者は、びくりとして、畳を見つめています。

「いや、怒っておるのではない。呼んだことがあるかどうか聞いておるのだ。なんでも、畑を耕しておる我が藩の侍たちを小馬鹿にするように、お主らの藩の者たちが芋侍だの百姓侍だのと呼んでいったそうだが、どうじゃ」

「いや、その、わたくしは、呼んだことはございませぬが、その」

「そうじゃの、お主は呼んではおらぬが、呼んでおるのを聞いたことがあるという口ぶりじゃの」

使者は申し訳なさそうに諦めて頷きます。
お殿様は笑顔で言いました。

「主君に仕えるのが武士であるからの、主君の命は絶対じゃ。泥を飲めと言われれば泥を飲むし、戦えと言われれば戦う。そして、芋を作れと言われれば、芋を作る。なにも戦で戦うだけが武士ではない。戦国の籠城戦では、木の皮や畳まで食ろうたと聞くぞ。国のために畳を食うてなお、降伏せずに戦う。武士の鏡だとは思わぬか。のう。お主はそのようなに戦う武人を揶揄できるか?

わしはの、芋を作っておるあの者らは、わしの命をあまんじて受け、汗を流し泥だらけになっておる。あの者らは、戦をしておるのだ。

どんな戦だと思う。国を守り、民を守る戦じゃ。なにも刀を携え馬に乗るのだけが武士ではない。わしはの、あの者らを、武士の鏡じゃと思っておる。

わしを芋城主だの世迷い藩主だのと呼んで馬鹿にするのはどうでも良いが、国のため民のために忠義を尽くしておる武士を、同じ武士が馬鹿にするのを、許せるほど、わしは心が広くない。

そしてお主らは、自分達は手を汚さずに、食料だけ貰おうとする。お主は、それを子供に教えられるか?武士とはこういうものぞ、と教えられるのであろうか。

これは、食料を渡さぬということではない。今一度城へ帰り、この話を皆でして、今一度武士の一分を考えてはくれぬだろうか」

使者の者は冷や汗を流しながら帰ってゆきました。


お殿様は、灰に煙る城下町や、霞んでほとんど見えない遠くの村々をぼんやりと眺めています。

「殿、今回はいささか、強い姿勢での外交でございましたな」

「やはり、そうかの、かっとなってしまったかの」

「いえ、殿らしい外交でございました」

爺は、頭を下げ、いたずらっぽい笑みを湛えてお殿様をみています。




そうして数日後、その隣国の侍たちが、数十名でやって参りました。






隣国の殿様と家老が、侍たちを連れ、数十名でお城へやって参りました。
まるで大名行列のような出で立ちで、全員が礼装の着物を身に付けております。

いったいなにが起こるのでしょうね。


お殿様は、自国の侍たちにも礼装を身に付けさせ、彼らを迎えました。


城の客間で待っている隣国の殿様や家老や侍たちは仏頂面です。何やら、ものものしい雰囲気が漂っております。

お殿様、家老たちが、礼装を整え、隣国に応対する為に、客間へ現れました。

隣国の家老が口を開きます。

「書状をご拝読頂き、誠に感謝いたす」

爺が答えます。

「遠路はるばる、ようこそおいでくださった」

すると、それきり、会話が途絶えてしまいました。双方、緊張しておるようでございます。


相手方の殿様が話し出し、お殿様が答えました。

「実に久しぶりですのう」

「そうでありますな。…して今日は、どうなさいましたかの」

「前回の、書状の返答を、城内で調査し、吟味した。すると、我が藩内には確かに、貴藩の武士を愚弄するような不届き者がおった」

「なるほど」

「その者らが、謝罪したいと申し出ておる、受け入れてはもらえぬだろうか」

「そうでしたか、それはもちろんです」

すると、城の庭に、呉座が何重にも敷かれ、その上に3人の武士が座りました。庭と言っても、ほとんどが芋畑になっていて、風流な庭ではないのですが。お殿様は不審な顔をして、なりゆきを見守っています。謝罪にしても、呉座が何重にも敷かれるのは、不審だったからです。その顔を察した相手の殿様が言いました。

「あの者らは、軽率な行いで我が藩に泥を塗ったゆえ、けじめをつけて腹を切りたいと、自ら願い出てきた。庭は汚さぬゆえ、そのようにさせてやってはくれぬか、わしが止めてもまったく聞かぬ、譲らぬ。強情なやつらよ」

