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川柳閑話vol.9:なにを作るか、川柳とは何か

1.なにを作るか

 それは1本のX(旧Twitter)の投稿がきっかけでした。
 漫画家である高橋秀武氏が、柳田国男『日本の昔話』(新潮文庫)に収録された「蜥蜴の目貫」という話から得た教訓を書いていたのです。

 最初は軽く読み流し「確かに、なにを作るか他人に口出しされちゃたまららないよね」と頷いただけでした。
 しかし、何故か「なにを作るか」「どう作るか」という言葉がわたしの中に留まり、「なにを作るか」とは何か、「どう作るか」とは何か、を問い続けてきたのです。
 そして、ある瞬間に、モヤモヤしていたことが霧が晴れるように消え、いろんなことがクリアに見えたのです。そのことを語ってみたいと思います。
 
 創作とは「なにかを作ること」です。しかし、この基本の問いを疑わずに使うと、わたしが陥ったモヤモヤに包まれることになります。
 高橋氏は漫画家なので漫画を描くことに疑いを持ちません。わたしも川柳人ですので、川柳を詠むことに疑問はありません。
でも、「漫画」や「川柳」は、創作の「なにを作るか」の「なにか」ではないのです。「なにか」を作るために、「漫画」や「川柳」という手段を選んでいるのです。つまり「どう作るか」に属することなのです。創作において作り上げられるべき「なにか」は、手段が択ばれる以前に存在しているのです。
 
 このことは、わたしが俵万智『サラダ記念日』で短歌を作ることを始めながらも、俵氏に師事しようとしなかったのかの理由をはっきりさせました。
 歌人の枡野浩一氏は「『サラダ記念日』は読みやすいが、簡単に書けるものではない(大意)」ということをよく発言されています。おそらく、俵氏の口語体でライトな感覚を詠む短歌を見て「これなら自分も作れる」と思った人が続出していたことを知っているからでしょう。わたしも「これなら自分も作れる」と思って作り始めた一人です。
 枡野氏が伝えたいのは、『サラダ記念日』はただ“口語体でライトな感覚”の短歌を提示しているのではなく、俵氏が表現したい「なにか」をもっとも効果的に表現できる方法を持って詠まれた作品で構成された歌集である、ということだと思います。
 短歌の世界は詳しくありませんが、口語体もライト感覚も俵氏が発明したものではないでしょう。俵氏は自分が作りたかった「なにか」を作るために、その手段を選んだに過ぎないのです。
 わたしは、俵氏の作品は素敵だと思うものの、その「なにか」に激しく共鳴するまではいきませんでした。しかし、わたしの中の「なにか」を表現するための「どう作るか」を教わりました。師事しなくても、それで充分だったのです。
 
 高橋氏の投稿によって、「なにを作るか」と「どう作るか」を考え始めたわたしは、川柳作家・竹井紫乙氏の投稿にも大きく頷くことになります。

 
 時実新子は近年最も売れたスター川柳作家ですが、それと同時に最も誤解され続けている作家でもあります。
 多くの人が句集『有夫恋』(1987年)で時実新子を知り、更に作者を知りたいと望めば、川柳人生を描いた『花の結び目』(1981年たいまつ社 のち朝日文庫)が用意されています。「時実新子」には「情念」という言葉がつきまとい、それは2023年現在でも疑われることなく受け入れられています。

 しかし、時実新子が作りたかった「なにか」とは「情念」なのか。
 答えは否です。

 まず、句集『有夫恋』が新子選ではなく、多数の川柳に特に詳しいわけではない人々による他選の句集であることを思い起こす必要があります。売るために、わかりやすいテーマを持たせる必要があったのです。そして「情念」は新子の川柳を読んだ人々は感じる「結果」であり、創作の目的である「なにか」ではありません。
 ただ、時実新子自身も川柳を作ることについて「縋りたい、救われたい、何もかも忘れるために何もかも吐く」「泣かずに書いた句は一句もない」等と書いていることが、誤解の拍車となっていることも否定できません。「川柳とは、感情の昂りの中で想いを吐くものだ」という印象を与えてしまったのです。
 
