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川柳閑話 vol.4:かづみ的川柳道#4 川柳大学時代(中編)

 川柳大学会員になり、わたしの川柳道はさらに変化していきます。


1.川柳大学編集部員になる

 会員になり、自選句分も増えて毎月の投句は忙しくなりましたが、楽しくて仕方ありませんでした。句以外の原稿も書かせてもらえることも嬉しく、原稿依頼の封筒が届くのも心待ちにしていました。

 会員になって最初の原稿依頼は「倉富洋子の50句を読む」でした。倉富洋子さんはわたしの憧れであり、まずは目指すべき目標でした。いきなり重い原稿に戸惑いましたが、気づけば筆は「すごい句を書く人、でもコワソー」と綴っており、多くの人に「よく言った!」と褒められたりしました(倉富洋子さんご本人にも「わたしって怖い?」と確認されるなど)。
 
 そして、2001年7月。川柳大学編集部は神戸から東京に移転します。新子先生の娘さんである安藤まどかさんを中心とした東京事務局にわたしも名前を連ねました。曽我六郎編集長は、編集プロダクション勤務だったわたしに過大な期待をかけてくださったのですが、当の本人は自分の編集能力のなさに見切りをつけ、別業種へ転職を繰り返していました。
 転職したことで、給料は上がりましたが激務となり、日々長時間残業をしている状況でした。その上で週末に川柳大学の編集作業のために事務局に通うというのはかなりきつく、わたしは徐々に戦力外となっていきます。

 この事務局時代に関しては、川柳人生の中で一番後悔していることです。わたしが使えなくなったことで、他の方にかなりの迷惑をかけてしまいました。今でも、もう少しうまくやることが出来たのではないかと考えることがあります。

2.大阪に転居する

 2002年12月、職場で大阪への転勤を命じられます。
 大阪では、市内の南堀江に住居を決めたのですが、偶然川柳大学会員である平井美智子さんや中川千都子さんとご近所で、心強く思ったものでした。
転居してすぐは、仕事の引継ぎなどで忙殺され、川柳は投句するのもやっとという状況でした。それでも、わたしが関西の暮らしに馴染めるように、ゼミの懇親会などにはお声をかけてもらっていたので、飲みだけは参加させてもらっていました。
 
 2003年の初夏、渡辺美輪さんの第一句集『恋人よ』(2002年刊)の感想を言いたいから会えないか、と美輪さんにメールを出したところから、わたしの川柳道は大きく変わります。  

 神戸から来る美輪さんのアクセスが良いように梅田で待ち合わせしました。まだ大阪に不慣れなわたしは、店も知らないので、歩いていて適当に見つけたカフェバーのようなところに入った記憶があります。
 大勢の飲み会ではご一緒していましたが、差し向かいは初めてです。まだお互いをよく知らず、わたし自身もなんでわざわざ呼び出してまで感想を言おうとしたのか思い出せません。句集『恋人よ』を開きながら、「この句、いいですよねー」「これとか好きです」程度の感想をぼそぼそと言い続け、美輪さんは神妙な面持ちでふんふんと頷いていました。この日はそれで終わりました。

 しかし、この日がきっかけで、わたしと美輪さんは毎月最低1回は互いの家に泊まり合いながら、飲み歩く仲になっていくのです。

3.第一川柳集を出す

 2003年12月に、曽我六郎編集長から「きりたんぽ鍋をやるからうちに来なさい」とお誘いがありました。六郎編集長の家とはすなわち新子先生のお宅です。わたしはウキウキしながらお邪魔しました。美輪さんにも声はかかっていたのですが、別件が入っていて行けないとのことでした。

 新子先生のお宅には、わたしの他に川柳大学会員の芳賀博子さん、神戸新聞記者の平松正子さんが呼ばれていました。新子先生曰く「若い人たちの顔を繋げたかったから」とのことでした。
 芳賀博子さんが第一句集『移動遊園地』(2003年刊)を平松さんにお送りする約束をしている会話をしている時、新子先生がひょいとわたしの方を見てこう仰いました。
 
「かづみさんは句集を出さないの?」
 
 当時、句集の出版は、新子先生に申し出てお許しが出た方が出すという印象がありました。

かづみ 「お許しがいただけるなら、出したいです!」
新子先生「お許しなんて…もうかづみさんの世界は固まってるのだから…」
かづみ 「では、選と序文をお願いできますか?」
新子先生「もちろん。どんなに忙しくても、すぐに時間空けるからね」
かづみ 「では、お願いします!」
 
 あっという間に句集を出すことが決まりました。
 もしあの日、新子先生のお宅に呼ばれなかったら、わたしの第一句集は出るのはもっと遅くなっていたと思います。
 
 2004年2月、わたしは自句をまとめた原稿とプロフィール(新子先生が序文を書かれるのに参考にされるもの)を新子先生のご自宅宛てにお送りしました。どんな句が選ばれてくるのか、どんな序文が書かれるのか、ワクワクして待っていたその四日後です。我が家の郵便受けに、その返送原稿らしい封筒が入っていました。
「うわー、先生仕事早いー」と思いつつ開封すると、わたしが印刷したゲラは真っ白なまま入っており、序文らしき原稿もありません。「どういうこと?」と封筒を探ると、次のような手紙が入っていました。

時実新子からの手紙

 実は、原稿と一緒にわたしは自分の句集の構想をみっちりと書いた手紙をつけていたのです。もともと、杉浦日向子の漫画から川柳に入ったこともあり、絵本のような句集にしたいと考えていました。随所にイラストの入った句集。イラストの候補として、高橋秀武氏と木村文氏のイラストも同封していました。

 どうやら新子先生の選と序文無しで句集を作らねばならないらしいと気づくと心細さに眩暈がしましたが、一方で「無選という選をしていただいた」という気持ちも沸き立ちました。わたしが句集を出すことは、時実新子の弟子が句集を出すということです。絶対に時実新子門下として恥かしくない句集を作ろうと奮い立ったのです。
 
 その頃、ちょうど渡辺美輪さんに、神戸大丸で開講されている新子先生の川柳教室「くじゃくサロン」に来てみないかと誘われていました。最初の1回は無料とのことで、わたしは初めて先生の教室に足を踏み入れました。わたしが来ることをご存じなかった新子先生は、わたしに気づくと少し驚かれていましたが、教室が終わった後、わたしを教室横の小さな小部屋へ呼ばれました。

 新子先生「かづみさん、怒ってない?」
 かづみ 「いいえ、わたしもかなりイメージが出来ていたので…」
 新子先生「タイトルは決めた? みんな凝ったタイトルつけたがるけど
      間違えて覚えられたりするから、短いのがいいよ。あなただ
      ったら『あんた』とか…」
 かづみ 「あ!『あんた』って良いです。それにします!」

 そのように、タイトルは決定しました。
 
 句集づくりは初めてだったので、川柳大学もお世話になっている交友印刷さんの自費出版部門・交友プランニングセンターに編集から印刷までをお願いすることにしました。本のサイズから紙の種類、句のレイアウト、イラストの配置…すべてわたしの希望を取り入れていただき、2004年6月、徳道かづみ川柳集『あんた』は出来上がりました。
 
 表紙は純白に墨一色でわたしの似顔絵。

徳道かづみ第一川柳集『あんた』(2004年刊)

 どこからどう見ても、わたしだとわかる句集だという自負があります。

 値段なんかつかないジャリで生きてやる
 薔薇真紅あんたが好きでたまらない
 生まれてよかった あなたに逢えた
 あたし生涯車線変更などしない
 理由などないよ 気づけば五・七・五

【つづく】

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