なんと、芋侍と揶揄した3人の武士が、この場で腹を切って詫びると言うのです。どうやら食料が乏しい中、支援が貰えぬかもしれないという状況に、深く責任を感じたのかもしれませんね。でも、詫びるとは言え、さすがに死ぬことはないですよね。

お殿様は、その言葉に頷くと、爺に言って、芋侍と呼ばれた当の本人たちを呼び寄せました。

しばらくするとその者たちがやってきて、お殿様に向かって低頭し、座りました。

「おもてをあげよ、さて、お主らを芋侍と呼び、愚弄した者たちがそこで、今、腹を切って詫びたいと申し出ておるそうじゃ、お主らはどう思う」

5人はこういう場に呼び出され、なにごとかと、内心びくびくして緊張しておりました。そしてさらに、この状況を理解すると、一同騒然とします。そして、庭で微動だにしない武士たちを振り返り、5人で顔を見合わせました。この者たちは、普段はお殿様に会うことも出来ない、下級武士たちです。この場の雰囲気と、そして状況に、明らかに動揺しているのが見てとれます。

だって、芋侍と呼ばれたのなんてだいぶ前のことですし、そして仲間同士でも冗談でそのように呼び合うことも最近はしばしばあります。芋を作り始めた当初はそのように呼ばれた悔しさで、上の者に報告をしましたが、今日までそんなことは、まったく忘れてしまっていました。それほどに、日々の仕事は忙しく、辛いものでした。

「黙っておってはならぬ、お主らも当事者だ、さて、どのように思う」

お殿様の言葉に、5人はまたびくりとして、お互いに肘をつつき合いながら、“お前が答えろ”と小声で言い合っておりました。そのうち、一番若くて背の低い侍が、言葉を選びながら、お殿様に返答しました。


「恐れながら、その、申し上げます。武士が、腹を切るとばですね、その武士が腹ば切ると決めたその決意ばですね、他のもんがどうこう言うのは、こりゃ、その決意に泥を塗るようなもんで、不粋なことやけん、拙者は口を挟みとうないとですけど、先程、殿は、拙者らがどう思うのかを、その問われたように思いますけん、拙者らの感じとることば、申し述べてもよかとですか」

お殿様は、ゆっくりと頷きました。

するとその若い侍は、少し早口になって語り始めました。

「腹を切るのは一瞬ですけんども、畑ば何反も耕すとは、何日もかかります。腹を切るその刀を鍬に、死ぬ気で畑を作るとが、わしは、両国にとっても、お互いにとっても、ええんじゃねかと、そう思うとですけど、その、はい」

他の4人の武士たちも、ふんすんふんすんと頷きながら若い武士の言葉に同意しています。

お殿様は、庭の3人に向かって、言いました。

「と、この者らは言うておる、そして、わしも同じ考えだ。腹を切るというその覚悟を、誰よりも働き抜いて藩に報いるという形にしては、だめなんかの?せっかくこの飢饉で生き抜いておるのだ。どうだ」

すると、隣国の殿様が言いました。

「いやそれが、わしもそのように言うたのだが、あの者らも強情での。わしの顔に泥を塗ってしまったのが、どうしてもあやつらの中で許せぬようだ」

「左様ですか……参りましたの。それでは、こうしてはどうでしょうか」

お殿様は、3人に向かって提案しました。

「お主ら3人を、我が藩にしばらく留め置き、芋づくりの労役につかせる。そうじゃのう、ふた月でどうだ。これで我が藩には芋の収穫が増える。そしてお主らは、種芋を持ち帰り、藩内でこの芋の栽培手法を広めればよかろう。我が藩にとっても貴藩にとっても、こんなに利になることはないぞ。どうだ」


庭の3人はお互いに顔を見合わせ、お殿様に向けてゆっくりと頭をさげました。どうやら、その提案を受け入れたようです。隣国の殿様も、異論はないという顔つきです。すると、3人のなかのひとりが、お殿様と5人に向けて言いました。

「拙者どもの、拙い軽忽で慮外なる行いを、寛大なるご懇篤、ご仁恕にて手を差し伸べてくださり、奉謝の意耐えませぬ。どうかご容赦されず、なんなりとお申し付けください。一意専心、奉公する所存にございます」

これにて、どうやら一件落着したようです。
お殿様も、ひとり廊下に出たあとに、ほっと一息ついて安心したご様子でした。お侍さんたちも、大変ですね。



さて、3人の侍たちはふた月の間、一日も休まず毎日毎日、畑を耕し、芋を植え、水をやり、草を抜き、また別の畑を耕し、芋を植え、水をやり、また別の畑を、というのを繰り返し、芋作りの技術を体得し、帰ってゆきました。5人の侍が、3人の侍に丹念に芋づくりを教えたので、8人の間には、友情のようなものまで芽生えていきました。