 そして、最も誤解の元になったのは、新子の句が高度な技術によって成り立っていることを気付かせない点だったと考えます。冷静に考えれば、単なる「感情的な想い」が人の心に刺さるはずはないのです。たとえ十七音に載せられていても、想いは想いでしかなく、文芸作品として成立するためには技術(「どう書くか」)が必要なのです。
 新子が「一気呵成に吐く。推敲はしない」とよく語っていたことも、誤解の原因になっているでしょう。しかし、一気呵成に吐くことは、技巧なく吐くこととはイコールではありません。吐き出されるまでに、句があらゆる技術を駆使して完成され、吐かれた後に推敲する必要がないというに過ぎないのです。
 
 時実新子は自身の教え子に「あなたはそのままでいい」と告げることが多くありました。わたしもそう言われた一人です。竹井氏もX(旧Twitter)によると「自分自身でいなさい」とアドバイスされたそうです。

 あなたはあなたのままでいい。

 否定されることが多いこの世の中で、甘い響きを持つ言葉です。全肯定されることは、心地よいものです。一方で「新子はそう言って、人をたぶらかしている」と批判もありました。
 しかし、時実新子は甘やかし、たぶらかすためにこの言葉を言っていたのではないと確信しています。
「なにか」を作りたいと願い、あまたあるツールの中から「川柳」を選んで「なにか」を表現しようとする人間が、進む先を迷わないための祈りの言葉だったと思うのです。

「なにを作るか」は、他人が口を挟めるものではないから。
「どう作るか」のいくつかは教えることが出来る。
けれど「なにを作るか」は与えてやれないものだから。

 指導者とは、導く者の作りたい「なにか」を見抜き、それをより高みに向かわせるために必要な教えを授けるものだと思います。決して「自分の亜流」を育てるものではないと。

2.川柳とは何か

 高橋氏、竹井氏のポストに導かれて、わたしは「川柳とは何か」までに思いを飛ばしました。

「川柳」の定義は難しいです。古川柳もマスコミ川柳も時事川柳も文芸川柳も、すべて「川柳」です。川柳を知らない人に「川柳とはどういうものか」を説明することの難しさに、長年悩まされてきました。
 わたしがよく言うのは「十七音字で人間を詠むもの」です。これは、新子の川柳を読み「これが川柳というものなら、川柳をやりたい」と思ったわたしにとってしっくりくる説明です。しかし、その際にはマスコミ川柳や時事川柳などは除外されます。

 しかし、今回この悩みの元は「川柳に書かれたものをまとめようとする」ことの難しさだと気付きました。川柳はあくまで「ツール」なのです。「なにか」をどう書くかのための手段なのです。「書かれたもの」ではなく、「何故そう書くための手段として選ばれたか」から考えなければならなかったのです。
 
 あと、忘れていけないのは、「川柳の定義が難しい」のではなく、「定義」そのものが難しいということです。コンセプトやルールを固めて作られたものならいざしらず、多くの物は「現実」が先行しています。その「現実」を「型」にはめるのが「定義」なのです。しかも、その「現実」は揺れ動き変化し、進化または退化します。永遠に万全に有効な「定義」というものは存在しないのです。

 そう考えると「川柳」という言葉そのものが「定義」として適用されたものだと気付きます。前句付から始まり、『柳多留』によって前句から独立した文芸となったものを、「川柳」と呼ぶようになったのは幕末以降だそうです。
 
「川柳とは何か」。何故そのツールが現在「文芸川柳」で人々に感銘を与え、「サラリーマン川柳(現サラっと1句)」の多くの投稿を呼び、「時事川柳」で世相を斬り、「現代川柳」で多種多様な表現が使われるのを抱えることが出来るのか。「川柳」という装置が持つ機能とは何なのか。

 実は今のわたしに「これだ!」と言えるものはありません。すみません。

 けれど、あらゆる川柳を書く人にこう問いたい気持ちが湧いています。“あなたの「なにか」を作るために「川柳」を選んだのは何故なのか”と。
 
 わたしは川柳六大家の一人・川上三太郎が「どこまでが俳句か決めてくれ。残りは川柳がもらう」と言ったというエピソードが好きです。この言葉が「川柳」の懐深さを端的に表していると思います。でも、俳句ではない五・七・五、例えばスローガンや標語までを川柳のうちに入れる気はありません。定義は出来ないものの、確かに「川柳的なるもの」は現実にあるのです。それをこれからも考えていきたいですね。
 
 2023年の年の瀬に川柳について真面目に考えることが出来て嬉しいです。
 考えるきっかけを与えてくれた高橋秀武氏、竹井紫乙氏に感謝いたします。

#川柳 #時実新子 #徳道かづみ

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