3人が帰国するとき、みなで笑いながら抱き合って涙を流したといいます。


このように、食料を分けてもらったり、芋作りについての知識や技術を学ぶために、近隣の藩からの人々の往来が増え、お殿様の藩には人が行き交うことが増えてきました。すると宿が足りなくなり、新しく宿を始める者も出まして、そうすると行商の者もやってきて、またさらに人の往来が増えるということで、飢饉の真っ只中にはありながら、城下町は活気づいていきました。


さて、そんななか、この国に善右衛門という薬売りがやって参りました。年の頃は甚四郎と同じくらいの40前後でしょうか。その善右衛門が、城下町へ向かう途中、みざの村を通りかかっておった時のことです。


「旅のお方、ちくとええかの?」

「ん?なんだよ、どうした?」

みちが、城下町へと急ぐ善右衛門に話しかけました。

「今の、この、養生訓ちゅうのを読みゆうがやけんどもの、わからんところがあるもんで、聞いてもえかの?」

みちは、ただいま12才です。身長はさらに伸び、手足はすらりとして、髪は結い上げております。東京のみちの面影がありますね。

「なんだいなんだい、百姓の娘が養生訓?なんだいこの国は、百姓まで普通に字が読めるのかい?たいしたもんだね、噂に違わぬいい国だよこりゃ」

善右衛門は目を白黒させながら驚いております。恰幅がよくて、勢いがあって、赤ら顔の、気のいい男という感じがします。

「子供の頃にの、文字の勉強したでの、読めるようになったがじゃ、ほいでの、ここじゃ、ここの意味が、ようわからんのんじゃけんども」

みちは、養生訓を開いて善右衛門に見せます。

「ここじゃの、このの、 “食は半飽に食ひて、十分にみつべからず”ちの、書いとるんじゃけんども、こりゃ、腹半分ぐらいでちょうどええっちゅうことかいの?」

善右衛門は本を覗きこんでから、

「まあ、そういうことじゃの」と、答えます。

それにみちは反論します。

「けんどもな、腹半分しか食わなんだらな、わっちは眠りにつけんがじゃ、ほいでこっちにはの、“養生の術は先ず心気を養うべし”ち書いちゅうがじゃけんどもや、眠りにつけなんだら心気も養われんし、こりゃなんぞわっちにはわけがわっからんでの」

善右衛門は、笑ってほうほう、と頷き答えました。

「なるほどなぁ、お前、面白いことを言うのう。そりゃ確かにそうじゃ。けれどもな、この本を書かれた貝原益軒はの、老爺じゃ。お主のような若い娘に当てはまることと、そうじゃないことがあんだよ、まあ、書物は全部正しいわけじゃねえから、半分信じて、半分は自分で考えを拵えるってほうが、いいかもしんねぇなあ」

みちは、善右衛門のその答えに、目をうるうるとさせながら、黙りこんでしまいました。今にも泣きそうな顔です。善右衛門はその顔つきに気づくと、急に焦りだしました。

「なななな、どどどどどうした?なななにか嫌なこと言ったか?どうしたんだよ、な?なんだよなんだよ、え?なに?え?俺悪ぃこと言った?え?なに?ごめん、え、なんかごめん、え、ちょ泣くなよ、泣くなって」

するとみちは、うるうるさせていた瞳を、きらきらとさせて、善右衛門の袖に掴みかかり、大声で尋ねました。

「ちょ、旅の方!おめさんひょっとして物知りか?物知りじゃな!?貝原益軒なんぞわっちは言うてへんのに、よう知っちょるの!の!」

みちは、今までいろんな人たちに質問をしてきました。だからいろんな人たちの答え方に遭遇してきたのです。あしらうような返答が多かったり、よく知らない、わからないという返答がほとんどでしたが、善右衛門のしゃべり方から、教養を感じ取ったみちは、まるで宝物を見つけたかのように善右衛門を掴んで放しません。

「っなんだよ、びっくりすんなぁ、んもぅ、俺は娘っこの涙が怖ぇんだよ、ったくびっくりすんなぁ、もう」

「旅のお方!いったい何の仕事をしよるお方なんかの!?」

「まあまあ、落ち着けよ、んもぅ、忙しいなぁ。」

善右衛門は着物を直し、少し格好をつけながら言いました。

「俺はよ、薬を売って歩いてんだ。越後の唐人市で材料を仕入れてな、そして、諸国を廻って、人に合わせた薬を調合してだな、歩いてんだ、薬売りの善右衛門って言えば、江戸ではちくと有名なのよ」

みちは、相変わらず目をきらきらさせながら、善右衛門を見上げています。みなさんの時代で言えば、道端でアイドルに出逢った女の子みたいな顔つきですかね。あ、でもみちは、善右衛門に惚れたわけではないですよ。善右衛門がやっている生業の在り方に、衝撃を受けて感動してしまっているのです。その感動した面持ちのまま、みちは言いました。

「わっちはの、みざの村の、みちじゃ!」

そしてみちは、「善右衛門さま、時間はちくとあるかの、他にもの、聞きてえことがあるがじゃ、そのな、石に腰かけてちくと待っちょいてくだっしゃんせ、すぐ戻ってくるでの!」と言いながら、家へと駆けて行きました。

善右衛門は、呆れながらも、なんだか楽しそうな顔で笑っています。てに見せます。

「ここじゃの、このの、 “食は半飽に食ひて、十分にみつべからず”ちの、書いとるんじゃけんども、こりゃ、腹半分ぐらいでちょうどええっちゅうことかいの?」

善右衛門は本を覗きこんでから、

「まあ、そういうことじゃの」と、答えます。

それにみちは反論します。

「けんどもな、腹半分しか食わなんだらな、わっちは眠りにつけんがじゃ、ほいでこっちにはの、“養生の術は先ず心気を養うべし”ち書いちゅうがじゃけんどもや、眠りにつけなんだら心気も養われんし、こりゃなんぞわっちにはわけがわっからんでの」

善右衛門は、笑ってほうほう、と頷き答えました。

「なるほどなぁ、お前、面白いことを言うのう。そりゃ確かにそうじゃ。けれどもな、この本を書かれた貝原益軒はの、老爺じゃ。お主のような若い娘に当てはまることと、そうじゃないことがあんだよ、まあ、書物は全部正しいわけじゃねえから、半分信じて、半分は自分で考えを拵えるってほうが、いいかもしんねぇなあ」

みちは、善右衛門のその答えに、目をうるうるとさせながら、黙りこんでしまいました。今にも泣きそうな顔です。善右衛門はその顔つきに気づくと、急に焦りだしました。

「なななな、どどどどどうした?なななにか嫌なこと言ったか?どうしたんだよ、な?なんだよなんだよ、え?なに?え?俺悪ぃこと言った?え?なに?ごめん、え、なんかごめん、え、ちょ泣くなよ、泣くなって」

するとみちは、うるうるさせていた瞳を、きらきらとさせて、善右衛門の袖に掴みかかり、大声で尋ねました。

「ちょ、旅の方!おめさんひょっとして物知りか?物知りじゃな!?貝原益軒なんぞわっちは言うてへんのに、よう知っちょるの!の!」

みちは、今までいろんな人たちに質問をしてきました。だからいろんな人たちの答え方に遭遇してきたのです。あしらうような返答が多かったり、よく知らない、わからないという返答がほとんどでしたが、善右衛門のしゃべり方から、教養を感じ取ったみちは、まるで宝物を見つけたかのように善右衛門を掴んで放しません。

「っなんだよ、びっくりすんなぁ、んもぅ、俺は娘っこの涙が怖ぇんだよ、ったくびっくりすんなぁ、もう」

「旅のお方!いったい何の仕事をしよるお方なんかの!?」

「まあまあ、落ち着けよ、んもぅ、忙しいなぁ。」

善右衛門は着物を直し、少し格好をつけながら言いました。

「俺はよ、薬を売って歩いてんだ。越後の唐人市で材料を仕入れてな、そして、諸国を廻って、人に合わせた薬を調合してだな、歩いてんだ、薬売りの善右衛門って言えば、江戸ではちくと有名なのよ」

みちは、相変わらず目をきらきらさせながら、善右衛門を見上げています。みなさんの時代で言えば、道端でアイドルに出逢った女の子みたいな顔つきですかね。あ、でもみちは、善右衛門に惚れたわけではないですよ。善右衛門がやっている生業の在り方に、衝撃を受けて感動してしまっているのです。その感動した面持ちのまま、みちは言いました。

「わっちはの、みざの村の、みちじゃ!」

そしてみちは、「ちくと時間あるかの、他にもの、聞きてえことがあるがじゃ、そのな、石に腰かけてちくと待っちょいてくだっしゃんせ、すぐ戻ってくるでの!」と言いながら、家へと駆けて行きました。


善右衛門は、呆れながらも、なんだか楽しそうな顔で笑っています。






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